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表の世界



     第4話 表の世界




 翌日?。目が覚めたリルは、竜王様のお腹の下で、ウネウネした。それで竜王様も目を覚まして、地鳴りのような声で、おはようのあいさつをしてくれた。

「キ。」

リルも、おはようのあいさつを返す。それからリルは、ノソノソと竜王様のお腹の下から這い出した。ポフンと「人化」して、竜王様の方に振り返った。

「みゃ。」

「人化」したリルが何をするのだろうと観察していた竜王様に、リルは不意打ちで「人化」の魔法をかけた。

 ポフンと竜王様の姿が変わる。年齢不詳な感じの女性の姿だ。癖のない艶やかな黒髪は腰まで伸びていて、対照的に肌の色は白磁のように白く透き通っている。170センチくらいの細身の体は、女性らしい柔らかいラインだが、胸はそれほど大きくない。服装は、シンプルな黒のワンピースに、かかとの高いパンプス。リルは、竜王様にどんな姿になって欲しいという願望を入れなかったので、この姿が、竜王様の、というより不死なる竜の一族の母としてのあり方が「人化」の結果に反映したのだろう。リルは、ままは、にんげんのころのままより、びじんかも、と思った。

「これが…私の姿?」

「みゃ。」

「人化」している状態なら、竜王様は、人語を操れるようだ。ただ、リルは竜語で答えた。

「そうなのね。リルがこれをやってくれたのね。」

「みあ。」

「それは、いい考えだわ。リルも私の巣で退屈そうにしていたから。」

「みゃ。」

何か、逆転している気がしなくもないが、リルは、門を開き、竜王様と一緒に、表の世界に向かった。


 リルと「人化」した竜王様は、表の世界に出てきた。薄明の時間、周囲に人の目はない。目の前には見覚えのない、市壁に囲まれた街がある。ただ、市壁は出来てからそれなりに時間が経っているようで、外側が苔むしていた。リルが門の出口として選んだ場所に、出るのに失敗したのだろうか。ただ、振り返って見ると、見覚えのある砦が見えた。というか屋根に毛深象(マンモス)の剥製が飾られている砦など、世界に一つしかあるまい。見間違えようがない。門はリルが選んだ場所に、確かに開かれたのだ。そうすると、目の前の街が、リルの記憶から姿を変えたのだろう。

「・・・まま、まちにはいる。」

「それはいいけど、私たちの名前を決めましょう。人間の振りをして、人間の街で暮らすなら、人間らしい名前が必要でしょう。」

「・・・なら、りる。」

「リルはリルでいいのね。なら私は、そうね…エルマにしましょう。」

と言うことでリルと竜王様改めエルマは、街に入ることにした。

 街の東側の門は、閉まっていた。大型魔獣の突撃にも耐える、巨大な鉄扉だ。見張りなどはいない。

「・・・ん。」

リルは、エルマをお姫様抱っこにして、ぴょんと、街の門を飛び越えた。リルの身長は140センチ程しかないので、長身のエルマを抱きかかえる光景は、アンバランスだったろうが、見ている人間はいなかった。

 街の中に入ると、石畳で舗装された街道があった。魔導車同士でもすれ違える広さの大きな街道だ。リルは、この街道には見覚えがあった。王都ウラジオから緑の道の入り口である0番砦まで東西に延びるオストニア街道だ。視線をあげ、街の様子を見る。右、今リルたちは西を向いているので街道の北側には、見覚えのない建物群があり、周囲を高い塀に囲まれているので、何かの施設だろう。左側、街道の南側には集合住宅らしき建物が何棟か建っている。

 街の南側の市壁の、3分の1くらいのところに、東側の市壁を壊して街を拡張したと思われる跡があった。その先に見える街並みは、遠目だが、見覚えがある。リルがまだ人間だったころ、生まれ育った街、学園都市エカテリンブルだ。

 拡張した部分の大半を占める、塀で囲まれた施設の表札には「王立大学」とある。リルには、聞いたことがない施設だ。とりあえず大学のことは後回しにして、リルとエルマ、母娘が暮らす拠点になる場所を探さないといけない。

「・・・まま。」

「家を探すのね。行きましょう。」

エルマは聡明な女性である。リルの言いたいことを、理解してくれた。

 とりあえず、てくてくと街道を西に向けて歩いて行った。昔の市壁の継ぎ目の跡を越えてしばらく進んだところで、右入る少し細い道があった。この道沿いはリルがエカテリンブルに住んでいたころは学園前商店街だった。まだ朝早いからか、人はほとんどいない。オストニア街道と学園前商店街の接する角地には見覚えのある建物があった。アウレリウス家が贔屓にしていた仕立屋だ。この仕立屋には、リルがかつて所属していた「銀嶺騎士団」の制服も作ってもらった。

