第76話 ガエビリスの過去➁
それ以来、リリーンは教主さまの目を盗んでポドッグの元に通うようになった。
黒い扉の鍵は教主さまの部屋で保管されていた。
彼が眠りに就いた後でこっそりと鍵を盗み出し、彼女は夜ごとあの部屋に向かった。
はじめて会った時は恐ろしく見えたポドッグも、一度親しくなるととてもいい人だということがわかった。それに彼の話は面白くけっして飽きることがなかったし、また彼女の話にも真剣に耳を傾けてくれた。
この広大な館の中で、大人たちにほとんど放置されて育った彼女にとって、ポドッグがかけがえのない存在になるのに大して時間はかからなかった。
「あなたを早くそこから出してあげたいわ。わたし、こんど思い切って教主さまに相談してみる」
「待ってリリーン。悲しいことだけど、教主さまは絶対に聞いてくれないだろう。それより、僕に考えがあるんだ。教主さまにお願いするよりもっといい方法さ。だけど、それには情報と入念な準備が必要なんだ。リリーン、協力してくれる?」
「ええ、何でも言ってポドッグ。わたし、あなたの力になる」
リリーンはポドッグの指示に従い、この館について詳しく調べ始めた。
信徒は何人いるのか。教主や信徒たちは何時にはどこにいて何をしているのか。館の部屋の配置はどうなっているのか。食料貯蔵庫、武器庫、台所、講堂、図書室はどこにあるのか。見張りは何人いるのか等々。調べる項目は多岐にわたった。彼女は調べ物のために館のあちこちに出入りしたが、信徒たちは彼女が一人で館内をうろついているのに見慣れていたため、誰も不審に思わなかったようだ。
時には、ポドッグが希望する品物をいくつか差し入れた。紙切れにペン、それに針金と小さなナイフ。どれも取るに足らない物で入手するのはごく簡単だった。
ある夜、彼女が訪ねていくと、ポドッグはひどく青ざめた顔で牢の床に横たわっていた。
「どうしたのポドッグ、どこか悪いの?」
「血を……抜かれたんだ……信徒たちに。たっぷりとね」
「まさか、そんな恐ろしいことを」
「あいつらは……僕たちの種族の血液を飲むと、魔力が高まるって信じてるんだ。僕が生かされているのも……実は血液を採取するため、ただそれだけの理由なのさ。おそらく、きみも同じような目的のためにここで放し飼いにされているんだ」
「そんな、そんなことって……」
「君はあいつらの正体を知っているかい」
「え……正体って?みんなは世界中の皆が幸せになるように、神様にお祈りしたり、修行したりしてるって、前に教主さまがおっしゃってたけど……」
「リリーン、残念ながら、彼らはそんな善良な人々じゃないんだ。あいつらが求めているのは、強い魔力や不老長寿、それに財産や権力。安っぽい現世利益ばかりさ。それを手に入れるため、あの俗物どもは僕らの種族の血と魔力と智慧を悪用しようとしているのさ」
その時、二人の上に大きな黒い影が落ちた。
リリーンの背後から低い声が聞こえた。
「……言ってくれるじゃないか、出来損ないが。まだまだ血を抜き足りなかったと見えるな」
その声は教主ドーマンのものだった。
だが、振り返った彼女は凍りついた。教主さまの顔からはいつも浮かんでいる笑みが消え去っていた。
「リリーン、やはりここに来ていたのか。最近どうも様子がおかしいと思ってはいたが……。こいつの話など聞いてはならんぞ。こいつは嘘つきの出来損ないだからな」
教主ドーマンは凍りつくような冷たい目でポドッグを見下ろし、吐き捨てるようにして言った。
いつも朗らかで優しい教主さまの豹変ぶりに、リリーンは恐怖を覚えた。
だがしかし、彼女は勇気を振り絞り、教主に言った。
「教主さま、ポドッグはどうしてこんな目に遭っているのです。檻から出してあげてください!」
「リリーン……。こいつは邪悪な怪物なのだよ。檻から出したらどんな悪事を働くか知れたもんじゃない」
そう言って再び檻のほうを一瞥した。
ポドッグはいつの間にか檻の片隅の暗闇に後退し、じっとうずくまっていた。
「私も彼と同じ種族ですよね。なぜ私には自由が与えられ、ポドッグは閉じ込められているんです?」
「きみは高貴なる闇の血統の血を濃く受け継いでいる。それに、女だからだよ」
続けて教主ドーマンは語りはじめた。
「いいだろう。いずれお前も知ねばならん事だ。いい機会だ。教えてやる」
「……我らの祖先は太古の昔、俗称ではダークエルフと呼ばれる種族、すなわち闇の血統に仕える下僕だった。だがある日、主たちの文明は突如滅び去った。生き延びたわずかな者たちも没落し、ダンジョンに巣食うモンスター同然にまで落ちぶれた。あとに残された我らの祖先は、偉大なる文明の遺産を後世まで伝えるためにこの教団を結成した。我々の究極の目的、それは我らが主、闇の血統の偉大なる王朝の復活なのだ」
