第59話 舞台裏の演者たち
《――以上をもちまして、トルディンゲン、ミルトダース両領国との協約は締結されました。ザッフェルバルおよびI.D.E.A.は、両領国の経済と農業の発展に協力し、協力と引き換えに、魔の者どもに備えた航空艦隊の配備・緊急時の展開許可、領国所属の法官たちの征伐軍への協力を得ることとなります》
満葉はザッフェルバル総督府の会議室にて、総督代行の堂々たる報告を聞き終えた。
ティルの声はまだ幼さを残しつつも、会議室にいる誰よりも芯が通っていた。
総督府に集まったザッフェルバルの重臣たちは、ティルの報告に一斉に微かなざわめきを交わし合い、しかし表情に決定的な反対の色は浮かばない。
「皇帝陛下は、本当にこのような動きをご承認なさったと……」
三領国が協調して魔の者どもへの対処を行い、そのために公式にトルディンゲン・ミルトダースでのI.D.E.A.の活動の自由を認めさせる。
そのあまりに得体の知れない動きに腰が引けるあまり、いまさら寝ぼけたことを言い出す老人が一人。だが、ティルは呆れることもなく、淡々と事実を突きつける。
《かねてよりお伝えしておりますとおり、陛下の裁可をいただいての協約です。先日の大規模侵攻を振り返るまでもなく、今の私たちはあまりにも魔の者どもに対し無力です。それを是正するために必要な措置です》
短い沈黙が落ちた。ザッフェルバルの重臣たちは互いに視線を交わすが、やがてその沈黙を破ったのは、まだあどけなさを残す少年の声だった。
「閣下。このたびのご大任、まことにごくろうさまでした」
ディトレンだった。ディトレン・ツァル・ザッフェルバル。齢九歳の次期総督。
眼差しには幼い決意が光っている。
「これからは三領国や征伐軍、イデアのみなさんとも手を取り合ってザッフェルバルを守らなければなりません」
その言葉は幼いが、会議室に澄んだ響きを残した。重臣たちの顔がわずかに揺れた。
……いいぞ、坊ちゃん。
満葉は心の奥で微笑んだ。ディトレンの言葉には、確かに少しずつ満葉たちが教えてきた知識と考え方が根付いていた。
ティルや満葉、I.D.E.A.の職員たちがこまめにディトレンのために勉強会を続けていた成果が、少しずつ花開こうとしていた。
「……確かに、現状を打破するにはこの協約は欠かせぬ」
やがて領政長官がそう口を開き、他の者も同意を示すように頷いた。
「若殿の仰せの通り、異例ではあるが、賛成せざるを得まい」
満葉はその様子を静かに見つめ、胸中で小さな満足を覚えた。
ティルに楯突くタカ派が勢いを失い、風見鶏ばかりが残ったザッフェルバル総督府の中で、ザッフェルバルの正当後継者が――未だ幼子とは言え――ティルを真正面から支持する。その状況まで持って来られたことは非常に大きな成果だ。
ティルが深く一礼し、画面の向こうで銀の髪を揺らした。
《皆さまのご理解に感謝します。ザッフェルバルは、共に境界線を共にする二領国とともに、征伐軍と足並みを揃えて魔の者どもに立ち向かいます。引き続き、皆様のご献身を賜りますよう、よろしくお願いいたします》
その言葉を最後に、通信は終わる。ティルの姿が消えたことで、会議室にはようやく安堵の空気が満ちた。
*
ザッフェルバル領都の外れ、人気の途絶えた細い通りに、くぐもった灯りが一つだけ浮かんでいる。煤けた木枠に吊された小さな看板──「ケウル」を示すカップの絵がかろうじて読める。
メネットは、黒い外套の裾を片手で押さえながら、その扉の前で一度だけ足を止めた。夜気は乾いて冷たい。義足越しにも石畳の冷えが伝わるような気がして、メネットは無意識に太腿の付け根を意識する。
深く息を吸い込み、メネットは扉を押し開けた。
バーの中は、昼間と変わらず薄暗い。奥のカウンターの向こうで、店主が布巾を動かす手を止め、ちらと扉の方に視線を向けた。中年の男。少しくたびれたシャツに、皺になったエプロン。客はほかにいない。
「『白い鳥がこちらに来なかったかしら?』」
合図代わりの挨拶。店主の視線がメネットに向けられ、符丁が返る。
「『そこの蜘蛛にでも聞いてくれ』」
メネットはカウンターに近づき、義足が床を叩くわずかな金属音を意識して歩幅を揃えた。こういう静かな店では、余計な音は目立つ。
「『今日のおすすめを』。……いいかしら」
