第一話 生還
「怖かったなぁー」
彩雲は、米軍機に追撃されることなく、フィリピンのルソン島ニコルス基地へ無事帰投した。コクピットから地面に降り立った操縦士の少尉、森口が飛行帽を脱いで、首のマフラーで額に浮いた汗を拭った。
「いやいや、あれぐらい余裕ですよ」
続いて降り立った偵察員の上飛曹、西川が余裕だとばかりに胸を張る。その尻を嘘つけ、と笑いながら森口が引っ叩く。
「本当に余裕でしたよ! なぁ、清水」
西川は振り向いて、最後に機体から降りた電信員の少年、清水一飛曹に同意を求めた。
「え、えぇ。西川上飛曹は勇敢でした」
清水はとりあえず適当に世辞を言った。ずっと後ろ向きで座っていたのだ。表情どころか姿さえ見ることなんてできない。
「そうだよな! そうだよな!」
それでも西川は本気にしたのか、清水の頭をワシャワシャと掻きまわす。
「ちょっと、西川上飛曹やめてください」
清水は慌てて髪の毛を抑えた。まぁ、丸刈りなので乱れる髪の毛なんてないのだが。
「ほぅ……、清水。お前は後ろ向きで座っていたのに、こいつが勇敢かどうかわかるのか?」
森口が僅かに生えた顎鬚をさすりながら清水の眼に鋭い視線を投げつけた。思わず清水は視線を逸らした。
「嘘……もしくはつまらん世辞で誤魔化したな……」
森口はニカッと笑うと西川と同じように清水の頭をワシャワシャと掻きまわす。
「嘘をつくような奴はこうじゃー!」
「少尉まで! やめてください」
またもや慌てて清水は髪の毛を抑える。それを見て彼の相方二人は大笑いした。
「あっはっは!」
「ぎゃははは!」
「わ、笑わないでください!」
清水は赤い顔で二人に抗議するが、無論聞き入れてはもらえない。しばらく気の済むまで笑い飛ばした二人は急にビシッとして前を向き。
「さ、司令に報告行くぞ」
「報告行きましょうかね」
と同時にタイミングを合わせたように言った。
「はあ……」
二人はまたニカッと笑って、きょとんとする清水の尻を軽く叩いて先に歩き出した。
清水は振り向く。整備兵に押されて格納庫へと向かう乗機の彩雲。胴体下部には対空砲による損傷が数か所見受けられた。彼が実戦配備されて乗った初めての機体。おそらく彼の棺桶になるであろう機体だ。
「今日もありがとう」
清水は誰にも聞こえない声で彩雲に感謝すると、先を行く二人の相方に追いつこうと走り出した。
司令室に着いた三人は完結に偵察内容を報告した。
「三人とも、危険な任務と貴重な情報、ご苦労であった」
清水らの所属している第一四一海軍航空隊の司令官、中村中佐は、報告を聞き終えると温かい笑みを浮かべて三人の手をそれぞれ順番に両手で握りしめた。
「ゆっくり休んでくれ」
「はっ! そうさせていただきます。ありがとうございました!」
森口が敬礼し、後の二人も続く。中村も敬礼を返し、サッと腕を下ろした。それを確認して三人も腕を下ろす。敬礼は、目上の人物が先に腕を下ろすまで目下の者は腕を下ろしてはいけないと定められていた。中村はそのことに配慮してか、早めに腕を下ろした。
「では、失礼いたしました!」
三人は、同時に頭を軽く下げて退室した。
「生還祝いに一杯やるか!」
「そうこなくっちゃ!」
夜半、森口の飲もうという提案に西川が即座に乗る。さらに、隣でボケっとしていた清水の腕を掴んで一緒に酒保まで連れて行こうとする。
「あ、あの……僕はまだ未成年ですから!」
清水は未成年を理由に断ろうとしたが、西川はグイグイ腕を引っ張っていく。酒保の入り口まで来たとき、ついに清水は観念した。
「あんまり飲めませんが……」
森口から渡された湯呑みにはたっぷりの酒が注がれている。
「乾杯!」
森口の温度と共に、清水は息を止めて一口グイッといった。
