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第三話:アイスクリームの約束と、想定外の覚醒(爆発)

どんな世界でも、天才と凡人の間にある溝は常に残酷なほどくっきりとしているものだ。


 天才の定義とは何か? 正直、この言葉は時として曖昧すぎる。


 多くの人間は「大した努力もせずに一つの分野を極められる者」を天才と呼び、それを一種の奇跡だと持て囃す。


『だが、俺に言わせればそんなものはくだらない戯言ナンセンスだ』


 全く触れたこともない未知の領域に挑んで、たった一度の挑戦で完璧にこなせるなんて、どう考えてもおかしいだろう?


『答えは奇跡なんかじゃない。俺の推測では、それは単に人間ごとの脳のキャパシティやマッスルメモリの差違によるものだ。全ては論理的に説明がつく』


 だが……俺のそんな安っぽい論理と仮説は、目の前で起きた本物の「奇跡」によって木っ端微塵に粉砕されることになった。


 三条春奈。たった五歳になったばかりの俺の妹は、無意識のうちに己のエーテルコアを覚醒させ——ただ呼吸をしただけで、部屋を一つ丸ごと吹き飛ばしてしまったのだ。


 ——事の発端は、三十分前。


 おもちゃが散乱する、かなり広々とした子供部屋でのことだ。


 俺は日課である腕立て伏せをして、肉体のトレーニングに励んでいた。この三年間の検証で、一つの結論に達したからだ。己のエーテルコアを開放するには、まず器となる肉体を鍛え上げる必要があるのではないかと。


『仮説は至ってシンプルだ。俺の内に秘められたエーテルが巨大すぎるがゆえに、現在の貧弱な肉体ではそれに耐えきれない。だから、身体の防衛本能が自動的にポテンシャルにロックを掛けているのではないか、という希望的観測だ』


『解決策は? その巨大なエーテルに耐えうるレベルまで、肉体を徹底的に鍛え上げることだ』


「よ、ん……ッ」


 荒い息が漏れる。全身は滝のような汗に塗れ、激しい筋肉の活動によって体が異常に熱い。


 五回目のレップに入った瞬間、身体が限界を迎えて崩れ落ちそうになる。俺は必死に歯を食いしばり、どうにか姿勢を保とうと堪えた。


「ごぉ……ッ!」


『重い。痛い。腕が折れそうだッ!』


 俺は心の中でフラストレーションを爆発させた。


「にぃちゃん、春奈と遊ぼうよぉ。春奈、たいくつー」


 俺が腕立て伏せで拷問のような苦しみを味わっているすぐ横で、イケメンすぎる顔立ちのガキがそう無邪気に声をかけてきた。


『そう、女の子なのに「イケメン」なのだ。親父の遺伝子というやつは、本当に恐ろしいほどのチート性能をしている』


「一人で遊んでろ……。にぃちゃんは今、この世界の神になるための修行で忙しいんだ……」


 息も絶え絶えになりながらそう返し、六回目のレップに向けて身体を持ち上げようとした。


 だが……。


 ベチャッ!


