散るは桜、消えゆく霞。生きた証を世に遺し。
娯楽の少ない小さな町では噂話が直ぐに出回る。
朝に起きたことが昼には広がり、夕には酒の肴に。翌朝には他の噂で掻き消される。
水泡のように浮かんでは消えの繰り返し。その儚い泡の1つに、奇妙な色が混じる。
曰く、神仏の消え去った廃寺に1人の若い女が死んでいたと。
行き倒れか、もしくは世を儚んでの自殺か。戦乱が過ぎたと言っても、各地では野党や追い剥ぎなど、荒くれ者が蔓延る世の中である。不幸な目に合う人間も少なくはない。町人はその噂の主人公を憐れに思ったり下衆の勘繰りをしたりと、様々な脚色を付けて話題に上げていた。
しかし、噂は噂。例に及ばず、翌日には新たな噂に押し潰され、すっかり忘れ去られてしまった。結局はその程度の話。
例え、その女が誰かの為に命を落としたとしても、それを知る人は既にいない。
◆
隙間風に髪と頬を撫でられ目が覚める。尻の下の床は硬く冷たい。うたた寝程度のつもりであったが、関節の節々が妙に軋むことから、思いの外、長く眠りについていたようだと気が付く。
身体を動かそうとした時に、肺に乾燥した埃と黴た空気が入り込み、思わず咳き込んでしまう。咳のせいか臓腑が絞られ、口を押さえた手には唾液以外に赤いものが付着していた。
‥‥‥永くはない。前々から分かっていたことだが、実際に目の当たりにするとそれを強く実感する。
粗末な袴の袖で掌と口元を拭い、近くの川で釣った魚を食べようと身体を起こす。関節や肺の痛みが気になるが、それは無視する。死期が近いとは言え、座して待つほど心は強くはない。死ぬその時まで、出来ることはしておかなくてはならない。いっそのこと眠りに付いたままあの世とやらに逝ければ楽なのだが、と考えるが、死神はそこまで親切ではないようだ。
「‥‥‥誰だ?」
廃寺に好き好んで近付く奴はいない筈だと思いつつ、朽ちかけた障子戸を無理矢理こじ開ける。障子戸の向こうからまさか人間が出てくるとは思ってもいなかったであろう、質素な着物を着た少女が驚いたまま立ちすくんでいた。年は十代半ばくらいか。後数年もしたら嫁の貰い手には困らない程度の顔立ちであった。
若さの割には疲れ切った陰のある表情と時折咳き込む姿が目に付いたが、直ぐに興味は失せた。そんな少女に向かって廃寺の主は声をかける。
「こんな廃寺に何様だ?」
「‥‥‥お参りを‥‥‥貴女は?」
「ここで寝泊まりしている、只の浪人だ」
「‥‥‥刀‥‥‥貴女は、それを?」
「ああ、女1人で放浪するには、それなりに備えが無いとな」
少女が言葉を返す。廃寺から出てきたのは狸や狐といった獣でも、ましてや妖怪の類などではない。正真正銘の人間だ。それも年若く、30にも届かないくらいの女。元は艷やかで整えられた黒髪であったと思われるが、今では適当に切り揃えられているうえ、襤褸切れで雑に纏めてある始末。見目麗しい顔には死人と思えるほどの青白さが混じり、生気があまり感じられない。紺色の地味で粗末な袴の下も決して豊かとは言えない。かろうじて女の身体だと外見で分かる程度。そこまで見て女が刀を携えていることに気が付く。黒塗りの鞘に茶色の下緒。装飾の無い鍔。実用一辺倒の真剣。見る人によっては、女自身が切れ味の鋭い、一本の刀だと評するかもしれない。
そんな女が不躾に質問を投げかける。少女もその異質さに一瞬怯えた表情を浮かべるが、その表情は直ぐに別の表情で塗り替えられる。‥‥‥神仏に祈るような懇願の色に。
「‥‥‥‥‥‥貴女を手練と見てお願い申し上げます‥‥‥仇を‥‥‥父の仇を討って頂けませんか?」
「‥‥‥仇?‥‥‥私には関係ないな」
「お金は‥‥‥今はこのくらいしかありませんが、必ず相応の金子を用意致します‥‥‥ですから‥‥‥」
「断る、他を当たれ」
少女の懇願を一刀のもとに切り捨てる。素性もしれない女の頼み事を聞いていられる程、寛容ではない。朝餉を諦め、再び惰眠を貪ろうとする女に食い下がるように言葉を続ける。
「お願いします!もう、頼れる人はいないんです。父の仇を討ってください!‥‥‥必ず、お金は用意しますから‥‥‥っ!」
「生憎、金とは無縁の生活でな。‥‥‥その金で働き口でも探せ。無理なら身体でも売って、稼いだ金で他を当たるんだな」
