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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅲ部
83/117

第83話 魔王からの使者

 ゼラチン質の像が一歩を踏み出した。

 その瞬間、地面に触れたつま先から全身へと、さざ波が広がるようにして表面の質感が変化。半透明の肉像はラフな服装の優男そのものへと完全に変身を遂げた。

 甘いマスクに柔和な笑みを浮かべているが、その目はまるで石ころのように無機質で、一切の感情が宿っていなかった。はだけたシャツの胸元からはあばらが浮いた薄い胸が覗いている。


「このおっさんはしゃべりすぎた。だから死んだ」

 ゾルスと名乗った不気味な存在は、ダンの亡骸を見下ろしながら言った。


「……そして、話を聞いたお前たちもまた、死なねばならない」

 ゾルスの手にはいつの間にか、鋭く湾曲したナイフが握られていた。



 ゾルスの眉間に矢が突き立った。

 続けて二本目が喉笛を正確に貫いた。

 狩人だった。早くも三本目の矢をつがえて狙いを定めている。

 一瞬、ゾルスはぐらりと上体を揺らし、倒れるかに見えた。

 だが「馬鹿?こんなんで俺が死ぬわけないっしょ」嗤いながらすぐに体勢を立て直した。額と喉には矢が刺さったままだ。

 直後、見えない巨人に殴り飛ばされたかのように、狩人の体が真横に吹っ飛んだ。そして酒場の壁を突き破って外に消えた。


 屈強な戦士が椅子を投げつけた。椅子はゾルスの顔面に命中し砕け散った。

 それで生じた一瞬の隙をついて、戦士は火炎魔術を放った。ゾルスの全身が炎に包まれた。激しく燃え盛る炎は酒場の天井にまで達し、炎の放つ熱波で俺の髪の毛まで少し焦げた。さすがの怪物も動きを止めていた。

 この猛火では消し炭になったに違いない。そう思った時だった。


「……へえ、ただの脳筋かと思ったら意外とやるじゃん。てっきりもっとアホっぽく剣で斬りかかってくるかと思ったわ」

 炎の中から声が聞こえた。そして炎が弱まり、完全に鎮火した。

 そこには元の姿と変わりないゾルスが立っていた。


「さすがにちょっとダメージ受けたわ。表面の細胞何層かはな。……でももう死ね」

 酒場の天井をぶち破り、真上から落下してきた見えない拳は戦士をぺちゃんこに叩き潰した。



「……さてと。邪魔な野郎どもは消えたし、楽しませてもうらぜ」

 そう言ってゾルスはこちらに、いや、俺の後ろにいるガエビリスに粘着質な視線を注ぎ、舌なめずりをした。


「きみ結構かわいいね。名前はなんて言うの?僕と遊ぼうよ。ねぇ、こっちにおいでよ」

 そのナンパそのものの言葉は、凄惨な殺戮の場にまるでそぐわず異様に響いた。


 ガエビリスは爆破魔術を放った。

 ぱぁんと乾いた音を立てて、ゾルスの顔面付近の空気が破裂した。だが、地上では魔力が弱まるダークエルフの性質ゆえ、その威力はせいぜい頬を張られた程度だ。これでは足止めにさえならないだろう。

 しかし、ゾルスは足を止めた。


 顔を上げたゾルスの顔は憤怒に歪んでいた。

「はぁ?ふざけんじゃねーぞこのクソアマがぁ!メスの分際で俺に刃向かいやがって。許さねえ……。生きたまま腹を割いて子宮と卵巣むさぼり食ってやらぁ!」


 激昂したゾルスはそう叫ぶと、ナイフを振りかざして襲いかかってきた。行く手にあるテーブルや椅子を蹴散らしてまっしぐらに突っ込んでくる。


 あいつは行く手に立ちふさがる俺のことを完全に無視していた。

 だが俺はすでに背嚢を下ろし「無の剣」を取りだして包みを解いていた。漆黒の刃があらわになる。ゾルスも剣に気付いたはずだが、物理攻撃が無効な体ゆえか気にもかけていない。そのまま突進してくる。


 俺は剣を構え、奴が通り過ぎる瞬間を狙って斬りつけた。

 そのままゾルスは俺の横を走り抜けた。


 まさか、通じなかったのか。ヒヤリと嫌な予感が背筋を走った。

 だが次の瞬間、ゾルスは派手な音を立てて酒場の床に崩れ落ちた。



「……れ、あれ?なんだこれ。何か変だぞ。あれ?え?」

 ゾルスの体は上半身と下半身に分断されていた。それぞれが勝手に床の上でもがいている。切断箇所からは血が流れ出ず、ぶよぶよした半透明のゼラチン状の組織がはみ出ている。


「組織が再生しねぇ……そんな馬鹿な。おい、何をしたお前。てか、細胞がどんどん死んでいく。やべぇなこれ」


 俺はとどめを刺すため、剣を振り上げた。

「……最後に聞く。お前は何者だ、偉大なる御方って誰だ」俺は言った。


 ゾルスの動きは急速に緩慢になっていった。表面の質感の偽装も解け、おおまかに人の形をしたスライムの塊に戻りつつあった。死にかけて黒ずんだスライムに。そいつはぼんやりと俺を見上げ、小声で何事かを囁いた。