店主は、当たり前のようにカップを取り出す。
濃く抽出したケウルのカクテル。甘み入りの一杯が差し出され、店主がおもむろに口を開いた。
「ウィリアの接触は成功した。新しい情報もある。詳細は既にウィリアから上には上がっているそうだ」
メネットはカクテルに口をつけ、続きを促すように視線を送る。
「一つ。“おおとり”はやはり空中に存在する拠点の名称らしい。ルタンや“あけぼし”の中と出入りする小型の船と似た役割を、より大規模に展開するものだとか」
「以前から目についていた『上空に居座る半円』とみていいのかしら」
「そこまでは。だが、こいつの大きさはどうも、『あけぼし並、あるいはそれ以上』だそうだ。そして重要なのは、情報収集先は『大きすぎて地上に降ろせない』と明言した」
「……協定首都の“議場”みたいなものなのかしら」
メネットは、かつて一度だけ見たことのある、イーノルボンの空に浮かぶ島を思い浮かべる。
「ああ。あけぼしの大きさを踏まえれば、“島”のイメージが近いのだろうな」
そしてもう一つ、と店主が続ける。
「その“おおとり”は、『西の海を渡った向こうの大陸』で建造された、ということだ」
「『西の海を渡った』大陸……? ウィリアの間抜けが何か聞き間違えたんじゃない?」
メネットは耳を疑った。『大陸』とはすなわち、いまここで踏みしめている大地のことだ。海を渡った先に、あるのはせいぜい小島がいいところ。
だが、店主は首を振る。
「ウィリアの話を聞いたヤツは、確かにそう聞いたと。……イデアは空を自由に移動できる。連中なら、はるか西の海の果てに、巨大な島を見つけていてもおかしくはない。実際、帝国の西方にいる連中から、巨大な空船が飛び立ったような話は一切上がっていない」
否定できる理屈はない。特大型飛竜を空中で撃ち落とす連中だ。
だが、それが事実と仮定すると、一つ厄介な可能性を示していた。
「だとすると、また一つ、手出しのできない重要拠点が判明した、というわけね」
「そういうことだな」
カクテルの香りが立ち上る中で、メネットは髪をかきむしった。イデアについては、調べれば調べるほど頭痛の種が湧いて出てくる。
「次に、総督府の中だが、総督代行はまたどこかに飛び出したらしい。今回は長旅のようだ」
メネットは総督代行の単語を聞き、思わず顔を歪める。総督代行の座にある『あの子』の一喝で魔力を失い、瞬間に手足を灼き切られた瞬間のことを。
「イデアの入れ知恵でしょうけど、ずいぶんちょこまか動くわね」
腹の据わった少女だということはメネットも強烈に記憶しているが、ザッフェルバル総督代行になってからも、領国内のあちこちに現れたり突然皇帝と謁見したり大神将と謁見したりと油断のならない動きをしている。
「次はあたしから。イデアの空船だけど――新しい船が増えてる」
「他からも聞いている。数は?」
「少なくとも確認済みの“槍型”の他に、槍型に似た小ぶりの船――“小槍型”が二隻、甲板に槍を積んでいない“盾型”が新たに領都の空港で確認されたわ」
「なるほど。ここに来て急な戦力拡大という訳か」
「予定どおりか、この間の“境界跨ぎ”で急遽拡大したのか……」
「悪い話だな。実に」
「ええ。……それに、ルタンではだいぶ派手に訓練をしてる。最近、いくつか新しい魔獣も確認した」
「新しい魔獣?」
「“鎧の重竜”と“鎧の快速竜”と仮に呼んでいるわ。“鎧の重竜”は首なしの四つ足で、鼻のような部位に空船と同じ“槍”を持っている。“鎧の快速竜”は首なしの二本足槍を持つ個体と持たない固体があって、槍を捨てることもできるみたい。これが、“鎧兵”や、空を飛ぶ“巨人”と連携して戦う訓練をしている」
「まったく、底が知れないな」
店主は肩をすくめていう。
「訓練のたびに一人を張り付けて数や動きを見ているけど、正直、竜人兵や快速竜騎兵とぶつかったらどうなるのか、想像もつかないわ――三度の“境界跨ぎ”が全て失敗した以上、アレに敗れた、と見るのが正しいのでしょうけど」
メネットはため息をつきながら言い切る。メネットたち密偵は、三度の“境界跨ぎ”によって、竜人たちががいかにして敗れたか、その現場は見ていない。
三度目の“境界跨ぎ”の戦地から生きて戻ったわずかな竜人たちも、ほとんどのものは敵の姿を見ることすらかなわず、訳もわからず爆風に吹き飛ばされた者ばかり。
