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異世界ヤクザ千明組  作者: 阿漕悟肋
ヤクザ、異世界に行く
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011話.ヤクザ、出発する

 シルセが目覚めたのは、隣に寝ていた女の子の足が腹部を強打したからだった。

 鳩尾にかかとが突き刺さり、潰れたカエルみたいな声が出た。

 何が起きたのかもわからず周囲を見回した後、添い寝をしていた母親がいなくなっていることに気付くと、タオルケットからのそのそと抜け出す。

 草を編んだ絨毯の上の、奇妙な大広間。

 薄布……いや、網だろうか。向こうがいやに透ける布に覆われて、その下には子供たちがどこの国の文字とも知れぬ形で寝っ転がっている。

 布の裾をめくり上げると、開け放たれた襖から中庭が見えていた。

 つい誘われて、裸足のまま縁側を降りる。ぴりりと足裏が痛んで、けれど厭わない。

 庭まで出ればささやかな喧噪が聞こえる。そこに母の声も混じっていた気がして、足を進める。

 ひやりとした飛び石を辿り、雲模様など眺めながら、奇妙な形の屋敷の門へ。

 そこには確かに母がいた。名前は知らないが、千明組の人々も勢ぞろいしているように見えた。視線はまっすぐ門の向こう、真っ白で、所々泥の撥ねた鉄の塊に向けられている。

 一番偉そうにした人が歩き出すと、みんながその後ろについていった。置いていかれるのが嫌で、その背中に声を掛けた。

「……おかあさん?」

「シルセ、起きちゃったの?」

 駆け寄って、抱き上げられる。母は汚れてしまったシルセの足を気にしているようだった。対して汚れていないことにほっと息を吐くと、母は視線をシルセに合わせた。

「今からね、伏見さんと三ツ江さんが、私たちの村を助けてくれるの。ほら、手を振って」

 促されて、振り向いた。

 伏見さんは白い鉄の中、会釈を返してくれた。その向こうで、奇妙な鉄筒にまたがって手を振るのが三ツ江さんだろうか。頭をすっぽりと覆う仮面に覆われてよく分からない。

 シルセが手を振ると、みんながみんな、手を振ったり視線を向けたりしてくれた。

 そして、白い鉄の塊が嘶きを上げる。

 すぐに姿が見えなくなって、遠く、ランプよりずっと眩しい明かりだけが視界に残った。

 きっと寝ぼけていたからだろう。そこから先は記憶にない。起きたら大広間に戻されていて、隣には母親が、まだ寝息を立てている。

 あれは夢だったのかと、そう尋ねたのはずっと先、シルセが大人になってからのことだった。




「いや、やっぱ女の子に応援された方が気分アガるよね!」

「はぁ……」

 地下牢から解放された八房は大雑把に身だしなみを整えられ、食事を取らされ、あっという間に軽トラの助手席に乗せられていた。

 長すぎた髪は後ろで縛られ、篠原のお古のツナギを着せられている。丈が足らず、手元も足元もつんつるてんで、そのくせ身体に肉がついていないものだからまったく似合っていない。

 八房の隣に座るのは向山と名乗る人物だった。

 グレーのスーツに紺のネクタイまで締めて、まったくヤクザ然としていない。銀縁眼鏡に天然パーマの長髪。こんなところで軽トラを運転しているより、教科書片手に黒板の前に立つ方がまだ似合う。そんな人物だった。

「八房くんだっけ。今日はいっしょに頑張ろうね。あ、ちょっと早いけど兄貴って呼んでもいいよ?」

「はい……」

 会話は弾まない。

 山喜とは違った意味で父親とはかけ離れた人物だ。もとより話題のない八房にとって、見知らぬ人間と密室にいるというのは苦行に等しかった。

 やることもなく、前方を眺める。

 八房らが乗っているのは資材を積んだ軽トラだ。地面の凹凸で跳ねるたび、積み荷ががたがたと音を立てる。

 前方に見えているのは伏見が運転する軽トラで、その隣には三ツ江のバイクが並走している。見えるものと言ったらそれくらいで、あとは何もない野原と、黒々と渦を巻くような深い森、そして月も見えない曇り空だけ。何秒と待たずに飽きてしまうような風景だった。