「……だ。……それが我が……」

 よく聞き取れない。聞こうとして思わずそいつに顔を近づけようとした時だった。


 ゾルスの生首が俺の顔めがけて蛙のように跳びあがった。だが直後、後ろからガエビリスに裾を引かれたおかげで顔面への直撃は避けられた。危ない所だった。首はむなしく床の上に落下して平たく潰れた。その残骸はどんどん萎びて縮みながら、ぼそぼそとつぶやき続けた。



「ちくしょう。寄生失敗か。ああ、この肉体はもうダメだな。

 ……その剣、あれか、勇者だけが使えるっていう例の聖剣だな。油断したぜ。つまりはお前が新たなる勇者ってわけか。……くくく、面白い。古代から続いてきた魔王と勇者のゲームの新たなる(いち)ラウンドがここに開始されたってわけだ。

 これはお知らせせねば。……いや、すでにご存じなのか?知っていたからこそ、俺をここに差し向けなさったのか?偉大なる魔王様の御心は我ら使徒でさえうかがい知れない。……待っているぞ勇者。また都市で会おう……あ、死ぬ」


 その言葉を最後に、スライムの残骸は完全に動きを止めた。黒く干乾びた表皮の裂け目から黄色い腐汁がどろりと流れ出た。後に残ったのは床の上で悪臭を放つベトベトした粘液の水溜りだけだった。




 俺とガエビリスは急いで町を後にした。

 町の守備隊の兵士に捕まったら色々と面倒なことになる。

 夜道を歩き通し、街道沿いの廃村の納屋に宿を取ることにした。そこは長いこと使われていないようで荒れ果てていた。古びた農具が散乱し、いたるところ蜘蛛の巣に覆われたその納屋で、俺とガエビリスは藁山の上に横になって休んだ。



「まさか、本当に新しい魔王が生まれていたとは……」俺はつぶやいた。

「あいつの言ってたこと、本当だと思う、ガエビリス?」

「おそらくね。嘘をつく理由が無いもの」

「そうか」俺は暗い天井を見上げてため息をついた。


「やっぱり、俺って勇者なのかなぁ」


 あんなに憧れていた勇者。

 だがいざなってみると、不安と恐怖に押し潰されそうだ。これから俺の前には幾多の過酷な戦いが待っている事だろう。

 これまでも戦いは何度も経験してきた。ヒュドラ、闇の落とし子、夜警隊員とハルビア総隊長、アラクネ、そしてゲイル……。だが、これから相手にするのは魔王だ。今までの敵とは比較にならないほど恐ろしい相手だ。

 それに、これまでの戦いは自分や身近な仲間のためだけの個人的な私闘だった。だがひとたび勇者となれば、全世界の人々のために戦うことになる。負けて失うのは自分ひとりの命だけでは済まない。それだけの重責を果たして俺は背負えるのか……。

 あんな剣になんて触れるべきではなかった。

 いや、今からでも遅くない。どこかに投げ捨ててしまおう。俺の心の弱い部分がそう囁きかける。



「……嫌なら、逃げちゃってもいいと思う」

 ガエビリスが言った。心の中を読まれたようで俺はどきりとした。


「この世界のために、ワタナベさんがつらい思いをする義理なんかないわ。世界のことなんかほっといて、どこかで二人だけで静かに暮らしましょう。本当はわたし、そっちの方がいいなって思ってる」

「…………」


 そうだ。そうして何が悪い。そもそも勇者といえば秋本がいるじゃないか。それに倉本も佐々木も紗英ちゃんも。俺がこんな剣だけ一本ぶら下げて、のこのこ出しゃばって行ったところで何の役に立つって言うんだ。魔法だって使えないんだぞ。もう一度あいつらが世界を救えばいいじゃないか。


 だけどもし、勇者になれるこの機会に背を向けたりしたら、

 楽な方に逃げたりしたら、

 俺はもう二度と何者にもなれないだろう。



「……ごめんガエビリス。やっぱり俺……勇者になるよ」

 かすれた声で、喉から絞り出すようにして言った。

「そう……」


 暗闇の中で、ガエビリスの指先が俺の手に触れた。俺は指を絡め、固く握り返した。


「わたしはいつでも、どこへでも、ワタナベさんについて行くから」

「ありがとう、ガエビリス」


 俺はガエビリスの体を抱き寄せ、しっかりと抱擁した。

 やがて、どちらからともなく俺たちは互いの衣服を脱がせあい、そして体を重ねた。

 地下の街ではじめて出会ったあの時のように、熱に浮かされて訳も分からず獣のように交わったのではなかった。俺は彼女のことが心の底から愛おしかった。破れ窓から射しこむ月光のもとで見る彼女の裸体は美しかった。何度も達した後で、ようやく俺は眠りに落ちた。

 翌朝、目が覚めると俺たちはまた藁の上で愛し合った。



 そして日が傾く頃、俺と彼女は都市に向けて旅立った。

 あの巨大なゴミとガラクタの集積物のような都市、数々の敵と恐怖が待ち受けるあの都市へと戻るために。

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