「……我らは待っている。人知れず何千年も待ち続けてきた。いつの日か偉大なる主たちが復活し、この世界を正しき方向へ導いてくれるのを。しかし我々もただ座して待っていただけではない。王朝を復活させるため積極的に活動を展開してきたのだ」
「冒険者どもを使ってダンジョンに住むダークエルフを捕獲し、文明の担い手として相応しい存在となるよう、この館で再教育を施そうとしてきた。しかし悲しい事に、せっかく手に入れたダークエルフも大半のものが役立たずだった。どいつも年老い、狂っていた。女どもはもはや子を産むことさえできなかった。王朝の復興は絶望的に思えた」
「だがある日、ついに我々の元に幸運が舞い込む。我々はひとりの若い女のダークエルフを手に入れた。それが、お前の母親だった」
「お母さま?」
リリーンには母親の記憶がなかった。母親についてこれまで何も教えられたことがなかった。
その時、牢屋の中でポドッグがつぶやいた。
その声には激しい怒りがにじんでいた。
「……そしてこの男は、母上を何度も凌辱したのだ。檻に閉じ込め鎖につなぎ家畜のように扱って。まさにこの僕のように」
「ふん、あの時の事をまだ覚えておったか。リリーン、こいつも昔はお前のように自由を与えられておったのだ。だがある日、こいつは入ってはならない場所に入り、見てはならないものを見てしまった……。
たしかにわしはお前たちの母親と交わった。そしてある日、お前たちの母親は妊娠した。ダークエルフが人間との間に子を孕むのは非常に稀だったのでわしは驚いた。そして産まれたのがお前たちだ。つまりわしはお前たちの父親なのだ」
「あなたが、私のお父さま?そんな……。それに母さまは今どこに」
「もうとっくに死んだよ。お前を産んですぐにな。それ以来、わしは交合の儀式を行っておらん。そのせいで魔力は低下し、老化も急速に進んできている。このままではわしは長くはもたんだろう。
だが、幸いなことにお前がいてくれた。リリーン、体はまだまだ未熟で初潮も迎えてはおらんが、それでも儀式にはもう十分だろう。さあ、来るんだ」
ドーマンの顔には見るも汚らわしい笑みが張り付いていた。
骨ばってごつごつとした教主の大きな手が、リリーンのか細い手首を締め付けた。
その時、弾けるようにして檻の扉が開いた。
中からポドッグが飛び出し、あっと思った時にはすでに教主の首に小さなナイフを突き立てていた。ナイフを引き抜くと血が噴出し、部屋の天井を赤く染めた。
「…………」
リリーンは恐ろしさのあまり声が出せなかった。
ポドッグは何度も何度も首にナイフを突き刺し、やがて血の噴出は止まった。
「……急ごう。時間がない」
返り血に染まったポドッグが言った。その足首に取り付けられていた鉄鎖は外されていた。
彼女たち二人は館の中を走り抜けた。
信徒たちは呆然として彼らを見つめた。中には取り押さえようとする者もいた。だがすれ違った瞬間、彼らの黒いローブが火を噴いた。火炎魔術だった。魔封じの鎖から自由になったポドッグは思う存分魔術を放ち、浄化の炎で邪悪な信徒たちを焼き殺していった。
やがて、信徒たちを焼く炎は館そのものに燃え移り、あちこちで火の手が上がっていった。
燃え上がる館の中を走り、二人は聖所にやってきた。
「この聖典だけは失う訳にはいかないからね。ここには闇の血統の偉大なる歴史のすべてが記されている。それにこの聖遺物も。僕たちこそがこれらの正当なる継承者なのさ」
ポドッグは祭壇から古くて大きな書物と、聖遺物を納めた錫の容器を持ち上げると背嚢の中にしまった。
そして二人は猛火に包まれる館を後にした。
外は夜だった。
蛍の群れのような火の粉と、もうもうたる黒煙が暗い夜空に向かって吹き上がっていた。追手を避けるため、二人は道を避けて森の中に入り込んだ。
「リリーン、僕たちはこれから旅に出る。辛い旅になるだろう。でも僕たちはもう自由なんだ。これから本当の人生が始まるんだ」
ポドッグは言った。その顔の左半分を、炎のオレンジ色の光が不気味に照らしていた。
その日の明け方。初めて見つけた隠れ家で、彼らは二人だけの命名式を執り行った。
邪悪なる者につけられた偽りの名を捨て去り、新しい真の名前を自分たちで選び取ったのだ。
ポドッグはギレビアリウスを名乗ることにした。
聖典に記された、古代ダークエルフ王朝の伝説的な皇帝の名だ。
リリーンはガエビリスと名乗ることにした。
ギレビアリウス帝の皇妃の名だった。
その後、二人は人目を避けて放浪を続け、やがてあの都市に辿り着いた。
これがガエビリスが俺に話してくれた、彼女の過去だった。
これから俺たちが目指す目的地、それは彼女が逃げ出してきた、あの忌わしい教団の館の跡地だった。




