118話.ヤクザ、思い詰める
マトロが去り、ファティが帰宅して、屋敷の玄関先は途端に静まり返る。
夕暮れは見る間に過ぎ去って、紺碧の空に星が一つ、二つと瞬き始めていた。
読みづらくなった紙面から顔を上げて、三ツ江はレイエへと振り向く。
「っと、すんません。とりあえず上がって下さいっス」
開かれた玄関の扉から、レイエは中の様子をしきりに観察していた。
沓摺をまたいでタイル張りの土間へ。広々とした玄関の脇にはそれに見合うだけの大きな靴箱が構えていて、側面には杖や靴ベラが吊るされている。その上に置かれた土産物や滑り止めの玄関マット、暗い廊下の向こうに見える欄干と、何から何まで興味は尽きないらしい。
「そんなに珍しいっスか?」
「もちろん! ……あ、失礼だとは分かっているんですが、つい……」
三ツ江の言葉にレイエは目を伏せるけれど、すぐにその目線は興味の対象を探して右へ左へと泳ぎだす。
食事を前に、待てと命じられた犬のようだ。
この世界基準で有り得ないようなもの――蛍光灯や家電商品は全て撤去しているが、値踏みされているようでどうにも落ち着かない。
「んで、兄貴はレイエさんにどんな仕事を頼もうとしてたんスか? その辺、詳しく聞いてないんスけど」
「一言ではちょっと説明できないんですが……えーと」
周囲の観察を止めて、レイエは指先を顎に当てる。
「そもそも、神学とは神や神敵にまつわる様々な学問、研究の総称です。都市ごとの特色はもちろん、師事した学者や教室によって学派、派閥は色々で……。純神学派のキ○ガイやゲメステル元教派のクソジジイ共と一緒くたにされちゃたまりません」
よほど腹に据えかねているのか、笑顔のまま悪態を垂れた。
元の世界の神学とはまるで別物なのだろう。三ツ江には「本来の神学」なんて欠片も分からないけれど、違うことくらいは理解できる。
何柱もの神々が実在し、常に目撃され、言葉すら交わすことの出来る神域都市世界においての神学だ。神の存在証明など議論の余地すらない。
これもまた、誤訳なのだろう。神学教学宗教学の違いなど多くの人にとってはどうでもいい話だ。
「おっと、失言。ともあれ、私たちは過去の文献や実際の現象から具体的な神域の性質や神敵の習性、変異の兆しを監視しています。ほら、ここは交易都市ですから。多種多様な神々の情報が手に入るんですよ」
「んー、よく分からないんスけど、そりゃ広く浅くってことっスか?」
「広く、深く。です」
学者としての矜持ゆえか。静かに、けれど強く三ツ江に言い含める。
「多種多様な神々、都市、人々を観察できるからこそ、共通する法則を読み解くことが可能なんです。もちろん、必要な知識も潤沢に取り揃えております。伏見様にはその点を見出していただきました」
それは――売り文句なのだろう。
確かに普通の学者ではないようだ。知識と名のついた商品に、商人としての自負を持っている。
レイエが商人として振る舞うのなら都合がいい。明確な商品と代価の交換だ。問題があるとすれば――千明組にとって、両者のつり合いがとれているかどうかだろう。
「兄貴はいくら払うって?」
「経費を除いた報酬は……これくらい。そして千明組に関する本を書かせていただく許可を」
レイエが指で示した金額はそう高くない。神学者に支払う報酬の相場など知る由もないが、専門家を顎で使うには少々安すぎるくらいだ。
伏見がこの程度の金額をケチるとは到底思えなかった。
「ってことは、ウチに関する本ってのが本命っスか?」
「……この業界じゃ、お歴々に推薦してもらえないといくら本を書いたって紙屑同然でして……。目ぼしい神々は既に研究しつくされてるし、既に専門家の先生が何人もいる状態で、けど千明組やアウロクフトに関して詳細な本を書き上げれば一発で知名度ガン上げ間違いなしなんですよ!」
目的はそれらしい。
実に素直な出世欲だ。レイエが望むものは実に明確で、ならば行動の予想もつく。子飼いにするならうってつけの人材だろう。
食い入るように見上げるレイエの瞳をさらりと受け流し、三ツ江は襖を滑らせる。
「話はよく分かったんで、ここでちょいと待っててくださいっス。今、茶ぁ淹れて来るんで」
有無を言わせず、レイエの肩に手を回してやんわりと部屋に押し込んだ。
襖を閉める直前、通された部屋を観察する彼女の背中に声を掛ける。
「そういや、いっぺん聞いてみたかったんスけど――」
三ツ江の言葉は、あまりにも幼い疑問だった。ともすれば一笑に付されるような。
けれどそれは、誰であろうと一度は思い浮かべずにいられないような願い事で。
だからこそ、レイエにとっては慣れた質問だったのだろう。居住まいを正し、真っ向から疑問に答える。
「――神さまが人を生き返らせるのは、神話の中での話です。墓の中から起き上がる死体は、ただ埋葬が早すぎただけ。亡くなられた方は生き返りません。……この答えでは不十分ですか?」
「や、ありがたいっス。……そっスよね。やっぱ、生き返ったりはしないんスよね」
暗い廊下に立つ三ツ江の表情は、レイエにも見えない。
声の調子だって普段と何も変わらなかった。
その様子が苦しそうに感じられたのは、きっと質問のせいだろう。三ツ江の質問が死者の復活を望んでいた、そのせい。
何か、思いやる言葉をかけてやるべきだと考えて、けれどすぐには思い浮かばず。
襖は閉じられて、その機会は失われた。




