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異世界ヤクザ千明組  作者: 阿漕悟肋
衰退森林都市・アウロクフト
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056話.ヤクザ、走る

 霧か朝靄のような、ミルク色の人影が伏見の傍らに立ち尽くしていた。

 輪郭すら不確かで、そこにいるかどうかもはっきりしない。それでも確かに頭があり、四肢があって、人の形を成している。

「なんスかね、コレ……」

「オイ、待て……!」

 不用意に手を伸ばす三ツ江を止める暇もなかった。

 白い靄へと触れたその瞬間、指先から腕、肩を伝い、霧が三ツ江の口元へと這い上がる。

「うわ、ちょ」

 むやみに振り回した腕も宙を掻くばかりだ。性質すら霧に近しいのだろう、扇がれたように輪郭を崩すけれど、腕が通過すればすぐに復元する。

 いくら暴れても意味はなく、三ツ江の顔全体が白い霧に包まれていった。口元から鼻にかけて、しつこく煙がまとわりつく。

 這入ろうとしている、のか。

「っの、馬鹿野郎!」

 立ち上がった伏見の蹴りも人影を通過するばかりだ。何ら痛痒を与えたようにも見えない。

 伏見にしても、こんな霧の化け物相手に蹴りでダメージを与えられるとは思っていなかった。

 スニーカーの靴裏を三ツ江の腹に当て、そのまま押すように蹴り飛ばす。肺の中身を全て吐き出し、三ツ江の体が木の幹に叩きつけられた。

「――ってぇ! 助かりました兄貴! でも痛ぇっス!」

「うるせぇ、よくわからねーもんにほいほい触ってんじゃねぇよ馬鹿!」

 言い合いもそこそこに、足元へとまとわりつく霧を振り払い伏見が駆ける。三ツ江の腕を掴んで立たせ、そのまま森の中へ。

「兄貴! 逃げるんスか!?」

「だって物理無効っぽいじゃん! あんなのヤクザが戦える相手じゃねぇだろ!」

 混みあった森の中だ。木々をよけ、不確かな足元に気を払いながら走る。骨のように張り出した木の根、所々に開く獣の巣に足を取られそうになりながら。

 背後を確かめれば、霧の化け物はすぐそこに居た。手の届くような距離だ。障害物も足場の悪さも関係ないのだろう。歩くような素振りもなく、流れるように伏見らを追う。

「ちっくしょ、なんでついて来るんだアレ! 俺らなんか悪いことした!?」

「割といつも、やってる気が、するっスよ!」

 無差別に人を襲うのなら、その場に残ったエルフを襲うだろう。そのつもりで森の中へ逃げ込んだのだが、誤算だった。

 こんな逃亡は長く続かない。相手の正体も不明のままだ、どこまで逃げたら安全なのかも分からない。トルタス村へ向かう訳にもいかないだろう。そこには――お嬢も、ファティだっているのだ。

「どうするん、スか!」

「どうすっかなぁ……オメェ、塩とか十字架とか持ってねぇ? 聖水でもいいんだけど」

「急には、出ねぇ、っスよ!」

 何を出す気だこの馬鹿。

 ともあれ、今ある手段でなんとかするしかない。最終的には逃げるか死ぬかだ。スーツの前を開き、伏見は懐に手を伸ばす。

 当たり前のように取り出した拳銃で、振り向きざまに一発、二発。

 静かな森に、銃声は高く響き渡る。

 その身を貫いた銃弾の軌跡を追うように霧が引きずられ――けれど、それだけだ。音もなく、霧の化け物が伏見へと手を伸ばす。

 上体を逸らしてその手をかわし、伏見は崩れるように駆けだした。

「無駄じゃないっスか! 無駄じゃないっスか!」

「試しただけだっつーの!」

 銀の銃弾という訳でもない、ごくごく一般的な鉛玉だ。今は木の幹にめり込み、薬莢は細い煙を立てて落ち葉の上に転がっている。

 機会があれば回収したいが、はたして戻ってこれるだろうか。

 一分か、二分。

 腕時計を見るような余裕もない。距離を稼ぐ為に走り、再び伏見が振り返る。

「コレはどうだ!?」

 柔らかな腐葉土を蹴り上げ、霧に向かってぶちまけた。

 腐敗し、虫食いで細切れになった木の葉がその身を通り抜けるたび、霧の化物が色を薄く、希薄になっていく。

「さすがエルフの森、土ですらこんなに強い!」

「や、行き当たりばったりじゃ、ないスか……」

 効果があるのならそれでいいのである。

 土を蹴り上げるたび、その白い人影が少しずつ後退していった。

 抵抗する素振りもない。そもそも意思があるかすら分からないのだ。煙がフィルターにろ過されるように、やがて消え、残ったのは腐葉土の小山だけだった。

 じっと観察し、何も起きないことを確認して、伏見はようやく一息ついた。額にかいた汗を払い、手に持った拳銃を懐にしまう。

「しっかし、土をかけたら消えるってのはどういう理屈かね……」

 三ツ江に言ったつもりだったのだが、返事はない。返ってきたのはかすれた呼吸音だけだ。

 振り返れば、三ツ江は木の幹に背中を預け、乱れた呼吸を整えようと胸に手を当て仰け反っている。走っている最中には気づく余裕もなかったが、その額からは滝のような汗が滴り落ちていた。

「オイ、三ツ江。どうした」

「や、なんかキツくって……」

 そう長く走った訳でもない。大体、体力勝負なら伏見よりも三ツ江に軍配が上がるのだ。伏見とて多少息は乱れているけれど、疲れを感じるほどではない。異常だ。

 あの白い人影に――何かされたのか。

 思案に耽りかけた伏見の視界に、ミルク色の影が映る。

 見れば、腐葉土の小山から再び霧の化物が沸き立っていた。何ら対応する暇もなく、元の姿を取り戻し――そこで終わらず、二体目の影が朝霧のように沸く。

「増えてんじゃ……ないスか!」

「ツッコミはいいから走れ! 振り返るな!」

 よろけるように走り出す三ツ江を確認してから、伏見もまたその後を追った。

 足だって本来なら三ツ江の方が早いはずなのに、すぐに追いついてしまう。疲労か、それとも熱病だろうか。三ツ江は相当に疲弊している。このままでは、戦うどころか逃げることすら難しい。

 伏見だけならば、どうにか逃げ切ることも可能だろうけれど。

 口に出すまでもなく、却下だ。身内を見捨てて逃げ出すくらいなら、短ドス片手に突っ込んだほうがまだマシである。

 弟分がしくじったのなら、ケツ持ちするのが兄貴分だ。

 どうすべきか――頭を巡らす伏見の耳が、小さな音を捉えた。

「三ツ江、こっちだ! まだ走れるな!?」

「ウス、なん……とか」

「返事はいらねぇつってんだろうが馬鹿!」

「理不尽……」

 顔を歪めながらも、三ツ江は走って伏見を追う。

 効果があるかどうかは分からない。それこそ、腐葉土をぶちまけたときのように事態が悪化する可能性だってある。

 けれど試さないよりはマシだ。あとは試せるだけの条件があればいい。

 それがあることは既に確認していた。

 走って、走って、走って。

 獣道を辿り、三ツ江の背中を支えながら、伏見は走り続けて。

 緩やかに流れる川が、その行く手をふさぐように横たわっていた。

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