029話.ヤクザ、ナンパする
宿泊地を出るのが早かったせいか、時間は既に八時を過ぎていた。
朝市にしてはもう遅い時間だ。気温による劣化が早い魚、肉などを扱っている店は既に商品を片付け始めている。冷蔵庫もなければ真空パックもないこの世界では、生鮮など早朝の短い時間に辛うじて扱われるだけの嗜好品だ。寿司やら刺身やら、望むべくもない。
出店が減り始めたその時間。
商品や値札の撮影もひとまず終えて、お嬢と三ツ江は道を一本外れ、裏道を散策していた。
「この辺りは高そうな家が多いっスねぇー」
三ツ江が言うように、表通りを一歩離れれば庭付きの邸宅や商会の倉庫が並んでいる。高級住宅街――と言うには少々手狭に見えるけれど、それでも表通りに軒を連ねる建物とはグレードが違う。
木々の乏しいアルカトルテリアにおいて、それはやはりステータスなのだろう。塀の向こうには木々が濃緑の葉を茂らせ、その奥に小ぶりの果実を実らせている。
出窓には鉢植えが置かれ、塀は網のような蔦に覆われていた。少しでもスペースがあれば花壇を作って季節の花を飾り付け、手入れも決して欠かさない。通りを潤し、見るものを楽しませる花の群れもここまでくるとどこか偏執的ですらあった。
そんな住宅地を過ぎれば、街並みは徐々に混沌としていく。
富裕層向けの高級品、嗜好品を扱う店から、少しお高いレストランまで。
やはり軒先には植物が飾られてはいるけれど、こちらは少し慎ましやかだ。屋根から吊るされた半球状の鉢植えは何段も連なり、それぞれ異なった色彩を重ねている。
中心から離れるにつれて、道幅は狭く、通りは徐々に薄暗くなっていった。やがて飾られる花もなくなる頃、三ツ江が歩みを遅くする。
「どうかしました?」
「お嬢、ここらで引き返しましょうか」
振り返った先で、三ツ江が顔をしかめていた。懐に入れられた手は伏見から預かった拳銃に伸びている。
「え、もうですか?」
横道の方に目をやれば、建物一つ先に大通りが見えていた。
そう長く歩いた訳でもない。耳を澄ますまでもなく、通りの喧騒はここまで聞こえている。
危険な場所――貧民街や、伏見らの同業者が牛耳る地域にはとても見えない。それでも、三ツ江の渋面は変わらなかった。
宙を見上げ、鼻元に手をやって三ツ江は眉をひそめる。
「なんか、向こうからいやーな匂いがするんスよね。スラムかなんかがこの辺にあるんじゃねぇかと」
「……こんなところにですか?」
言われてみれば、玉ねぎが腐ったような匂いが風に混じってはいる。
それでも、ここはまだアルカトルテリアの中心部だ。背後を振り返って仰ぎ見れば、象牙の塔に吊るされた鈴生りの鐘が屋根の上からぼんやりとした姿を覗かせていた。
「いやぁ、こういうところの方が金ない人は生きやすいっすよ。ほら、金持ちの家の方がおこぼれも多いっスから」
「そういうものですか」
立ち止まったお嬢を招き寄せて、三ツ江が踵を返す。
大通りと繋がる道は薄暗く、大人一人通るのがやっとの狭さだった。折れた木切れや腐りかけの藤籠を跨ぎながら、伏見の背中越しに見える明かりを頼りに歩いていく。
日の差し込まない裏道は歩きにくくて、だから、立ち止まった三ツ江の背中についぶつかってしまった。
「わ、わざとじゃないですよ!? ……どうしました?」
三ツ江は振り向きもせず、困ったように頭を掻いている。
背伸びをして、お嬢は三ツ江の肩越しに前方を覗き込んだ。
年端もいかない子供が一人、路地をふさぐように座っている。物乞いのような、見すぼらしい姿をした女の子だ。ぼろ布をまとって、肩口まで伸びた髪はほどきようもないくらいに絡まっていた。
石畳の上に雑巾と見紛うような布を敷き、少女はその上に腰を下ろしている。膝の上には、やはり腐りかけたような色合いの布が何枚も掛けられて――
そこまで観察して。お嬢は息を止めた。
三ツ江が立ち止まった意味を今更になって知る。
少女の、布に覆われた膝の先。
そこには何もなかった。
