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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅳ部
114/117

第114話 魔王新生

 変異型スライム群体。

 魔王ユスフルギュスに由来する細胞内共生体を宿し、人間を含むあらゆる生物の組織や排泄物からその記憶や能力を吸収する能力を有する、巨大で恐るべき存在。これこそが次なる魔王に違いない。人々は皆そう考えていた。


 しかし、そうではなかったのだ。

 変異型スライム群体はユスフルギュスと新たなる魔王の間をつなぐ中間生成物に過ぎなかった。前魔王ユスフルギュスの遺産を継承しつつ、この都市全体から素材をかき集め、それを目の前に浮かぶこの「新たなる魔王」の胎児に注ぎ込んできた、いわば胎盤のような存在だったのだ。


 倉本や紗英さんの活躍のおかげで、変異型スライム群体は活動を停止した。しかし、それ以前にスライムはすでにこの魔王の胎児をある程度まで造り上げていたのだろう。少なくとも、スライムの補助がなくても自らの生命力だけで発生を継続できるほどの段階には達していたに違いない。

 変異型スライムが普通のスライムに戻った後も、この魔王の胎児はこの闇の底で人知れず成長を続けてきたのだ。こいつの中には、都市の人間たちの最も醜く邪悪な部分が凝縮されている。ひと目その姿を見た瞬間に、それが感じられた。



 俺の体はゆっくりと、魔王の胎児の真下に向かって漂っていった。

 角度が変わったため、赤い光の源が判明した。魔王の胸腔で脈動するむき出しの心臓。それが燠火のように赤い光を周囲に滲ませていた。

 その時、髑髏のような巨大な頭部がゆっくりと動いた。その目は空っぽの眼窩ではなく、昆虫のような複眼だった。巨大な複眼は明らかに俺の動きを追っていた。まさか、俺の存在に気付いているのか。

 救いを求めるかのように、俺は無意識に聖剣に手を伸ばした……。

 

 次の瞬間、俺の背筋を極太の氷の柱が貫いた。

 ない。

 これまでずっと肌身離さず身につけていた神授の聖剣、それがなくなっていた。きっと、下水に流されている間に紛失してしまったのだ。勇者の証であり、俺の唯一の武器である聖剣。あろうことか俺は魔王を前にしてそれを失ってしまっていたのだ。俺はなんてことをしてしまったのだ。あまりの事態に、全身が激しく震えだした。

 俺は息を殺し、水の流れに漂うゴミを装った。

 このまま見つかりませんように。俺は心の底から神に祈った。


 だが、祈りは聞き届けられなかった。

 無数の糸や触手でがんじがらめになり、天井から釣り下がっていた魔王がゆっくりと動き始めた。全身に生えた無数の付属肢をざわめかせ、体を繋ぎ止める脈管をぶちぶちと音を立てて引きちぎっていく。切れた管の断面からは体液が滴り、高圧の蒸気がもうもうと噴出した。まるで脱皮する昆虫のように、魔王の胎児は逆さ吊りの体勢から脱し、全身から粘液の糸を引きながら、下水道の水面にゆっくりと降り立った。その禍々しい影からは吐き気を催すほどの殺気が放たれていた。



 早く逃げなければ。どこかに隠れなければ。

 俺は本能的な恐怖に促されるまま、必死に逃げ場を探した。

 周囲を見回すと、赤黒い光のもとで、かろうじて壁面に黒い穴が開いているのが見えた。接続している枝管の出口だろうか。何とかあの穴の中に潜り込めないか。俺は脚の怪我の激痛を堪えながら、水面に漂うゴミの間を両生類のように無様に這って逃げた。折れた足がゴミに引っかかるたび、意識が飛びそうになる。恐怖と痛みに失禁、脱糞してしまったが、それどころではなかった。


 穴にたどり着いた。頭は入った。両腕を体に密着させ、体を芋虫のように動かして奥に潜り込む。何とか全身を隠すことができた。だがまだ安心はできない。あいつは巨体だが、触手か舌を長く伸ばして穴の中に潜む俺を捕まえようとするかもしれない。いや、きっとそうするに違いない。体をくねらせ、どんどん狭くなっていく配管の中を、可能な限りひたすら奥へと進んだ。


 ようやく俺は動きを止めた。

 配管の奥には魔王の赤い光も入ってこない。目を開けているのか閉じているのかもわからない。真の闇だ。何の物音も聞こえない。ぬるぬるとした生暖かい汚泥に覆われた配管の中は、まるで母の胎内のようだった。このままここでじっとしていたい。ずっと、永遠に。魔王のことも、折れた足のことも、なくした聖剣のことも、何もかも忘れて……。


 そうだ、聖剣はなくしたのではない。自らの意志で俺の元を去ったのだ。

 俺は聖剣に選ばれて勇者になった。だから、聖剣が俺を見放したのなら、俺はもう勇者ではない。命を賭して魔王と戦う義務もない。俺はただの一般人に戻ったということだ。きっと、誰か他の人間の手に渡るのだろう。そいつが今度はバトンを受け継ぎ、新しい勇者となって、この新たな魔王と戦う。俺の役目はもう終わった。俺はただ、ここで小さく縮んで隠れていればいいんだ。


 小さく縮んで、隠れて……そして、結局死ぬのだ。足の大怪我でほとんど動けないし、配管の出口には魔王がいる。この暗い穴の底が俺の終着点なのだ。



 感覚を遮断された闇の中でじっとしていると、これまでの一連の出来事が脳裏をよぎった。

 ヒュドラ暴走事件にはじまり、ガエビリスとの出会い。ローチマンへの変身。ハルビアの拷問。そして邪悪な兄に捕らわれたガエビリスを救うための冒険。都市の外への逃避行。戦士ゲイルとの戦い。そして勇者になり、仲間たちとともに地底で巨大なワームの卵を破壊した。

