第101話 異世界下水道清掃員①
数年前、勇者秋本たちが魔王ユスフルギュスの待つ北方大陸に旅立った時、大勢の市民が彼らの出発を見送った。
だが今回、新たなる魔王との戦いに赴く俺たちを見送る者は誰もいなかった。まるで人目を忍ぶように「石碑」の裏口からこっそりと抜け出した魔王討伐隊は二班に分かれ、それぞれ別の目的地へと出発した。
俺は立ち止まり、通りの反対方向へ去って行く討伐隊第二班、すなわち倉本や佐々木、紗英さんたちの背中を見送った。彼らの姿はやがて都市の雑踏に紛れて見えなくなった。俺は心の中で彼らの幸運を祈った。
「さあ、私たちも行きましょう」ガエビリスに促され、俺は再び歩き始めた。
俺たち第一班が向かったのは二ヶ所の攻撃目標の一つ、セクター1だった。
そこは完成間近の新市庁舎タワーがそびえ立つ市の中心部だった。すらりと優雅に伸びた一本柱の上に巨大な逆円錐形の展望部が乗った奇抜なデザインが目を引く新市庁舎タワー。その姿はどこか威圧的で、下界で繰り広げられる市民の日常生活をはるか天空から見下ろしているかのようだった。
タワーの足元でも再開発はほぼ完成に近づいていた。隕石で破壊された旧行政局庁舎のがれきは姿を消し、そこには市民ホールや劇場、百貨店などが並ぶ整然とした街路が再建されていた。だが明るく華やかな外見に騙されてはならない。旧行政局のがれきは撤去されたのではなく、大勢の職員の遺体もろとも隕石落下孔の大穴に投棄され、その上に盛り土をして舗装をしき、突貫工事で建設した市民ホールなどで装い、凄惨な事故現場をあわてて隠蔽したに過ぎなかった。
この界隈では近頃、異常現象が多発報告されていた。
謎の震動、異様な物音、そして魔物の目撃。市当局は、これらは建設工事の騒音や建設機械の誤認として説明していたが、ハルビア博士をはじめ一部の者は納得せず独自に調査を行った。そしてこの地の地下深くに、桁違いに高レベルの魔力集中ポイントが存在していることを突き止めた。これこそが俺たちの目指す攻撃目標だった。地下に存在するセクター1へと至るルートは、もちろん下水道だ。
マンホールの鉄蓋を開けた瞬間、吐き気を催すような強烈な異臭が吹き上げてきた。嗅ぎ慣れた下水の臭いとはまるで似つかない、死肉の腐敗する悪臭、怪物の消化液の臭い。まさに瘴気だ。
その臭いを嗅いだ瞬間、俺は直感した。この下に広がっているのは以前の下水道ではない。親方の言った通り、魔物の臓腑だ。
この中に、俺は今から降りていくのだ。降りて行かなければならないのだ。俺は真っ暗なマンホールの中をしばしの間、じっと見下ろした。再び地上に生きて帰れる保証はない。
「覚悟は決まったかい、勇者さん」
無精髭の目立つ中年男が言った。討伐隊第一班の冒険者、「鋼のジェライル」という通り名の戦士だ。倉本の話では、この男は強いだけでなく、どんな時でも冷静に状況を判断し、そして常に生存するという。自由騎士団がほぼ全滅した野村市長主導のスライム駆除作戦でも、この男は生き延びた。
「まさか、この期に及んで怖じ気づいたなんて、やめてくださいよ。本当に」
ハルビアが言った。相変わらず嫌な奴だ。普通、敵地への突入を前にして仲間に嫌みなんて言わないだろう。なぜこんな奴が同じ班に入っているのか。俺はメンバー編制を決定した倉本たちを恨んだ。だが、この男が魔物に関して他の追随を許さない一流の専門家であるのも紛れもない事実だ。謎の多いセクター1の正体と目的、そしてその攻略法を見抜くには彼の存在は不可欠だ。その点は嫌でも認めざるをえない。
ハルビアの隣には、夜警の女戦士が立っていた。シャモスだ。ヒュドラ事件以降、彼女とは何かと縁がある。低い身長と、短く切った銀髪をパンクロッカーのようにツンツンと突っ立てた髪型は変わらない。だが、夜警隊員として幾度となく戦闘経験を積んできたことで、以前よりも貫禄がついたようだ。今回、彼女は小柄な体格に釣り合わない特大サイズの背嚢を背負っていた。あの中には何が入っているのだろう。地下への突入を前にして、彼女は淡々と装備の最終確認を進めていた。「こっちは準備オーケーだ。いつでも行けるぞ、ワタナベ」
「おい、黙って見てても仕方がねぇだろ。さっさと始めちまうぞ。何のことはねえ、いつもと同じスライム駆除作業じゃねえか。手っ取り早く片付けて酒でも飲もうぜ」
親方が言った。清掃作業で使うのと同じスコップを携えている。進路を塞ぐスライムを撤去し、俺たちのために道を切り開くのが親方の役目だった。下水道を知り尽くした親方が一緒に来てくれるのは、心強いことこの上ない。そうだ、親方の言うとおりだ。やることは下水道清掃員だった頃と何も変わらない。ただ、俺が勇者で、相手が魔王の力を持ったスライムというだけだ。
