森の怪物
その森には怪物が住むという。
怪物は、「ごあ」と鳴く。
いつでも大事そうに髑髏を咥えている。
「本当に、そんな怪物居んのかよー」
岡本は、鬱蒼と茂る樹々の間から見える空に目を向けたまま、不満を滲ませて言った。
朝早くにこの山道を歩き出してから、もう既に数時間。日は高く昇り始めている。
「居るんだって。ここ最近出現した怪物を、もしハッキリくっきりと写真に収めることが出来たら、バズるぞ」
山崎が声を弾ませて言う。
「……バズるって」
はぁ、と大げさに溜め息を吐いて言うと、山崎は「界隈ではぁ」と熱っぽく語り始めた。昔から、いわゆるオタク気質が強いのだ。そんな山崎とは、学生時代からの十数年来の付き合いだ。岡本にオタク的な趣味はないが、山崎が好き勝手に語る様々な話は暇つぶしに聞くには丁度良い。
今日も「怪物が出る森がある」と熱っぽく連絡をしてきた山崎に誘われるままに、電車を乗り継いでその森を訪れていた。
森というよりは、扱いとしては山といえるだろう。
決して高くはない里山だ。
山崎の口ぶりからして、他にも〝怪物〟を写真に収める為に訪れたモノ好きが居るかと思えば、そんなことはなかった。
期待に頬を上気させる山崎の後ろを、岡本はだらだらと付いて山へと踏み入った。
「で、その怪物は何で髑髏なんか咥えてんの。怪物っていうか、幽霊とか……お化けっぽくない?」
岡本の問いに、山崎は腕を組んで「うーん」と唸った。
「最近出現した怪物だからなぁ。ここ最近この近所で行方不明者が出たってことはないみたいだし……何処かで拾ったか……」
「髑髏って、人間の頭蓋骨だろ? そんなもん何処で拾うんだよ」
そう言うと、山崎はニヤリと笑う。
「岡本は浅識だなぁ……。ここ最近はないってだけで、実は人骨というものはこうした場所に埋まっていることもあるんだよ。勿論、非合法に葬られたものもある」
仰々しく不気味な声を出す山崎に「うぜー」と返し、岡本は目線を森の中に向けた。山崎は構わずあれこれと講釈を垂れている。
森の奥は、光が届かず暗く沈んでいる。時折、光が差している箇所があり、どことなく神々しさを感じてしまう。
ただ、樹々の切れ目から陽が差しているだけだというのに。
その中を──何か、大型の影が動いた気がして、岡本は足を止めた。
自分の語りに夢中で、先に進んでいた山崎が、怪訝そうに振り返る。
「どしたん。何か見つけた?」
首に下げていたカメラを構え、山崎はふぅと息を吐いた。
元より運動が得意な訳でもないのに、べらべらと話をしながら山道を行くからだ。
「いや、別に──」
道の先に視線を戻そうとした岡本は、その途中で樹々の間に目を留めた。
「や、山崎……っ」
岡本の声に、表情を引き締めた山崎がその視線を追って、息を呑む。
樹々と樹々の間を塗りつぶすように、それは──居た。
それは、一見猫のようでイタチのような姿形をしている。妙な艶のある体毛に、人の顔のような模様が浮かんでいた。
異質だ。
猫やイタチなんかではない。
まるで闇だ。巨大な闇。
突然宙に生じた闇そのもののように、それは、ギョロリと開いた瞳で、こちらを見つめている。
その口元には──髑髏。
岡本は、何かを言おうとして、何も言えなかった。
悲鳴を上げることも出来なかった。
得体のしれない〝何か〟に見つめられ、どうするべきかの判断が出来ない。
逃げるべきなのか。どうするべきなのか。
自分より遥かに巨大で、正体の判らないモノに見つめられている。
隣でハッと身じろぎした山崎が、カメラを構える。
やめろ。そう思うが、言葉にはならない。
あぁ……そもそもこれを写真に収める為に、こんな場所まで来たんだったか。
様々な考えが、物凄い勢いで頭を駆け巡る。
「ぐぉあ……」
それが、くぐもった声で鳴いた。
鳴いた拍子に、口元で髑髏が揺れる。
