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父の悪徳

作者: 青椒

 父が死んだ。

 六月の雨の日だった。ちょうど四限目が始まったところで、僕は雨の降るグラウンドを眺めながら退屈な時間が過ぎ去るのを待っていた。

 グラウンドは水浸しで、あちこちに水たまりができていた。雨は全くやむ気配を見せない。梅雨入りの宣言が出されてから、まだ二日も経っていなかった。

 自分の名前が呼ばれた気がして、僕は我に返った。物好きな二、三人がこちらを見ている。目を上げると、前で授業をしていた教師までこちらを向いていた。出入り口の近くに担任が立っているのに僕は気づいた。何か悪いことをしたのがばれたかと考えたが、思い当たる節はない。担任は初老の女性で、優しい人だった。叱られてもどうせ大したことにはならないだろうと僕は思った。

「浅川君、ちょっと」

 そう言って彼女は手招きした。


「浅川君」

僕を教室の外に連れ出すと、彼女は言った。栗色の瞳がいつになく真剣だ。

「いきなり何ですか」

「あなたのお父さんに何かあったらしいの。お姉さんが校門まで迎えにきてくださってるそうだから、今すぐ荷物をまとめて行きなさい」

 彼女はそれだけ言うと、急いでどこかに行ってしまった。

 僕は鞄を持って昇降口を降りた。何があったのだろう?僕は最後に父とまともな会話をしたのが何時だったか思いだそうとしたが、うまく行かなかった。半年以上は経っている気がする。父は嫌いだった。本人は違うと言い張っていたが、僕にはエゴイズムと権威主義の塊にしか見えなかった。随分前から父は僕に構わなくなり、僕も反抗することを止めていた。馬鹿馬鹿しかったし、いい加減そういうことにも疲れていたのだ。


 靴をはきかえ、校門を出ると姉が待っていた。傘を持つ手が微かに震えている。目元も赤く腫れていた。後ろには真新しい赤いセダンがあった。成人の記念に父が買ったものだ。姉は完全に取り乱していた。服装もめちゃくちゃで、家からそのまま出てきたような感じだ。姉は僕の五歳上だった。僕よりも背が高く活発で、機嫌が悪くなるとよく僕をいじめた。泣きそうな姉など、初めて見た気がする。

「いきなり何だよ。何があったの?父さんがどうしたって?」

 僕は訊いた。

「お父さんが大変なの。事故に遭って…」

 彼女はやっとそれだけ言うと泣き出した。

「父さんは今どこに?」

「X病院で、お母さんが付き添ってる。早く行かなきゃ」

 そう言って彼女は車に乗り込んだ。


 土曜日だからだろうか、道は空いていた。車内は綺麗に片づいていて、真新しい車のにおいがした。フロントガラスについた水滴が、ゆっくりと後ろに流れていく。しばらくワイパーの音だけが響いていた。

 信号に引っかかると、彼女は話し始めた。

「今日は授業がなかったから、朝から家に居たの。お父さんも研究室は昼からだったみたい。十二時ぐらいに出かけて行ったんだけど、すぐに警察から連絡が来たわ。トラックに跳ねられたって」

 姉の声は震えていた。

「お父さん、忘れ物でもしたのかな…。急いでたみたい、信号が変わったすぐ後で、駅前の交差点に駅の側から出てきたって。避けようがなかったってトラックの人は言ってたわ」

「信号、変わってるよ」

 そう言うと姉ははっとして顔を上げた。後ろの車がクラクションを鳴らしている。

「落ち着いてるのね」

 姉は言って、車をスタートさせた。どこか非難するような口振りだ。

「姉ちゃんが取り乱しすぎなんだよ。どうなるかなんて、まだわからないじゃないか」

 姉は黙って首を振った。

「内臓がぐちゃぐちゃになってるって…」

 そのまま病院に着くまで、姉は何も言わなかった。ただ、声を押し殺して泣いていた。

 不思議と何の感情も沸いて来なかった。父が死んだということは理解できた。でも実感は何一つ無かった。赤の他人、せいぜい友達の親が死んだぐらいの感情しか、僕は持てないでいた。

 

 受付で用件を告げると、僕らは病院に入った。病院はアルコールの臭いがした。リノリウム張りの廊下は黄ばんでいて、清潔感といったものはこれっぽっちもない。照明はどこか薄暗く、パジャマを着た老人たちが、点滴のスタンドによりかかるようにしてふらふらと歩いていた。

 母は待合室にちんまりと座っていた。呆然とした様子で、僕と姉が来たことにもしばらく気づかなかった。僕らの姿を認めると、母は黙って首を振った。姉は泣き崩れた。暫く、誰も何も言わなかった。


「これ、お父さんが徹に渡せって…」

 母は消え入りそうな声で言い、鍵を取り出した。長さは五センチほど、何の変哲もない金属製のものだ。

「これ、何の鍵?」

「知らないわ。お父さん、言う暇もないまま死んじゃった…」

 母は呟くと、堰を切ったように泣き出した。

 僕はどうしようもない居心地の悪さを感じていた。皆、涙を流していた。この世で悲しんでいないのは僕だけのような気がした。僕は居たたまれなくなってその場を離れた。


 病院前の駅からバスに乗った。家までは二十分ほどだ。

 人気のないバスの中で、僕は父のことを考えた。

 父は今年で五十になる。背丈はひょろ長く、いつも青白い顔をしていた。大学院を出た後、父はそのまま大学に残って魚類の研究を始めた。理由は知らないが、彼は教授になりたかったのだ。ひょっとしたら、才能があるとでも勘違いしたのかもしれない。 

