プロローグ 墜落
前作「異世界に穴があったら入りたい」と世界観を同じくする作品ですが、地名、人名、キャラクター描写などに一部、改修を加えております。
ひこうキはおおきくゆれている、
急そくにこうどが下がっている
エンジンが火爆はつして、ケムリがでいる
きっと助からたい
先にいきます。おばあちゃん
さいごを見とってあげられなてごめんなさい
お父さんお母さん そだてくれてありがとぅ
俺は、暴れまくる機体の中、誤字も脱字も文脈も気にせず、ただ心中を書きなぐった手帳をジャケットの内ポケットに仕舞い、そして、この身から決して離れぬように両腕を組んだ。
同じ無重力でも絶叫マシンとは違う。ここにあるのは本物の恐怖だ。だからこそ、叫び声を上げる余裕なんてものはない。
視界に入るものは、前座席の背もたれのただ一点だけ。俺はそれを凝視し、歯を食いしばったまま、思考も身体も動かせなくなってしまった。
御厨隆二は、今まさに人生最後の時を迎えようとしている。
叫び声を上げる者は不思議と誰もいない。
他の乗客も、キャビンアテンダントも冷静だった。
しかし、決して、みんな明鏡止水というわけではないだろう。
叫んでも意味が無いともう理解してしまったのか。己の身に降り掛かった災難に呆然とするしかなかったのか。俺と同様、恐怖のあまり声を上げることもできないほど怯え、すくみ上がってしまったのか。あるいはこれが死の直前まで右へ倣えをしてしまう日本人という人種の滑稽な国民性なのか。
とにかく、俺が搭乗した旅客機は乗客たちの絶望と諦観で満たされたまま、真っ逆さまに落ちていった。
そして、ついに終末はやってきた。
全身を打ち付けるような轟音。今まで味わったことも無い衝撃。
つかの間の静寂の後、飛行機の内外装がミルにかけられたコーヒー豆のようにバリバリと裂け、俺は空中に放り出される。
温度感覚も平衡感覚も破壊するほどの強烈な熱波と暴風が、俺を振り回した。全身を何度か強く叩きつけて、モノコック構造がむき出しとなった旅客機の残骸と共に、俺はいつの間にか宙を舞っていた。もう痛みもない。
今、俺に手足はあるのだろうか?
仮に首の上に頭が乗っかってても、この状況ではもう何の役にもたちはしない。そんなことを考えながら、俺は、なすすべもなく猛烈な勢いで水中に没した。
運動エネルギーに任せて、10メートルぐらいまで一気に潜水してしまう。泳ぎは苦手な方ではないが、こんな高度から飛び込んだ経験はさすがにない。
しかし、幸か不幸か、俺はまだ生きていた。
すさまじい水圧で鼻の中に入ってきたのは海水だ。どうやら海に落ちたらしい。もちろん、海だから助かるというわけでもない。
座席に固定したベルトが、なかなかはずれない。さらに、高度数千メートルから墜落した鉄の塊によって、俺の周りには自然災害レベルの大渦が発生していた。まるで、撹拌機にかけられたような状況である。俺の脳みそは散々シェイクされ、当然、意識も朦朧とした。死を前にして何とか活路を探そうと必死にあがく俺の本能は、周りの風景をスローモーションに見せてくれるのだが、海水のミキサーの中で垣間見たものは、鉄の瓦礫に潰されたり、串刺しになったりした乗客の死体。あるいは、切断された人体の一部だった。
ああ、今度こそ終わった。もうダメだ。そう思った。
しかし、そのときだ。
俺は目の前に、光る何かを見た。
そして、俺はそれにほぼ無意識に手を伸ばした。
助かりたかったわけでもない。
そうしなきゃいけないと思ったわけでもない。
朦朧とする意識の中で、考えもせず身体が動いたのだ。
そして、その光る何かが、女の子の形をしてると気付いた時………
俺のすべてが、息を吹き返した。
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俺は荒れ狂う海流の中で、なんとか『上』という方向を確認し、死に物狂いで海面に顔を出した。
飛行機に乗るたびに説明を受けるこの『黄色い空気の首飾り』がちゃんと役に立つ道具だったなんて、一体、誰が予想するだろうか? しかし、これ無しなら服を着て、靴を掃いて、さらに人一人を抱きかかえて泳ぐなど、きっと競泳選手でも到底不可能である。
はるか遠くに文明の利器の残骸のシルエットが見える。夕焼けの空に黒い煙を上げていた。海上にふりまかれたジェット燃料が燃えているのだ。
そして、今、俺の胸の上には、女の子の後頭部が乗っかっている。
まだ助かるかどうかはわからない。
俺は、片腕で彼女を仰向けに抱きかかえ、残る手足で必至に水をかき、波の上に顔を出しているだけで精一杯だ。
やがて波は穏やかになり、炎は消え、飛行機の残骸は海に沈んでいった。
海流に流されているのか、空気も次第に澄んでいった。俺はその空気を精一杯吸い込む。
どのくらい泳いだだろう?
いや、違うか。実際は泳いだというより、流されただけだ。
日がすでに水平線に落ちた。視界に残ったのは、星空だけになっていた。
気を失っているこの子がどういう状態かわからない。
ただ、抱きかかえている腕に、彼女の微かな鼓動が伝わってくる。
救助が来るまで、俺が力尽きないでいる保障はない。
いや、人間一人を抱えて何時間も浮いていろなんて、常識的に考えて無理だ。
しかし、どうしてもこの手を離せなかった。
今、手を放したら、将来、死ぬほど後悔するような気がした。
たとえ、彼女を見捨てたところで、俺自身の生還の可能性だって極めて低い。
どうせ死ぬなら、後悔をしない方がいい。
空を、満天の星々が覆っていた。
星はこんなにも多かったのかと圧倒される。
もしや、冥土の土産にと、神様が宝石箱をひっくり返してくれたのだろうか。
しばらくは、その数を数えながら海に浮かんでいたのだが、数えていた星の数を思い出せなくなったころには、俺も結局力尽き、彼女とともに海中に没したのである。