044話.ヤクザ、訪れる
「さぁ、アクィールさん。七面倒くせぇ話は抜きだ、この『契約』、買い取ってもらおうじゃねぇですか」
あの日、屈辱の選択を強いられた卓上で。
マトロの使いとして現れた伏見に、アクィールは三つ目の選択肢を突きつけられていた。
「待ってください、いったい何のことだか……」
困惑しながらも、アクィールは突きつけられた羊皮紙に目を落とす。読み進めるうちに文字を追う目は見開かれ、表情は驚愕から、縋るようなものに変化していった。
「なぁに、簡単な話だ。俺がマトロの旦那に貸した金貨十三万枚、そのうち五万の債権をそちらにお売りするって話ですよ」
マトロを借金地獄に叩き落としたその足で、伏見はアクィール邸を訪れていた。
三ツ江も連れず、一人でだ。
見知らぬ異世界で、この都市のルールを知悉しているはずの相手を罠にかける。そんな大仕事から二週間ぶりに解放されて、ようやく気楽になれたのだ。こんないい気分の夜を独り占めにしないなんて嘘だろう。
比べれば、残った仕事など容易いものだった。
相手が頷くしかない商談を持ちかけて、そのケツを蹴り上げるだけだ。
「金貨十三万枚と言えば大金だ。こちらとしちゃあ、その金を回収し損ねないかどうか不安で仕方ない。そこでアクィールさんにご登場いただいた訳ですよ。どうですかね、この債権、買っちゃあ貰えませんか」
答えなど、聞くまでもない。
金貨十三万枚ともなれば、その利子だけでも相当な額になる。マトロは必死に返済しようとするだろう。一周期ごとに一万三千枚、更に元本である金貨十三万枚を減らさなければならないのだ。
返済に果たして何十年かかるのか、アクィールにも想像がつかない。
「……こんなものを、どうして……」
「そりゃあ企業秘密ってやつだ。……どうです。この債権、アクィールさんなら上手く使えるんじゃあないですか?」
それは、伏見に指摘されるまでもない事実だ。
まっとうな稼ぎではとてもじゃないが返済には追い付かない。そんな状況で借金の減額を持ち掛ければ、マトロは様々な譲歩をせざるを得ないだろう。
マトロにとって、借金の元本の減額は将来支払うであろう利子を消滅させることになるからだ。
卓上に置かれた金貨五万枚分の債権。その、何の変哲もないあり触れた羊皮紙は、借金を盾にマトロを思うまま操る権利と等しい。
祭祀座を取り戻すことだって不可能ではないだろう。先日の屈辱を晴らすのもいい。目の前の羊皮紙は、アクィールにとって望むべくもない幸運のはずだった。
アクィールの表情には未だに影が落ちている。俯き、テーブルの上の羊皮紙から目線を外して、アクィールは言葉を絞り出した。
「……私に、何をしろとおっしゃる」
「何って言われてもなァ」
伏見としては、債券を買ってくれればそれでいいのだ。貸しを作ればあとはアクィールがいいようにしてくれるだろう。けれど、商人としてはむしろアクィールの言葉こそが当然と言えた。
「それではまるで間尺に合わない。この恩、いったいいくらの値がつく」
喉から手が出るほど欲しいのだろう。だからこそ手が伸びない。
子供ではないのだ。確かにその債権があればアクィール家の復権も叶う。マトロへの復讐も成し得るだろう。けれど、もたらされる救済が無償ではないことをアクィールは知っている。当たり前だ、誰が金貨を手放して、見ず知らずの人を救おうとするものか。
マトロの問いに応えるべく、伏見はゆっくりと、勿体つけるように口を開いた。
「まァ、な。腹芸はナシだ。まずアンタにはこの債権、金貨七万で買って貰う。即金で払えねぇ分は借金だな。ナニ、利子は大負けに負けて一周期五分。……いい買い物だろう?」
伏見がアクィールに債権を売る理由。
一つはリスクの分散だ。金貨十三万枚の借金、そして利子は莫大な利益だが、回収出来なくては意味がない。単純な話、マトロが商いに失敗し自殺すればこの債権は全く意味のない紙きれに早変わりするのだ。その前に多少なりとも回収しておきたい。
「ついでに、こちらは商売の素人でね。この都市で商売をしていくにあたって、協力者を募集していたところなんだ。その相手の弱みを握ることが出来れば言うことナシ」