その時、柔らかく暖かい感触が俺の手のひらを包み込んだ。
隣に立つガエビリスが手を繋いできたのだ。目が合うと、彼女は無言でうなずいた。大丈夫だよ、そう言ってくれたのが心に伝わってきた。俺は彼女の手をぐっと握り返した。
「ありがとう、ガエビリス。……もう大丈夫だ。行こう」
俺はマンホールにかがみ込むと、はしごの一段一段をしっかりと握りしめ、闇の中へと下り始めた。
垂直に十メートルを下りきると、俺たちは下水道に立っていた。そこはもはや魔王の領域だった。下水管の壁面も天井も、スライム群体に分厚く覆われていた。おそらく足下を流れる下水の底にも群体は広がっているのだろう。コンクリートの地肌はどこにも覗いていない。巨大な魔物の消化器官の中に入り込んでしまったような印象は完璧だった。スライム群体は波打ったり、伸縮したりして片時も休まずうごめき続けていた。天井からは粘液の糸が滴り落ちている。
「魔王はもう、俺たちの侵入に気付いてるかな」
「おそらく。でも、それにしては反応がないわね」
「まさか奥までおびき寄せておいて、一気に飲み込むつもりなんじゃ」
「その可能性は十分にあるわね。その時はあなたの出番よ。その聖剣で私たちを助けてね」
「彼女の言う通りだ。今、俺たちの有している武器の中で、魔王に最も有効なのが神授の聖剣セクタ・ナルガだからな。頼むぜ、勇者ワタナベ」鋼のジェライルが言った。
「わ、わかってるよ」
「ふむ、興味深い……」ハルビアは壁面のスライム群体を観察していた。
「群体を形成しているのは単一種のスライムだけではないですね。何種類ものスライムが共生関係にあるようだ。少なくとも五種類はいる」
ハルビアの言うとおりだった。よく見ると様々な種類のスライムがいた。
一番多いのは半透明の薄ピンク色のスライム。これは下水道で最もよく見かける種類だ。他には鮮紅色で平べったく、アメーバのようにさかんに仮足を伸ばして群体の上を素早く這い回っているものや、濃い紫色で全体がイボで覆われているものもいる。壁面の高いところや天井付近に泡のような塊を作り、ぼんやりと発光している種類や、ネバネバとした灰色の粘液を大量に分泌して、水際にへばりついている種類もいた。
さらに、そこにいるのはスライムだけではなかった。
スライム群体の隙間には白いゴキブリのような虫がびっしりとたかり養分を吸っている。天井からは目玉のような魔物が見下ろし、下水の中には巨大な肉食ヒルが潜んでいた。多種多様なスライムや魔物が群棲する様は、まるで発狂した画家が描いた別の惑星の珊瑚礁のようだ。
「前に降りた時に比べ、一段とひどくなってやがる。こんなの見たことねぇ」親方が言った。
先に進むにつれて、地下の様相はよりいっそうと混沌の度合いを深めていった。
隕石落下により下水道も大きな被害を受けていたのだ。地盤がめちゃくちゃに破壊された影響で下水管が破断して壁に大きな亀裂が走り、天井が崩落していた。流れをせき止められた下水は、壁の亀裂から下水管の外へと流れ出していた。俺たちも下水の流れに沿って亀裂の外に出た。
そこは地下室だった。おそらく旧行政局庁舎の地下倉庫だ。書類保管場所だったらしい。将棋倒しになった書架の間に大量の書類が散乱していた。それらは下水に浸かって朽ち果てていた。魔法光で荒れ果てた地下室を照らしながら、俺たちは下水の流れを追って歩いて行った。
旧行政局の地下階層の一部は、隕石落下による崩落を免れてほぼそのままの形で地下に残っていた。だがその全域が下水の流入により水没していた。地上に通じる階段はすべて瓦礫で塞がれ、完全に外部から隔離された空間になっていた。迷路のような地下通路にもスライム群体や魔物が棲息していた。
シャモスが何やら手元の計器をのぞき込みながら言った。
「空間中の魔力エネルギーが急上昇しています。セクター1まであと100メートルほどです」
その時、ガエビリスが言った。
「……止まって。少し先の水中に何かいるわ」
鋼のジェライルが無言で鞘から剣を抜いた。シャモスは真鍮のロッドを励起させた。俺は漆黒の聖剣を構えた。親方はスコップを握りしめた。
黒い水に満たされた地下階層。所々で瓦礫が水面から顔を覗かせている。その時、ざぱりと水音がして闇に包まれた水面が乱れ、波紋が広がった。水面のすぐ下の水中で、何か巨大なものが体を左右にくねらせて動いている気配だ。動きの主そのものはまだ水面上に姿を現さない。動きに伴って発生する波だけが、どんどんこちらに接近してくる。
