第103話 異世界下水道清掃員③
「着きました。ここです」シャモスは立ち止まり、手元の計器を操作しながら言った。
「計器によるとセクター1はこの真下です」
そこは地底湖の湖岸だった。
だが、この湖を満たしているのは大量の汚水だった。隕石衝突で破断した下水管から流出した汚水が、すり鉢型をした衝突孔の底にたまり、湖を形成しているのだ。
淀んだ汚水は腐敗して真っ黒に変色して泡立ち、水面にはゴミや残飯、ぼろ布、紙屑、油脂などが固まってできた汚物の浮島がいくつも漂っていた。ヘドロが堆積した水際にはスライムが這い回り、地面には蛆虫がびっしりと群がっていた。何より異様なのは、湖を取り巻く地面や瓦礫の表面など至る所に、巨大な血管のような太い管が縦横に走っていることだった。管を触ってみると生暖かくでぶよぶよしており、微かに脈打っているのが感じられた。管の先は湖の中に続いていた。
だが、そんなおぞましい光景もこの空間を満たす激烈な悪臭に比べたら何でもなかった。腐卵臭、腐敗臭、糞尿臭、黴臭……。ありとあらゆる汚物の臭気がこの密閉された地下空間に充満し、息をするのも困難な状況だ。下水道での清掃作業に慣れた俺にとっても、ここの臭気は耐えがたかった。硫化水素が目の粘膜を刺激し、涙が溢れた。
「まったく、ひどい場所だぜ」親方がうめいた。
「……何かいるぞ」ジェライルが言った。
彼の視線の先を追うと、確かに何か白いものが向こう岸の瓦礫の間をよろめき歩いていた。「何でしょう」ハルビアが魔法光の照度を上げた。見えたのは太った女の裸だった。たるんだ腹、垂れた乳房、ぶよぶよした白い尻。だが肥満体の中年女なのは胴体だけだ。その頭部は昆虫のもので、頭頂部ではクシ状の長い触覚が揺れていた。手足の先端は指の代わりにフックのような鋭いかぎ爪が付いていた。
「闇の落とし子だ」親方が顔をしかめた。
闇の落とし子。人間と異種生物の細胞が偶然融合して生まれたキメラ。
下水には人間由来の細胞が含まれている。大便の2割近くは新陳代謝で剥がれ落ちた腸壁の上皮細胞だ。さらに精子や卵子といった生殖細胞も時には流れてくる。
人間だけではない。他の動物の細胞も存在している。残飯として投棄された家畜の肉。牛、豚、鶏、羊、魚介類……。さらに鼠やゴキブリといった下水道に棲息する害虫や害獣たちの細胞も。
通常、それらは肉体から離れたら単独で長くは生存できない。だが、下水に不法投棄された回復薬やアンデッド化剤などの効果でまれに生き延びることがある。さらに近くに漂っていた異種の細胞と出会って融合し、新しい生命体が誕生することもある。そうして生まれたのが闇の落とし子と呼ばれる存在だった。
太った女と昆虫の融合体は闇の中に消えていった。
だがそれと入れ替わるようにして、闇の奥から別の怪物たちが姿を現した。闇の落とし子たちの群れだ。
怪物たちの姿は醜悪さを極めていた。
たくましい筋肉質の腕が生えた肉塊。鶏の足で闊歩する魚。棒人間の落書きみたいな動く針金細工。牛の胴体に人間の頭部を持つキメラ。蛇のような体に長い口吻をもつもの。全身を硬い殻皮に覆われた男、複数の胎児のようなものを内包したゼラチン質の球体……まさに百鬼夜行だ。
俺たちは武器を構えた。
キメラのうち、人間の頭部を持つ牛が前に進み出た。そいつの唇がうごめき、言葉を形作った。「あなた方をこの先にお通しするわけにはいきません」
「闇の落とし子が……しゃべった」俺は呆気にとられた。闇の落とし子が人間の言葉をしゃべったなんて話は聞いたことがなかった。親方も驚いている。
「驚かれましたか。これは魔王様から私たちへの贈り物です。魔王様は私たちの脳に微小スライムを送り込み、脳を作り替えて知性を授けてくださったのです」牛人間は分厚い唇からよだれを垂らしながら言った。
牛人間は左右で色の違う瞳で俺たちをまっすぐに凝視しながら続けた。