 力尽きた俺の身体は無様に崩れ落ち、床に顔面からダイブした。俺の貧弱な両腕は、もはや自分の体重すら支えきれなくなっていた。


「はぁ……っ、はぁ……っ」


 荒れ狂う呼吸をなんとか正常に戻そうと、床に這いつくばったまま喘ぐ。


「春奈、たいくつ!! 春奈、たいくつぅぅぅっ!! にぃちゃんが春奈と遊んでくれないぃぃーっ!!」


 春奈がジタバタと暴れながら叫び出した。小さな手足が床を力強く叩きつけるたびに、タイルから地味に嫌な振動が伝わってくる。


 俺は仰向けに寝返りを打ち、少しでもリラックスしようと試みた。すると突然、視界の上の天井が春奈の顔によって完全に塞がれた。


「にぃちゃん、どうしていつも一人で遊んでるの? 春奈、にぃちゃんと一緒に遊びたいのに……」


 彼女の大きな瞳は今にも零れ落ちそうなほどウルウルと潤み、この世の終わりのような切ない表情を浮かべている。


「……春奈」俺はあえて感情を殺した平坦な声で言った。「にぃちゃんはな、邪神を倒すための特別な修行をしてるんだ」


「じゃしん?」


 春奈がきょとんとした声で繰り返す。


「ああ、知ってるだろう?」俺は言葉を続ける。「ひいおじいちゃんが英雄だった頃の話だ」


 俺は少し間を置いてから上体を起こし、賢者のようなポーズで人差し指を天に向けて立てた。


「先の見えない大戦の時、七人の英雄たちは世界が滅びるのを防ぐために邪神と戦ったんだ」


「ああっ! お父さんが寝る前にお話ししてくれるやつだ!」


 春奈がパッと顔を輝かせて叫んだ。


「正解だ。で、結果はどうなった? 邪神は見事に封印され、世界は滅亡を免れた」


「でもぉ……邪神はもういないのに、どうしてにぃちゃんは倒そうとしてるの?」


 春奈は小首を傾げ、人差し指を唇に当てながら可愛い「考えるポーズ」をとった。


「邪神は、いつか必ず復活する」


 俺は最高にシリアスな顔を作って断言した。


「奴が復活すれば、世界は今度こそ終わる。もし世界が滅亡したら、春奈はもう二度とアイスクリームを食べられなくなるんだぞ?」


「えええええっ!? 春奈がアイスクリーム食べられなくなるの!? そんなの絶対やだっ!」


 春奈は、この世で最も恐ろしい怪談でも聞いたかのように顔を青ざめさせた。


「だからこそ、にぃちゃんは強くなって邪神を倒さなきゃならないんだ」俺は薄く微笑み、少し伸びてきた春奈の黒髪を優しく撫でた。「そうすれば……春奈はずっと永遠に、アイスクリームを食べられるからな」


 尊敬と感動で目をキラキラと輝かせた春奈は、弾かれたように俺の身体に強く抱きついてきた。


「わぁぁぁい! 春奈、にぃちゃんのこと大しゅき!!」


 メキッ。


『この状態では絶対に抵抗してはいけない。少しでも身じろぎしようものなら、ガチで肋骨が粉砕される』


『なぜ俺が、こんなくだらない方便を春奈に使ったのかって? 答えは簡単だ。「アイスクリーム」のロジックの方が、世界の地政学なんかよりも遥かに五歳児の脳ミソに受け入れられやすいからだ』


『もし俺が「過酷なクソシナリオに対抗するため、世界最強になって平穏なスローライフを送りたい」なんて正直に語った日には、春奈は混乱して親父に妙なことを吹き込みかねない』


