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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅱ部
54/117

第54話 異形の街

 ぬちゃり……

 向こう側へ一歩踏み込んだ時、靴の裏側が湿った音を立てた。

 

「何だ、これは……」俺は足元を見下ろして絶句した。

 青白く光る粘着物が坑道の床を覆っていた。

 床だけではない、壁や天井にまで、有機質の粘着物がへばりついているではないか。

 それはまるで、下水道に繁殖したスライムのようだった。

 倉本は間違えて、下水道への入り口を開いてしまったのか、一瞬そう思った。だが水は流れていないし、粘着物もよく見るとスライムとは違う。壁に顔を近づけて詳しく観察すると、粘着物自体は透明で、その中を青白く光る小さな生き物が無数にうごめいていた。粘液が光って見えたのはそれのせいだった。


「うう、気持ち悪い。何ですかこれ……」シャモスが心底不快そうな声で言った。

 彼女の姿は一面の青白い燐光を背景に、黒いシルエットとなって浮かび上がっていた。


「たぶん、発光幼虫だ。地下の街ではこれを光源にしてたんだ。でも、以前はこんなにトンネル中に大発生していることなんてなかった。一体何があったんだろう」俺は言った。


「例のギレビ何とかって野郎はきっと模様替えをしたかったんだろう。お世辞にも趣味が良いとは言えないな」

 佐々木が言った。

「何かの罠の可能性もあるな……、とにかく、ここから先は敵の領域だ。気をつけて進んで行こう」

 倉本の言葉とともに、一行は前進を再開した。



 しばらく進むと、トンネルの床にひときわ強く発光している塊があった。

 近づいてみると、それは人間の死体だった。その全身におびただしい数の発光幼虫がびっしりとたかっていたため光って見えたのだ。

 服装から判断して、地下の街の住人だろう。死後かなりの時間が経過していると見え、死体の損傷は激しかった。顔面はすっかり白骨化し、空っぽになった眼窩や歯の間を幼虫が出入りしていた。それ以上見るのは耐えられなかった。俺は吐き気を覚え、慌てて死体から目を背けた。

 

 しかし、そんな俺の横で、倉本は気にする風もなく、しゃがみ込んで死体の状態をつぶさに調べている。

「損傷が激しいが、死んでからまだそれほど時間が経ってないな」


「そうだな。顔はすっかり白骨化してるけど、手の皮膚を見てみろよ。さほど腐敗が進んでない」

 佐々木がつぶやくように言った。いつものおどけた調子はなりを潜め、真剣な口調になっている。


「ああ、せいぜい死後ニ、三日といったところだろうな」

 倉本が同意した。そんな馬鹿な。ほんの短時間だけど俺が見た印象では、すっかり腐乱しているように見えたのだが。体の一部とはいえ、ここまで白骨化するものだろうか。


 佐々木と倉本の二人は小声でつぶやきながら死体の観察を続けた。

「それにしても、この顔面……発光幼虫に食われただけでは説明がつかないな。……ちょっと待て」「どうした?」「この部分、まるでヤスリで削り取ったみたいに見えないか」「ああ、そう言われれば確かに……頭蓋骨に平行に走る細かい傷が沢山ついてる」「どう見ても幼虫の食い跡ではないな。だとするとコボルトか?」「いや、それも違うだろう。歯形が残ってない」「確かに……」「内臓もきれいになくなってるけど、むき出しの肋骨にも同じような傷がついてる」「本当だ……まるで骨までしゃぶったみたいだ」



 ようやく二人が立ち上がる気配を感じて、俺は振り返って話しかけた。

「何かわかったか?」

「ああ、彼はおそらく顔面と内臓を削り取られて殺された」倉本が言った。

「たぶん何らかのモンスターの仕業だろうが、俺は犠牲者にこんな傷を残すモンスターは知らん。何だかわからんが、ここにひどく凶暴な怪物がいることは間違いないな」佐々木が言った。



