第35話 霧散
「おい、ぼけっとしている暇はないぞ。さて、面倒だが奴は俺たちが対処しなければならない」
「奴への有効な手立ては?」
「あの悪魔の先兵とも呼べる者、俺たちは影と呼んでいるがな、奴は一定のダメージを与えるとその場から姿を消す。それが絶命なのかは分からないが、とにかく周囲からは気配が完全に消える。さて、奴への攻撃方法はいくつかあるが、今回その役は俺がやろう」
「よし、任せた」
ロングランは俺の顔を見ながら、複雑そうな表情を見せて言葉を続ける。
「攻撃は任せてもらって構わないが、しかし厄介な所がある。影に対しては、奴の意識していない状態で攻撃を与えなければならない。つまり不意打ちだ、よって囮となる存在がいた方が手っ取り早い」
俺は嫌な予感を感じ取った。何とか強引にこの場を流さなければならない。
「よし、任せた」
「攻撃は任せてもらって構わない」
ロングランも口調を変えず、強硬な態度だ。俺たちは寸刻睨み合ったが、それで何かが解決する訳ではない。
「……分かった、信じていいんだな、ロングラン。俺だって訳が分からないまま死にたくない」
「当然だ。任せておけ」
実際、どうなるか分からないが、悪魔の得体の知れない攻撃を受けるのだ。怖くないと言ったら嘘になる。
既に「影」は俺たちのすぐの位置にいる。それ以上、無駄な言葉を交える余裕はなさそうだった。俺たちは目で小さなやりとりをして、互いに距離を置いた。
息を潜めて機をうかがうこと数十秒。影の接近と共に、俺は奴に向かっていよいよ声を投げた。
「おい、こっちだ!」
俺が草陰から飛び出すと、影はすぐに俺に注意を向けた。相変わらず禍々しいシルエットだけの不気味な存在だ。身長は二メートルと高く、身は骨のように痩せて角ばっている。ぼんやりとした闇をまとった不明瞭な骨、とでも形容すればいいだろうか。それが一歩、二歩と音もなく俺に迫って来る。
「ぐっ、おおっ……」
間もなく奴の力が俺に行使された。なるほど、身を締め付けられるような感覚だ。確かに体が……。
……?
俺は違和感を覚えた。体が動くのだ。最初、確かに存在していた圧迫感も徐々に和らいでいく。
「……」
一方で影自体に怪しい動きはない。奴は奴で俺の自由を奪っていると思い込んでいる可能性が高い。
さてこの状況、考えられる可能性は二つ。影が力を抜いているか、俺のオートガードが奴の不思議な力に対しても発動しているかだ。やはり後者だろう、影が俺に手心を加える必要性は見出せない。
ならばどうするか。
周囲は日差しを遮られた薄暗い木々の中。俺の表情や仕草の一つ一つが詳細に見えることはない。俺が動くメリット、デメリット。俺はそれらを秤にかけ、静かに結論を出した。
様子を見る。今はそれしかないだろう。
俺はロングランを、他の異世界者とは一線を画した存在だと感じている。単に奴の力を認めているというだけではなく、腹の奥底に何か別のものを抱いているのではないかと感じているのだ。
俺とロングランは互いに老人から屋敷の主人として任命された。屋敷は時代や空間を隔てていくつも存在しているとすると、俺達の存在は相いれないものという可能性もある。この件に関しては件の老人を捕まえてみなければ真実は見えて来ないが、それを待っていては遅いかも知れない。
もしも、屋敷の主人という立場が一つの存在としてしか許されないとしたら、俺とロングラン、そしてまだ見ぬ他の主人たちとどういう関係性になるのか、それは火を見るより明らかだ。
つまり、俺たちは一つの存在をめぐる敵同士になる。ロングランがそれに対してどう考えているのか、それを確かめる術はないが、将来的に屋敷の主人たちの殺し合いに結びつかないとも限らない。ロングランを疑いたくはないが、無条件で信頼するべきでもないのだ。
悪魔の影は俺が身動きできないのを見て、そっと脇を通り過ぎていく。黒いもや、もしくは薄闇。それが朧気な輪郭を保ちながら、空気の中を漂っていくような不気味な感覚だ。そこに思考や理性といったものは感じられないが、全く無機質でもない。存在感というか、気配は確かに存在する。
俺は適度にもがくような演技をしながら、ロングランの行動を待ち受けた。どうやらロングランは上手く身を隠したようで、奴の居場所をつかむことは出来なかった。
そうして呼吸を整えること数秒。
左方で何かが弾けたような音がした。木々が折れ、一斉に葉が舞い散った。影ははっとそちらを振り向いて、まだ見ぬ敵を探そうと躍起になっている。
ドンッ。
そこへ新たな衝撃音が加わった。
それはちょうど影の首筋の部分だった。影がよろめき、霧が晴れるようにその部分の色が薄らいでいく。
更に、ロングランが新たな魔法で追撃する。口元で何事か唱えたのち、竜巻のような強風と共に、影を含めた周囲の地面がえぐられ、影もろとも砂塵を高く巻き上げていった。
瞬間、俺は自分の体の自由が戻るのを感じた。いや、もともと自由なのだが、何というか最後まで残っていた違和感が完璧に消えた、という表現が正しいだろう。
俺はその場から身を動かし、手近な木々に身を潜めて様子を見守った。砂煙で一時的にふさがれていた視界が次第に晴れて来る。
「……」
周囲が静寂に戻った時、そこに影の姿はなかった。ロングランが言うように、奴の存在、気配が周囲から完全に消えたようだ。その様子をぼんやりと眺めていると、背後からロングランが静かに近づいて来た。
「上手くいったようだな、さすがに奴もこれだけ手をかければ何も出来まい」
「あ、ああ、感謝するよ、ロングラン」
「場をかき乱される前に終わらせる必要があったからな。奴らが来たら作戦が狂うかも知れなかった」
ロングランが屋敷の方角に目を向けた。軽やかな足音が二つ届いてくる。フィッシャーとルルーゼだ。
「おお、無事だったか。一瞬で俺たちの身の自由を奪うとは恐ろしい奴だった。ロジタール、そちらの者は?」
「彼はロングラン。奴を退けたのは彼の功績だ」
ロングランは一つ髪をかき上げて、二人と向き合った。




