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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅱ部
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第57話 アラクネ➁

 アラクネのもつれた黒い顎鬚が持ち上がった。

 その下から現れたのは、漆黒に輝く毒牙だった。

 毒牙は毒液を滴らせながら、苦しげに横たわる佐々木に迫っていった。


「オラァ!お前の相手はこっちだ、蜘蛛野郎」

 シャモスがアラクネに向かって叫んだ。


 俺とシャモスは粉塵の雲の直撃は受けなかったので、あまり毒針は吸い込まずに済んだようだった。多少のどの痛みを感じる程度で体は麻痺していなかった。

 アラクネはわめくシャモスを横目で一瞥しただけで、再び佐々木に視線を戻した。

 シャモスは真鍮のロッドを構えて呪文を唱えたが、何度やってもやはり魔法は撃てなかった。


「くっそぉ」

 シャモスは悪態をつくと、落ちていたケージの残骸の棒を拾い上げた。その端は槍のように鋭く尖っている。それを手に、突然シャモスはアラクネめがけて駆け出した。

「おいやめろ!」俺は叫んだがシャモスは止まらなかった。

 槍を構え、はちきれそうに膨らんだ蜘蛛の腹部めがけて突進していく。シャモスは渾身の力で槍を突き立てようとした。だが、その直前、蜘蛛の肢の一本が素早く動き、彼女を軽々と宙に弾き飛ばした。アラクネは彼女の方を見さえしなかった。床に叩きつけられた時、シャモスはすでに気を失っていた。



 アラクネは、腹部の末端にある出糸突起をうごめかせ、純白の糸の帯を繰り出した。それを動けない佐々木の体に幾重にも巻きつけていく。佐々木の全身が半透明の白い帯に覆われていく。


 倉本は力なく横たわり、浅い呼吸を繰り返していた。だが意識は失っていなかった。

 その時、倉本と俺の目が合った。

 倉本は声を出さずにゆっくりと口を動かした。その時ふと気づいた。俺に何か伝えるつもりなのだ。俺は倉本の口の動きを注視した。


 ……す、を、こ、わ、せ。そう言っているように見えた。

 巣を壊せ。

 この蜘蛛の巣のことか。自分の巣は魔法を封じる結界だ。たしかに奴はそんなことを言っていた。だが、奴の巣とは何なのだ。ここには蜘蛛の巣らしき物は何も見ない。散乱したケージの残骸と岩がむき出しになった壁と天井。ここにあるのはそれだけだ。

 だが、その時ふと、ガエビリスに似せた糸人形のことを思い出した。ケージの中に入っている彼女は本物にしか見えなかった。このアラクネは糸で何でも自在に作り出し、偽装できるのだ。だとしたら、この部屋そのものが偽物という可能性もなくはないだろうか。



 俺はアラクネの注意を引かぬよう、ゆっくりと壁際へと近づいていった。幸いアラクネは俺を非力で取るに足らぬ存在と決めてかかり、完全に無視していた。倉本と佐々木を釣るための餌程度にしか認識していないのだろう。

 俺は部屋の壁であるむき出しの岩盤に向き合い、棍棒を振りかぶった。そして思いっきり振り下ろした。

 それはやはり見た目通りの岩だった。

 棍棒は弾き返され、その衝撃で手がじんじんと痺れた。だが俺は諦めなかった。二度、三度、四度、繰り返して岩を打ち続けた。五度目で岩盤に亀裂が走った。さらに殴り続ける。打撃のたびに亀裂は大きく広がっていき、そして、ついにまとまった岩が剥がれ落ちて、壁に穴が開いた。

 その向こう側に覗いたのは、極細の糸で幾何学的に織りなされた蜘蛛の巣だった。

 これが奴の巣に違いない。

 ほんの一瞬、俺はためらった。虹色に輝く精緻な巣があまりにも美しく、壊すのをためらわれたからだ。だが俺は棍棒を突っ込み、繊細な巣をずたずたに引き裂いた。



 佐々木に糸を巻き付けていたアラクネが動きを止めた。

 そしてくるりと向きを変えると、ケージの残骸を蹴散らしながら俺めがけてまっしぐらに迫ってきた。


「おのれぇえええ、何という事をしてくれたのだこの虫けらがぁ」

 アラクネは激怒していた。巨大な顔を怒りの形相に歪めている。


 だがその時、アラクネが炎に包まれた。

 アラクネは甲高い声をあげて絶叫した。炎は瞬く間に全身に燃え広がっていった。


「……虫けらはお前だよ。ありがとよ、渡辺。おかげで魔法の封印が解けたぜ」

 倉本が言った。火炎魔術を放った後、今度は自分の胸元に手を当てて毒針に蝕まれた肺を治癒しはじめた。その後ろでは、佐々木が起き上がり、幾重にも巻きつけられた糸を破っていた。シャモスも意識を取り戻していた。


 蜘蛛は巨大な八本の肢をめちゃくちゃに振り回し、部屋中をのたうち回った。その激しい動きで部屋の破壊がさらに進んだ。俺が壁に開けた破れ目はさらに広がり、偽の壁や天井が崩れ落ちはじめた。そして、足元の床さえもが大きくたわみ始めた。

 どうやらこの偽のガエビリスの部屋は空中に作られてたらしい。



 身の危険を感じた俺が倉本たちのいる方へ走りはじめた時、部屋の床が抜けた。

 大量のケージの残骸や偽の岩盤の破片が、床に開いた大穴に吸い込まれるようにして消えた。急速に拡大する穴は炎を上げるアラクネをも飲み込んだ。そしてまず倉本が、続けて俺が落ちた。


 俺は闇の中を落下していった。

 アラクネの体で燃える炎に照らされて、下方の様子が見えた。そこは両側から岩が迫る狭い地下峡谷だった。偽の部屋はその峡谷の間に張り渡された蜘蛛の巣の上に作られていたようだ。そこから落下した大量の瓦礫とともに落ちていく。

 少し離れた空中を倉本が落ちていた。なぜすぐに浮揚魔術で落下を止めないのか怪訝に思っていたが、よく見ると目を閉じているではないか。そして頭からは血が流れていた。落下の途中で頭に瓦礫か何かがぶつかり、意識を失ったに違いない。


 蜘蛛は落下を止めるため、尻の先からでたらめに糸を飛ばした。だが共に落下する瓦礫が邪魔をして両側の崖にくっつかなかった。


 落下はいつまでも続くかに思えた。だが、終わりの瞬間は唐突に訪れた。


「くそぉおおおお、お前らなんかにぃぃ、くやしいいいい」

 アラクネは金切り声で叫んだ。

 その直後、蜘蛛は峡谷の底から突き出た尖った岩の先端に激突し、派手に体液をぶちまけて粉々に砕け散った。

 その数秒後、俺も峡谷の底に到達した。だがそこは冷たい水が流れる地下の川だった。たっぷり数メートルは水中に沈み込んだ後、俺は慌てて水面に浮かび上がり、空気を貪った。暗黒の中を滔々と流れる水の流れに、俺はどことも知れぬ闇の奥へと押し流されていった。

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