将来性のある新進気鋭の商人と、歴史を重ね経験と知識とコネを積み上げた商会。どちらが欲しいと言えば――どちらとも欲しいのだ。
マトロの復讐もまた恐ろしい。この世界において新参者である伏見にとって、想像もつかない手段が存在するかもしれない。アクィールにはその監視役も務めて欲しかった。アクィールならば、怨讐の有るマトロと手を組むような事態にはならないだろう。
「あとはまァ……そちらさんが抱え込んでる知識の解放かね。由緒正しい商会なんだろ? だったらイロイロと抱え込んでるはずだ。知識、記録、醜聞なんかもありったけ寄越せ。これには値段をつけてやってもいい。そうさな、金貨一万枚ってところか」
情報はいくらあっても腐らないものだ。とりわけ、その情報が見知らぬ異世界の物であるのならその価値は計り知れない。
地理、歴史、天候、科学、技術――そして何より、元の世界から転移してきたであろう物や人の痕跡。
伏見とて、一都市の一商人がその核心に至っているとは思わない。けれど、アクィールら異世界人が当たり前だと受け止められる情報の中にその片鱗が含まれている可能性は存在する。
元々帰路には宛てもない。
どんな情報でも――それこそ、「帰還不能」という情報ですら、何物にも代えがたい価値がある。
「……どうだい。この債権、買うか買わないか」
「…………」
返答はない。
表情を取り繕う余裕すらなく、アクィールは口ひげをさすり逡巡する。その様こそが何より雄弁に語っていた。
どのみち、買うより他に道はないのだ。
この債権を買わねば、アクィールの商会はそれこそいいように扱われてしまうだろう。抵抗も出来ない。
祭祀の座を手に入れてしまえば、マトロはその権益でさらに商売を拡大し、借金の返済もまた早まる。それはつまり、本来ならば十数年かけて回収するはずの利子による利益が損なわれるということだ。その為の抑え役も期待されているのだろう。
「……あなた方とマトロが手を組んで詐欺を企てている可能性は」
「ない。こちらとしちゃあ、マトロの野郎を生かさず殺さずで利子を取り続けた方が儲かるね」
「そもそも、マトロがこの借金を抱えて商売を続けられる成算は」
「そりゃあ絶対に成功するとは言い難いがね。腕時計の他にも、商売のタネはまだまだある。俺らとしちゃあ、是非ともこの都市に発展してもらわなくちゃならねぇ。手ェ抜くつもりはねぇよ」
「……一体、何が望みだ?」
「望み、ねぇ……」
アクィールの問いの数々は、契約の不備を潰すためのものだ。
つまるところ、信頼というものが両者の間には圧倒的に欠如している。商いが大きくなればなるほど必要になる信頼は一朝一夕で形成されるものではなく、アクィールにとって伏見ら千明組の人間は何もかも見知らぬ異邦人だ。どれほど必要に駆られても、どれほどの富を約束されてもやすやすとは頷けない。
そのことを、伏見は見落としていた。
「……とりあえずは、身内の安全と商売における主導権の確保。将来的にはアルカトルテリアの技術的発展と加工貿易時代における安定的なポジション、ってところか」
そんな答えでは、ない。
望まれていたのは、そんな答えではなかった。
伏見の言葉は信頼に足らず、アクィールは頭を振る――振ろうと、する。
アクィールは結局、伏見を信頼することが出来なかった。
正体も知れぬ異邦人に多大な貸しを作ることと、祖先より継承した祭祀の座をマトロに奪われること。比べれば、天秤は後者に傾いた。恨みはあれど、マトロはこの都市で生まれ同じ神を奉じる者だ。弁えている。
伏見の提案は確かに魅力的で、だからこそ今は伏見こそが恨めしかった。
既に諦めていた希望を目の前に吊るされて、けれど足らず、もう一度諦めるしかない。その心境を苦渋に満ちた表情から滲ませて、アクィールは――
アクィールが頭を振る、その直前に。
誰かが、ドアを開けた。
「……おとう、さま……?」
寝間着の上にガウンのようなものを被り、眠たげに目をこすりながら。
少女――ファティがそこに居た。