突如、水中から無数の細長い首が現れた。ヒュドラだ。それもかなり大きい。かつて下水道で遭遇したものの5倍はある。無数のヒュドラの首は俺たちめがけていっせいに襲いかかってきた。
一瞬、脳裏にヒュドラ暴走事件の時の苦い記憶がよぎった。
だけど、俺はもう、あの時の俺ではない。
「みんな下がっててくれ。俺がやる」
俺は剣を大きく横に振った。神授の聖剣セクタ・ナルガの刃は、まるで大鎌のように水面上に現れた全ての首を一撃で刈り払った。だが再生能力の高いヒュドラにとって、この程度などダメージのうちに入らないだろう。本体はまだ無傷で水中に潜んでいる。波の立ち方から本体がいると見定めた場所に、漆黒の剣を振り下ろした。長く伸びた刃が水面を割る。手応えがあった。やがて水面に浮かび上がってきたヒュドラの巨体は、きれいに一刀両断されていた。
「やったか?」シャモスが言った。
だが、次の瞬間、二つに分断されたヒュドラの体がそれぞれ異常な再生を開始した。全身に腫瘍のような肉芽が生じ、そこから新しい首が無秩序に伸びる。もとの体の構造を完全に逸脱した暴走再生状態だ。二つの断片から再生した二体のヒュドラは互いに激しく貪りあい、一瞬にして、わずかに大きかった方が相手を制圧し完全に食い尽くした。暴走再生は激しくエネルギーを浪費するので、ヒュドラを狂ったような捕食へと駆り立てる。
無数の首に覆われた肉塊と化した暴走ヒュドラは、次なる餌食を求めて襲いかかってきた。
聖剣で何度斬りつけ切断しても、瞬時に傷は塞がり新しい首が生えた。
この程度のダメージでは、いつまで経ってもこいつを止められない。
その時、暴走ヒュドラが動きを止めた。そしてすべての頭部をこちらに向け、口を大きく開いた。無数の喉の奥で緑色の炎が燃え上がった。化学反応ですべてを焼き尽くす猛毒のブレス。かつてドラゴンだった名残、ヒュドラの奥の手だ。
「ガエビリス、加速魔術を」「わかったわ」
ガエビリスが加速魔術を発動すると、魔術的リンクを介してその効果がたちまち俺にも共有された。俺の思考と感覚と反射速度は常態の10倍以上に達した。ゆっくりと速度を落としはじめた時間の中、俺はまさにブレスを吐こうとしているヒュドラめがけて突き進んだ。
毒蛇のように素早く繰り出されるヒュドラの首の動きがスローモーションのように引き延ばされて見える。首の攻撃をかいくぐり、怪物が細切れの断片になるまで何度も何度も繰り返し斬りつけた。やがて魔術の効果が切れ、周囲で時間が常速に戻った。
暴走ヒュドラはばらばらの肉片になって四散した。そして今まさに放出されようとしていた緑色の炎が口腔から漏れて燃え移った。小さな肉片にまで切り分けられているから火の通りが早い。ヒュドラは自らの猛毒の炎に焼き尽くされ、完全に死滅した。
俺は肩で息を切らしながら下水に膝をついた。
やった。ついに俺はヒュドラに雪辱を果たしたのだ。
「大丈夫、ワタナベさん!?」ガエビリスが駆け寄る。
「ああ、俺は無傷だよ。ただちょっと疲れただけで。さっきはサポートありがとう」
「ほほう、なかなかやりますな。たった一人で倒してのけるとはねぇ」
ハルビアが手を叩きながら言った。
「しかし、妙ですな。はじめから暴走再生状態になるとは。あれは再生能力とダメージとが完全に釣り合った特殊な状況でしか発生しない希有な状態のはずなのに。あのヒュドラ、おそらく何者かに手を加えられていたようだ」
シャモスが携行する計器に従い、俺たちはセクター1に近づいていった。
旧行政局の地下階層の奥へと向かう。地上から投棄された建物の瓦礫にはまだ原型を留めているものもあり、まるで地中に街がそのまま埋没しているような奇妙な光景だった。だがそれらの建物は斜めに傾いでいたり、完全に横倒しになったりしていた。
「たぶん、この向こう側がセクター1のようです」
埋もれた街を前にしてシャモスが言った。セクター1での活動が影響しているのか、湿度と気温が高い。それに微弱な震動と騒音が感じられた。
「もうすぐだな」俺は言った。
その時だった。瓦礫の上から甲高い声が降ってきた。
「キキッ!ひっさりぶりだなぁワタナベさん!それにガエビリスの姐さん!また会えてうれしいよ。俺のこと覚えてるかい!」
傾いたビルの上、そこに人間大の巨大なドブネズミが立っていた。
「……キンク。キンク・ビットリオ」
「正解!覚えててくれてうれしいよ。でもあんたたちをこの先に通すわけにはいかないんだ。悪いけど死んでもらうよ」




