10
望外の追い風が吹いたのは、翌日の昼休みのことだった。
昨日の啖呵から舌の根の乾かぬうちに、手詰まりになるかもしれないなどという報告をするのも中々に情けない話ではあったが、協力してくれる以上、話はしておくべきだろう。そういった判断のもと、隣のクラスのヒナタを訪ねたのがキッカケだった。
「そういうことなら、何とかなるかもしれません」
こともなげに言うヒナタ。食事を終えて、自分の席でまったり過ごしている所に押しかけてしまった格好だったが、嫌な顔ひとつしなかった。
「何とかなるって、マジ? ツテでもあるのか?」
「そうなりますね」
聞くに、彼女の従姉妹のお姉さんが、動物ケアの仕事に就いているらしい。正月や盆、冠婚葬祭くらいでしか顔を合わせないそうだが、頼めないことはない、とのこと。
「なるほどな」
ソラは眉間を揉んで、しばし黙考。慎重に言葉を選んでいく。
「なあ、でも、その、いきなりそんなこと頼んで、相手の方に不躾に思われないか?」
「……ソラ君」
「うん?」
「ありがとうございます。心配してくれているんですね?」
簡単に見透かされる辺り、彼の配慮は全く無駄であったらしい。眉をハの字にして心配げな表情では、心配ですと言っているようなものだった。さりげなく気配りをする、というのは彼にとっては高等テクニックになるかもしれない。
「確かに私は、あんまり社交的ではないですし、そう親しいわけでもない人に頼みごとをするなんて苦手の範疇です。けど……」
言葉を区切ったヒナタは、はにかむような笑みを浮かべて、
「私の為に怒ってくれたソラ君が困っているなら、それで私に出来ることがあるなら、やりたいんです。傍観に徹するなんて、あんまりじゃないですか」
そんなことを言ってくれた。
放課後。教室の窓から空を見ると、相変わらずの曇天ではあったが、雨はかなり小降りのようで、グランドを縦断している下校の列の中には、傘を差していない者と差している者が半々くらいだった。差していないのは、やはり面倒くさがり屋の男子が多い。
「ソラ、部室行こう?」
ぼんやり外を眺めていたソラの元へ、幼馴染がやって来て、早く帰ろうと急かす。緩慢に首を巡らせ、
「ちょっと用があるから、今日は俺は行かないぞ?」
「用?」
「ああ。ヒナタを待ってるんだ」
軽い調子で答える。ツキは目をすっと細めて、笑みを引っ込めた。
「なんで?」
温度の感じられない声に、ソラはやや鼻白みながら、事の次第を説明する。
「そういうわけで、毛を持って行こうと思ってな」
ヒナタいわく、例の従姉妹は近くに住んでいて、可能ならすぐにでもアポを取ろうかいう段取りになっていた。相手は社会人なので、いつ会ってもらえるかまではわからないが、ヒナタが会うわけだから、彼女が持っていたほうが都合が良かろういうことだった。
ソラとしては、毛を受け渡しするだけなので、自分ひとりで事足りると判断したのだが、それが誤りだったことを、説明を聞きながら益々むくれていくツキを見て悟った。
「いや、別に仲間はずれにしてやろうとか、そういう意思はないぞ?」
「……部長はあたしだもん」
「わかってるよ、だからわざわざ部長の手間を取らせるほどのことでも」
「相川さんは部員ですらないのに、部長のあたしが除け者ってどういうこと?」
ヒナタは狭くは部員ではないが、広く取ると部員なのだが。そういう突っ込みもソラの脳裏に浮かばないでもなかったが、言ったら更に機嫌が悪くなるのは目に見えているので、
「わかった。悪かった。一緒に行こう、な?」
顔の前で手を合わせて拝むように言う。こういうとき、折れるのは大抵がソラの方だった。
固定電話から、楠田家にコール。楠田とは、例の従姉妹の姓である。ヒナタの父の姉の子ということで、相川姓ではない。
無機質なコール音を聞きながら、ヒナタは緊張で汗ばんだ手で、受話器から伸びる電話線をいじっていた。くるくると丸まったそれを引っ張ったり、縮めたり。ソラに良い所を見せたくて、ああ言ったものの、やはりいよいよの段となると心が騒いでしまう。伯母が出るにしても、件の従姉妹が出るにしても、もう一年以上会話はおろか顔すら合わせていない相手である。吸って、吐いて。
「はい、楠田です」
五回ほどのコール音の後、繋がった。
「あ、あの。伯母さんですか?」
「あら? ひょっとして、ヒナタちゃん?」
「あ、はい。そうです。ヒナタです。おひさし……」
「まあ、久しぶりじゃない! わかんなかったわー」
ヒナタが言い終わる前に、やや興奮気味の伯母の声に遮られる。
「最初、洋子ちゃんかと思ったわ。お母さんと声、似てきたんじゃない?」
「え? えっと」
すっかり歓談モードの伯母に、ヒナタは事前に考えていた会話の運びを忘れかけてしまう。あまつさえ、自分の声と母の洋子の声とを脳内で交互に再生し始めてしまう。
「ふふふ。お顔も似てきているのかしら。今度遊びにいらっしゃいな。随分会っていないでしょう?」
「あ、はい。えっと」
「あら、やだ。ごめんね。何かご用があってかけてきたんでしょう? やーね。年取ると自分の喋りたいことばっかり」
快活な笑い声が受話器の向こうから聞こえてくる。恥じるでも、悪びれるでもなく、自分の悪癖を笑い飛ばしてしまう。自分はそんな風に笑ったことが恐らく一度もないだろうとヒナタは記憶している。いつか自分も歳を取り、こんな風に自然と笑えるようになるのだろうか、なんて他所事をぼんやり思う。
「それで? どうしたのかしら?」
「あ、はい。えっと、彩香ちゃんに少し話がありまして」
一瞬、ちゃん付けで呼ぶのを躊躇った。
「あら? そうなの? ふうん。わかったわ、ちょっと待ってて」
少し好奇心をそそられたようだが、先程の失敗もあってか、何も聞かずにいてくれた。
保留メロディの「エリーゼのために」の一節を、三回ほど聞いた後、
「もしもし、お電話かわりました。ヒナタちゃん?」
「あ、彩香ちゃん」
そこから先程の伯母とのやり取りに似たことを繰り返し、
「ふうん、おかしな悪戯が流行ってるもんだね」
何とか自分の用向きを話し、その理由として学園の状況も話すことが出来た。
「いーよー。あたしでどれくらい役に立てるかは知らないけど…… 今から行けばいいのかな?」
「え? 彩香ちゃん、お仕事は?」
「これが都合よくお休みだったんだよ。天の配剤ってヤツかね」
そう言ってカラカラ笑う。先程の伯母にそっくりだった。
受話器を置くと、ほうと息をつく。もう手汗は引いていた。いつもそうだ。終わってみるとなんてことはない。他人というわけではないのだから、気負う必要は無い。二人とも、加えて伯母の旦那さん(つまり伯父)も良い人だ。現に、たまに会ったときも、最初はぎこちないながらも、しばらく話していると、自然と笑い合えるのに。
ヒナタは自分のシャイに辟易しかけて、しかしその前に、携帯を開く。先程とは質の違う動悸。メールを作成し、送る。
「ソラ君、褒めてくれるかな」
今、こちらに向かっているだろうソラ。きっといつも通り、何でもない風に出迎えるだろう自分。だけど、彼はきっと自分の欲しい言葉をくれるだろう、とヒナタは思う。頬が緩むのを自覚しながら……