着物を握りしめたまま身体を震わせ悲痛な思いを訴える少女に対し、同じ女として及第点にも満たない返答をする。冷酷なようではあるが実際の所、現実的な方法はそのくらいしかない。時間が経てば経つほど、そういった機会には恵まれないものであるからだ。
去りゆく機会へ縋りつくように言葉を紡ごうとするが、乾いた咳でそれも叶わない。調子でも悪いのか暫く咳き込んだあと、掠れた呼吸を整えつつ、別れの挨拶を口にする。
「‥‥‥‥‥‥また、来ます」
「‥‥‥」
唇を噛み締めながら踵を返す。少女の小さな背中には哀愁の色が漂ってはいたが、同情できるほどの関係性は無い。その背中を一瞥した後、障子戸を閉め、元の位置に戻って再び瞳を閉じた。
◆
翌朝も、そのまた次の日も、同じ少女が同じ頼みを訴えてきた。
一度ならず、二度、三度。いい加減同じことの繰り返しに飽いていた女は、少女の言い分を聞くだけ聞いて帰そうとした。言いたいことを言わせた上で断れば、諦めるだろうと考えあっての事だ。
「‥‥‥何故、仇を?」
「父が‥‥‥お侍に‥‥‥粗相をした子どもを庇ったんです。そうしたら‥‥‥無礼を働いたと、その場で斬り殺されてしまいました‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥母を早くに亡くした私には、父しか身内がおりません。‥‥‥頼る事の出来る家も、人もありません‥‥‥ですからせめて、仇だけでも‥‥‥」
直接無礼を働いた訳でもない町人を斬り伏せる事自体、横暴であると考えられるが、侍は何よりも体面や面子といったものを身命よりも上と考える生き物だ。それなりに格式高い家の出の侍なのであろう事は容易に想像が付いた。そのような人物に楯突く事は自殺行為に等しい。
その事を懇切丁寧に説明しなければならないのか、と深い溜息を付きながら口を開こうとしたが、その前に少女が言葉を続ける。
「‥‥‥もう、それしか無いんです‥‥‥私には、時間が‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥時間?」
「‥‥‥‥‥‥肺を‥‥‥患っております‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
妙な既視感に合点がいった。つまるところ自分と同じ境遇にあると。若い身空でありながら報われない人生だとは思う。しかしそれだけだ。自分に頼むのではなく、悲惨な境遇に同情してくれる人情家でも探した方が早い。少なくともそちらの方が幾分か可能性はあるからだ。
「答えは同じだ。他を当たれ」
「‥‥‥‥‥‥諦めません」
女は寺の中に引き篭もり、少女は肩を落として家路に付く。ここ数日の間で繰り返されている光景だ。今日は少女の身の上話を聞いたという点だけ変化はあったが、結末は変わらない。
翌日も、その次の日も。同じことの繰り返しであった。
◆
それから一月が経った。
少女が頼み、女が断る。その繰り返し。雨の日も風の日も変わらず続いた。進展は無いとは思われていたが、しっかりと進んでいることもあった。
一つ目は寿命。ここ数日の間で咳と喀血の回数が増えた。朝日を拝むたびに身体から生気というものが失われていく事が分かる。長くても今年中には尽きてしまうだろう。何も成すことの出来ない人生であった。未練や後悔といったものはあったが既に擦り切れてしまい、思い出すことすら出来ない。
女の幸せとやら何処かで聞いた覚えはあるが、それも縁が無かった。食い扶持を得るために何度か男に身を委ねた事もあったが、ついぞ孕む事も無かった。元々、子が成せない身体なのだろう。それに、そうなったところで今更何か変わる訳でも無い。
二つ目は少女の身体。自分と同様に、病魔がその身を喰い尽くそうとしているようだ。元々可愛らしい顔立ちである分、死期が近づいた人間特有の青白さが、この世のものとは思えないほどの美しさを醸し出していた。後数年、普通の町娘としての人生を送ることが出来ていれば、今と違った美貌を得ていただろう。しかし、その死に近づいたことによる美しさが少女の追い風となっていたことも事実であった。