気付いてしまえば痛々しい少女のシルエット。
媚びたような薄笑いに浮かぶ、澱んだ一対の目が二人を見据えた。
「――――」
少女は口を開くこともなかった。
ただ、道をふさいでいることを詫びるようにうなだれる。
傍らには木製の深皿が一つきり。その中に食事を恵んでもらっているのだろうか。中身は空っぽで、使い込んだ錫のスプーンみたいに黒く変色している。
言葉を失ったお嬢を置いて、三ツ江が無遠慮に少女へ近づいた。
しゃがみ込んで、平然と少女に話しかける。
「こんにちは。……君、ここに住んでんの?」
「……おかあさんに、捨てられて」
「へー。あ、その足どうしたの?」
あまりにも気軽に踏み込むものだから、少女もさすがに鼻白んだらしい。茫然と口を開けた後、なんとか言葉を絞り出す。
「……子どもの時に、病気で……」
「ふぅん」
三ツ江は少女に対する同情など欠片も持ち合わせていないようだった。お嬢からはその表情は見えないけれど、きっといつものように人好きのする笑みを浮かべているのだろう。どうひいき目に見ても人でなしだ。
三ツ江にはそういうところがある。
かと言って、直接止めに入るのも少女を憐れむようで気が引けた。
お嬢は銀貨を一枚取り出すと、三ツ江に駆け寄ってその襟首をつかむ。とっとと金を渡してこの場から立ち去るつもりだったのだろう。
少女に伸ばしたお嬢の手を、けれど三ツ江が掴んで止めた。
「はい、ぺろーん」
「きゃああああ!?」
効果音を口で言いながら、三ツ江がしたのは少女の膝にかけられた布をまくり上げることだった。
抵抗する暇もなく、少女の真っ白な太ももが晒される。
惨たらしい傷口を想像して、お嬢は顔を背けようとした。子どもの頃からのものとはいえ、傷は傷だ。見られたくないものもあるだろう。
そう、思ったのだけど。
「……あれ」
「なるほど、穴掘ってたんスね」
垣間見えたふとももの先には二本の足がしっかりと繋がっていた。
石畳をひっぺがして、その下の地面を掘り返したのだろう。掘りごたつみたいな隠し方だ。
あまりのことについ叫んでしまった少女は、若干涙目になりながら三ツ江を睨んでいた。
「気付いてんなら無視しろよクソが! お前、ガキじゃねぇんだから気軽にめくってんじゃねぇよ!」
「いやぁ、大人だからめくりたくなるものもあるんスけどね? ま、せっかくなんでアドバイスしとくと」
言葉の途中で、今度は少女の脇腹を突いた。小さく声を上げて、少女がびくりと肩を震わす。
「子どもの頃から歩けないんなら、もうちょっと違う筋肉のつき方するもんなんすよ。今度からはしっかり身体の線を隠すこと。ついでにもっと生活感を出すとイイっスねー。食べかすとか、うんことか」
「うんっ……んなもん置いといたら臭くて客が寄り付かねぇよ! バカか!」
「あー、んじゃ設定の方をどうにかしないと」
なんの話をしてるんだか。
さっきまでの憐憫などすっかり吹き飛んでしまい、お嬢は呆れかえってしまった。
少女の表情には先ほどまでの陰りなど微塵もなく、本来の気質であろう快活さがにじみ出ている。
すっかり騙されてしまった。歳を考えれば随分と卓越した演技力なのだろうが、生憎褒めてやる気にはなれなかった。手に持ったままだった銀貨をお嬢がしまい込む。
「ああ、クソ! 今日はもうやめだ! お前ら、オレに二度と近づくんじゃねぇぞ、でないと……アレだ、ひどいからな!?」
少女は立ち上がると、地面の穴から足を抜いて自身の商売道具や今日の売り上げを掻き抱いた。
「さっさとどけよ! 帰れないだろうが!」
裏通りを通って帰ろうとしたのだろうが、そちらには三ツ江が、しゃがみ込んだまま少女を見上げている。
少女の剣幕を笑みで受け流して、三ツ江はどこからともなく銀貨を取り出して見せた。
「まぁまぁ、ちょっと待って」
少女の視線がきらめく銀貨に奪われる。
煽るように銀貨を振り、三ツ江は何気なく、その言葉を口にした。
「ぶっちゃけた話。君、いくらっスか?」