「……八房君さ。僕のこと、ヤクザっぽくないって思ってるかな」

「え、あ、えっと」

「いいよいいよ。こんなの、眠気覚ましの無駄話だからさ。……で、僕の話なんだけどね? 実は、半年前まで小学校の先生をやっててさ。ヤクザになったのもつい最近で、ここじゃ一番の下っ端だったんだ。君が初めての弟分。至らないところも多いと思うけど、よろしくね」

「は、はい」

 八房が相槌を欠かさないのは、山喜の言葉があるからだ。

 ひとつひとつ、教えられたことを守ろうとしている。

「君の教育係も任されたからさ、分からないことあれば、何でも聞いていいよー」

 真っ暗な草原を、軽トラがゆっくりと走っていく。

 町中に比べれば静かなものだ。時々虫がフロントガラスに当たり、吹き飛んでいく。ちょっとした凹凸に車が跳ね、そのたびにシートベルトで押さえつけられる。

 何秒かかけて、八房は返事を選んだ。

「あ、の、なんで、先生をやめた……ん、ですか」

「ああそれ? いやー、最近の先生って大変でさ。ストレスが溜まって、つい女子高生に手ぇ出しちゃって」

 およそ考えられる限り最悪の回答だった。

「で、何人も食ってるうちに三ツ江君……じゃない、三ツ江の兄貴と出会ってね。結局教育委員会にバレちゃって、教師を自主退職。その後は三ツ江……の兄貴に色々仕事を紹介してもらったんだけど長続きしなくてさ。千明組で経理やら書類の整理やってたところに、コレでしょ? 人生上手くいかないよねー」

 徹頭徹尾ダメ人間である。この場に三ツ江がいたらノリノリでツッコんでくれただろう。

「す、ごい、ですね」

「うん? 何がかな」

 向山は八房を急かさなかった。車を走らせながら、八房が答えを見つけ出すのをじっくりと待つ。

「が、学校……行ってない、ですから。先生、って、すごい、です」

「そっかそっか。ありがとう。そうだ、この件が終わったら授業してあげるよ。いつから始めたって、勉強は待っててくれるからさ」

「いいん、ですか」

 心底不思議そうに、八房が向山を見た。

「うん。じゃあ、まず最初の授業だ」

 ハンドルから片手をはなし、人差し指を立てる。

「教える、教えられる。与える、受け取る。これは同じことなんだ。両方とも、相手がいないと出来ないことだよ。先生だけじゃ役に立たない。生徒だけでも役に立たない。先生と生徒がいるから、お互いにやっていけるんだ。……学校だと、子供たちにたくさんありがとうって言われたけどね。本当は僕からも言うべきだったんだ。だから、今、言っておこうか」

 ほんの一瞬、向山は八房の顔を見た。

 八房にとって、見たことのない表情。父親が息子の成長を見守るような。

「ありがとうね」

「は、い……」

 八房の言葉を聞いて、けれど向山はまだ八房の言葉を待っていた。わざとらしく耳に手を添えている。

 十秒、二十秒と待ち、やがて八房も考えが及ぶ。

 つかえながらも、なんとか言葉を紡ぎだした。

「あ、りがとう、ござい、ます……」

「うん。そうそう」

 いい話風にしているけれど、女子高生を金で買って首になった男の言うことである。

 あまり信憑性はない。

 フロントガラスの向こうでは、伏見の運転する軽トラがハザードランプを点灯させていた。

 指示に従って速度を落とし、停車する。

「さて、とりあえず授業はここまで。まず、仕事をしようか」

「しご、と?」

 車を下りる向山にならって、八房もドアの扉を開ける。

「ここ、小さい川がいくつかあるみたいだからね。そこの足場……鉄板を使って、車が通れるようにするんだ」

 そういって、向山が軽トラの荷台を指さした。

「ま、人生いろいろあるけどさ。まずは仕事をしようか」




 最後の川を渡り終えて、伏見の車が停車する。

 日本ならば車で十分程度の距離も、小川を通るたびに水嵩の低い場所を探さねばならず、相当に時間を失っていた。

 腕時計は既に午前三時を示している。前日、この世界の夜明けを五時として設定したものだ。この世界の一日が二十四時間だと仮定すれば、ゴブリン共の活動時間まであと三時間もあるまい。

