第110話 休息
魔王が活動を停止しているらしい。
地上に戻る途中の下水道で俺たちはそのことに気付いた。壁面にへばりついたスライムの動きに統一感がなくなり、常に周囲から監視されているような緊張感が急激に薄れはじめたからだ。手で触れると、スライムは容易に壁から剥がれ落ち、弱々しくうごめくだけだった。
「きっと、セクター2に向かった第二班だ。彼らはついに成し遂げたのだ」ハルビアが言った。
「すごい。流石はササキさんだ」いつも仏頂面のシャモスも珍しく顔を輝かせている。
浮かれる皆の中で、俺は自分が魔王を倒す決定的な役割を果たせなかったことに複雑な感情を抱いていた。セクター1は外れだった。結局、俺がやったことと言えば、巨大なミミズの卵をひとつ潰しただけじゃないか。何が勇者だ。
「石碑」に帰還した俺たちは倉本にセクター1での作戦結果を報告し、続けてセクター2での戦闘の顛末を聞いた。双方の話を総合すると、まだはっきりした事はわからないが、おそらく紗英さんが魔王を倒すのに決定的な役割を果たしたという事で間違いなさそうだった。きっと、本当の勇者は彼女だったのだ。彼女はすでに市内の病院に移送されていたが、まだ意識不明の状態だった。
そして、魔王が活動を停止しているこの機会を逃すまいと、野村市長は特別指令を発令し、全市でのスライム一斉駆除活動を開始させていた。この都市の全事業者が駆り出され、それでも足りない人手を補うため、軍や有志の市民たちまでが作業に協力していた。
だが、魔王や都市の地下の異変など何も知らない大多数の市民たちは、寝耳に水の特別指令に怪訝な表情を浮かべ、市長の正気を疑った。そして駆除作業にともなう通行止めや、回収された大量のスライムを運搬する輸送車がまき散らす悪臭に抗議の声を上げていた。
地上に帰還した翌日から、俺はすぐにスライム駆除作業に参加した。
結局、俺の本業はこっちなのだ。勇者なんて柄じゃない。神授の聖剣よりも、スコップを握っているほうが性に合ってる。親方から譲り受けたスコップを手に、下水管にへばりついたスライムどもをガリガリと削り落とし、袋詰めにしていった。
いつ魔王が活動を再開するか、確かな事は誰にもわからなかった。完全に滅んだと言う者もいれば、いつ復活してもおかしくないという意見もあった。だが、下水道で作業している間に、目の前の無害なスライムが以前のように怪物や魔王の使徒に変身して襲いかかってくる気配はまったくなかった。
スライムの量は膨大で、連日の昼夜を徹した駆除作業にも終わりが見えなかった。
熱風や火炎などの魔術で、下水道のスライムを一挙に殲滅する案もあったが、排水管を通って思わぬ所で炎が吹き出し、大規模な火災を招く危険が高すぎるということで却下された。
特別手当に釣られ、作業員達は毎日必死に働いたが、終わりなきスライムとの戦いに疲れ果てていった。親方への誓いを果たすため、毎日遅くまで下水道に潜っていた働いていた俺にもついに限界が訪れた。ある朝、俺はベッドから起き上がれなくなった。
「もう、無理しすぎよ」ガエビリスが強ばった俺の筋肉に手を触れて言った。
地上に帰還後、彼女は俺と同じ部屋で寝起きしていた。本人は地下の街に戻りたがっていたが、地下坑道跡はまだ大量のスライムに埋め尽くされていて、居住できる状態ではなかった。光を嫌う彼女のため、昼間からカーテンを閉ざし部屋を暗くしていた。ガエビリスは昼間はこの部屋の中にじっと閉じこもり、買い物などで外出するのは夜に限られていた。
それに対し、ここ最近の俺は朝から日が暮れるまでスライム駆除作業に従事し、帰宅すると疲れのあまりそのままベッドに倒れ込むようにして眠りに落ちていた。いつの間にか、俺とガエビリスの生活はすれ違い気味になってしまっていた。これでは良くないと俺は思った。
体に触れた彼女の手の平から、心地よさが波になって伝わってくる。治癒魔術で筋肉に蓄積した疲労物質を分解してくれているのだ。俺は目を閉じ、彼女に身を委ねた。
「……そうだな、今日は仕事休む。一日ぐらい、親方も怒らないよな」
「うん、それがいいよ」ガエビリスは微笑んだ。