証拠は少女の持ってきた金子の額。決して多くは無いが、明らかに増えている。その理由は少女の方から聞いた。
「‥‥‥身体を使って稼ぎました‥‥‥多くはありませんが、これからも頑張りますから‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥帰れ」
出会った時よりも、更に陰が増した少女の悲痛な願いを踏みにじる。
裏切る、騙した訳でも無いが、あえてそう思うことにした。悪いのは少女でも女でもない。この世に産まれてしまったことだけだ。
女は気が付いていなかったが、自分の選択で少女にそうさせてしまったという罪悪感が心の何処かにこびりついていた。
目を覚ますたびに現し世のものとは思えなくなる身体を引き摺りながら糧を食らう日々。残り少ない命を引き止めている食べ物が黄泉の国のものであったら楽だろうなと思いつつ、欲求とやらに従うしか無い。
少女も毎日のようにやってきた。誤差といってもいいかもしれないが、金子は少しずつ増えている。少女一人くらいなら、暫くは食い扶持には困らないだろう。それを持って何処かへ行くなり、他の者へ仇討ちを頼むなりすると良いと思うが、それはしないようだ。
少女にとっては自分だけが頼りと言うのは真実らしい。だからといって、動く心も持ち合わせてはいない。正直、自分の事で手一杯だ。このまま静かに余生を送らせて欲しいと思う。
寝て、起きて、いつの間にやらこの世を去る。それが一番の願いであった。
ある朝、それが現実のものになろうとしていた。
◆
朽ちかけた板床越しにに雨音が響く。
寒さは変わらないが風の冷たさを感じにくい事を不思議に思いつつ、目を覚ます。
黴の饐えた匂いが籠もっている粗末な布団に寝かせられていることは分かった。泥に沈んだ頭を引き抜くかのようにゆっくりと身体を起こしながら周りを窺う。隣には見覚えのある少女が座ったまま眠りに着いていた。
その傍らには水と少しの薬があり、状況を鑑みて、恐らく自分はこの少女に看病でもしてもらったのだろうと悟る。そんな義理は無い筈だが、と思いつつ、少女の着物を引っ張り、身体を揺する。
年相応の可愛らしい声を上げながら目を覚ました少女は、女が意識を取り戻した姿を認め、安堵した表情を浮かべる。
(‥‥‥物好きな女だ)
咄嗟に皮肉の言葉が思い浮かんでしまう。自分もこの少女のような時期があった筈だが、等の昔に過ぎ去ってしまった。感謝の気持ちを素直に口に出来ない自分に少しだけ自己嫌悪するが、顔の筋肉はそれすらも表現しない。身体が、取り繕う必要はないと考えているようであった。女が口を開く前に、少女が居住まいを正しながらいつもと同じ言葉を口にする。
「‥‥‥身体が治ったらでいいので、父の仇を討って頂けませんか‥‥‥」
「看病してくれた事については感謝する‥‥‥」
「‥‥‥だが、断る‥‥‥お前も分かるだろう、私も永くは無い‥‥‥‥‥‥静かに逝かせてくれ」
「やはり‥‥‥貴女も‥‥‥」
淡々とした女の返答に息を呑みながらぽつりと呟く。少女の方も出会った頃から薄々気がついていたのであろう。
はっきりしたのは、いつものように寺を訪れた所、女が倒れていた姿を見かけた時だ。
思わず駆け寄り身体を支えた際、予想以上の軽さと血の気の薄さに驚いていた。
少女にしても、女は名前も知らない他人だ。しかし、目の前で死に近づいている女を見捨てることは出来なかった。そのまま静かに寝かせた後、重い身体に鞭打ちながら、町の医者を呼びに行った。医者もそれなりに良い人間であったのだろう。少女の持っていた金子で診てくれた上、数日分の薬も残してくれた。ただ、治療は出来無かった。見立てによると、既に肺が駄目になっており手遅れであるそうだ。
少女自身もその事実を聞き、他人事では無くなった。寧ろ、近しい人間だからこそ分かってくれるのではないかという期待。女を助けたという小賢しい考えと、それを盾に同情を買うという浅ましさの自覚もあった。‥‥‥なんとも卑しい。平民とはいえ、一人の人間としてお天道さまに顔向けが出来ないことはしたくは無かった。しかし、それで諦める訳にはいかなかない。少女には、父の仇討ちしか残っていなかったから。