 そこから更に行くと、右側には「王立魔法騎士学園」の施設がある。学園の施設は、リルが人間として通っていたころと、ほぼ変わっていないように見える。学園の正門に至るすぐ手前、街道の南側に、アウレリウス邸があったはずだ。ただ、その場所には見覚えのない建物が建っていて「マネシトゥス」という屋号と、家魔という看板が出ていたから、お店になっているようだ。

「・・・?」

「違う家になってるわね。人手に渡ってしまったのかしら。」

リルは、アウレリウス家代々の家が人手に渡ったのが、へんだな、と思った。

「・・・すみこみ?」

「住み込みで働ける場所を探すのね。それなら商店街の方に行きましょう。」

 リルとエルマは引き返して、学園前商店街の方に行った。交差点まで戻ると、仕立屋の向かいにあるキオスクが開いていた。街道から、キオスクの中にかけられているカレンダーが見えた。西方歴2982年6月。人間だったリルが、竜王様と魔界に旅立った時から、200年以上が経過している。リルは、魔界での自分の体感時間の流れと、表の世界の実際の時間の流れに大きな乖離があり、とても驚いた。無表情のままだが。

「どうしたの?リル。」

「・・・にひゃくねんいじょう。」

エルマにはリルの無表情の中から、表情の変化が読み取れるようだ。人間だったころのリルの長兄だったオルティヌスもそうだった。それでエルマは、リルの驚きに気付き、リルを気遣ってくれたのだ。それに対してリルの口から出た言葉は、相変わらず言葉足らずだ。

「私たちが魔界にいる間に、表の世界では200年以上、時間が経っていたのね。それってとっても長い時間なの?」

人間の姿をしていても、エルマは不死なる竜である。人間の尺度で200年というのが長いのか短いのかまでは分からなかったが、リルの驚き様から(無表情だが)長い時間なのだろうと判断して、確認のために尋ねた。

「・・・ん。・・・にんげんのじゅみょうは、ながくてすうじゅうねん。」

「そう言えばあなたのお姉さんのモカが亡くなったのが90歳だったわね。」

「・・・ん。」

とりあえず、エルマに人間にとっての200年以上という時間がいかに長いかは理解してもらえた。

 200年以上経っていると、人間の社会の常識も大きく変わっている可能性はある。リルはそこのところは不安だったが、エルマと住み込みで働ける場所を探すことにした。ただ、まだ朝早く、お店はどこも開いていないので、しばらく街の様子を見ながら時間を潰すことにした。


 そろそろ朝の街が動き出そうかという時、リルとエルマの姿は、街の拡張されたと思われる部分にある、集合住宅の屋根の上にあった。あまり目立つことなく、街の様子を眺められる場所と言うことで、この場所が選ばれた。集合住宅は、板蒟蒻を立てた様な四角い形をしていて、5階建ての様だった。言うなれば団地である。集合住宅と南側の市壁の間には、戸建ての住宅も見える。

 集合住宅と街道を挟んで向かいにある、大学には、次々と若者が入っていっていた。みんな、門の脇にいる守衛に身分証の様な物を見せているから、勝手に入ることはできないのだろう。若者たちは、リルが見た限り、学園の高等部の学生たちと同じくらいの年格好で、15歳で成人という制度が今も変わっていないなら、彼らも大人なのだろう。若者たちはリルたちの足下の集合住宅から、大学に通っているようだったから、この建物は大学生の寮だろうか。時折、集合住宅の南にある戸建ての住宅から、血色が悪くいかにも運動不足といった見た目の、初老くらいの人物が大学に入っていく。彼らは教職員だろうか。そうすると、大学は、高等教育機関なのかも知れない。

 視線を、王立魔法騎士学園の方に移すと、学園前商店街に直結している東門の方から、初等部から中等部と思われる子供たちも、少ないながらも、登校している。ただ、初等部の児童は、リルがまだ人間として学園に通っていた時と比べても、小さな子供が交じっているので、義務教育開始の年齢が早まったのかも知れない。