「……これまで私たちは互いに孤立し、闇の中で孤独に苦しんできました。そして胸の中で渦巻くやり場のない怒りをたまたま下水道で遭遇した人間たちにぶつけてきました。しかし、私たちは変わりました。言語と思考という贈り物のおかげで、私たちはもはや孤独ではなくなったのです。下水道には仲間たちがいました。皆、人知れず自分の存在に苦しんでいました。誰にも望まれず、誰からも愛されず、ただ汚水の中から偶発的に生じ、誰にも知られずに生き、そして死んでいくだけの存在、それが以前の私たちでした。でもこの生はもう無意味ではありません。私たちは愛する仲間のため、そして偉大なる魔王様のために、命を賭してお前たちを倒す!」
牛人間は熱弁を振るい終わると突撃してきた。その後に他の闇の落とし子たちが続く。
彼らは地上の人間が産んだ哀れな存在だ。だが、俺たちもここで立ち止まるわけにはいかない。何があろうとこの先に進まなくてはならないのだ。
「おおおおお!!!」俺は雄叫びを上げ、神授の聖剣セクタ・ナルガを一閃した。
「どうやらこれですべて片付けたようですね」
ハルビアが言った。熾烈な戦いが終わり、周囲には闇の落とし子たちの死骸が散乱していた。この戦いではガエビリスが怪我を負った。彼女は不意を突かれ、かぎ爪で背中を裂かれたのだ。その時、まるで自分自身が攻撃を受けたかのように俺も激痛を味わった。魔術リンクの影響だ。リンクを通じて魔法効果を共有できるが、ダメージも共有することになる。紗英さんが言っていたのはこのことだったのだ。
「ごめんなさいワタナベさん。私がうっかりしていたせいであなたまで痛い目に遭わせてしまって」
「それより、怪我はもう大丈夫なの?」
「ええ、背中の傷は治癒魔術で治したから、もう平気。それより、彼らと戦うのは辛かったわ。あなたも見たでしょう、彼らは以前のような、意思疎通が不可能な怪物ではなかった。自分たちの信念を持ち、仲間たちのために必死に戦っていた。こんな結果になったのは残念と言うしかないわ」
ガエビリスが言った。その表情はひどく悲しげだった。
「ところで、セクター1の場所だが、ここの真下と言ったな」鋼のジェライルがシャモスに言った。
「ええ、言いました」シャモスが言った。
「この真下って、まさか、この汚い湖に潜るのか」俺は言った。
「そんな訳ないでしょう。空間魔力計の数値を見ると、魔力勾配はここの地下250メートルの地点で最大値を示しています。大きさから判断して、この湖がそれほど深いとは思えない。湖底より下の岩盤中にあるはずです」シャモスが言った。
だが、そんな地下深くまで、どうすれば到達できるのか。
その疑問は湖の周囲を調べていくうちに解けた。湖の周囲を走る脈管をたどると、それらは次第に合流して太さを増し、最終的に一本の大動脈となって衝突孔の壁面に穿たれた一つの洞窟の中へと消えていた。穴の中を覗くと、その奥は曲がりくねった隧道になって地中に続いていた。シャモスの魔力計は洞窟の入り口で高い数値を示した。隧道がセクター1に繋がっている証拠だった。
隧道の中は太い大動脈に占拠され、わずかな隙間が空いているだけだが、ひとりずつなら何とか通り抜けられそうだった。
下り勾配で地底に続く真っ暗な隧道に、俺たちは一列になって潜り込んだ。列の先頭はジェライルが勤め、その後ろに親方、シャモス、俺、ガエビリス、ハルビアと続く。隧道の前後から敵の攻撃を受けた場合、列の中心で勇者の俺が保護される形になっている。勇者でありながら女の子にまで守られていることを情けなく感じた。それを皆に伝えたが、
「我々は勇者を失うわけには行かない。この状況ではこの順番が最適なのだ。我慢してくれ」とジェライルに諭された。