「‥‥‥‥‥‥ああ、お前と同じだ。肺をな‥‥‥それに、刀もまともに振ることも出来やしない‥‥‥そのくらいの力すら残っておらんよ‥‥‥」
「‥‥‥そう、ですか‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
仇討ちは出来ないとはっきりと伝える。少女の親切に思う所はある。だが、自分には関係の無いことだ。それに言葉通り、もはや満足に刀を振るうことは出来ないだろうということは分かっていた。護身の為に刀を携えるたびに、その重さで何度も落としそうになっていた。
握る力すら無いことに自嘲したこともある。
そんな気持ちを知ってか知らずか、少女は女の返答を聞き、静かに深く息をついた後、覚悟を決めた瞳で女を見つめる。
「‥‥‥‥‥‥では、刀だけでもお借りしても宜しいでしょうか?」
「‥‥‥まさか」
「はい‥‥‥せめて一太刀だけでも‥‥‥」
無謀だ。女でなくとも、目の前の少女にそんなことが出来る筈も無いことは誰の目からも明らかであった。剣を持つどころか、鍛えたことすらない細腕と筋肉の付いていない身体では一振りすら満足に出来ないだろう。そもそも仇が誰か分かっていなければ、刀の振り処すら覚束ない。そこが気になった女は、思わず少女に言葉を返してしまった。
「‥‥‥何処の誰に果たし合いを挑むのかは分からないが、お前では無理だろう‥‥‥刀を振る前に、切り捨てられて終わりだ」
「そうでしょうね‥‥‥ですが、それでも‥‥‥それしか、ないんです‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
「ただ、仇の居場所は分かりました‥‥‥町の人から‥‥‥聞きましたから‥‥‥」
自分に言い聞かせるように仇の名と屋敷の場所を口にしている間、着物ごと細腕を強く抱きしめていた。手がかりを掴む間に、様々な事があったのであろう。少女も語りたくは無いだろうし、聞く義理も無い。あえてその事は口にはしなかった。
少女の無謀が近い内に死を招くことは火を見るよりも明らかだ。一方で、仇とやらが少女を門前払いで相手にしなければ、少女は父の仇を討てぬまま、惨めに死んでいくしか無い。
どちらにしても救いが無い。それならば、少女の好きにさせておいた方が納得がいくだろう。
女の無言を肯定と解釈し、布団から離れた場所に置いていた刀を手に取る。苦渋の表情を浮かべながらの行動であったため、痛む良心があることは十分に理解できた。それに、もはや自分には必要の無いものだ。今更身を守る必要も無い。そんな考えがあったからこそ少女の狼藉に対し、見て見ぬ振りを決め込んだ。
用を為さない障子戸を閉め、その場を後にする。障子の穴からこちらに向かって深々と一礼をする少女の姿を最後に、その姿が消える。神仏か女か、そのどちらに向けた行為なのかは分からないが、少なくとも本気で謝意を込めていることだけは理解できた。
◆
少女が寺に来なくなってから数日が経った。
ここ最近は身体の調子は悪くない。かといって良くなった訳では無い。所謂、終え尽きる前の蝋燭の灯のようなものであろうことは分かっていた。いよいよ死期が近づいて来た今、最期をどのように迎えようかと漠然と考えていた所、仇討ちを願う少女の顔が思い浮かぶ。
死出の旅の準備をしている自分には関係の無いことだと思うが、どうにも頭から離れない。
わだかまりを持ったままでは気持ち悪いと考え、少ない路銀を懐に入れ、町の酒場へと繰り出して行った。
夜。かろうじて雨風が凌げるかといった粗末な小屋に似た呑み所。安い酒しかない大衆酒場であったが、人はそれなりに入っていた。人が多いとそれだけ物好きもいるものだ。女の近くに寄り、金子をちらつかせるものもいたが、それら全てを袖にした。以前であれば何も考えずに人気の無い場所で欲のはけ口にでもなってやっても良かったが、今はその必要すら無い。水に酒精が混じっただけの安酒を舐めつつ、ぼんやりと客の話に耳を傾けていた。