 その時、シャモスが言った。

「あの、今、何か聞こえませんでした?」

 二人が検視を進める間、彼女も俺と同じく死体から目を背けて一方うしろに離れて立っていた。


「何が聞こえたんだ」佐々木が声を押し殺して訊いた。

「何かがずるずる滑ってるような音が……ほら」


 うじゅ……ぐじゅる……

 たしかに聞こえた。鼻水をすするような、唾を飲み込むような、そんなひそやかな音がトンネルの奥から漂ってきた。はじめはかすかだったその湿った音はしだいに大きく、はっきりと聞き取れるようになっていった。間違いない。床を覆う粘着物の上を身をくねらせて滑りながら、何者か、いや、何かがこちらに向かってどんどん接近してくる。


「やれやれ、さっそく怪物のお出ましか」

 佐々木はそう言って、音のする方を見てにやりと笑みを浮かべた。

「来るぞ、みんな準備はいいか!」

 倉本は左右の鞘から二本の短剣を抜きながら言った。


「はい!」シャモスは真鍮のロッドを構えた。


 俺は慌てて棍棒を両手持ちで握った。これは出発前に倉本から渡されたものだ。何でも魔法の力が込められているものらしい。それは奇妙にも俺の手にしっくりとなじんだ。それは下水道清掃作業でいつも使っていたスコップと長さといい手にした感触といい、そっくり同じだった。これなら俺にも扱えそうだ。


「渡辺、気合入れろよ!」倉本が言った。

「わかってる!」



 しかし、もうすぐ何かが姿を現すかと思われた寸前で、音はぴたりと止んだ。

 俺は固唾を飲んでトンネル前方の闇の中を凝視した。何も見えない。

 額を汗が流れ落ちていく。


 どうした、なぜ来ない。ひょっとして逃げたのか。

 そう思った時だった。俺の目が動きをとらえた。

 遠くのぼんやりした燐光を背に、何者かがよたよたと歩いてくる。やがて、そいつは姿かたちがはっきりと見分けられるほど近くにまでやってきた。


 それは俺の知り合いだった。

 地下の街の菌農園で一緒に働いたこともあるゴゼティという太った男だった。俺は緊張を解いた。


「よう、ワタナベじゃないか。(にさ)しぶりだなあ」

 彼は以前と同じく、ぬめぬめとした独特の口調で言った。

「ああ、よかった。あなたは無事でしたか」

「このとおり、ボクは元気にやってるよ。ところで一緒にいる(にと)たちは誰だい」

「俺の知り合いです。こちらが……」


「渡辺、そいつから離れろ!」佐々木が叫んだ。

「そいつの足を見ろ。そいつは人間じゃないぞ!」倉本が言った。


 俺は見慣れたゴゼティの顔から視線を下に降ろしていった。汚れたシャツ、その下から突き出した青白い太鼓腹。そしてよれよれのズボン。靴は履いておらず、むき出しの足は……足の指がなく床に張り付いていた。まるで二匹のなめくじのように。



「あは、ばれちゃったかあぁあぁ……」

 その言葉とともに、ゴゼティはどろりと溶けるように変形し始めた。人間らしい顔の作りは消えてなくなり、目のあったところから二本の角のような眼柄がするすると伸びていく。服が脱げ、粘液に覆われた、ぶよぶよと肥大化した薄茶色の肉体がむき出しになった。それはおおまかに人の形をした、なめくじの怪物だった。


 ほんの少し前までゴゼティだったそいつは、口に相当する部分をもごもごと動かした。

 その奥に、まるでおろし金のように鋭い歯が何列も並んでいるのがちらりと見えた。歯舌。カタツムリやナメクジなどの貝類は口の奥にあるそのやすりのような器官を使って、植物などの表面を削り取るようにして食べる。あの死体の顔面から肉を削り取ったのも、ゴゼティの巨大な歯舌に違いない。俺は吐き気を覚えた。


 次の瞬間、なめくじ人間は体をにゅうっと長く引き伸ばして俺たちに襲いかかってきた。

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