ぐぉあ……ぐぉあ……。
鳴きながら、それは──怪物は、樹々の間を抜けて岡本達の前まで歩み寄って来た。
獣臭さが、むっと辺りに充満する。
臭いがする。ならば、これは生き物なのか。
怪物は、まるで獲物を狙う獣のような瞳で岡本のことを見た。いや、〝まるで〟ではない。獲物を狙う獣そのものなのだ。
怪物はふすふすと鼻を鳴らしながら、岡本と山崎の顔を見比べた。
その拍子に、口に咥えた髑髏が見える。
それは、よく見ればまだ肉を残していた。殆どが腐り落ちてはいるのだが、髑髏が、確かに人間の頭であったと判る程度には、肉が、人間であった痕跡が──残っていた。
「わぁ……っ」
山崎が情けない声を上げ、山道を逃げていく。それに釣られるようにして、岡本も駆け出そうとしたその時──。
ヒュッと強い風が駆け抜けた。
それを意識し終える前に、怪物の体が山崎へと覆い被さった。
山崎の上げる悲鳴が、押し潰され、くぐもる。
「山崎……!」
岡本は、前に足を踏み出そうとして、恐怖に後退った。その足が、何かを踏みつけ尻もちを突く。
ぐにゅり、という厭な感触に目を向けてみれば、地面に転がっていたのは、髑髏だった。
怪物が咥えていた、髑髏。痕跡の残った、髑髏──肉の残った頭蓋骨。
静かに横たわるそれは、ぼんやりと人であった時の風貌を連想させる。
あぁあ……。そう声を上げ、転がるようにしながら立ち上がった岡本は、叫び声を上げながら怪物の許まで走った。
怪物の下から見える山崎の体は、まだバタバタと動いている。
茂みに落ちていた枝を掴み取り、怪物の頭目掛けて振り下ろす。
バシ、バシ、バシ、バシ、バシ──。
怪物はのっそりと顔を上げ、岡本を振り向いた。
猫のような瞳が、ぎゅっと細められる。
「ごあ……」
ゆっくり開いた口元から、荒い息と、薄い赤に染まった唾液が滴り落ちた。怪物の向こうに見える山崎の顔は、赤く染まっていた。
次の瞬間、岡本は、手にした枝を怪物の目玉目掛けて突き立てていた。
ぎゃあぁああぁ!
怪物が悲鳴を上げ、のたうち回りながら後退る。
「山崎!」
地面に横たわる山崎は、ガクガクと震えながらも、その体を起こした。よく見れば、顔に大きな切り傷があるだけで、それ以外は怪物の唾液で汚れているだけのように見えた。
「逃げるぞ」
「あ、あぁ……」
立ち上がった山崎は、腹を押さえて呻いた。
もしかしたら、内臓か、何処かの骨くらいは折れているかもしれない。
岡本は、肩越しに後ろを振り返り、山崎の腕を引いて山道を駆け下りた。
ごあぁあぁあ……ごぁぁあああ……。
怪物の悲鳴が、いつまでも辺りに響いていた。
「アンタ達、どうしたの⁉」
その声が掛けられるまで、岡本と山崎は一心不乱に駆けていた。
ハッとして足を止めれば、農業服を着た小柄な老婆が、目を見開いて二人を見つめていた。
上手く答えられないでいる二人を手招きし、近くの小屋の前にある椅子に座るように手で示す。
もう随分と里まで下りていたようだ。怪物の悲鳴も既に聞こえない。
「なに、熊にでも遭ったの⁉」
慌てた様子で救急箱を取りに行った老婆は、山崎の怪我の具合を確認し、辺りを見回して言った。
「くま……じゃ、ないと思います」
老婆は救急箱を残し、すぐ近くの自宅へと取って返すと、何事かを家の中に叫んだ。「怪我人が」「動物が」という声が切れ切れに聞こえてくる。
それをぼんやりと聴きながら、岡本は山崎に目を向けた。
山崎は、真っ白なパーカーを自身の血で汚し、青い顔をしたまま震えていた。傷口は汚く塞がり始めている。
「おい……大丈夫か」
「……血、吸われた」
「血?」
山崎は自分で肩を抱くようにすると、すーっすーっと息を吸った。
「あれは、怪物だ。吸血怪物だ」
そう言って、震える手で顔の傷口に触れようとする。その手が泥や血で汚れているのに気が付き、顔を歪めた。