そんな中、偶然にも気になる話しが耳に入り込む。曰く、とある屋敷の侍が年端も行かぬ少女に果たし合いを挑まれた、と。話していた男達は、そんな馬鹿な話しがあるか、狐にでもつままれたか、など笑い話で済ませていたが、女にとっては無視できない話題であった。さりとて、自ら首を突っ込む程の気力も無い。ただ、その話に関する事が無いか、静かに聞き耳を立てるばかり。幸か不幸か、少女に関する話はいくつか耳に入った。一つ、父親の仇を討って欲しいと、腕に自信のありそうな男に声を掛けて回っていた。二つ、男に仇討ちを請け負うと騙され、身体を弄ばれた。三つ、金を稼ぐために未熟な身体を物好きに差し出している、など。酒の味が変わったと感じた女は、残りを飲み干すことなく金だけ置いて廃寺へと戻っていった。
◆
時刻は夕から夜に変わるかといった逢魔が時。
昼間から眠りについていたが、ふと目が覚めた。虫の知らせと言うやつか。胸の奥からざわめきを感じ、何者かに導かれるまま廃寺を後にした。
何も考えず、重い身体を引き摺りながら近くの河原へ辿り着く。夕刻の穏やかな風に、すすきが静かにたなびいていた。その寂寞とした枯れ葉色を掻き分けた先に、見覚えのある少女が鮮やかな赤色の花を咲かせていた。弱々しい息と鼓動を糧にして花弁を広げている中、女は特に感慨も無く、その少女の傍へ跪く。
(‥‥‥もう、手遅れか‥‥‥)
一目見て、助からないと判断する。顔見知り程度の関係であったが、望まないとはいえ命を救って貰った義理はある。末期の言葉でも拾ってやろうかと声を掛ける。一時的に意識が戻ったのか、薄っすらと瞼を開き、焦点の合わない瞳で見つめる。禄に見えていないが、汚れることも厭わず、身体を抱き起こしている人物が見知った女であることに気が付き、安堵の微笑みを浮かべる。残り少ない命を燃やし、血の気の引いた唇で思いの丈を伝えた。
「駄目‥‥‥でした‥‥‥‥‥‥分かっていても‥‥‥悔しいなあ‥‥‥」
少女の肩から袈裟に一太刀。それ以外の刀傷や争った形跡が無い所をみると、反応する間も無く勝負が付いた事が分かった。素人相手とはいえ、あまりにも無駄の無い一刀。相当の手練であったことは分かる。まだ息があるのは、せめてもの情けか、それとも長く苦しむようにわざと止めを刺さなかったのか。どちらにしろ良い趣味とは言えない。
「‥‥‥私が‥‥‥甘かったんです‥‥‥いいように‥‥‥言いくるめられて‥‥‥」
「‥‥‥それに、断られたんです‥‥‥‥‥‥返り討ちに、遭うだけだ、と‥‥‥だから‥‥‥」
少女について不愉快な噂を聞いていた為、言葉を選んでいた所、少女が先に口を開く。
自分の迂闊さを自覚した上で、色々と手を尽くしたようだが、それでも手を差し伸べてくれる男はいなかった様だ。感情の面では思う所はあるが、理性の面ではそれも仕方がないと思う。早い話、少女程度で稼ぐことの出来る金子では命を賭けるに値しない。犬死も良いところだ。
「‥‥‥‥‥‥それなら、私も‥‥‥」
「いえ‥‥‥‥‥‥そうは、思いません‥‥‥貴女なら‥‥‥私の‥‥‥願いを‥‥‥‥‥‥」
裏切られ続けた少女は、最後に神仏に縋ることしか出来なかった。人間が信じられなくなっていた少女が、人目につきたくない一心で訪れた寺。廃寺とは知らなかったが、そこで理想の相手に出会うことが出来た。少女は剣を知らない素人だ。しかし、女を見た瞬間、相当の手練であり、自分の願いを叶えてくれる人物であると確信した。だからこそ、女に助けを求め続けていた。
短い遣り取りでも少女の狙いは分かった。それでも気になることはある。
「‥‥‥最後に‥‥‥何故、私を助けた?」
「‥‥‥困っている人を見たら‥‥‥助けてやりなさい‥‥‥と‥‥‥‥‥‥父に‥‥‥」
「‥‥‥そうか‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥父は‥‥‥酷い目に、遭ったのに‥‥‥最期は‥‥‥笑って、いたんですよ‥‥‥」
「だから‥‥‥わたしも‥‥‥勝手に身体が動いてしまったんですかね‥‥‥あはは‥‥‥っ」
「‥‥‥‥‥‥」
物好きな女だ。再びそう思う。父娘揃ってお人好しが過ぎる。そのせいで大切な命を落としてしまうのだから笑い話にもならない。筋金入りの馬鹿だ。それは自覚があるのだろう。少女も自嘲しながら愚かな行動を振り返る。
