039話.或る都市の女
商人という生き物は、そもそも口さがないのが世の常だ。
日も落ちて仕事も終われば、いよいよもってその勢いはとどまることを知らない。酒の酔いを助けに、真偽を問わず街は噂で埋め尽くされる。
ここミルカセにおいて、マトロの行状は恰好の的だった。
どこの酒場でもいい。盛り場で一杯ひっかける間に、マトロの噂は一つ二つと聞こえるだろう。
けれど、噂の当人であるマトロは蝋燭の明かりを頼りに書類仕事の真っ最中だった。
服装や髪形とは裏腹に、その執務室は手狭で薄暗い。飾り気もなく、壁際には書架が、机上には羊皮紙がうずたかく積み上げられている。
しばし、羽ペンの滑る音。
左手首に巻いた腕時計をちらりと見て、ようやく仕事に一区切りつける。水差しに手を伸ばしてグラスに水を注ぐと、一息に飲み干した。
遊び、あるいは公私の「私」に乏しい人物なのだ。
美食、飽食の類にはとんと興味がなく、酒も嗜む程度。身の回りには女っ気もなく、男色やお稚児遊びの類も好まないという。市中の噂や普段の行状からは想像もつかないだろうが、その私生活は清貧そのものだ。
祭祀や一部の特権商人らには忌み嫌われる一方で、都市商人や農民らの支持は厚い。彼の商いがひたすらに誠実で、また利益を独占しないことがその理由だった。
例えば、独立し新たな商品を作りたい職人がいるとする。
マトロは彼らの将来性を見て金や人材を提供し、その後は何もしない。ただ契約に応じて儲けからいくらか貰うだけだ。
そうすると、怒り狂うのは職人の親方衆である。新たな商売を作るというのは彼らの縄張りを侵すということだ。そこでマトロは新たな稼ぎ口を親方衆に提供する。競争が生まれ、市場は潤い、ミルカセ全体にそうした投資先を複数持つマトロは利益を得るのだ。
安く買って高く売る、なんて言うけれど。高く買ってさらに高く売るのがマトロの信条だった。
席を立ち、マトロは姿見の前に立つ。
出かける前に例の蟹頭を整えるつもりらしい。
櫛と整髪料を手に取ったところで、背後からのノックに邪魔される。
「……何の用かな」
「代表。お客さんがお見えですが」
「済まない、約束があるのでね。君に任せても構わないか?」
「それが……」
言葉を待たず、ドアが無遠慮に開け放たれる。
「あれー? お取込み中?」
「……君か」
使用人の脇をするりと抜けて、部屋に現れたのは猫のような女だった。
足音を立てず、衣擦れの音だけが響くような軽い身のこなしでマトロに歩み寄る。背後から姿見を覗き込み、慣れた様子でマトロの奇怪な髪に手を伸ばした。
「どっかに出かけるの?」
「千明組の件でね。契約の締結と彼らの店の下見だよ」
「ふーん。……そういうの嫌いじゃなかった?」
女が好き勝手に髪をいじるが、マトロは気に留めた様子もない。袖をまくり上げて、左手に巻いた腕時計を姿見に映した。
「彼らは別だよ。待ち合わせは七の時刻だ。……この意味が分かるか?」
「意味?」
女が髪をいじる手を止めて、マトロの腕時計を覗き込む。時刻は六時十二分、秒針は止まることなく文字盤の上を周回している。
「農村ではね、皆、日の出よりも早く起きて、日が落ちれば眠りにつくんだ。アルカトルテリアでは鐘の音で街が動き始め、日が落ちれば酒を飲み、酔いが回る頃にベッドに入る」
マトロが語るのはこの世界として当たり前の有り様だ。
古今東西、時間の計測は全ての文明にとって命題の一つだった。日時計に水時計、砂時計――変わり種としては花時計なども数に入れるべきだろうか? この都市で主に用いられる蝋燭時計もそうだ。
一種の物差しとして、時計は機能する。
「けれど、これからは違うんだ。皆が同じ時間を生きるようになる。これがどれだけ驚嘆すべきことか分かるか? 世界が変わるんだ。その先端に私が立っているんだよ」
「ほーん」