 バックミラーで向山と八房が追い付いたことを確認し、また車を走らせていく。村まではそう遠くはないはずだった。

「これは……便利なものですな」

 助手席のミゾロが口を開く。

 もう少し派手なリアクションを期待していた伏見はわずかに肩をすかされる。

 軽トラを初めて見たときもそんな調子だった。驚きこそすれ、信じられないというような風ではない。

 ならば、もっと信じられないような物がこの世界には存在しているのだ。車が、金属をふんだんに使った馬のない馬車程度に見えるくらいの。

 虎の子扱いの車が田舎の村人相手にこの程度しか驚かれない。その事実に、伏見は身を引き締める。

「……村に行く前に、いくつか確認したいことがあるんだがよ」

「なん、でしょうか?」

 知りたいことは山ほどあるが、出来る質問は限られている。

 この世界の常識において有り得る範囲。そこを出来るだけ逸脱しないよう、言葉を選ぶ。

「アンタら、これまでどうやってあのゴブリン相手に生き残ってきたんだ? 毎回毎回、襲撃のたびにこれじゃ身がもたねぇだろ」

「……あんな数は、想定外だったんです」

 肩を落とし、ミゾロはぼそぼそと呟いた。

「毎年、狩り手が女王を殺して、増殖を防いでいたんです……。人手が足りないときはよそから人を借りて、……今年だってそうだ、いつも通り駆除して、あと一年は安全だったはずなのに……」

 村が受けた被害を思い出したのだろうか。ミゾロの表情が沈み込んでいく。

 嫌な符合だ。

 千明組がこの異世界にやってきて、ようやく一日が過ぎた。そんなタイミングで最寄りの村が襲撃されて、聞けばその襲撃自体、有り得ないような出来事だという。

 お前たちのせいだと押し付けられるような。

 お前たちが解決しろと強要されているような不快感。

「その、女王ってのは?」

「あ、ああ……、私たちの村の神敵、その核です。女王さえ殺してしまえば、連中の群れは離散し、しばらくは安全なのですが……」

「……なるほどねぇ」

 伏見はそれっぽく頷いて見せるが、さっぱり分かっていない。核ってなんだよ。

 ともあれ、ゴブリン共には中心となる女王がいる。女王を殺さなければならず、殺してしまえば何か月かの安全は保障される。

 核だの神敵だのは、不明のまま保留しておくとして。

「連中、目や耳が良かったりするか?」

 次は生態だ。ある程度の性能は把握しているけれど、長年連中と渡り合ってきた人間に聞くのが一番手っ取り早く詳細を知れる。

「……ゴブリンは夜目が効かず、代わりに日が出ている間は恐ろしいほど遠くまで目が届き、耳は人の声を聞き分ける、そう聞き及んでおりますが」

「どれくらいの距離なら聞こえるとか、匂いに敏感だとか、そういうことは知りませんか」

「狩り手なら知っているかもしれませんが……」

「はぁん。なるほどね……」

 村長が知らないというなら、その程度なのだろう。

 際立った――人並み外れた聴覚、嗅覚を持っているのなら、娯楽に乏しいこんな村で話題に上らないはずもない。その狩り手とやらに聞く必要はあるが、これも保留しておく。

 草原を抜けて、軽トラが麦畑へと差し掛かった。

 川べりの畦道を通り、門の前へ。

 かがり火を焚いて、村人たちは武器を手に、伏見達を迎え入れた。

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