口と肩から流れる血の量が増えている。代わりに少女の身体が軽くなり、呼吸と鼓動が弱くなりつつあった。
「‥‥‥禄な人生では‥‥‥無かったなぁ‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥少なくとも、私はお前に助けられた‥‥‥」
「そっか‥‥‥‥‥‥最期に‥‥‥人の役に‥‥‥立つことが出来て‥‥‥‥‥‥良かった‥‥‥」
不幸な人生だったと呟く少女の言葉とは裏腹に、その瞳には一片の曇りも後悔も無かった。
「‥‥‥‥‥‥強いな‥‥‥」
人の強さというものを目の当たりにした瞬間、遠い記憶が脳裏に浮かび上がる。
女が幸せであった、在りし日の最後の思い出。
本懐を遂げた父親が、幼い自分の頭を撫でながら語った言葉。
『‥‥‥家の人間として、虐げられている人へ手を差し伸べられる強さを持ちなさい‥‥‥決して‥‥‥私のように命を奪うことでしか解決出来なかった、弱い人間にはならないでほしい‥‥‥』
―――少女の瞳に、昔日の残照を見た。
女は心を動かされ、残り少ない寿命の遣い処を決める。
少女の命を繋ぎ止めるものが枯渇しつつある。瞳が翳り、体温が急激に下がる。呼吸と鼓動も、もはや殆ど感じられない。
息を引き取るその前に、冥土の土産を持たせてやることにした。
「‥‥‥‥‥‥私は、霞という‥‥‥お前は?」
「‥‥‥‥‥‥桜‥‥‥」
「桜‥‥‥命を助けて貰った礼に‥‥‥仇は取る‥‥‥極楽と言うものがあれば、そこから私を見下ろすと良い‥‥‥仇とやらも、地獄へ連れて行ってやる‥‥‥」
死人同然であった霞が、桜の手を優しく握りながら、唯一の願いを叶えると約束していた。
言葉以上に優しさを感じ取った桜は、最期の力を振り絞り、霞へ混じりっ気のない感謝の気持ちを遺す。
「‥‥‥かすみ、さん‥‥‥‥‥‥‥‥‥ありが‥‥‥とう‥‥‥」
「‥‥‥さらばだ」
霞の手から力が抜け、瞳から光が失われる。短い感謝の言葉だけを遺し、この世を去った。
独り残された霞は、桜の瞼を優しく下ろし、魂の抜けた身体を抱き上げる。死期が近い身体には堪えたが、こんな寒空の下に晒しておく訳にはいかない。それがせめてもの手向けだと思い、寺へと運んでいった。
◆
廃寺の裏にある小さな庭。その中でひっそりと佇む、少女と同じ名を持つ木の下に桜の遺体を埋めた。
半ば朽ちてはいるが、もしかしたら春に綺麗な花を咲かせるかもしれない。
自分が、その光景を見ることはない事が分かってはいたが。
木を墓石代わりにし、墓前で手を合わせる。
願わくば、次の世では幸せになれますように、と。柄にも無いことを願ってしまった事に気が付き、苦笑する。
神仏を敬い、祈りも捧げるが、その見返りを求めたことはなかった。
所詮は人間の作った偶像でしか無い。心の支えにはなり得るかもしれないが、救ってくれなかったと文句を言うのは違うと思う。居たら良いなと思う程度に留めつつ、桜の輪廻を願うと少しだけ心が軽くなった。
桜から返して貰った刀を携え、町へと降りる。目指すは、とある侍の屋敷。
そこで仇討の名乗りを上げ、己の死に場所へと向かう。
桜が短い命を散らせたあの河原で。生涯最後の剣を振るうことに決めた。
◆
屋敷の奉公人に、主人への果し状を渡した。
門前払いを食らうかと思っていたが、予想外にもすんなりと受け取って貰えた。捨てた家の名前が効いたのか、仇の方から命を賭けた手合わせをしたいと申し出があった。
見届け人も付添も連れずに1人で屋敷から出てきた男‥‥‥桜の仇は、齢40を僅かに越えたように見える脂の乗りきった男盛りの侍であった。正々堂々と果たし合いに挑む、正当な侍。そんな印象を受けるかもしれないが、瞳の奥には危険な色も確かに存在していた。
門を出る前に誰かと話をしていたが、直ぐに済ませて霞の前に近付く。果たし合いの相手が霞であると気が付くと、男は値踏みをするかのように上から下まで無遠慮に眺める。
顔も身体も男を悦ばせる造形であるが、これから斬らねばならぬのか、という未練と冷酷な判断が男の瞳にありありと浮かんでいた。