「それに、ガエビリスのこと、最近ずっとほったらかしにしてた。寂しい思いをさせてごめん。今日は一緒に遊びに行こうか」
この都市で、昼間にガエビリスを外に連れ出すのははじめての事だった。
「これ、なかなか良いわね」彼女は手にした日傘を見上げて言った。
都市の外への逃避行を経験し、地下の街に住んでいた頃に比べてガエビリスの日光に対する耐性は上がっていたが、それでも光が苦手なことには変わりなかった。だから俺は彼女に日傘と黒眼鏡をプレゼントした。これなら日に当たることなく昼間も外出できる。
以前から、ガエビリスはファッションには無頓着で、いつも同じような黒っぽい服ばかり着ていた。丈の長いワンピースか、長袖ブラウスにロングスカートの組み合わせ。大抵このどちらかだったが、いずれも着古していて、デザインも野暮ったかった。地下の街にいる時や逃避行の間はこれでもよかったが、昼間の都市では目立った。とくに大勢の若者で賑わう大通りでは。
連日の作業で臨時収入もあった事だ。俺は彼女のために奮発することにした。
「何か落ち着かない。足がすうすうする。わたし、変でしょ」
「いや、結構似合ってると思うよ」
「そうかな……」彼女はうつむいて、自分の服装を見下ろした。
最近のこの都市の若い女性に流行の服装一式だった。膝丈のスカートにノースリーブのブラウス。長手袋と長靴下を着けているので、肌の露出は最小限だ。もつれていた黒いくせ毛も、リボンでまとめて束ねてもらった。彼女は見違えるように可愛らしくなった。
「やっぱり恥ずかしい。私、帰るわ」
本当に彼女は顔を真っ赤に染めていた。帽子の下からちらりと覗く耳の先までピンク色だ。
「いや、大丈夫だって。すぐ慣れるから。すごく可愛いよ。さあ、行こう」
俺は彼女の手を引いて歩き出した。
俺たちがやってきたのは市民公園だった。
灰色の建築物がごちゃごちゃと建ち並ぶ都市の中で、緑に覆われたここはオアシスのような空間だった。この日は薄曇りだったが、それでも散策している人や、鳩に餌をやっている老人などがいた。一匹の小柄なガーゴイルが鳩からパン屑を奪い取っていた。
俺たちはベンチに腰掛け、持参したパンとお茶で軽い昼食を取った。
こんなにのんびりするのは、いったいいつ以来なのだろう。ひょっとして、この世界に来てから初めてじゃないのか。その事に気付いて俺は愕然とした。今まで俺はどれほどゆとりがない毎日を送っていたのだ。いつも何かに苛立ち、焦ってばかりいた気がする。
ガエビリスは日傘の影の下で、口いっぱいにパンを頬張り、もぐもぐと咀嚼している。彼女は小柄な割に結構大食いだ。それを微笑ましく眺める。
ひょっとして、これが幸せって奴なのかな。
その時、風向きが変わり、風とともに異臭が漂ってきた。
公園の池の方向からだ。池の水面は濃緑色のぶよぶよした物体で覆われていた。グリーンスライムだ。最近出現したスライムの変種だった。体内に藻類が共生していて、日光をエネルギー源にして都市各地で増殖しているという。倉本から聞いた話では、ギレビアリウスが人工的に開発した種類らしい。下水処理場の戦いで、全身がグリーンスライムで構成された敵を倒した時、微小な嚢胞が拡散し、都市全体に広まった可能性があった。水場を好むが、湿った土地なら地上でも生きていけるらしい。
スライムは単なる下等生物に還り、都市は平和を取り戻したように見える。魔物や使徒の出現もあれ以来絶えてない。だが、大規模な駆除作業にも関わらず地下だけでなく地上にまで大量のスライムが溢れ、そして一見無害に見えるスライムの細胞内には、魔王に由来する共生体がまだ潜んでいるのだ。
まだ魔王は滅んでいない。
ふと、公園の木々の梢の向こうに、高い塔が見えた。
シャンパングラスのような前衛的な設計のそれは、言うまでもなく新市庁舎タワーだった。
ついに完成した新市庁舎の落成式が近日中に行われるらしいと、数日前に倉本から聞いたことを思い出した。それはちょうど今日に当たった。
新市庁舎の落成式に、野村市長から重大発表があるという話だった。今頃あのタワーの中で、何が発表されているのだろう。