『だがこの方法なら、俺はただの「想像力が豊かな痛い子供」で済むというわけだ』


 やがて春奈が抱擁を解き、俺はようやく死のポジションから解放された。


 すると彼女は、教師に質問する優等生のようにピシッと手を挙げた。


「だったら……春奈も一緒にやる!」


「春奈も強くなって、にぃちゃんと一緒に邪神をやっつける!」


 俺は一瞬、言葉を失った。


『クソッ、完全に裏目に出た』


 再び頭を抱えたくなるようなフラストレーションが湧き上がる。


『自分のトレーニングだけで死にかけてるっていうのに、この筋肉モリモリのちびっこ王子まで鍛えなきゃならないのか? 冗談じゃないぞ』


「だ、ダメだ。お前は参加しちゃいけない」俺はどうにか思考を逸らそうと早口で返した。


「いいか春奈、邪神ってのは本当に恐ろしいんだ。生きたまま頭からバリバリ食べられちゃうかもしれないんだぞ?」


 俺は小さな女の子を捕食するモンスターのポーズをとりながら脅かしてみせた。


「ガオォォッ!」


「春奈は怖くないもん! にぃちゃんが一緒にいてくれるなら、春奈できるもん!」


「ねぇねぇ、いいでしょ? にぃちゃん?」


 彼女は持ち前の愛くるしい顔面を最大限に利用して甘えてきた。


『誓ってもいいが、今こいつの顔の周りにキラキラしたシャボン玉のフィルターが見えたぞ。……ダメだ、降参。この精神攻撃メンタルアタックは効果がばつぐんすぎる』


『ここまで変なスイッチが入ってしまった春奈の気を逸らすには、フレーヌに頼んでおやつを用意してもらうしかない。呼ぶか?』


『いや、待てよ。あいつは今、屋敷の買い出しで外出中だったな。クソッ』


「はぁ……」


 俺は小さくため息を吐き、春奈から目を逸らした。


『こうなったら仕方がない。アレをやるか』


「……分かった。でも、にぃちゃんの修行は厳しいぞ。時間通りにアイスクリームが食べられるなんて甘い考えは捨てるんだな」


「わぁぁぁい! 春奈、がんばる!」


 瞳に希望の光を宿し、彼女は満面の笑みで元気よく答えた。


 俺は立ち上がり、床の空いたスペースを指差した。


「まずは、ここに胡座あぐらをかいて座れ」


 春奈はずりずりと移動し、熱心に俺の指示に従おうとした。


「こ、こう? にぃちゃん?」


 彼女はあっという間に完璧な胡座の姿勢をとって尋ねてきた。


『(ちなみに、今のこいつの服装はシャツに半ズボンだから、この姿勢でも健全だ。変な想像はするなよ)』


「よし、上出来だ」俺は続ける。「次は呼吸を整えろ。鼻から二回空気を吸い込んで、口から一回で吐き出すんだ……目は閉じたままな」


 俺は実際に深呼吸をして手本を見せた。前世でネットのどこかで見かけた、完全なデタラメの呼吸法だ。


「スッ……スッ……ハァー……こんな感じだ。分かったか?」


「ほぉぉ……わかった! 春奈、がんばるっ!」


 春奈は素直に目を閉じ、俺の動きを真似し始めた。


「スッ……スッ……ハァー……スッ……スッ……ハァー……」


「スッ……スッ……ハァー……ねえ、にぃちゃん。なにもかわったきがしないんだけど?」


 呼吸の合間に、春奈が無邪気な疑問を投げかけてきた。


「黙って十分間続けるんだ。文句を言うな。それが『修練カルトベーション』というものだ」


 俺は適当なそれっぽい単語を並べてビシッと言い放った。


「スッ……スッ……ハァー……」


 春奈がその奇妙な呼吸法を続けてから、すでに五分が経過していた。


『ああ、実のところこれはただの陽動デコイ作戦だ。春奈がこの「偽」の呼吸法に夢中になっている間、俺は自分の腹筋シットアップに集中できる。春奈の物理的な妨害がなくなるのだから、これは極めて効率的だ。(我ながら天才的な発想だな!)』


 ——俺が十回目の腹筋に意識を集中させていた、まさにその時だった。


 突然、部屋の温度が異常なスピードで急上昇し始めた。


 春奈の身体が淡い光を放っている。おまけに……彼女の身体は床から二十センチほど宙に浮いていた。


「にぃちゃん……なんだか、春奈のからだ、あつくなってきたよぉ……?」


 春奈が怯えたような、か細い声で呟く。


 腹筋をしていた俺は、反射的に彼女の方へ首を向けた。


 ぽかんと口が開き、俺の脳細胞は一切の論理的思考ロジックを停止した。


 俺は慌てて飛び起き、すぐ近くにいた春奈に駆け寄った。


「春奈! やめろ! もう十分だ! その呼吸を今すぐ止めろ!」


 だが、春奈は反応しない。まるでその状態のままフリーズしてしまったかのようだった。


「おいっ!——」


 春奈の全身から放たれる光がさらに強烈さを増し、俺の視界を真っ白に染め上げる。


 そして、次の瞬間——。


 ドッッッッゴォォォォォン!!!


 凄まじい大爆発が巻き起こった。


 俺の身体はまるでボロ布のように軽々と吹き飛ばされた。パステルカラーで彩られていた子供部屋と大量のおもちゃは、一瞬にして木っ端微塵に消し飛ぶ。鋭い瓦礫の破片が四方八方へと散弾のように飛び散った。


 爆発の衝撃は壁に巨大な大穴を穿ち、そこからは破壊の惨状とは対極にある、青々とした美しい中庭の景色が丸見えになっていた。


 穴から屋外へと放り出された俺は、中庭の芝生の上に力なく叩きつけられた。


 全身を襲う異常な激痛。まるで数千本の焼け焦げた針で同時に刺し貫かれたかのようだ。無数の裂傷から、生温かい鮮血が滲み出し始める。


「にぃちゃんっ!!!」


 パニックと、絶望と、深い後悔に染まった悲痛な叫び声が響いた。


「ハルト! 春奈! 一体何事だ!?」


 その声は……親父の声だ。


 崩壊した部屋の粉塵の向こうから、親父と母さんが飛び込んできた。目の前の惨状を見た瞬間、母さんは口元を両手で覆い、恐怖に見開かれた瞳のまま、その場に力なくへたり込んだ。


 親父は血相を変えて中庭へと飛び降り、俺の元へと駆け寄る。


「ハルト!」


「お、父……さん?」


 自分の声とは思えないほど弱々しい声が漏れた。まるで魂の半分がすでに肉体を抜け出しているかのようだった。


「春奈は……春奈は無事……なの?」


 消えゆく意識の淵で、俺はどうにかそれだけを尋ねた。今の俺にとっての優先事項は一つだけだった。


 親父は背後の崩壊した部屋を振り返る。そこには、母さんの足にすがりついて泣きじゃくる春奈の姿があった。五体満足で怪我はないようだが、重度のショック状態に陥っている。


「あの子は無事だ……! それよりも今は自分の心配をしろ、この馬鹿者が!」


 親父の低く威厳のある声が、今はひどく震えていた。


『よかった……』


 俺は心の中で深く安堵の息を吐いた。身体を繋ぎ止めていたアドレナリンが、急速に枯渇していくのを感じる。


 視界が急速にぼやけ、暗転していく。


 そしてついに、俺の意識は完全な深い闇の中へと飲み込まれていった。


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