<胡蝶の夢>
病院で深層心理を検査するといわれて、頭をすっぽりと覆うVR用のヘッドギアに似てはいるが、サイズ的にとても大きいそれを被ったところまでの記憶はあった。
そして今はなぜか患者衣というのかな?
パジャマっぽい服装をしている自分が、暖かい日差しの中、芝生によく似た丈の短い雑草を素足で踏んでいた。
あ、なんだか気持ち良いな。
じゃなくて、ここは……あれか? 仮想空間かなにかなのか?
そういえば、直前の医師の説明では仮想現実に関する検査という話だったし、被ったヘッドギアもそれ風だったので今見ている光景は仮想空間なんだろうとあたりをつけた。
現実にこんな緑豊かな場所や澄み切った青い空があるわけが無いしな。
「じゃあ、今は検査中なのか?」
そういえばどんな検査内容なのか医師から説明されてないことに気付き、自分は今何をすれば良いのか判断できない。
指示があるのを待っていれば良いのか?
……それとも、すでに検査は始まっていてこの空間でどう過ごすかで仮想現実に対する検査が出来るんだろうか?
まあとりあえず、座って待つくらいは構わないだろう。と思い、芝生のような雑草の上に腰を下ろしてみる。
「おー、よくできた仮想空間だ」
芝生の手触りを楽しみながら思わず口にした。
通常、仮想空間は主体となっている人間が意識を向けている方向に対しておおよそ200mほどの空間情報の密度を上げてそれ以外の周囲はごまかしている。
しかし、病院の設備だからなのかこの空間は物凄くリアルだ。
どれだけ空間構築にリソースを割いてるんだ?
まあ、目的が仮想現実に対する検査ならこの位リアルにした方が検査としては正解なのかな? 医者じゃないのでその辺はよくわからないが。
草の青臭い匂い、触れた手のひらから伝わるちくちくとした芝生の一寸くすぐったいような手触り、太陽光で肌がちりちりする感覚、遥か遠くまで見渡せる空や山が作り出す風景、ぼんやり眺めてるだけでもこの凄さはわかる。
「あー、家の環境もこの位のシステム欲しいなー」
まあ、個人で買えるような値段じゃないことは確実だろう。
「ぐぅぅ」
うん? 腹が減ったぞ。
お腹の鳴る音で自分が結構空腹である事に気づいた。
うーん、いまだに医師からは何の指示もないしどうしたものか。
仮想現実内の仮想空間で食事をしても空腹は解消できないんだよな。
理由はたしか……仮想現実である、との認識をその点で間違いなく分からせるためだっけ?
一応それを規制する法律もあり、現在の仮想現実で食事というのは単なるポーズになっている。
食事しながらのほうが会話がしやすいとか、ロールプレイの一環として食事することもあるので。
ついでに言えば普通は味も無い。
「せんせーい、指示はまだですかー?」
一寸大きな声を出してみたがモニターしていないのか、それともこれも検査の一環なのか反応が無い。
ぼーっとただ待っているのも退屈だったので少し歩き回ってこの空間の見学をしてみることにする。
……もしかすると、同じように検査を受けてる人がいるかもしれないしな。
しばらく歩いて色々見て回っていると遠くで光を反射している場所がある事に気づいた。
注視してみると大きな湖か海かそういう感じのものが太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
多分湖だと思うのだがその中心になにか巨大な岩がそそり立っているのが印象的だ。
あとは、背の低い木がそこそこ密集して小さい森のようになっているところがあった。
退屈だったので分け入ってみると、森の中にはリンゴによく似た果物がなっている木があったが、食べても仕方が無いので今のところは通り過ぎた。
――しかし、本格的に腹減ってきたな。
さっきの果物、うまそうな匂いまでしてたな……あれはさすがにやりすぎだろう?
空腹をごまかすためにとりあえず無意味でも食べてみるか。と思ってさっきのところまで引き返し、ためしにリンゴっぽい果物をもぎ取ってみた。
手に取り眺めて見るが、その質感、そして美味しそうな匂いまで完璧に再現されていて思わずよだれが出てしまう。
空腹の誘惑には勝てず、そのまま噛り付いてしまった。
「お、うまい」
味まで再現されている。
これはさすがにどうなんだろう? 違法すれすれ?
まあ、味があったほうが気はまぎれるか……と、そのままシャクシャクと音を立てて齧っていると恐ろしいことに気付いた。
あれほどキューキュー鳴いていたお腹がおとなしくなっている。
……空腹が、解消された。
「ちょっ!」
明らかに違法だろこれ?
自分が今どんなシステムに繋がってるのか急に恐ろしくなった。
「ログオフ!」
緊急離脱コマンドを口頭で叫んでみたがシステムの反応が無い。
「ログオフ! ログオフっ!!」
何度か叫んでみたが無駄だった。
「おいっ! 誰かモニターしてるんだろう! おいっ! ……返事ぐらいしろよ!」
まさかとは思うが病院のシステムが外部からのハッキングを受けたのか?
原則病院のシステムというものは個人情報(医療記録などを含む重要な情報)保護の目的でネットワークには接続していない。
独立した院内のみのネットワークでの運用か一台のみで運用するスタンドアローンタイプの筈だ。
それに、扱っているデータの関係で、もしも仮に外部ネットワークに接続していたとしても量子暗号化くらいはしているはずだ。
一体何でこんな状況に……