 下水道清掃員で一生終わりかと諦めてたけど、いろいろあったな。信じられないことに、いちおう勇者にも選ばれた。

 でも、結局、行き着いたのはこの暗い穴の中だ。俺はその程度の男だったのだ。


 ……本当に、それでいいのか?諦めるのが早すぎないか。せっかく勇者になったんだぞ。


 だって俺は戦えない。聖剣もないし、歩くことさえできない。どうしようもないじゃないか。聖剣に選ばれたのも、きっと何かの間違いだったんだ。


 ……自棄になるなよ。冷静に、ひとつずつ順序立てて考えてみろ。まず、足の怪我が治れば、歩くことができるよな。下水道から脱出し地上に助けを求めることもできるかもしれない。地上には仲間がいる。


 まずそれが無理だ。だいたい、どうやって治すんだよ。俺には治癒魔術どころか、魔術そのものが使えないんだ。だから仲間から落ちこぼれ、冒険者にもなれず、下水道清掃員にまで落ちぶれたんだ。魔術が使えない以上、根本的に、俺はどうしようもないんだ。


 ……落ち着け。魔術が使えない、本当にそうなのか?


 そうだ。いくら試しても無理だったんだ。いくつも呪文を暗記し、教えられた方法どおりにやってみた。いろんな流派を試した。けど、全部駄目だった。何年間も必死に努力したんだ。俺には魔術が使えない。そういう障害なのかな。とにかく、簡単に魔術を使える、他の奴らとは違うんだ。


 ……魔術の習得は暗記物じゃないし、借り物の習得法では上手くいかない。自分自身で感覚を掴むしかないんだ。ちょうど、この暗闇は好都合だ。五感からのノイズを遮断してくれる。心を落ち着けて、周囲の世界をただ感じ取るんだ。時間はたくさんある。さあ、恐れずにやってみろ。


 そうだな。どのみち失敗しても失うものなんてないし。最後に一度だけ試してみるか。

 俺は深呼吸して心を落ち着けると、感覚を解き放った。

 だめだ、やはり何も感じない。普通の人はここで絡み合うエネルギーの流れや、流転する渦のイメージを抱くらしいのだがやっぱり俺には


 ……雑念は捨てろ。ただ心を澄ませ、自分を無にするんだ。お前は無だ。


 俺は無だ。人の形をした空洞だ。

 俺には何もない。こうして見ると、なんて虚ろなんだろう。


 その時、空洞を何か、かすかなものが通り抜けていった。水だ。澄んだ小川が流れ、少し先で大きな川に合流していた。川はその先ではさらに大河へと流れ込み、その彼方には大きな水平線が広がっていた。きらきらと水面が輝いている。美しかった。分岐と合流を繰り返すこの川と海こそが実在で、自分などまさに空洞に等しいということが理解できた。そもそも、人間とはそういうものなのだ。


 俺という空洞の中に、もっとこの美しい流れを導きたい。だが、俺が手を伸ばそうとした瞬間、美しい流れは薄れて消えてしまいそうになった。

 無理矢理つかみ取るのではない。水路を開き、呼び込むのだ。

 俺は固く閉じていた心の水門を開いた。そこに勢いよく流れ込んだ水は俺という水路の底に溜まっていた醜い泥や塵を一気に押し流し、そして勢いよく外へとほとばしった。汚れと詰まりを洗い流した後、水は俺の中を淀みなく蕩々と流れ続けた。

 まさか、この水の流れが魔力の流れなのか。これが魔術の源なのか。


 そうだ。これこそが世界に満ち溢れる魔力のエネルギーの流れなのだ。魔術は自分の魔力で放つのではない。世界を循環するエネルギーを誘導し、それに方向性を持たせて放つ技術だ。これまでは俺の肥大化した自我がエネルギーの流入を妨げ、魔術の発動を妨害していたのだ。


 コツはつかんだ。あとはこれに呪文を載せて放つだけだった。

 そう、呪文だけはとにかく暗記していた。火炎魔術に氷結魔術。生成魔術に分解魔術。もちろん治癒魔術も。これだけ覚えれば、どれか一つは使えるのではないかと淡い期待を抱きながら必至に頭に詰め込んだ呪文の数々。ついに今、それが役立つ時が訪れようとしていた。


 俺は魔力の流れを呼び込み、静かに治癒魔術を唱えた……。


 治ったのだろうか。

 足を動かしてみる。痛みはない。恐る恐る手を伸ばし、患部に触れてみた。ズボンを突き破って飛び出ている大腿骨の断片など影も形もない。ただ、ズボンに破れ目が残っているだけだった。

 信じられない。成功だ。俺はついに魔術を使えたのだ。


 ……やったな、渡辺。お前ならできると信じていたよ。


 ありがとう。

 そういえば、俺はさっきから自分自身を相手に自問自答を続けているとばかり思っていたが、どうも違和感があった。俺の思考にしてはいやに前向きで冷静で、改めて考えると自分自身とは思えなかった。それでいて、この口調にはなぜか聞き覚えがあるような気がした。まさか、あの思考は、もしかして……。お前、秋本なのか?


 ……その通りだ。久しぶりだな。先輩勇者として、お前にひとこと言いに戻ってきたのさ。


 お前、死んだのか。魂だけがあの世から戻ってきたってことか?


 ……まあ、実際は少し違うが概ねあってる。実は他にも用事があってな。俺はもう行く。後はお前次第だ。じゃあな、頑張れよ、勇者ワタナベ。今はまだお前の番なのだからな。



 魔術が使えるのなら、すべてが変わってくる。

 俺の心に一筋の希望が芽生えた。

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