第107話 下水処理場の戦い③
所長の背中が張り裂け、太いホースのような肉の管が何本も飛び出した。管の先は反応槽へと伸びていくと、水面に浮かぶスライムの残骸や、汚泥を吸い上げ始めた。
同時に所長の体が急激に膨張をはじめた。たちまち衣服がちぎれてはじけ飛んだ。所長はとどまることなく成長を続けていく。
やがて、その背の高さは施設の屋根を超え、見上げるような巨人となって倉本たちの頭上高くにそびえ立った。
その姿は異様だった。全身は濃いグリーン。おおむね人間の形をしてはいるが、頭部は乱雑にこね上げた粘土塊のようで目鼻立ちがない。その代わり、全身の至る所に無数の口と眼がランダムについていた。背中にはミミズの群のように大量の肉の管がのたくっていた。
「これが所長の能力、巨神化です。大量の液体を吸い込んで急激に巨大化する。都市全体から大量の汚水が供給される下水処理場には、まさにうってつけの能力です」マレクは言った。
「ふん、何が巨神だ。ようは下水で膨らんだ水風船じゃないか」佐々木は言った。
緑色の巨人が一歩を踏み出した。下水処理場の設備を蹴散らし、地響きを立てながら、たった二歩で四人の頭上に達した巨人は、まるで蟻でも踏み潰すようにかかとを振り下ろした。巨大な足は舗装を粉砕し、地中に数メートルもめり込んだ。巨人は足を引き抜くと、繰り返し足を振り下ろした。あたり一帯にもうもうと粉塵が立ちこめる。
「くそ、水風船とは思えない威力だ」佐々木が言った。
「水と言っても馬鹿にはできんぞ。重さは何千トンもあるだろう。集まってると全員踏み潰される。散開するぞ」倉本は指示を出した。
四人は互いに距離を置き、物陰に隠れながら可能な限り巨人から遠ざかった。そして通信魔術で連絡を取り合いながら反撃の機会をうかがった。
巨人は手当たり次第に周囲を破壊していた。四人を隠れ場所から追い立てようとしているのだろう。
ポンプ室の屋根の影に隠れていた倉本は巨人の頭部に狙いを定め、光の槍を放った。槍は巨人の頭を貫通した。頭部に開いた穴から水がふきだしたが、それもすぐに止まった。次に反対側から雷撃が飛来した。オダリスの攻撃だ。だかこれもダメージを与えるには至らなかった。
しかしそれは想定内だ。あくまでこれらは牽制に過ぎない。敵の注意を引きつけている間に紗英が真の攻撃である「太陽の剣」再発動に向けた準備を整えていた。
やがて、ついに成層圏のレンズの修復が完了し、術発動に必要な魔力が充填された。彼女は太陽の剣の第二射を放った。目もくらむ光輝が巨人を包み込んだ。
だが、光が薄れても、巨人はまだそこに立っていた。表皮は焼けただれていたがそれも急速に修復されていく。それどころか、その大きさは攻撃前よりもさらに増大していた。
「そんな馬鹿な。レンズの精度も、魔力の量も一射目に劣らなかったはずなのに」紗英がうめいた。
「ご説明しましょう」マレクが言った。
「所長の体表を構成しているのはスライムですが、ただのスライムではございません。ご覧の通り、濃い緑色をしていますよね。これは新しく進化したグリーンスライムなのです。グリーンスライムはスライムと藻類の共生体で、最大の特徴は光合成です。これによりスライムは最大の弱点である日光を克服し、逆にエネルギー源として活用することができるようになりました。まさに画期的な進化です。今の所長を太陽光で攻撃するとは、まさに悪手としか言いようがありませんね」施設の説明の時と変わらぬ調子でマレクは言った。
「へえ、そうかい。じゃあ、これならどうだい」佐々木は戦斧を肩に担ぎ、緑の巨人の真っ正面に立った。
「要は風船だ。どでかい穴を開けてやりゃいいわけだろ。簡単な話だ。行くぜ」佐々木は巨大な斧をふり上げ、雄叫びを上げながら真っ向から突っ込んでいった。
「よせ、佐々木、戻れ!」倉本が叫んだ。
その時、巨人が水平に右腕を持ち上げた。そして斜め下方に拳を向けた。次の瞬間、巨人の腕の肘から先がちぎれ飛び、水飛沫を噴射しながら佐々木に向かって一直線に飛翔した。
回避する暇はなかった。水圧で加速させた巨大な拳は佐々木に直撃して弾き飛ばし、そのまま直進して前方の建物を粉砕して跡形もなく破壊した。鉄壁の防御力を誇る佐々木の甲冑といえども無事では済まなかっただろう。
「ロケットパンチだと……そんな馬鹿な」倉本はつぶやいた。
「佐々木くん!」
紗英は救助に駆けつけようとした。だがその時、背後に気配を感じた。振り返ると、そこには一人の男の姿があった。この場所にいるはずのない男の姿が。紗英の動きが止まった。
「そんな、嘘よ……」
「よう、紗英。久しぶりだな。元気にしてたか」
その男、秋本俊也は言った。あの時と変わらぬ爽やかな笑顔、耳に心地よいこの声。紗英の頭脳はこれが単なるスライムの擬態であり、秋本本人ではないことをすぐに見抜いていた。
