第18話 都市の地下
地下生活者の街に来ておそらく数週間、あるいは数か月が過ぎた。
太陽の光の届かないここで時間の経過を正確に知るのは困難だったし、そもそも無意味だった。ここで時間に追われて動いている者など誰もいない。皆、自分の体内に備わった概日リズムに基づき、寝たい時に眠り、食いたい時に食っていた。
俺がいるのは肩幅ほどの狭い入口を通してしか出入りできない、幅2メートルほどの隙間だった。
ここが現在の俺の家だった。
小さい頃、団地暮らしをしていた俺にとって、押し入れの中が自分の部屋だった。好きな特撮やアニメのポスターを壁や天井にべたべた張り、玩具や漫画、それにお菓子を持ち込んで、懐中電灯の明かりを頼りにそこでひとり遊んでいた。昔から狭くて暗い場所が好きだったのだ。
そのときと同じように、俺はこの隙間の中にいろいろな物を持ち込んでいた。コップ、鍋、衣類、毛布、空き瓶、ナイフとフォーク、はさみ、ヌード写真……。誰にも邪魔されない俺だけの空間だ。下水道清掃作業員をしていた頃に住んでいたあの部屋など比べものにならないほど快適だった。
空腹を覚えた俺は、毛布の下からカビの生えたオレンジを取り出すと、皮をむいてかじりついた。隙間の中は柑橘系のさわやかな芳香で満たされた。このオレンジは地上で残飯あさりをしている地下生活者から物々交換で手に入れた物だった。ここに来て最初の頃は痛みかけた残飯を口にすることに強い抵抗を感じたものの、結局飢えには勝てなかった。一度口にしてからは嫌悪感はなくなったし、不思議と腹を壊すこともなかった。
その時、俺は誰かがここに近づいてくるのに気づいた。
この薄暗い地下街に来てから、視覚以外の感覚は鋭敏さを増しているようだった。振動、臭い、空気の流れから、人の気配や動きが手に取る様に察知できるようになっていた。
この歩き方、匂い。間違いない、彼女だ。
ほどなく、隙間の入り口の外から声がした。
「ワタナベさん、いる?」やはり彼女の声だった。
リビナ・ガエビリス。
はじめてこの地下の街に来た時、俺の前に現れたあの女だ。
俺は手を伸ばして入り口に垂れ下がる布をどけた。外からガエビリスが覗きこんでいた。ぼさぼさに乱れた黒髪に縁どられた青白い顔。深緑の暗い瞳がじっと見つめてくる。
「こんにちはワタナベさん。あら、お邪魔だったかしら?」
「いや、大丈夫。ちょっと食事をしてただけで」
ガエビリスは鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。
「オレンジのいい香り。私にも一口いただけるかしら」
「ああ、いいけど。どうぞ」
俺は入り口から手を伸ばした彼女に食べさしのオレンジを手渡した。
彼女は何のためらいもなく俺の齧ったオレンジに歯を立てた。あふれ出た果汁があごを伝い、薄手のブラウスの胸元を濡らした。
「ふぅ、おいしかった。ありがとう」そう言って一口齧ったオレンジを俺に返した。
初めて出会ったあの日以来、ガエビリスは俺のところに度々やってきた。
ここでの生活の仕方を教えてくれたり、住む場所を見つけるのを手伝ってくれたり、何かと俺の世話を焼いてくれた。ただその来訪は毎回気まぐれで、頻繁にやってくることもあれば、かなり長期間姿を見せないこともあった。
「……ところで、今日は何の御用で」
「今日はね、あなたを案内したい場所があって来たの。一緒に来ていただけるかしら?」
特に断る理由はなかったので、俺は了承した。
俺は亀裂を抜け出し、ガエビリスと二人で地下通路を歩いた。
このあたりは人口密度が低く、通路に人影はなかった。壁には間隔を置いて青白く弱い光を放つランプが灯されていた。このランプの光源は発光する虫だった。ランプの底の受け皿には薄く水が張られていて、その中で青白い光を発する幼虫が無数にうごめいているのだ。
通路の壁の所々には深い亀裂が開いているが、その中は地下生活者たちの住居となっていた。いくつかの亀裂からは大量のゴミやがらくたが通路にまで溢れ出している。