「良い女なだけに‥‥‥勿体ないのぅ‥‥‥」
「珍しくもないだろう‥‥‥先に聞く、何故少女を殺した?」
「少女?‥‥‥ああ、あれか。‥‥‥無論、仇討ちに来た者を返り討ちにしただけだが?」
「‥‥‥そうか」
霞の不躾な問いに気分を害した様子もなく、少女が命を狙いに来たから斬ったまでだ、と当然のように答える。その口振りと態度から霞は納得する。この男にとっては老若男女は関係無い。ただ、足元に転がっていた石が邪魔であったため蹴飛ばした程度の事であると理解した。
その後は何も語らず、男を先導をする。
夕暮れ刻。穏やかな風を肩で切りながら、自然体で歩いていた。2人とも刀に手を掛けてはいないが、どちらかが動けば迷わずに斬る。
緩急の狭間が、石火の程度しか無い。
町人に活気を与えていた日は沈みかけ、静かで穏やかな宵闇をちらつかせている。
橙色のすすきに囲まれながら、2人の剣士が静かに対峙した。
「‥‥‥まさか、二度も女に狙われるとは‥‥‥はてさて、男振りに磨きでも掛かったか‥‥‥」
「‥‥‥確かに、良い男には違いない‥‥‥‥‥‥腕が立つ、その一点だけだが‥‥‥」
果たし合いの名の下に、年端も行かぬ少女を切り捨てた男が軽口を叩く。
嫌悪感を抱くよりも、その穏やかな表情の裏にある冷たい殺気を感じ取り、相手の実力を計る。‥‥‥相当の手練だ。
「‥‥‥分かるのか、女‥‥‥‥‥‥いや、失礼。そなたも相当遣うな‥‥‥」
「驚いた‥‥‥一目見て侮ってくれないとはな‥‥‥‥‥‥残念だ」
死人同然の女を前に、全く油断を見せない。霞も驚いていたが男も同じ気持ちであった。
何しろ、油断をした瞬間に首を刎ねられる。そんな気配を全身で感じ取っていた。
「‥‥‥‥‥‥何人殺した?」
「‥‥‥さてな、何人だったか」
「‥‥‥‥‥‥生娘か」
飄々とした態度の裏に、無垢な部分を見つける。目の前の女は人を斬り殺した事が無いと確信する。
‥‥‥人を殺した人間特有の昏い光を、瞳から感じられないからだ。ならば、人殺しの剣では一日の長があると的確に判断した。
「‥‥‥男は何人も斬ったが‥‥‥‥‥‥自分で確かめてみろ‥‥‥」
「‥‥‥ふっ、人を殺したことも無い女が‥‥‥‥‥‥後悔するなよ?」
「お主もな‥‥‥では‥‥‥」
それを知られてもなお、余裕を崩さない女に呆れ半分、期待半分の心持ちで刀に手を掛ける。
霞も自身の刀の鯉口を切り、自然な所作で刀身を男に晒す。
「私は霞と申す‥‥‥家名は書状に記したが、此度は私個人の仇討ちであるため、この場では名乗らん。‥‥‥お主に果たし合いを挑んだ女‥‥‥桜という少女の父親の仇を取るために‥‥‥桜の無念を晴らすために、お主の命を頂く」
「‥‥‥‥‥‥委細承知‥‥‥水野家当主、水野新鷹が受けて立つ」
余計な口上をせず、淡々と事実だけを述べる。その言葉を聞き遂げた新鷹は刀とともに静かな殺気を霞に向けた。
◆
終わりは一瞬だった。
日が最後の輝きを2人の残した直後、霞のふらつきを見逃さず、先手を打つ。
上段に構えた姿勢から一気に袈裟に切り下ろす。水野家に伝わる剣技の基本にして奥義。剣技の冴えと切れ味はその心を基とする教え。死を臆さず生死の境に極限まで近づき、生を掴む一刀。その一撃の下では受けなどは無意味。刀程度の薄い鋼なら両断する。
新鷹は平らかな心持ちも保ちながら、幾度となく繰り返してきた型の通り、裂帛の気合を込めて必殺の一刀を霞に振り下ろした。
華奢な身体を切り裂くその刹那。
目の前の女が名前の如く、消えた。
―――それが、最期の記憶。
身体の重さに耐えきれず、冷たい地面に倒れ込む。自身に起きたことを理解する間もなく、目の前が暗転し、そのまま永遠の暗闇に沈んでいった。
◆
日没。
紫色に塗りつぶされた河原とすすきの中で、物言わぬ死体となった男を一瞥し、野晒しのままその場を去る。
介錯は不要。一撃で命脈を断った。
初めての殺人であったが、特に感慨は湧き起こらなかった。
「‥‥‥お互いに、生まれる時代を間違ったな‥‥‥」
桜との約束を果たすため、遺体に手を合わせることなく、その場を去る。
‥‥‥いずれは同じ場所へ向かう。その時にはいくらでも文句を聞くつもりであった。それが初めて人を殺した、霞なりのけじめの付け方であった。
