099話.ヤクザ、解析する
「処女だって性病にはなるよ?」
「えっ……」
「そんなんでよく教師やってたよなお前……。いや、いまさらだけど」
「……教師だって人間ですから。完璧を望まれても困りますよ」
眼鏡の蔓を指で押し上げて、向山は重苦しい溜息を吐いた。
椅子に腰かけ、陰鬱に言葉を紡ぐ。
「そりゃあね。僕だって望んで教師になったわけですし、子どもも嫌いじゃないですよ。でもね、だからって三十何人のクソガキどもを相手にずっと聖人でいられるわけないじゃないですか。ケンカはする物は壊す、言うことは聞かないし人のケツを執拗に狙ってくるんですよ。いじめなんて日常茶飯事、子どもは天使だとかほざくアホ共は一体どこに目がついてるのか……」
「ごもっともではあるけど、それはそれとしてお前はダメ人間だよな」
「…………」
懇願するような眼で向山は二人を見るけれど、三ツ江は敢えてそれを無視した。
空気を読まないのが三ツ江の良い所だ。
「まぁいいよ。いやよくねーけど。あとから兄貴に叱ってもらうけど。お前が性病で死ぬのは別に構わないしなー」
「え、あの、ちょっとは構って貰えると……」
「たださー。お前、兄貴が言ってたことちゃんと聞いてた?」
首を傾げる向山をよそに、三ツ江は椅子に座ったまま、背後の扉を仰ぎ見る。
扉の向こうに誰かがいたとしても、気付くことは出来ないだろう。
「もう一個理由あったじゃん。どっかの誰かがハニトラ仕掛けてくるかもしれないから、きっちり警戒しとけって」
正面切って千明組と敵対するよりもよっぽど安い手だ。幸いと言うには少々心苦しいが、金で身体を売る女などいくらでもいる。間に人を挟めば正体を露呈する可能性は低く、手に入るのは金でも買えない情報だ
付いて回って情報を得るもよし、弱みを握って脅すもよし。
元の世界では金がかかりすぎて難しい手段ではあるけれど、こちらでは人の値段など安いものだ。
やらない方が馬鹿げている。
そういった密偵、間諜、スパイの類は既に相当入り込んでいるだろう。篠原の率いる新技術試験場はもちろん――ここにも。
三ツ江が言わんとすることを理解して、向山のこめかみにじんわりと汗が浮かぶ。
「……もしも、もしもですよ? 自分がハニトラに引っかかってたらどうします?」
「んー。兄貴だったらそれを逆手にとって、なんか仕掛けるんじゃねぇかなー。……もちろん。お前がちゃんと報告してくれたら、だけど」
「ほ、報告出来ないような秘密を握られてたら……?」
「ははっ」
朗らかに、三ツ江は笑う。
「お前、誰んとこでJK買ってたと思ってんの? お前の恥ずかしい秘密なんて映像付きで確保してるに決まってんじゃん。上映されたくなかったらちゃんと報告しろよ?」
身内のヤクザに脅されるか、異世界の何者かに脅されるか。
どっちにしろ酷い目に合うのは確実なので、向山は素直に、思考を放棄することにした。
人間、諦めが肝心である。
「さて! それじゃあ切り替えていきましょう切り替えて! お嬢さんに僕の仕事を説明するんでしたよね!?」
「へぇー」
強引に話を変える向山を、お嬢は冷ややかな目で見つめていた。
三ツ江と向山が会話していた間、ずっとだ。向山は脂汗の浮いた笑みのまま、机の上の本に手を伸ばす。
「そうですね、まずはこちらの本を読んでいただきたいのですが――」
開いた本はさっきのエロ本だった。慌てて本を閉じ、向山は背後の書架に向かう。
その隙に、三ツ江はお嬢へそっと顔を寄せた。
「……お嬢、なんかテンション低くないっスか? 篠原とテディん時はあんなにはしゃいでたのに」
「だって、テディくんの方は可愛い感じじゃないですか。こっちはちょっと、生臭いっていうか」
「生臭い」
言わんとすることは分からないでもないけれど。
三ツ江とお嬢が話している間に、向山は手頃な本を選び出していた。閉じたままの本を机の上で滑らせて、向かいに座るお嬢へ差し出す。
「どうぞ、まずはこの本を読んでみて下さい」
「さっきみたいな本じゃないんですよね……?」
本を受け取り、おそるおそる、お嬢は表紙を開いた。ページを一つ、二つとめくるたびにその表情が困惑の色を深めていく。
結論から言えば。
それは、元の世界とはまるで違う『法則』によって書かれた本だった。
「なんですか、これ……」
読めないわけではない。言語は異なっていても、この異世界には翻訳機能が存在しているのだ。意味は通じている。内容は古アウロクフトにまつわる逸話や口伝を編纂した英雄譚である。
問題は翻訳前――実際に目で見える、この世界の言語にあった。
「奇妙なものですよね。文字はまったく読めていないのに、意味だけはちゃんと伝わってくる。日本語にない概念でも、おぼろげなニュアンスは掴めるようです」
「でも、これ……」
分厚い紙に書かれているのは、デーヴァナーガリー文字――ヒンディー語に用いられる文字のようだ。おそらくはインド系の転移者と共にこの異世界へとやってきたものだろう。
ラテン語からアメリカ英語へと変化したように、時間の経過によってその文字は大きく変化しているはずだ。日本人であるお嬢はもちろん、インド人だって翻訳なしに読むことは出来ないだろう。
そして、書かれていたのはデーヴァナーガリー文字だけではない。
アルファベットはもちろん、漢字やキリル文字、その他様々な文字が入り混じっていた。
「翻訳機能の弊害、と言うべきでしょうか。なまじ意味が通じてしまうものですから、他言語と簡単に混ざってしまう。日本語で例えると、外来語がカタカナではなく本来の言語で記入されるようなものなのでしょうね」
「それは見たら分かりますけど……」
お嬢の言葉に向山は肩を落とし、それでも気を取り直して言葉を続ける。
「……この世界では、二種類の翻訳機能が存在している。それが僕と伏見さんの結論です」
そう言って向山が取り出したのは粘土板だった。アルカトルテリアでは紙も高価で、メモ用紙のように使い捨てるには少々値が張る。
木製のペンで、三ツ江はまず二つの大きな円を粘土板に刻み込んだ。
「一つは、都市の言語です。公用語みたいなものと考えて下さい。二つの都市が隣接すると神域が重なり――」円の交点と交点を結ぶ線を引き、「――ここに、翻訳機能が発生する。概念図なので実際に線があるわけではありませんけどね」
その機能はお嬢にも覚えがある。ファティやシルセと会話する際に生じるわずかな違和感だ。
異世界の人間の発声は、ちゃんと音として伝わっている。しかし、本来ならば意味の分からないそれが、確かに理解出来るのだ。この違和感は何とも形容しがたい。
複数の意味がある言葉でも翻訳は正しく機能し、固有名詞を含む「元の世界にない言葉」は曖昧な概念だけが脳裏に浮かぶ。
「そして、もう一つの翻訳機能は神域と個人の間に発生していると考えられます」
粘土板に描かれた大きな二つの円。
それぞれの中に、向山は小さな円を刻んだ。
「――実は、こうして話している僕らの会話も翻訳され続けているんですよ」
「え……?」
当然、千明組の面々は日本語で会話している。
にもかかわらず翻訳機能が発生しているというのは理解し難いのだろう。お嬢は怪訝そうに眉をひそめる。
どう伝えれば理解してもらえるのか、向山は首を捻り、しばし考えたあと口を開いた。
「そうですね……。まさとしって分かりますか」
誰だよ。




