第1話 勇者凱旋
その日、都市に勇者たちが凱旋した。
一年前、悪の本拠地たる北方大陸に旅立った勇者と三人の同志そして四千名の勇敢な兵士たちは、激闘の末ついに魔王を撃ち滅ぼした。
世界は救われた。
「魔王死す」の一報は瞬時に全世界に伝わった。
長きにわたり魔王の恐怖に苛まれてきた世界は解放の喜びに沸き立った。楽器が吹き鳴らされ、紙吹雪が舞い、人々は誰彼となく抱擁しあった。世界中が祝祭の熱気に包まれた。
人々の熱狂は凱旋式において頂点に達した。
港からメインストリートを経て王宮に至るパレードの道筋にかけて、数十万の市民が詰めかけ、偉業を成し遂げた偉大な英雄をその目に焼き付けようと、固唾を飲んで待ち構えた。
そしてついに、大観衆の前にパレードの車列がゆっくりと姿を現した。軍に先導されたパレードの中ほど、ひときわ大きな車両の上にマントを翻らせる勇者の姿があった。
だが、その外見は勇猛な戦士のイメージとは程遠いものだった。
年齢はまだ二十代の半ば。長身だが体つきはスリムで、顔つきはどちらかといえば中性的だ。幾多の激戦をへて魔王を倒した強者には見えない。だが全身からあふれ出るカリスマ性と力強いオーラは、彼が類まれな英雄であることを何よりも雄弁に物語っていた。
勇者は片手をあげ、爽やかな笑顔で人々の歓呼に応えた。
数十万の市民が送る拍手喝さいの声はどよめきとなって都市全体にとどろき渡った。
……おおおおおおおお
地鳴りのようなその轟きは、街路を埋め尽くす人々の足元のはるか下、地下15メートルの深さにいる俺のもとにまで届いていた。
ここは下水道の中だった。勇者の凱旋式が行われていたまさにその時、俺は下水道を這っていたのだ。
ばしゃ……ばしゃ……
足首の深さを生ぬるい下水が流れていく。天井は低く、体を折り曲げるようにしないと先に進めない。ランプの光が届く狭い範囲の外は真っ暗闇だ。
当然、環境は最悪だった。
ドブネズミの死骸に蛆がたかり、壁や天井を無数のゴキブリが這いまわっている。空気には鼻が曲がるような悪臭が充満し、重たいゴム製の防水合羽は通気性がゼロで、蒸し風呂のように熱気と湿気がこもっていた。一瞬、気が遠くなった俺は手にしたスコップを杖替わりにしてもたれかかった。
このスコップこそ、今回の仕事の道具だった。
「おい!止まるなよ!早く進め!」
すぐ後ろから怒鳴り声が聞こえた。俺の後ろに続く、他の下水道清掃作業員の声だった。今回の作業には俺のほかに三人が参加していた。
マンホールに備え付けの梯子を下り、ここまで五分近く歩いてきた。劣悪な環境にもうフラフラになっていたが、本当の仕事はこれからだった。
「着いた。ここだ」
俺は立ち止まり、周囲をぐるりと見渡した。
コンクリート製のざらついた壁や天井に、ぶよぶよした半透明のかたまりが大量に付着していた。
それはうっすらと赤みを帯びたゼラチン質の物体で、小さいものでは直径3センチほど、大きいものに至っては1メートルほどもある。それらがびっしりと隙間なく下水道の壁を覆いつくしている。
スライムだ。
スライムは元来、洞窟などの暗くて湿った場所を好む生物だが、この都市の下水道にもたくさん棲息していた。
ここはスライムの楽園だった。年中温暖で天敵もおらず、たえず供給される生活排水は栄養豊富。やつらはこの約束の地で思うがままに増殖し肥大化し、そして下水道を詰まらせた。
それを取り除くのが、俺の仕事だった。
「おし、はじめっぞ」
リーダーの号令と共に、俺たち下水道清掃員は作業に取りかかった。
スコップを使い、壁や天井に分厚く層をなしてへばりつたスライムをこそげ落としていく。剥がれ落ちたゼラチン質の塊がぼたぼたと水面に落下する。
一部のスライムどもは体を伸縮させて壁の隙間や狭い枝管の奥に逃げていこうとする。
俺はそいつらの一匹に不用意にスコップの刃を突き立ててしまった。
次の瞬間、弾力のある表皮が破裂して周囲に体液が飛び散った。
