13
職員室の隣、こじんまりとした一部屋に、彼は居る。ソラは僅かに視線を上げて、プレートを確認する。インクがかすれて大層読みにくくはなっているが、確かに用務員室で合っているようだ。握りこぶしで、ノック。中から少し待てという主旨のくぐもった声が返ってきて、数十秒待つと、おもむろに部屋の戸が開いた。
「ん? 何や? 生徒さんか?」
年の頃は五十代に届こうかという壮年の男だった。いわゆるビン底メガネと言うのか、かなり度のきついレンズを嵌めている。やや口元が突き出したような顔立ちと相まって、メガネザルのような風貌だった。実際、一部の生徒からはその渾名を頂戴していたりするのだが、ソラは初対面だった。
「すいません、用務員の方ですよね?」
「ああ、そらそうやろ。ここにおるんやから」
用務員が笑うと、黄ばんだ歯列が覗いた。本人は柔和に笑ったつもりなのだろうが、口臭が漂い、清潔感は皆無だった。ひとりで話を聞いてくるとした数分前の自分は正しかったかもしれない、とソラは思った。
「ほんで、何の用や?」
「ああ、えっと。最近、ウチの校内で悪戯が流行っているのはご存知ですか?」
「ん? ああ、ウンコか」
「ええ。実は僕…… とその友達数人で、ちょっと犯人を捜してて」
「探偵ごっこってわけか」
そっと目を細めて笑う。遠近すらぼやけるレンズの向こうで、その瞳に懐古とも茶目気とも付かない色が浮かぶ。
「まあそんなところです。それで、少々おねがいしたいことがあるんですが」
ソラがするりと本題を切り出した。
一旦、部室へと取って返すと、待機していた二人と合流する。少女たちは口々にねぎらいの言葉を掛けるが、ソラとしては複雑な心境でもあった。まるで魔物の巣から生還した勇者でも讃えるような調子で、二人が例の用務員を見た目だけで判断しているのは明白だったから。話してみると普通に良い人だったよ、と返しながらも、そんなものかとも思う。話したこともない、大人の男性となれば、二人が尻込みするのも、むべなるかな。事実、そんな判断のもと単独で向かったのもソラ自身である。
そんなことを考えていたソラだが、いつまでも他所事で時間を潰していても仕方なく、用事を済ませに行く。
今度は三人連れ立って、普段はあまり使われない校舎の西側へ回る。年に何度つかうかも知れない大きな講堂があるのだが、普段はやはりデッドスペースと言わざるを得ない。その講堂の入り口の脇、外へ繋がる鉄扉がある。内側からなら鍵はつまみで開閉可能で、捻ると簡単に開錠できた。
「どうする? 別に面白いもんがあるわけでもなし、二人は待っててもいいぞ?」
「ううん。行くよ。ソラばっかり働かせるわけにもいかないよ」
ツキの言葉に、ヒナタも概ね同意という感じで、目だけで頷いた。
扉を押し込むように開くと、すぐに雨の匂いがした。外気は冷たく、ブレザーを部室に置いてきたソラが、二三度シャツの袖をさすった。下草に弾ける雨粒は思いのほか大きく、傘を持ってこなかったことを遅れて後悔する。
「ありゃ、結構ふってる? やっぱ待ってようかな」
「おいおい」
学園の西側には幅の広い川が流れており、連日の雨に、水嵩を増し、汚泥まじりの濁流が轟々と音を立てていた。フェンス一枚へだてた敷地側は、木立が伸びていて、樹冠の向こうに、灰色の空がどこまでも広がっていた。
一行は、葉からしたたる水滴に苛まれながらも、目的の場所へ辿り着く。
焼却炉の裏に、まとめて置いとるよ。用務員の言葉の通り、果たしてそれはあった。
「うげー」
ツキが生理的嫌悪をあらわに見つめる先には、ちょっとした膨らみがあった。子供が作る砂山くらいの高さはあるだろうか。一見すると泥か粘土のようにも映るが、近くで見れば、ひとつひとつが犬のクソであり、それの集合体として山を形成していることがわかる。山の周りには、雨中ご苦労にも子孫繁栄を願って、ハエが数匹とびまわっている。
「……なんで積み上げているんでしょう?」
「さあ。でも、何となく気持ちはわからんでもないけど」
「いえ、そうじゃなくて。埋めたりするもんじゃないですか?」
「あー。埋まってるのもあるらしいよ」
「そうなんですか?」
「うん。手が空いた時に随時埋めてはいるそうだけど、最近の長雨の影響で、他の学園周りの仕事が溜まっているらしくて、ちょっとこっちに手が回ってないそうだ」
「そんなことまで聞いたんですか?」
「まあ、世間話程度にちょろっとね」
「すごいですね。相変わらず如才ないというか」
褒められても、ソラとしてはリアクションに困る。だが、ヒナタの性格を思えば、自分に出来ないことをやってのけるソラは賞賛に値するのかもしれない、と思いなおし、苦笑を返すだけに留めた。
「でも、じゃあコレで数日分だけってことになるよね。やっぱりわかってないだけで、被害に遭ってる人って結構居るのかもしれないね」
ツキはウンコの小丘を、沈痛そうな瞳で見やる。
被害に遭った人間は、大抵が、傘からウンコを追いやり、そのまま帰る。悪戯にあったところを誰にも見られないように、そそくさと。公共の場に、糞を放置したまま帰らずに、片付けてから帰れとは、被害者に求めるのはお門違いだろう。そうして放置されたウンコを誰が片付けるか。勿論、犯人がやるべきではあるが、それが叶わない。となると、学園周りの清掃も業務に含まれる、用務員がやるより他ない。そうして彼は放置されたウンコを一所に集めたといった次第。ここでも埋葬まで至っていないのは、先にソラが話したとおりの事情による。
「ま…… とりあえず、やりますか」
予め聞いていた通り、焼却炉のコンクリ壁に、小さなスコップが立てかけられていた。鉄部分には茶色い物体がこびりついていたが、それが糞なのか土なのかはわからなかった。
「ほら、二人とも。袋ひろげてくれよ。大盤振る舞い、持ち帰り放題だぜ?」
和ませようと放った冗句は、あまり笑えなかった。