薄暗い通路を、何者かがこちらに向かってきた。老人のように腰を曲げ、両腕をだらりと垂らしてよろよろと進んでくる。その不気味な人影とすれ違った時、ランプの光がその姿を照らし出した。
それは人間ではなかった。
コボルトと呼ばれる、犬のような顔をした怪物だった。牙をむき出した口からだらりと長い舌を垂らし、濡れた鼻面をひくつかせている。いちおう人間を真似するようにしてボロ布をまとってはいるが、その隙間から覗く体は毛皮に覆われていた。そいつの通り過ぎた後には、濡れた犬そっくりの不快な悪臭がいつまでも残った。
数年前、この都市に辿り着くまでの間、俺は仲間たちと一緒にいろいろな地域を旅してきた。その旅の途中で何度かコボルトに襲撃された事があった。大して強い怪物ではなかったようで、一緒に旅していた秋本たちに毎回あっさりと撃退されていた。だが魔法を使えず戦闘ができない俺にとっては恐ろしい敵だった。
地下の街ではじめてこいつを見た時は驚いたものだ。
あの時、逃げようとする俺にガエビリスは言った。
「怖がらなくてもいいのよ。彼らは私たちの仲間だから。あなたを襲うことはないわ」
彼女によると、コボルトはこの地下で人間と共生関係にあるということだった。コボルトはこの地下の街を外敵の侵入から守る番人の役割を果たしていた。その見返りに、奴らはここの住人から死人が出るとその死肉の提供を受けていた。
この地下で暮らしている者たちは、全員ローチマンの分泌物で匂いづけがされている。俺もここに来る直前、ローチマンにそれを塗り付けられた。その匂いの有無を頼りにコボルトは敵味方を区別しているということだった。今では襲われる心配がないとわかっているが、その姿には嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
ガエビリスと俺は延々と続く地下通路を歩き続けた。
この都市の地下にこんな迷路のような洞窟網が広がっていたとは驚きだ。よく観察すると、鍾乳洞のように自然に岩盤が侵食されたのではなく、所々に人の手で岩を削った痕跡が残されていた。俺はガエビリスに聞いてみた。
「この通路は、坑道の跡か何かなのか?」
「あら、知らなかったの?ここでは古代から石材が採掘されてきたのよ。そもそもこの都市は鉱山町として始まったの。ここの石材は良質だから高値で売れて、世界各地の神殿や城を作るのに使われた。そのおかげで町は繁栄し、やがて採石以外にもいろんな事業が広く行われるようになり、今日のような大都市へと成長していきましたとさ。今では石材を掘り尽してしまったようだけど、その結果、この迷路のような地下通路が残されたってわけ」
「ふぅん、そうだったのか」
いまや通路には人の気配がまったくなくなっていた。岩盤を掘りぬいたトンネルが闇の中を曲がりくねりながらどこまでも続いている。
「…いったいどこまで行くんだ?」俺はつい気になって聞いてみた。
「もうすぐ着くわ」振り向きもせずガエビリスは言った。
そして、それからさらに10分ほど歩いた後。
「着いたわ。ここよ」ガエビリスが立ち止まって言った。
通路の壁に開いた入り口をくぐると、そこは円形の部屋だった。部屋中に箱のような物が整然と積み上がっているのがぼんやりと見える。それらを器用に避けながらガエビリスは部屋の中央に歩み入ると、机の上に置かれたランプの光を灯した。発光幼虫の青白い光に浮かび上がった光景に俺はだじろいた。
箱のように見えた物は無数の水槽やケージだった。
その中には様々な生き物が収められていた。どれも普通の生き物ではない。小さいながら、いずれも魔物やモンスターの類だ。ざっと見たところスライムが数種類、巨大なヒルやなめくじ、もつれた触手の塊、ケージの隅で爛々と眼を光らせる小鬼、小さな猿ほどもある蜘蛛……。
「何だここは……」
「私の部屋よ。どうぞくつろいで」
「って言うか、このモンスターたちは何なんだよ。ペット?」
