穏やかな朝
淡く漂うのはシャボンとほんのりはたいたお粉の香り。
――こんなによく眠ったのは、いつぶりのことだろうか、と目覚めて一番にフェリオは思った。
戦場に行くまでどころか、兄夫婦が不審な死を遂げてからフェリオは眠れない夜が続いていた。
だから、こんなにもすっきり目覚めるのも久しぶりのことだ。
次いで聞こえてきたのは、スウスウという穏やかな寝息だった。
もしかすると、ルードかリアのどちらかが紛れ込んできたのだろうか。
そんなことを思いながら目を開けると、目の前には淡い茶色のフワフワした毛の塊があった。
「犬……?」
――フェリオは寝ぼけていたに違いない。
彼はそっと毛の塊を撫でてみた。フワフワ、ツヤツヤ、柔らかくて触り心地がいい。
「んぅ……?」
毛玉が声を出した。そこでフェリオはようやく異変に気がつく。
「――メリッサ」
メリッサはフェリオのロングコートを肩に掛け、椅子に座ったままベッドに突っ伏して眠り込んでいた。
一晩中、フェリオの世話を焼いていたのだろう。起き上がった際、フェリオの額から濡れた布巾がずり落ちた。ベッドサイドテーブルに置いてある桶にはまだ氷が浮かんでいる。
「……本当に、面倒見が良いな」
フェリオは起き上がると、メリッサを抱き上げてベッドに寝かせた。メリッサが起きる気配はなく、そのまま眠り込んでいる。
メリッサこそパレード会場に子連れで参加し、双子に水を掛けられ痛い思いもし、さらに侍女たちの思惑に巻き込まれて疲れ切っていたはずだ。
それでも魔力を抑えきれなくなって熱を出したフェリオを夜通し看病してくれたのだ。
きっと双子にもそうやって愛情を注いできたから、あんなに懐かれたのだろう。
「しかし、感情のまま魔力を振るってしまったのはいつぶりのことか」
――フェリオは独りごちた。
魔術師団長に就任してからいつだって魔法を意識的に抑え込みながら使ってきた。
強大な魔力を持つ魔術師の寿命は総じて短い。大きすぎる魔力に体が保たなかったり、魔力自体に飲み込まれたり、戦いに駆り出されたりなど理由は様々だが……。
実際に戦場ではこれ以上魔法を使えば死ぬ可能性があると理解しながらも、使わなければ生き残れなかった。
一流の騎士たちも加勢してくれたが、彼らの中でまともに魔獣を相手取ることができるのは騎士団長ディグムート卿くらいのものだろう。
同じように魔術師団でも大型の魔獣を相手にできる人間の数は限られていた。
恐らく魔力を持たない人間にはわからないだろう、魔法を使い過ぎたとき体に訪れる反動は想像を絶する苦しみだ。だからこそ、フェリオは無意識のうちに魔力を抑え込み無茶な魔法の行使は避けてきたのだ。
しかし、メリッサがびしょ濡れになり腕に傷を負ったとき、薔薇を凍らせ、服を乾かし、傷を治した魔法はコントロールしきれず、ようやく回復しかけていた魔力をほとんど使い切ってしまった。
「一緒に過ごしたこともない相手に……」
しかし、フェリオにとっては彼女から半年に一度だけ届く手紙が、何よりもの心の支えだった。
優しく温かい言葉で綴られた手紙を読む度、いつしか守るべき王国に彼女が暮らしていることを想像するようになった。
死を覚悟して戦場に来たはずが、彼女にもう一度会いたいと願ってしまった。
最初は可愛らしく丸い文字だったが、届く度にそれは大人っぽく、流麗に変わっていった。
可愛らしい文字が消えてしまったことが惜しいと思いながらも、そこに彼女の努力が透けて見えるようだった。
出会った彼女は三年前より大人びて美しくなっていた。
小さかった双子があんなに大きくなったことにもフェリオは驚いたが……。
机の上に積み上げられた書類は、どれも文句ない仕上がりだ。
魔術師団の上級書記官たちは、すべて戦後の処理で通常の書類に手が回らない。
下級書記官に渡すには少々複雑な書類のうち、急ぎの物を持ち帰ってきたにもかかわらず。
メリッサは、結婚式の直前に可愛らしい双子の姿を見るや目を輝かせ早速お世話しようとするような面倒見の良さは当時から変わらなかったが、こんなに複雑な書類を処理できるような教育は受けていなかったはずだ。
「執事長とラランテスだけに習ったのではないな……これは」
書類の中には中級魔法相当を理解していなければ処理できないものもあった。これはラランテスに習ったのだろう。
しかしそれだけではない、他領の状況を知らなければ処理できないものもあった。他国の言語の理解が必要な物もあったのだ。
書類を抱えて部屋を出ると、三人の侍女が少々曲がった背中をシャンッと伸ばして立っていた。
「「「おかえりなさいませ坊ちゃ……いえ、旦那様」」」
「ああ、今日この日までご苦労だった」
フェリオが幼い頃から世話になってきた三人の笑顔。それは今日も変わりない。
「旦那様、お顔の色がよろしいですね」
「ああ、メリッサのおかげだ」
「それはそれは」
マーサは嬉しそうだ。フェリオはため息をついた。
「ところで、昨晩は滞りなく?」
「……黙秘する」
「まあまあ」
メアリーは楽しそうだ。フェリオは視線を逸らしてため息をついた。
「奥様のお世話に部屋に入ってよろしいですか?」
「……」
ダリアは淡々としている。しかし彼女は実はこの中で一番好奇心旺盛だ。フェリオは三人に視線を戻して笑みを浮かべる。
「先ほど寝たばかりだ、もう少し休ませてやってくれ。では、仕事に行ってくる」
「「「かしこまりました。いってらっしゃいませ、旦那様!!」」」
――嘘は言っていない。だから、今後はこういうことはしないでもらいたい、とフェリオは思う。
若返ったようにキャワキャワ盛り上がる三人の侍女を置いて、フェリオは仕事へと出掛けるのだった。
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