「あひゃー……」
とたんに、視界がぐるぐると回りはじめ、赤い顔になって酔いつぶれてしまった。
「あーあー、それ見ろ。お前が無理やり飲ませるからだぞ」
森口がタバコに火をつけながら西川を咎める。タバコは『赤道』という銘柄の軍用タバコで、ジャカルタにて製造された物だ。
「いやぁー。こんなに弱いとは思わなかったもんで」
西川はボリボリ頭を掻きながら肘で清水の脇腹をつつき、肩をすくめて一言。
「こりゃ駄目だ」
森口は大きなため息をついた。吐き出した煙が体の周りの空間を僅かに白く染める。西川もいつの間にか自分のタバコに火をつけ、紫煙をくゆらしている。こちらの銘柄は『つはもの』台湾で製造されている物だ。
「まぁ、なんとかこいつを酒が飲めるようになるまでは生かしておいてやりたいですけどね」
西川が清水に目をやり、煙をぶわっと吐き出す。
「あぁ」
森口はタバコを灰皿に押し付けて消し、湯呑みの酒を一気に飲み干した。それを見た西川が新たに森口の湯呑みに酒を注いだ。
「溝渕みたいに死なせたくないですから」
戦死した前任の電信員を脳裏に浮かべて煙を吐き出した。
清水の前任者の溝渕一飛曹は、二か月前のアドミラルティ―諸島への偵察行のときに、追撃してきた米軍機の銃撃を受けて戦死した。彼の代わりに新米の清水が送られてきたのだ。二人は、特に操縦士の森口は自分を責めた。もっと操縦が上手ければ、と。西川ももっと早く敵機を発見できていればと唇を噛んだ。
「真面目でいい奴ですしね」
西川は机に突っ伏している清水の背をバンバンと叩いた。清水はううっと小さく呻く。
「お前と違ってな」
森口は、空になった西川の湯呑みに酒を注いでやる。
「そりゃないですよ」
西川は軽く頭を下げて湯呑みから酒を一口喉に通した。体温が上がり、そろそろ酔いが回ってきたのだ。
「そろそろ寝るか」
紅い顔をしている西川を見て、森口は吸おうとしていた二本目のタバコを箱に戻した。
「ああ……そうしましょう」
西川はそう言うと自分と、清水の湯呑みに残っている酒を一気に飲み干し、空になった湯呑みを片付けた。それから、つぶれている清水の左肩を持って立ち上がらせる。
「おおー。力持ちだな、西川上飛曹」
森口は気持ちのこもっていない賛辞を述べ、軽く拍手する。
「いやいや、少尉もこっち側持ってくださいよ」
西川は拍手なんかいらないと言って清水の右肩を持つように、手招きした。
「お前が清水に飲ませたんだろ? てめぇで責任取れよっ!」
豪快に笑う森口を見て、西川は歯ぎしりして悔しがった。
「嫌な上官ですねっ!」
自分を睨む西川の視線を受けて、森口は不敵な笑みを浮かべた。
「じゃあ、こっち持てばいいのか?」
森口はワザと西川の自由な左腕の関節を曲げた。
「あいててて! ちがっ……清水の事ですよ!」
森口はなおも関節を曲げる。
「すいません! すいません! 俺が悪かったです!」
「そうか、そうか。反省したかぁ」
森口はやっと西川を解放してやる。西川は虐められた左腕を伸ばしたり曲げたりして痛みの余韻を取り払おうとする。
「まぁ、どうしてもと言うなら担いでやるよ」
森口は西川の右側に回り、清水の右肩を持った。
「最初から持ってくれればいいのに」
西川がボソッと言った。
「あ? なんか文句言ったか?」
「い、いえ! 早く清水が起きてくれないかなぁ、と言っただけです」
「そうかよ、ならいいんだ」
森口は清水の肩を持ち直して自分の肩に掛けた。清水が少し呻く。
「まったく。手間のかかる電信員だな」
「そうですねぇ」
二人は文句を言いながらも清水を両脇からしっかりと抱えて、宿舎の自分たちの部屋に入っていった。