「たしかにみんな大切に可愛がってはいるけど、ちょっと違うわね」
ガエビリスはケージのひとつに歩み寄ると、入り口を開けて中から大きな蜘蛛を取り出した。蜘蛛は脚を広げるとガエビリスの腕を這い上がり、肩の上にとまった。八つの大きな目がきらきらと光っている。ガエビリスはその頭部を優しくなでた。
骨蜘蛛だ。下水道にも住み着いている凶暴なモンスターだ。こいつの糸は強靭でおまけに粘着性が強いので、丸々太ったドブネズミでさえ捕まえられる。巣には餌食となった鼠の骨がたくさんぶら下がっていることから骨蜘蛛の名で呼ばれている。もちろん、人間だって無事では済まない。猛毒の牙で咬まれると死に至る危険がある。
「おい、危ないだろ、何やってんだよ。咬まれるぞ」
「大丈夫よ」
ガエビリスは机の上から何かを取ると小さく千切り、蜘蛛の口へと運んだ。蜘蛛は口元の触肢をもぞもぞと動かしながらそれを噛み砕いた。食べ終えると蜘蛛は満足したのか、足を小さく縮めガエビリスの肩の上にうずくまった。
「……この子たちはガザリの岩窟から救出されたの」
「ガザリの岩窟って何だ」
「この都市から百キロ東にあった大規模なダンジョンよ。岩窟内には独自の進化を遂げた生き物たちの固有の生態系があったわ。でも、数年前、岩窟は冒険者に攻略された。岩窟の固有種たちは有害なモンスターと見なされほとんどが駆除され、絶滅したわ。この骨蜘蛛もそこの固有種のひとつだった」
「だけど、骨蜘蛛はこの町にもいるぞ。俺も下水道の清掃作業で見たことがある」
「そう。私たちの仲間が岩窟から救出して、町の地下に移住させたの」
「何だって!何でそんな事を。危ないだろ、人を襲うんだぞこの怪物は」
「地下道や下水道が張り巡らされ、餌も豊富な都市の地下は彼らの移住先として最適だった。たしかに地上の人間から見れば危険な生物かもしれない。でも彼らにも生きる権利はあるわ。そう思わない?」
ガエビリスは深緑の瞳をこちらに向けている。
危険なモンスターに生きる権利はあるのだろうか。俺はそうは思わなかった。そんな有害な怪物なんていない方がいいに決まっている。
「……うーん、そうなのかなぁ」
そんな俺の様子を見て、彼女は少し失望したようだった。
「まだ早かったかしら。でも、あなたもいずれわかってくれるわ、きっと」
「…………」
「ひょっとして、他のモンスターも、全部どこかのダンジョンから?」
「そう。世界各地のダンジョンは次々に攻略され、略奪されている。まさに危機的状況よ。私たちは滅びゆくダンジョンの生命を護るために活動しているの」
私たち。一体、彼女は何者なのだ。他にも仲間がいるのか。
やっている事から判断すると、一種の自然保護活動家、それに社会的弱者を救済する慈善事業家みたいなものなのか。そういう集団がこの地下の街を作り、都市の地下に魔物を放っているのか。
俺は改めて、ずらりと並んだケージや水槽をつぶさに見ていった。いずれも醜悪で、見るからに危険な怪物たちだ……。
俺の目はひときわ大きな水槽に釘付けになった。濁った泥水で満たされたその水槽には、巨大な両生類のようなものが沈んでいた。イボに覆われたそのぶよぶよした胴体、短い脚、それにイソギンチャクのように伸びる無数の細長い首。こいつには嫌というほど見覚えがあった。
「水龍……」
俺が下水道で遭遇し、軽率な行いから暴走させてしまったあの怪物の同種だった。
「水龍も、あんたがこの町の下水に放ったのか?」思わず声がうわずった。
「そう。でも、あれほどの凶暴さを見せたのは想定外だったわ。本来なら彼らは泥の中に潜って通りかかる魚や小動物を長い首を伸ばして捕えるだけの臆病な動物だったの。この都市の地下の環境に適応し、進化したとしか考えられない。素晴らしいわ」
「素晴らしい?何言ってるんだ!この怪物のせいで何人も死んでるんだぞ。それに俺だってこんな目にあって。まったく、何てことをしてくれたんだ!」
俺は思わず大声で叫んでいた。