「し、死ぬかと思った……」
すっかり怯えている山崎の様子に、岡本は逆に冷静になっていく自分に気が付いた。
ふぅと息を吐き、改めて山崎を見やる。
「ま、本当に死ななくて良かったよ」
そう言ってから、山崎の首元からぶら下がる、カメラの残骸に目を移した。レンズは外れ、本体も歪んでいる。
「それ、生きてるか」
指で示すと、山崎はゆるゆるとカメラを持ち上げ、絶望的な息を漏らした。
「……駄目そう。最悪だ」
山崎が肩を落とすと、老婆が戻ってきて「病院に連れていく」と車の鍵を振り回した。
小さいながらも設備の整った病院に連れられ、検査を終えると、山崎が肋骨の何本かを折っていたと判明した。
老婆が呼んだ警察官に色々と訊かれたが、「怪物に襲われた」とは言えなかった。散々「怪物が」と喚いた山崎は、そのまま大学病院へと入院することとなった。
岡本は「咄嗟のことで覚えていないが、熊のような猪のような大型の動物に襲われ、命からがら逃げて来た」と証言した。
里では、暫く警戒態勢となったようだった。
山崎のカメラはやはり壊れていて、確かに撮った筈の画像は、失ってしまった。
まさに、骨折り損のくたびれ儲け──だった訳だ。
「最近頻発してる殺人事件……俺は、同一人物によるものだと思ってるんだ」
無事退院した山崎は、懲りることなくそのようなことを電話口で捲し立てた。
「怪物の次は、それかよ」
怪物、という言葉に、山崎は唸り声を上げる。山崎の中でも、嫌な思い出として残ったようだ。当たり前だろう。
「その節は、すまん」
「もういいよ。ただ、次山に行くとか言われても、俺は絶対に行かない」
「……俺も、暫くはやめておくよ。それにあの山から怪物は居なくなったみたいだし。死んだのかなぁ」
岡本が突き刺した枝は、深く怪物の目玉に刺さっていた。のたうち回り、血を流すうちに死んでしまうこともあるだろう。他の動物に襲われることだってある。
どちらにしろ、その行方を知る方法はない。
「──それよりも、今は、殺人事件。さ・つ・じ・ん!」
そう言って、山崎は不謹慎なことを捲し立て始める。
岡本は、それを聞くともなしに聞きながら、ネットニュースを開いた。
山崎が一人で盛り上がっている殺人事件については、岡本も知っていた。だが、単独犯によるものと考えるには、あまりに距離が離れている。
まるでホラー映画の怪物のように、人間では不可能な距離を短時間で移動して殺しを行っている。
ニュースでも、遺体の傷口から同一思想の複数犯の話は出ても、単独犯という予想は立てられていない。
「被害者がさぁ、みんな何処か岡本に似てるよね。次は、岡本かも。十分に気を付けた方がいいですぞ」
「……殺すぞ」
山崎の随分な言い様に、相応の返事をすると、山崎は不気味な笑い声を上げた。
──本当、どうしようもないやつ。
岡本はネットニュースを閉じた。
黒髪で、平凡な顔立ちの男など、この日本にいくらでも居る。
背格好や、ひとつひとつのパーツの類似点を挙げたとて、それでも数えるのが面倒なくらいに居る。
それら全員を、この犯人は手に掛けるつもりだというのか。
「くだらねー」
岡本が言うと、電話口で山崎が文句を並べ始めた。
ごぁぁああぁ……。
ふと、窓の外で、何かが鳴くような音が聞こえた気がした。
山崎の声をミュートにして、耳を澄ませる。
何も、聞こえはしなかった。
まだ、あの日の恐怖は心の奥深くで疼いているらしい。
「つーか、もう寝るわ。明日仕事だし」
「むむっ、まだ労働などして──」
「うぜー」
山崎の憎まれ口を遮り、通話を終える。
部屋の明かりを消し、カーテンの隙間から外を窺った岡本は、じっと耳を澄ませた。
やはり、何も聞こえない。
広く見回しても、山というものはここからは見えない。
怪物の鳴き声は、聴こえない──。




