016話.ヤクザ、悪だくむ
それは、神話の世界の似姿。
手触りのある蜃気楼。
はるか遠く、地平線の向こうから姿を現したのは、都市――否、都市圏だった。
人の営みを支える大地が、雲の高さからこちらを睥睨している。
目測すらままならない。
正直、伏見はこの世界が異世界ではない可能性を考えていたのだ。植生の一致や人の存在。ゴブリンにしたって、進化や遺伝子組み換えで十分に再現できるだろう。異世界に突然転移したと考えるより、そちらの方がまだしも常識的だった。
そんな伏見の常識を、目の前の現実は無造作に蹴っ飛ばした。
大地を支えているのは四方に配置された象だ。飾り布を被り、牙や耳には装飾具が無数に吊るされている。その象一頭ですら、山と見紛うような雄姿を雲間に晒していた。
象の背中に乗せられた岩盤は多頭の蛇に縁どられ、その周囲からは幾筋もの滝が零れ落ちる。
まるで騙し絵の如く、あまりにも巨大すぎるその姿に遠近の感覚すら狂う。
右から左まで、これだけ離れていてもその全貌が視界に収まらない。
標高は二千をとうに超えるだろう。横幅は優にその二十倍以上で、その端が山に隠れてしまっていた。
そんなものが、こちらへ向かって歩いてくる。
「……ゴ○ラって何メートルだっけなァ……」
「映画のなら、確か百メートルくらいっスねぇ……」
伏見と三ツ江が、並んで都市――アルカトルテリアを見上げていた。いい加減、首が痛い。
一人、伏見は得心する。
こんな、ゴ○ラですら比較対象にもならない程の巨大生物が我が物顔で歩いているのだ。そりゃあ村人だって、軽トラ一つでは驚いてくれないだろう。
森と草原に明確な境目がある理由も納得出来た。
なんのことはない。あの広大な草原は、アルカトルテリアの通り道だったのだろう。
現実的だの、物理法則だの。そんなことを考えていた自分が馬鹿らしくなってくる。
神様でも信じなければ有り得ないような、それがこの世界の現実で。
間抜け面している大人二人を眺めて、ファティは腕時計の仕返しとばかりに、満足げに笑ってみせた。
「兄貴ィ! お勤めご苦労様でしたァ!」
「それムショに行ったときのヤツな。いや別に間違っちゃねぇけど」
門番は相変わらず駒田が務めていた。途中で交代はしたのだろうが、それにしたって元気が良すぎる。徹夜明けの頭にはうるさくてかなわない。
「とりあえずあの……ゴブリン共は片付いた。こっちは変わりねぇかい」
一応聞いてはみたものの、心配はなさそうだった。中庭から聞こえる子供たちの声は何よりも雄弁に平和を語っている。
「へぇ! 困ったことと言ったら、子供らが元気すぎるくらいで!」
「ほーかい。俺ァ親父に報告してくるから、そこのバイク、ガレージの方に運んどいてくれ」
「了解しやしたァ!」
「あと、もうちょい声下げろな」
乗りつけたバイクを駒田に任せ、伏見は中庭へ。
どのみち子供たちにも村が安全になったことを伝えなくてはならないのだ。そこに組長がいないとも限らない。
案の定、中庭からは組長の声と、その後に続く子供たちの声が聞こえていた。
風に乗って、しゃぼん玉がいくつも空に舞い上がり消えていく。
「よーし、じゃあ歌ってごらん」
「鉄砲玉とんだ
チャカ持ってとんだ
殺してバレて
ムショん中消えた」
「……なに教えてんスか、親父」
子か孫でも眺めている気分なのだろう。組長は恵比須顔で縁側に腰掛けていた。
声を掛けると、組長はしゃぼん玉のストローを咥えたまま、伏見へと振り向く。
「おう。伏見、帰ったか」
「いや帰りましたけどそうじゃなくて。その歌について詳しく」
「幹部にしてもらえるって約束した鉄砲玉が敵の組長殺したけど捕まって、刑務所ん中で報復されたって話だが。なんだ、駄目かい」
「教育にはよろしくないんじゃないっすかね……」
ともあれ、組長の前だ。背筋を正して、伏見が口を開く。
「例の件、とりあえずカタァつきました。村の連中もまあ、怪我人が少しいるくらいで。片付けが終わればこの子らも家に帰れるでしょう」
「……そうか、帰っちゃうんだよなぁ……」
少しだけ残念そうに、組長が目を逸らした。
千明組の庭で子供たちが遊ぶなんて滅多にないことだ。昔ならいざ知らず、今時のヤクザなんて蛇蝎のように嫌われている。ただでさえ他人に子供を預けるのが不安なご時世に、こんな景色はきっと見れない。
実の娘ですら自身の手で育てることの出来なかった父親にとって、きっと嬉しいことだったのだ。
人のいない整った庭よりも、子供が遊びまわる荒れた庭の方が楽しいに決まっている。
「ともかく、でかした! 疲れたろう、飯でも食うといい。……今な、娘がトシエさんに料理教わってんだ。おめぇも付き合え」
「ご相伴に預からせていただきます。……それと、次のシノギについてお話が」
「早速かい。おめぇも働き者だねぇ」
重い腰を上げて、組長が手に持っていたしゃぼん液の器を手近な子供に渡す。
「さぁて。みんなよう聞けー。このお兄ちゃんがな、キミらの村を助けてくれたんやって。明日までには帰れるから、それまでもうちょっとこのうちで待っててくれるかい?」
子供たちの元気な返事を聞くと、組長は満足げに頷いた。
踏み石の上でサンダルを脱いで、子供たちに背を向けて縁側に上る。
「……ま、今のうちはそうあくどいことすることもないわな。とりあえず飯のタネは確保したんだ。こっちが譲るこたぁねぇが、とりっぱぐれなきゃそれでいい」
「承知しております」
背後で控える伏見にも組長の表情は見えない。けれど、どんな表情を浮かべているのか、伏見は知っていた。
子供にはとても見せられない。
千明組の看板を背負った、厳めしい侠客の顔だ。