俺はあわてて身を反らしてなんとか直撃を避けた。
「ふぅ、危ない危ない……」
俺は冷汗をぬぐった。
スライムの体液には一種の原生生物が寄生している。この寄生生物が目や粘膜から人体内部に侵入すると、失明したり腎臓病になったり、最悪の場合死ぬこともあると言う。だから行政局の労働規定では、スライム除去作業時はゴーグルやマスクの着用が義務付けられている。
だが、実際にはそんな決まりを守っている者など誰もいなかった。粗悪品のゴーグルはすぐに曇って前が見えなくなるし、マスクも暑苦しくてつけていられないからだ。
今のところ俺は健康上の問題はかかえていなかったが、スライムの体液は何度も浴びているので、たぶんもう寄生されているだろうと思って諦めていた。
スライムの群体は水路の長さ50メートルにわたって切れ目なく続いていた。作業員たちは無言で体を動かし続けた。
やがて、すべてのスライムが壁から引きはがされ、足元で細切れのゼリーの破片の山と化した。
スライム除去作業で本当に面倒なのは死骸の後始末だ。スライムは再生力が強く、放っておくと小さな断片からでも再生してすぐに下水道を詰まらせてしまう。だから駆除した後の死骸は回収しなければならない。作業の第二段階の始まりだ。
俺たちは切り刻んだ肉片をスコップですくいあげ、土嚢袋に詰め込んでいった。すぐに袋はいっぱいになった。新しい袋を用意し、次々に袋詰めにしていく。体液をにじませる土嚢袋の山が積み上がっていく。袋はバケツリレーの要領で手渡しでマンホールまで運び、そこからロープで地上へと引き上げた。もちろん、細かな欠片まで一片たりとも残さず回収しつくすことは不可能だ。最後の仕上げに、取りこぼした小さな断片を殺すため石灰の粉を撒いた。
これでようやく作業完了、撤収だ。
マンホールから長い梯子を登り、地上へ這い出すと、すでに夕方だった。
俺は新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んだ。
夕暮れ時の風が、路上に降り積もった紙吹雪を舞い上げる。辺りの人影はまばらだ。遠くの方から陽気な音楽の音色が聞こえてくる。
勇者の凱旋パレードはとっくに終わり、今まさに王宮では祝賀晩餐会が始まろうとしていた。
晩餐会は過去に例を見ない大規模なもので、なんと参加費無料で全市民にも開放されるという。国王の大盤振る舞いだが、近年成長著しいノムラ商会も資金面でバックアップしているらしい。
一緒に作業していた仲間たちも晩餐会に遅れまいと、土嚢袋の積み込みを急いでいた。
だけど、俺はそんなものに参加するつもりなんて毛頭なかった。
通りの上に張り渡された横断幕が風に鳴っていた。横断幕にはこう書かれていた。
『ありがとう、勇者!
ありがとう、別世界から来た我らが救世主、アキモト シュンヤ』
俺は奥歯を噛みしめた。
「ちくしょう……」小さく呟いた声は風の音にかき消された。
「おーい、早く乗れ!置いてくぞ」
いつの間にか荷台への積み込みを終えた仲間たちが、座席から俺を呼んだ。
「……すんません、すぐ乗ります」
俺が座席に這い上がると同時に、車輪を軋ませて運搬車が動き出した。
帰り道、作業員たちは晩餐会の話題で持ちきりだった。
「全市民のために大量の酒と山のような料理が用意されているって話だぜ」
「まさに酒池肉林の宴だな」
「酒と食い物をたらふく楽しんだ後はさ、女を買って一晩中やりまくるってのもいいかもな」
「ついに待ち望んだ平和が来たんだ、それくらい羽目を外したって罰は当たるまい。げっへっへ」
車内に作業員のおっさんたちの下卑た笑い声が響いた。
皆が陽気に盛り上がるその中で、俺だけが無言でうつむいていた。
なぜなんだ。
なぜ俺はこんなことをしている。
なぜ俺だけがこんなにみじめでちっぽけなんだ。
俺だって、「勇者」こと秋本俊也たちと、一緒に異世界転位した仲間だったはずなのに。