◆
翌日。
町へと降りた際に、町人の間で一つの噂を聞いた。
河原で果たし合いがあり、水野家の当主が、今はなき藤代家の人間に斬られたとのことであった。
何でも藤代家は、とある国の城に仕えていた武家の末裔らしい。そこの当主が不遇な目に合わされ、自決を余儀なくされた。当主の息子が仇討ちを果たして汚名を雪いだそうだが、その後、仇の子息から不意を点かれて殺害されてしまう。結果、藤代家も相手の家も廃絶。家族は散り散りになってしまったと噂されていた。
藤代家の亡霊が何故?と町人の間を賑わせていたが、次第にその話も飽きられていった。結局はその程度の噂なのだ。
霞は野次馬に混じり、遺体が片付けられた河原を見届けた後、廃寺へ戻っていった。
桜の墓前に報告し、後は地獄の沙汰を待つのみか、とぼんやりと考えていた霞は、後ろからつけていた小さな影に気が付くことが出来なかった。
「‥‥‥‥‥‥あっ‥‥‥」
小さく、軽い衝撃。
瞬間、関節や内臓の痛みとは違う、鋭い痛みが身体に走った。ぼんやりとした頭で痛みの元を触る。
‥‥‥熱い。そう思っていると袴が徐々に黒くなり、重くなる。手で触れると赤いものがべっとりと掌に付き、袴の裾からも同じものが広がっていた。
「‥‥‥血?」
自分の血液であると認めたと同時に、膝から力が抜け、そのまま前のめりに倒れてしまう。
何故こうなっているのかが分からなかったが、遠くの方で“父上の仇だ”と叫ぶ子どもの声が聞こえた気がした。その声も、足音ともに次第に遠くなる。
「‥‥‥‥‥‥ああ、死ぬのか‥‥‥」
―――自分の死を悟る。
驚きは無い。肺の患いではなく、子どもに刺されて死ぬとは思ってもいなかったので意外に思う程度。所詮、早いか遅いかの違いにしか興味は無かった。
「‥‥‥‥‥‥そうだ」
最期の仕事を遺していた事を思い出し、身体を動かす。倒れた場所は馴染みのある寺の境内。
そう遠くはないなと考え、血と土で汚れることも厭わず、惨めと自覚しつつも地面を這いつくばりながらずるずると重い身体を引き摺り、目的の場所を目指す。
長い時間を掛けて、目的の場所へと辿り着く。病魔に侵された末期の身とはいえ、よくぞここまで保ってくれたなと感心しつつ、桜の眠る木の下に寄り掛かる。
震える手で合掌し、桜へ仇討ちの報告をする。
僅かな時間。それで今生における最後の仕事を終えてしまった。
「‥‥‥‥‥‥お互いに、つまらん人生だったな‥‥‥」
ぼやける視界の中、末期の言葉を呟く。本心から、何事も成すことのない、つまらない人生だったと思う。だからといって恨みは無い。ただ、巡り合わせが悪かっただけ。
最期に一人の少女の願いを叶えてやることが出来た。それだけで胸を張って逝ける。
「‥‥‥‥‥‥だが、悪くない人生でもあったよ」
満足そうな笑みを浮かべ、瞳を閉じる。
恨み言を残さず、ただ水の流れのように生き、霞のように儚く霧散する。
‥‥‥それが、藤代霞の最期の生き様であった。
◆
娯楽の少ない小さな町では噂話が直ぐに出回る。
朝に起きたことが昼には広がり、夕には酒の肴に。翌朝には他の噂で掻き消される。
水泡のように浮かんでは消えの繰り返し。その儚い泡の1つに、奇妙な色が混じる。
曰く、神仏の消え去った廃寺に1人の若い女が死んでいたと。
行き倒れか、もしくは世を儚んでの自殺か。戦乱が過ぎたと言っても、各地では野党や追い剥ぎなど、荒くれ者が蔓延る世の中である。不幸な目に合う人間も少なくはない。町人はその噂の主人公を、憐れに思ったり下衆な勘繰りをしたりと、様々な脚色を付けて話題に上げていた。
しかし、噂は噂。例に及ばず、翌日には新たな噂に押し潰され、すっかり忘れ去られてしまった。結局はその程度の話。
例え、その女が誰かの為に命を落としたとしても、それを知る人は既にいない。
翌年。とある廃寺の裏の桜が咲いた。
短い盛りの間、鮮やかな花弁を広げ、最後は霞の如く霧散した。
花が散った後には緑の葉が生い茂る。来年も、そのまた次の年も新たに咲き誇るだろう。
忘れ去られてしまっても、確かに遺るものがあったと誰かに伝えるかのように。
おわり。




