000話.ヤクザ、異世界にて
ほんの少し、道を外れただけだった。
クルミの木を左に曲がって、イチイの茂みをまっすぐ。今日はいつもよりも食べ物が集まらなくて、ほんの少し欲張った。
その結果が、これだ。
靴などとっくにどこかへ行ってしまった。膝小僧の擦り傷は血と泥の混じった粘液に覆われて、言いようのない不快感を催す。息をしようにも出血で鼻が塞がれ、獣のように喘ぐしかない。涙はとめどなく流れ、視界を濁していた。
それでも走るのだ、と。
湿った森の地面を、剥き出しの足で駆けた。
連中は人を食うのだ。人を食う前に獲物の足をもいで、子供に狩りの練習をさせるという。■す前に■すとも聞いた。意思疎通も出来ないが、知性はあり、その知性の限りを尽くして獲物を利用する。
その獲物が自分だ。
近所のおじさんは腰巻きや靴下にされた。
誰の物とも知れない大腿骨を振りかざす姿を見たことがある。
今から、自分もそんな風にされるのだ、と。
だから走っている。
もう、帰り道なんて分からない。天と地がひっくり返ったって気づきもしないに違いない。ここではないどこかへ、ひたすらに走っていた。
母との約束がふいに、幻聴よりも確かに聞こえる。
絶対に見つからないように隠れていなさい。
もし見つかったら何があっても逃げなさい。
捕まってしまったら、舌を噛み切って死になさい。
一つ目の約束は既に破られてしまった。
二つ目はどうだろう。
三つ目はきっと守れない。
いっそ今死ねば楽になる。そんな逃避行は、長く続く訳もなかった。
最初は殴られたのだと思った。顔面に衝撃を受けて視界が暗くなる。反射的に腕で頭を庇おうとして、やっと自分が転んだんだと知れた。舌の上に滲む苦みは土の味だろうか。
立とうにも、もう足が動かない。
手をついて顔を上げるのが精いっぱいだ。何とか開いた左目で振り返れば、毛のない猿のような生き物が群れを成し、少女を見下ろして卑しく笑みを浮かべている。
きっと、子猫が死にかけた獲物で遊ぶように。
連中にとって、必死に逃げ惑う少女はいいおもちゃだったのだろう。けれどそれは逃げ続けていればの話だ。もう走れない彼女に向かって、先頭に立つ猿もどきが錆びついた鉈を振り下ろし――
「なァァにしとんじゃワレェェェェェェェ!」
一片の躊躇いもなく。
叫びと共に、少女の隣をすり抜けて誰かが先頭のゴブリンへ突撃する。
腰だめに構えた短ドスがきらめいて、大きすぎる眼球に吸い込まれた。
深く、深く。
少女には見慣れないその服はジャージだ。ひるがえる上着の赤に、なによりも目を引かれた。
ゴブリンの頭部を踏みつけて、青年は強引に短ドスを抜く。血と脳漿が噴き出してその顔を赤く染める。拭うことすらせずに、青年は再び刃を構えて、少女を守るように立ちはだかる。
「オメェはアホか。猿相手に息巻いてどうするよ」
声の主は、ゴブリンの背後から現れた。青年に気を取られていたゴブリンの後頭部を前蹴りで蹴り飛ばし、もう一匹のこめかみに銃口を突きつける。
ためらわず引き金を引いて、ゴブリンの頭は熟した果実のように弾けた。
最期の一匹は混乱したまま拳銃を持つ男に襲い掛かるが、手にした鉈を振り下ろすことなく、もう一人の男が持った短ドスに脊椎を貫かれて絶命した。
あっという間の出来事だ。少女を追い詰めていたゴブリン共は、森の中から現れた男たちによって速やかに駆逐された。
短ドスを引き抜いて、青年がゴブリンの死骸を蹴り飛ばして腰を折る。
「ケツもちあざぁす!」
頭を下げる青年に対し、男は鷹揚に頷いて見せた。
銃口にこびりついた血と肉片をハンカチで拭い、スーツの懐にしまい込む。
「おう。あとオメェ、もちっと言葉遣いなんとかしろな。野球部かよ」
「ウス! 高校ん時は野球部っした!」
「マジかよ知らなかった。……で、お嬢ちゃん大丈夫かい」
男はしゃがみ込んで、黒眼鏡を外すと少女の顔を覗き込む。
状況を呑み込めていないのだろう。少女は起きることもないまま、霞む目で茫然と男を見ていた。
見知らぬ、異邦の男。
歳の頃は二十代半ば。黒髪を整髪料で撫でつけたオールバック。肌などは二十歳で通用するかもしれない。普段は険しいであろうその目は、少女を安心させるように緩められていた。
見慣れないが、パーティーにでも葬式にでも行けそうな服装。少女には知る由もないが、それはスーツという、異世界の衣服だ。
黒のスーツを着て、懐には拳銃。襟には小さな、金色のピンバッヂ。
今更語るまでもない職業の彼は、血が滲む少女の顔を袖で拭い、言う。
「実はオジサン悪い人なんだが、ちょっと話を聞かせてもらえるかい」
それは。
少女にとって、この世界にとって初めての、ヤクザとの遭遇だった。