「リル、この後どうする積もり?」

エルマが、リルに尋ねた。

「・・・おみせ、ひるまえに、あく。」

「昼前からお店が開くから、住み込みで働かせてくれるところがあるか、探すのね。」

不死なる竜になっても、リルは喋るのが苦手なままであった。エルマは、リルの表情を観察しながら、リルの足りない言葉を補ってくれる。

 リルが、住み込みで働くことにこだわるのは、2つ理由がある。1つめは、人間は働かないと食べていけない。人間の街に自然に溶け込むには、住む場所と、働く場所を見つけるのは必須である。もう1つは、やることがないと退屈だからである。

「・・・ん。」

リルは集合住宅の屋根の上から街の様子を観察している間に、エルマに「元素還元」をかけて、魔力を抜いておいた。

「意図せず『人化』が解けて、街に被害を出してはいけないからね。ふふ、リルはお利口さんね。」

リルの判断をエルマが褒めてくれた。リルは、ままにほめられた、と思った。


 朝の登校時間が一段落して、商店街の店がそれぞれに開店準備を始めていた。リルたちが立っている集合住宅の屋根の上から、学園の時計塔が見える。午前9時。大学の正門の正面にある建物にも、学園の時計塔に負けない大きさの時計がついていて、同じ時刻を指し示していた。学園と大学、それぞれから始業時刻を知らせるものと思しき、チャイムが聞こえる。

 リルとエルマは、集合住宅の屋根から飛び降りて、商店街の方に行ってみることにした。ちなみに不死なる竜である2人は飛行魔法が使えるので、高いところから飛び降りてもへっちゃらである。

 商店街には、小規模な飲食店が軒を連ねる路地、我々の世界で言うところの横町の様な場所が所々にあった。飲食店は、オストニア各地の地名を看板に掲げており、どうやらご当地料理のお店らしい。オストニア王国は、温暖な南方から永久凍土に閉ざされた北の地獄まで、南北に長い国土を有しており、地域によって食文化には違いがある。こういうお店が軒を連ねることからして、学園都市エカテリンブルには、今でも全土から学生が集まって来ているのだろう。

「・・・ん。」

「飲食店をまわってみるのね。」

昼の営業に備えて開店準備をしている、横町の飲食店を見て回った。どのお店も小さいが、1階がお店で、2階が住居スペースのようである。

「・・・すみこみ?」

リルは、人間社会の常識がないエルマの代わりに、お店の人と喋ろうとしたが、リルのコミュニケーション能力は低い。言葉足らずで、話しかけた店主を困惑させた。

「あ、私たちは親子で、今、この辺りで住み込みで働かせてくれるお店を探しているんです。」

結局、エルマが、リルの言葉足らずを補った。

「あ、そういうこと。ごめんね。うちは人手は足りてるんだ。」

断られた。

 それから、色んな横町の飲食店をまわってみたが、

「うちは、人を雇ってないんだよ。」

「住み込みは難しいね。」

「子連れはちょっと。」

といった感じで、断られ続けた。

 そんなことを続けている間に学園が昼休みに入ったらしく、東門から学生たちが出てきた。この時間に飲食店をまわっていると営業の邪魔になる。ちなみに、不死なる竜は、食事が必要ないので、客として飲食店に入ることはない。飲食店を見ていると、客の学生たちは、食事ではなく、お茶のみの注文が多いので、この時代でも、オストニアに昼食の文化はない。

 商店街には、飲食店以外にもお店はある。リルたちはそういったお店もまわってみることにした。

 最初に行ったお店は、洋服屋だった。リルが人間としてエカテリンブルの街に暮らしていたころは、この店は生地屋で、既製服を売る店はなかった。

「・・・すみこみ?」

「私たちは親子で、住み込みで働かせてくれるお店を探しているんです。厚かましいお願いですが、こちらで雇って頂けないでしょうか?」

やはりエルマが主に喋った。

「親子にしては似てねえな。それはともかく、うちには住み込める場所なんてねえよ。」

確かにリルとエルマは人間の親子としては似ていない。それはともかく、断られた。次に、もともと釦屋だった場所に行ってみたら、こちらも洋服屋になっていた。

「・・・すみこみ?」

「私たちは親子で、住み込みで働かせてくれるお店を探しているんです。厚かましいお願いですが、こちらで雇って頂けないでしょうか?」

こちらのお店は、元々釦だけでなく、リボンやフリルなど、洋服を飾る装飾品なら何でも揃う大店だった。

「すみません。うちでは住み込みの従業員は雇っていません。」

丁寧な対応だったが、断られた。直後、店の奥から、店主と思われる男性の声がした。

「住み込みだったら、あの喫茶店にでも行ってみな。」

と有力な情報をくれた。「あの喫茶店」と聞いて、リルには1つのお店が思い浮かんだ。

「・・・さう゛ぉる?」

「おう、それそれ。」

中年以上にありがちな固有名詞が出てこない会話の後、次の目的地が決まった。


 喫茶サヴォルは、リルが学園に通っていた時代にも、学園前商店街で1番の老舗だった。エカテリンブルに実家があったリルは行ったことはないが、学生が昼休みを過ごす店(あるいは授業をサボっている店)として有名だった。商店街の路地裏、目立たないところにあるが、有名店である。