だが彼女の心と体は一瞬、目の前に立つ存在を、会いたくてたまらなかった最愛の夫として認識してしまった。この一瞬の混乱が命取りになった。紗英の手から力が抜け、強力な魔法の杖が床に転がった。秋本の姿をしたものは紗英の体を抱きしめた。
「会いたかったよ、紗英」「俊也……?」戸惑う紗英の髪を、秋本の手がやさしくなでる。
「さあ、ぼくに顔を見せてごらん」接吻するように秋本が顔を寄せる。紗英の目の前には秋本の顔があった。だが彼女がそこに見たのは、いつも感情豊かだった秋本の瞳とは似ても似付かない、爬虫類のような非人間的な眼だった。その眼を見た瞬間、紗英の魂は虚無に飲みこまれた。彼女の絶叫はほんの数秒しか続かなかった。
「へっへっへっ、これが世に名高い勇者の妻か。さてさて、どうやって楽しませてもらおうかな」
秋本の顔が溶けるように変形し、ゾルス・ロフのものに変わった。
「とりあえず、服を脱いで裸になってもらおうか!」
下劣な殺人鬼の言葉に従順に従い、紗英はローブのひもを解いた。
ゾルスと同時に、他の使徒たちもいっせいに攻撃を開始した。倉本はオダリスと二人でそれを迎え撃った。
やがて包囲する敵の集団に切れ目が生じた。倉本はそこをめがけて一気に走り抜けた。オダリスもついてくる。二人の後ろからは使徒の集団が押し寄せる。
「オダリス、悪いが後ろの雑魚どもを食い止めてくれ。俺はあのデカブツを何とかする」「わかりました。ご武運を」
オダリスは踏みとどまると、使徒たちに向かい合った。そして槍の石突きを地面に叩きつけ、声を張り上げた。
「私は聖騎士隊隊長ヴェルム・オダリス。邪悪なる者どもよ、この聖槍で滅するがよい」
その声を背後に聞きながら倉本は巨人の元へと急いだ。
倉本は巨人に粉砕された瓦礫が散らばる一帯に辿り着いた。緑の巨人は動きを止めていた。その足下に落ちた濃い影の中に、マレク職員と作業員二人がいた。佐々木は意識を失い、二人の大柄な作業員にのしかかられ、地面に押さえつけられていた。装備していた甲冑はすべて剥ぎ取られ、全身の傷からは血が流れていた。
「佐々木から離れろ!」倉本は叫んだ。
マレクは佐々木の顔のそばにかがみ込んだ。
「……ササキダイゴ。噂に違わぬ強靱な肉体の持ち主だ。このまま殺してしまうのは実にもったいない。だが魔王の使徒に転生させ、恭順を誓わせるのもまず無理だろう。そこで私はこう考えた」
マレクの右手が形を失い、スライムに戻った。マレクはその手を佐々木の口にあてがった。スライムは薄く開いた唇の間から佐々木の口内に滑り込んでいく。佐々木のまぶたがビクビクと痙攣をはじめた。
「寄生スライムだ。これで体内から彼を乗っ取ることにした」
「やめろ!」倉本は剣を手にマレクに飛びかかった。
だがその瞬間、倉本は殺気を感じた。とっさに左に跳んだ倉本の右ひじを背後から槍が貫いた。
「おや、外しましたか。確実に心臓を貫いたと思ったんですが。流石ですねクラモトさん」
信じがたいことに、そこにいたのは聖騎士オダリスだった。オダリスは先程までと何も変わらぬ様子で平然としていた。
「オダリス、お前……いったい」倉本は即座に治癒魔術で応急処置を施しながら言った。とにかく血だけは止まったが、とてもじゃないが動かせる状態ではない。
激痛に顔を歪めながら、倉本は絞り出すように言った。
「まさか貴様、……魔王の使徒だったのか。いつから……」
「聖教会が地に潜む魔王を正式に認定し、新たなる勇者を見いだした直後から。つまり、魔王討伐作戦が動き出した時にはすでに私は使徒だったのです。下水道に直接通じていない作戦本部「石碑」内部を探るためのスパイとして私は送り込まれました」
「聖騎士隊長の立場にありながら、なぜ裏切った?」
「……私は虚しかったのです。聖騎士としての鍛錬と奉仕も、聖教会の信仰も、私の精神に高揚をもたらしてくれませんでした。そんなある日、私の前に同志ゾルスが現れたのです。ゾルスは私に教えてくれました。陵辱と暴力のもたらす喜びを。あの日、殴り倒した女の頭に小便をかけながら、これこそが私の求めていたものだと確信したのです。その日から、私は自分の欲望のために生きることにしました」
「ゲス野郎が」
その時、佐々木を押さえつけていた二人の作業員が、佐々木の体から手を離した。拘束を解かれた佐々木はゆっくりと立ち上がった。
「ぐるるるる……」佐々木の口から、獣の唸り声のような異様な音が漏れた。血走ったその目はどこも見ていない。
「ご苦労だったオダリス。君がクラモトを止めてくれたおかげで、寄生スライムは無事、ササキの脳に定着した。ササキは今後、自我を失い狂戦士として生きることになる」
マレクはゆっくりと立ち上がった。しかし、その顔はすでにマレクの物ではなかった。黒く長い髪、白く繊細な顔立ち、そして青緑の大きな瞳。
「何……だと。お前は、ヴィルタス教授!」
「最初の命令だササキ、クラモトを殺れ」マレク、否、ギレビアリウスが命じた。




