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やって来たのは下駄箱。放課から幾らか経っているので、人の姿はほとんどなかった。雨や土の匂いが僅かに漂うばかりだ。リノリウムの床に泥がこびりついているあたり、学園の生徒の育ちが知れるというものである。
下駄箱の向こうはそのまま外へと繋がっているので、傘たてから傘を取ると、大抵の人間は歩きながら傘を開いて、外へと向かうはずだ。その際、どれくらいの人間が傘の骨の中央に放り込まれた糞に気付くだろうか。ジャンプタイプなら、逆さまにしてボタンを押して、骨が密集していたときには留まっていた糞が、その枷を外れて落下してきて初めてその存在に気付くのではないだろうか。一般的なビニール傘に代表される、手で押し広げるタイプなら、最悪ひろげている最中にモノに触れる可能性もある。どちらにせよ、悲しい事態が想定できる。
「しかし言いだしっぺがノープランなんだもんな。びっくりするわ」
「しょうがないじゃん。ソラに協力してもらうところまでしか考えてなかったんだから」
ソラはまた頭が痛くなる。おおかた、件の女子生徒が真っ向から糞をかぶったという話を聞いて恐ろしくなったという動機ありきで、その先はこちらに丸投げするつもりだった、というのがソラの見立てだったが、見事に的中だったらしい。彼としては嬉しくも何ともないが。
三人は傘たてを検分したり、周囲を哨戒してみたが、ごっこ遊びの域は出ず、これと言った成果はなかった。
部室に戻ろうかという話になりかけた時、ふ、とソラのブレザーの袖を引く感覚。
「ん? どうした?」
ヒナタだった。黙って袖を引くのとは反対の手をすっと上げて、指差す。その先を見て、ソラはおうと声を上げる。壁の上部、監視カメラがあった。
「へえ、あんなとこに監視カメラなんかあったんだな。知らなかった」
「まあ、普通の人間はいちいち監視カメラの存在なんて気にしませんから。私も初めて知りました」
パトロールごっこをしていたツキも呼び、全員で近づいて見上げる。
「残念ながら出入りを監視する目的みたいですね。当然かもしれませんが、傘たては映らない角度みたいです」
「それはまあそうだろうね。傘たてばっか映してる監視カメラってのは世界的に見てもそうは無いんじゃないか」
「でも悲観することはありません。現状、外部犯か内部犯かも定かではないのですから、不審人物の出入りがあるかないかくらいはわかるかもしれません」
「それはそうかもしれんが…… 普通に考えて変なのが映ってたら、学校側も既に対処してるんじゃないか?」
「どうでしょう。フィルムのチェックなんて頻繁にやってないかもしれません」
ヒナタとソラはああでもないこうでもないと角つきあわせ始める。面白くないという顔をしたツキが、頃合を見て割り込む。
「ねえ、こんなところで話し合ってても結論なんて出ないよ。ダメもとで誰かわかる人に聞いてみようよ」
「それもそうだな」
話は決まり、職員室にでも行こうかというところで、ツキが渋い顔をした。原因は前方から歩いてくる人物、原田雲子らしかった。三人からすれば一学年上の先輩にあたる。縁なしのメガネと吊り上り気味の双眸、薄い唇といった外見から、何となく人を寄せ付けにくい雰囲気があるが、実際あまり人付き合いが得意な方ではない。
「あら? ヒナタ、小窪くんも…… それから雛森さん」
探るような目で三人を順に見る。犬猿の仲たるツキへと移った時点で、いっそう胡乱げに細められる。
「こんにちは。今日は部室居ませんでしたけど、お休みっすか?」
「小窪くん、覚える気がないなら聞かないでってば。木曜日は生徒会の方に行ってるから」
そういえば、とソラ。彼女の言うとおりで、このようなやりとりはしょっちゅうあった。
雲子は、推理研の部長でもあり、同時に生徒会の役員を兼任している。各種委員会は、活動の多い運動部との兼任は不可だが、文化部との兼任は可能だ。もっとも忙しないのでやっている人間は少ないとソラは聞き及ぶ。
「あ、そうだ。先輩、あのカメラ知ってます?」
「私たち、いま見てきたんですけど、ちょっと気になることがあって、フィルムとかあればなって」
二人の矢継ぎ早の質問に、ますます怪訝な様子になる雲子。何故かその視線は、一言も喋っていないツキに注がれたままだった。
「何をしているのか知らないけど、あんまりウチの部員を変なことに巻き込まないでよ」
「知らないよ。その子が勝手についてきただけだし。ソラ、行こう? 先生に聞けばいいよ」
ソラの腕を引いて、横をすり抜けようとするが、すれ違いざま、雲子は薄く笑った。
「ダミーカメラよ」
「は?」
ソラが首だけ振り返る。
「だから、アレはダミーカメラ。何も映しちゃいないわよ」
それだけ言うと、雲子は三人が元居たほう、下駄箱へとすたすた歩いていった。