ヌルヌルする壁面で滑らぬよう、手足を突っ張って這っていった。すぐそばに横たわる大動脈は脈打ち、何らかの液体を大量に流動させているようだった。隧道の中には素早く動き回る脚の長い虫がたくさんいて、しきりに顔や体の上に這い上がってくるのが不快だった。
ときおり大動脈の位置が変わり、隧道の天井寄りを通っている場所になると、俺たちはその下を四つん這いになって進んでいった。そうなると、嫌でもすぐ前を行くシャモスの尻が目に入った。肌にぴったりと密着した黒い戦闘服のおかげで尻の形がくっきりと浮き出ている。小柄な体格の割に安産型のいい尻だ、と感心しているとシャモスの後ろ蹴りが飛んできて俺の顎に命中した。目の前に火花が飛んで一瞬気が遠くなった。シャモスは凄まじい形相でにらみ付けると再び前進を再開した。俺の後ろではガエビリスがあきれ顔で一部始終を見ていた。
狭い隧道を数時間黙々と進んだ後で、小部屋のような空間に辿り着いた。
ここで俺たちは小休止をとることにした。窮屈な姿勢を長時間とり続けたせいで体中が悲鳴を上げていた。小部屋は六人が体を伸ばすのに十分な広さと高さがあった。
親方が腕をまくって、キンクに噛まれた跡を調べていた。ハルビアの治癒魔術ですぐに止血がされていたが、肉が大きくえぐれた跡が完治するまで時間がかかるだろう。
「くそっ、やられたぜ」親方が傷口を見て顔を曇らせた。
「どうしたんですか」「これ見ろよ……」親方はおれの目の前に腕の傷口を持ってきた。
前腕を引き裂く痛々しい傷跡の真ん中に、小さなピンク色のイボが生じていた。見ているとイボは小さな目を瞬かせ、何か話すように小さな口を開け閉めした。俺は気持ち悪さに思わず飛び退いた。
「何です、これ……」
「人面瘡だな」ハルビアが上から覗き込んで言った。
「傷口の脆弱な皮膚に、ヒト由来の細胞が付着して増殖したものだ。言うなれば小型の闇の落とし子だよ。なに、恐れる必要はない。こうして焼き潰せばすぐ除去できる」
言うが早いかハルビアは出力を最小限に絞った灼熱魔術で傷口の人面瘡を焼いた。
「あっちぃ!てめぇ何しやがる!」
親方は飛び上がって叫んだ。今にもハルビアに殴りかからんばかりの形相だ。だがそんな親方の様子もどこ吹く風で、ハルビアはいつも通りの涼しい顔で答えた。
「早めに除去しておくに超したことはない。あんなものでも放置しておくと神経繊維を伸ばして宿主の体を乗っ取ってしまう例もあるのだよ。感謝してもらいたいね」
ハルビアは親方と俺から離れ、小部屋の隅に腰を下ろした。
「やれやれ、疲れましたな。まだまだこの先は長いのかな、シャモス」
「計器によると、直線距離にしてあと100メートルほどです。ですがこの先も隧道が曲折していると予想されるので、実際にどれだけ時間を要するのかは未知数です」背嚢から取り出した携行食を頬張りながらシャモスが答えた。同じ物は他のメンバーにも配られていた。
ジェライルも黙々と携行食をかじっては、水筒の水で飲み下していた。隧道や小部屋には独特の生臭い悪臭が漂っていて、とてもじゃないが食事を楽しめる環境ではなかった。だがこの先どこでカロリーと水分を補給できるかわからないので、ここで食べておくのが望ましいという判断だった。
「あんたも飲むかね」ジェライルが水筒を差し出した。ハルビアは受け取って一口飲んだ。
「ところであんた、首飾りなんてしてたんだな。意外だな」
ジェライルがハルビアに言った。先のキンクとの戦闘で、ハルビアの白衣はあちこちが鼠に食い破られ、穴だらけになっていた。胸元に開いた穴から、銀のペンダントが覗いていた。
「ああ、これかね」
ハルビアはチェーンをたぐり寄せ、ペンダントを引き上げた。パチリと音を立てて開くと中には写真が入っていた。写っていたのは二人の若い男女と、一人の幼い女の子だった。
「私の息子夫婦と孫娘だよ。といっても、息子は養子で、私と血の繋がりはないがね」
「息子さんも夜警の隊員なのかね」