だが、あのイデアが三度目の“境界跨ぎ”の後も、なお訓練で運用していると言うことは、一定の能力を示したということに違いない。
「確かにな。他の連中にも注意するように伝えておく」
よろしく、とメネットは伝え、ケウルを少し口に付ける。
……ここからが、気の進まない話題。
「次に、相談」
メネットがそう続けると、店主の視線がわずかに鋭くなった。
「本国から、見せしめの生贄を用意して欲しい、とのお達しがあった」
カップの底に残ったケウルの液面が、小さく揺れる。メネットは指先でそれを見つめた。
「先日の『流星』以降、同盟領内のすべての部族に、“境界跨ぎ”の禁令が下ってしばらくになるけれど、血の気の多い部族は『自分たちにやらせろ』と騒いで抑えが効かなくなっているみたい」
「竜人らしいな」
「本当にね。……とは言え、今回の禁令はただの禁令じゃない。翼竜会議で、猊下の“導きの裁可”に基づく最上級の禁令だから、各部族も独断専行で軽く越境して不満を解消、上がそれを見て見ぬ振り、というわけにはいかない」
「下手に越境すればイデアの連中が何をしでかしてくるわかったものではないからな」
「そう。だから先日も飛竜を事故に見せかけて越境させようとしてみたけど……結果はあのとおり。あっさり叩き落とされた」
「お前たちも国境まで駆り出された割に――まったく無駄骨だったな」
「こんな失敗続きで負け続きの状況で、少しでもいい知らせを国内に流したい――有り体に言えばそういう命令」
「それが最優先指令だと?」
「国内がそれだけ切羽詰まっていると言うことなのかしらね。民衆にも、下の兵士にも、自分たちが完全には無力ではない、と演出するために」
メネットの声には、あからさまな軽蔑が滲む。
「本国のお偉方は、必死で抵抗したとは言っていたけど、どこまでどうだったのかしら」
「抵抗する気があったとしても手札がないさ。勝ち筋に届くような情報が、あまりにも少なすぎる」
「でしょうね」
メネットはあっさりと頷いた。自分たち自身がよくわかっている。敵対する相手がいかに厄介か。
天鱗同盟の勝ち目が薄い──その言葉が、メネット自身の頭の中で反響する。
家族の生殺与奪を握られ、家畜扱いを免れている自分。
人質を取られているからという理由だけでなく、愚かで無力な帝国に対し、勝ち馬に乗っていると確信しているからこそいいように使われてきた。
だが、このまま天鱗同盟が崩壊するようなことがあれば――。
……それでも、イデアにだけは、一矢報いねば気が済まない。
メネットの両足と利き腕を奪ったのは、間違いなく奴らなのだから。
沈黙が少しだけ流れた。店主はカップの底を見ながら、何かを考えている。
「……一つ。出せる情報がある」
やがて、店主はそう言って顔を上げた。
「最近、イデアの軍人で、頻繁に一人で出歩いている男がいる」
メネットの指が、カップの取っ手の上で止まる。
「一人で?」
「ああ。場所はルタンの住宅街。いつも同じ顔だ。おそらくはイデア軍人の服装で、背は男として妥当な高さ。体つきは軍人にしてはひょろい。髪は灰色に近い」
「護衛は?」
「付いてはいない。少なくとも、これまでは一貫してひとりで街を歩いているように見える」
メネットは、カップからそっと指を離した。
「住宅街でそいつは何を?」
「街の子供と会って菓子か何かを恵んでいるらしい」
「……その話、他には?」
「まだ流してはいない。うちの連中にも、様子見だと言っておいた。イデアの軍人一人がふらふら出歩いているからといって、無思慮に手を出せば痛い目を見るだけだからな」
「そう」
メネットは、静かに息を吐いた。
店主と目が合い、同じ目をしていた。
確信する。これ以上ない条件。
「……他に手頃な奴がいなければ、“そいつ”ね」
「だろうな。あいにく他に心当たりはないが」
メネットは、立ち上がった。義足が床を叩く音が、先ほどよりもはっきりと響く。自身の決意を告げる足音のようにも聞こえた。
「その男の顔、服装、歩く時刻。わかる範囲で全部、明日までにまとめておいて」
メネットは、店主に視線を投げた。
「――やるわ。やってやろうじゃない」
その言葉とともに浮かんだ笑みは、メネットが自覚できるほど歪んでいた。