「…………」
折角の語りも、相手がこうでは甲斐がない。
正確な雨量を測ることが出来れば、降雨による災害を予測することが出来る。速度を測ることが出来れば馬や馬車の値段が変化し、きっと働き方や給料の計算だって違ってくることだろう。
そんな価値も、目の前の女にとっては無意味なことらしかった。
「……私たちが人に会おうとすれば、約束をした上で相手の店を訪ねたり、招待の馬車を用意するだろう? それでも随分待たされることになる。けれど、お互いが時計を所持していれば、指定した時間にその場所へ向かえばいいだけなんだ。今日のようにね」
「え、なにそれ便利~」
いやまあ便利だけどさぁ。
軽く言い放つ女をよそに、マトロは姿見の前を離れ、ソファーへと腰掛ける。
「それで、君は何の用かな? あまり時間は取れないんだが」
「用って程でもないけどね。婚約の件、どうなったのかなーって」
座って頬杖を突くマトロを見て、女もその隣に身を預けた。
「どうにもこうにも。遅々として進んでいないよ。お偉方にとっては日取りや形式が重要らしくてね、しばらく待てとさ」
「面倒だねぇ……」
「全く。その点、彼らは素晴らしいよ。いくら話しても時間が足りない。あんな有意義な時間は久しぶりだった……」
溜息と共に、マトロは千明組との会合を思い出す。
それは、提案と確認の繰り返しだ。伏見らが新たな物品を持ち込むたびにその技術が再現可能かどうか確認し、その作業が終わるより早く次の物品が持ち込まれる。職人らは千明組の持ち込んだ技術に触発されて次々と新たなアイデアを思いつき、その確認だけでも目の回るような数日間だった。
感慨に浸るマトロを目の端に留めながら、女がソファーの肘置きへとしなだれるように身を崩す。眠たげな瞳を揺らして、彼女は核心を口にした。
「それは、辺境の都市一つ潰す価値があったってコト?」
「……彼らには、悪いことをしたと思っている」
酔いを醒ますように、マトロが頭を振る。
「アクィール家が神敵と通じていたという疑惑をもっとも作りやすいのがあの村だった。その為にあのゴブリン共を繁殖させ、通行手形を偽造し……それでもあの祭祀どもは決断しなかった。かの村が崩壊する段になってようやく椅子を蹴倒すことを決めたんだよ。こちらが用意していたブレーキも機能しないような状況でようやく、だ」
「それは言い訳?」
「事実だよ。……あのままアクィール家が通商権を握っていれば、トルタス村は寒村のままだったんだ。彼らにとっても、悪いことばかりじゃないさ」
どう言い繕おうとも。
マトロの言葉は、言い訳にしか過ぎなかったのだろう。俯いたその横顔に、女は罪の意識を垣間見る。
わずかな沈黙の後、マトロは立ち上がって襟元を正した。腕時計の文字盤を確かめて、ソファーにくつろぐ女を見下ろす。
「私はそろそろ行くが、君もいっしょに来るかい? 少なくとも退屈しないことは保障するよ」
「んー。わたしはもう少しだらだらしてるよー」
言葉通り、女は空いた席に足を投げ出して、ソファーの上で寝返りをうつ。
こうなるとテコでも動かない、そんな女だ。傍若無人な態度を苦笑一つで許すと、マトロは背を向けてドアへと歩き始める。
棚に置かれていた財布代わりの革袋を取り、姿見の前でもう一度髪型を確認し、女へと振り返る。
「じゃあ、行ってくるよ。レイコ」
艶やかな黒髪を肩口で切りそろえた、猫のような女。
剥き出しになった白い脚を振ってマトロを見送ると、レイコは眠るように目を閉じた。
耳を澄ませ、マトロの足音が聞こえなくなったころ、するりと立ち上がって窓硝子の向こうを覗き込む。
「……あれは何かな?」
透明なガラスの向こう、ランプの明かりがぽつぽつと灯るミルカセの通り。
レイコと呼ばれた女が見たのは、薄暗い路地の向こうにぽつりと光る、獣の瞳のような赤色だった。