「いや、官僚になったよ。行政局のね。……そして、先の隕石落下で死んだよ。まだ28だった。結婚してまだ5年しか経っていなかった。孫の成長を楽しみにしていたのにな。親馬鹿かもしれんが、立派な男だった」
「……そうか。それは残念だったな」
「今は私の家内が嫁と孫娘の面倒を見てくれている。突然夫を失った悲しみから、まだ完全に立ち直れていないのでな。……私は、あの隕石落下から続くこの一連の騒動が、何者かの邪悪な意図で引き起こされた事件だと確信している。必ずやその証拠を暴き、犯人を突き止めて裁きの場に立たせてやる。そして孫娘たちが安心して暮らせる平和な街を取り戻してみせる」
「意外とあんたにも熱い血が流れてたんだな」
「私をなんだと思ってたのかね。ところで、君には家族はいないのか」
「十年前に別れた嫁と息子がいるだけだ。今頃どこでどうしているのか。やっぱり冒険者同士の夫婦というのは上手くいかなかったな。どっちも相手や家庭に束縛されることに耐えられない」
「そういうものかね。寂しいね」
「まあ、これくらいにしておこう。戦いの前に家族や恋人の話をすると死ぬっていうからな。縁起でもない」
「君が始めた話だろうに」
小休止の後、再び隧道を下へと下っていった。下るほどに熱と湿気がどんどんひどくなっていく。そしてついに一行は、広々とした地下空間に到達した。
そこは両側から切り立った崖が迫る地中の亀裂だった。
両側の岩盤から挟み込まれるように、亀裂の中央に巨大な紡錘型の物体が浮かんでいた。隧道から出た大動脈は再び分岐して、物体の表面を毛細血管のように覆っていた。物体の前に立って、全員がそれを見上げた。頭上にのしかかるように浮かぶ物体から、熱と震動のかたちで高エネルギーの魔力が周囲の空間に放射されていた。シャモスの計器を借りるまでもない。この物体こそがセクター1の中心に違いあるまい。
「これは卵か?」親方が言った。
「でも、いったい何の卵だろう。この大きさだとドラゴンか。それも相当巨大な……」俺は言った。
卵殻は半透明で赤く発光し、中に納められている物の影を浮かび上がらせていた。とぐろを巻いた長いものが蠕動し、エラか心臓か、細かく脈動しているものが見える。
「まさか、これは……」珍しくハルビアが口ごもっていた。眉間には深い皺が刻まれている。
「どうしたんだハルビア先生。何か心当たりがあるのか」親方が促した。
「……先の魔王、ユスフルギュスは巨大な蠕虫の姿だった。まさかユスフルギュスを蘇らせるつもりなのか」
「ふふふ……違うな」
声が聞こえてきた。この場にいる誰の声でもなかった。おまけに周囲の至る所から聞こえてくる。まるであちこちに隠されたスピーカーから声が出ているようだ。声は続けた。
「……これは地核虫。地底深部のマントルと呼ばれる領域に生息する巨大生物、その卵だ。数万年前の暗黒期には地表近くにまで浮上し、地殻中に何万キロもの巨大なトンネル網を残した。古代ダークエルフの祖先は彼らを自在に使役して地下迷宮を建造させた……」
その時だった。隣に立つガエビリスから激しい感情が伝わってきたのは。怒り、憎しみ、怯え、失望、そして隠しきれない憧れと親愛の情も。これらが混ざり合った複雑な感情の大波がリンクを通じて突如として俺の心に押し寄せてきた。
「ガエビリス、大丈夫か」彼女は震えていた。
「その声は、まさか……」
「よくここまで帰ってきてくれたね、ガエビリス。ずっと会いたかったよ」
全周囲から響いていた声は次第に一点に収束し、やがて、地核虫の卵の陰からひとりの人物が姿を現した。黒い服を着たスリムな体型の男。透けるように青白い肌と青緑の瞳。そしてウエーブのかかった長い黒髪から覗くとがった耳。こうして見ると、ガエビリスとそっくりだ。
「我がダンジョンを潜り抜け、よくぞここまで辿り着いた、勇者よ。待っていたぞ」
ガエビリスの邪悪な兄、ギレビアリウスは言った。