 教授になるという夢を実現するために、父はあらゆることをした。休日を返上して、何の意味もない、学会と称した食事会に出続けた。老害どもに媚びを売り、好きでもない酒を飲み、夜遅くに帰ってきては母に不満をぶちまけた。僕はそんな父が大嫌いだった。

 しかも結局のところ、父は教授にはなれなかった。二十年間研究を続けて父が得たものは、雀の涙ほどの給料と、鰻に関する不毛なまでの知識だけだった。そしてそのまま彼は死んでしまった。

 ひょっとしたら、僕は父にもっと構って欲しかったのかもしれない。うるさく付き纏って、あれこれと指図して欲しかったのかもしれない。でも今となっては何を言っても無駄だし、生きているうちはまともに会話するのも嫌だったのだ。人間なんてそんなものだ。

 僕は手元の鍵を眺めた。何の鍵だろう?未発表の論文か何かが入っているのだろうか。鰻なぞには興味がなかったし、渡すべき人がほかに居ることは父にだって分かっていた筈だ。それに、父が鍵をかけて論文を保存している所など見たことがなかった。

 あるいは遺言状だろうか。それなら、母に渡した方がややこしいことが起こらずにすむだろう。姉に渡さず、僕だけに渡した意図が全く見えなかった。何か僕だけが知らないことでもあるのだろうか。

 海沿いの駅で、僕はバスを降りた。家までは五分ほどだ。雨はまだ降り続いていた。


 誰もいない家はがらんとして、妙に広く見えた。

 僕は家中の鍵をすべて試すことにした。大きさからして南京錠はありえないだろうから、数はだいぶ限られてくる。一階の鍵という鍵を漁ったが、どれにも合わなかった。僕は階上を見上げた。父の書斎は二階にある。


 僕は父の書斎に入った。英文の学術書、ファイルされた論文が所狭しと並び、足の踏み場もない。パソコンはまだ電源が入っており、スクリーンセーバーが起動していた。プリントアウトされたばかりの論文が散乱した仕事机の上には、中身の入ったマグカップが放置されている。振り向くとすぐにでも父が入ってきそうな雰囲気だった。ただ父の存在だけが足りなかった。僕は父の死を痛いほどに実感した。

 しばらく探したあと、僕は鍵付きの棚を見つけた。部屋の突き当たりの本棚の陰に隠れるようにして、それは置いてあった。この部屋で鍵がついているのはこれだけだ。

 棚はシリンダー錠式の古いもので、膝ぐらいまでの高さがある。僕は手元の鍵を確認した。鍵はこの棚のものだろう。

 鍵を差し込もうとして、重大なことに気づいた。扉は既に開いていた。鍵など必要なかったのだ。誰かに先を越されたのではないかという不安が僕を襲った。僕はおそるおそるそれを開いた。


 突然、けばけばしいピンク色の表紙が目に飛び込んできた。扇情的なタイトルがいくつも並んでいる。僕は自分の目を疑った。見てはいけないものを見てしまった罪悪感が僕を襲う。だがもう遅かった。一冊や二冊ではない、大量の猥褻本が、金庫の中に横たわっていた。父のイメージが音を立てて崩れさっていくのが分かる。こんなもの、今時中学生でも有り難がらないだろう。積み重なった本の山の中には、卒業アルバムらしきものさえあった。状況を鑑みるに、懐かしいので大切に保管していた、という訳でもないらしい。段々と笑いがこみ上げてきた。結局のところ、僕は父のことなどほとんど理解していなかったのだ。そして、これから理解することも出来ないのだ。

 唐突に、僕は父の意図を理解した。鍵は扉を閉めるためにも必要なのだ。父が出かけたとき、家には母と姉がいた。棚の位置から考えると、部屋に入られただけで見つかる可能性はある。父は家を出た後に鍵を閉め忘れたことに気づき、居ても立っても居られなくなったのだろう。父はこんなもののために焦り、車にひかれて死んだのだ。

 遺品整理などされたら、堪ったものではない。本を元に戻すと、僕は金庫の鍵を閉め、静かに部屋を出た。

 雨はやんでいた。海へと向かう道はまだ濡れていて、僕は水たまりを避けながらゆっくりと歩いた。雲間からさしこむ西日が、あたりを明るく照らし出している。海は凪いで、金色に輝いていた。僕は波打ち際まで行って鍵を放り投げた。鍵は銀色の弧を描いて飛んでいき、どこかへ消えた。僕はそれを見届けると、日が暮れるまで泣きつづけた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 拝読しました。 父が隠していたものが息子との絆を示すようなもので、それによって息子が感動するオチだったらありがちだなあと思っていましたが、意外な展開に驚きつつ納得しました。 父の人間味に触…
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