 昼休みの、学生たちの波が引いたところで、リルはエカテリンブルに住んでいた当時の記憶を頼りに、喫茶サヴォルに行ってみた。

 知らなければその先に店があるなどと思わないような路地の先に、喫茶サヴォルの看板が見えた。年代を経た建物に独特の重厚感がある外観。路地に沿って、1テーブルだけテラス席が設けられていて、その脇に扉がある。開いて中に入ると、扉に付けられていた鐘が、カランコロンカランと鳴った。中はカウンター席6席に、2人がけのテーブル席が2つ。決して広くはない。ちょうど他の客はいなかった。カウンターの中で、恰幅のいい老人が、カップを磨いていた。

「いらっしゃい。」

愛想の良くない声がかかる。リルは席に着くこともなく、マスターの正面に行き、

「・・・すみこみ?」

と言った。

「すみません。私たちはお客じゃないんです。この辺りで住み込みで働かせて頂けるお店を探していまして。厚かましいお願いなのですが、こちらで雇って頂けないでしょうか。」

エルマが、リルの足りない言葉を補足する。

「住み込みか。確かに部屋は余ってるが。…それにしても嬢ちゃんたち、見ない顔だな。それに親子にしては似てねえ。訳ありか?」

即答では断られなかった。マスターの質問に答える。

「・・・きょう、ついた。」

「私たちは、オクタの街で暮らしていまして、このエカテリンブルには、今日着いたところなんです。それで、この子は身寄りがないので、私が引き取った子なんです。」

リルと主にエルマが喋っている最中、マスターは値踏みするような視線で、エルマのことを見ていた。

「随分遠くから来たみてえじゃねえか。それにしては、住む場所も働く当てもなしか。怪しいな。」

当然怪しまれるところなのだが、答えを用意していなかった。リルはとっさに、

「・・・このまちの、うまれ。・・・ぱぱとままのおはかもある。」

と言った。

「この子は、このエカテリンブルの生まれで、それで、この街に帰ってきたいと、特に当てもなく来てしまった次第です。」

エルマも合わせてくれた。

「この街の生まれで、オクタに移住して、その後戻って来た、って訳か。とてもそんな歳には見えねえが。」

「・・・ちいさいから、よくこどもにまちがえられるけど・・・もう、おとな。」

対人関係が苦手なリルも、この時は頑張って喋った。この辺の事情はエルマと出会う前のことだから、リル自身が説明するしかない。

「・・・がくえんも、でてる。」

と言っても、200年以上前のことであるが。その辺りの事情はぼかして説明した。

「そうか、疑って悪かったな。ただ、今は、人を雇ってねえんだ。」

結局断られた。初めて雇ってもらえそうな手応えがあっただけに、リルは落胆した。無表情のままだが。

「この店は、それこそ学園が出来たころから、ここで営業してたんだがな。俺の代で、終いにしようと思ってる。跡継ぎがいねえしな。だから、新しく人は入れねえんだ。」

「そんな、いいお店なのにもったいない。」

「・・・やめちゃう?」

老舗の廃業を惜しむ声は多かろう。エルマは、ここで、マスターの心変わりがないか期待して、会話を続けた。

「俺には、嫁も子供もいねえからな。仕事一筋で、先のことを考えてなかったってやつだ。」

マスターの声色には後悔が滲んでいた。

「そう言や、嬢ちゃんたちの名前を聞いてなかったな。」

「・・・りる。」

「この子がリルで、私がエルマと申します。苗字はありません。」

この辺りは、聞かれた時のために事前に打ち合わせていた。アウレリウスの名は、エカテリンブルでは不用意に出さない方がいいだろうとリルが考えたのだ。

「今日び、苗字がねえなんて珍しいな。まあ、俺もねえんだが。」

それきり、マスターは黙って仕事に戻ってしまった。リルたちを雇う気はないという意思表示だろうか。リルとエルマはペコリと頭を下げ、

「お騒がせしました。」

と言い残して、喫茶店を出た。カランコロンカランと、入って来た時と同じ音色で鐘が鳴った。


 有力な候補が空振りに終わり、リルたちはちょっとだけ落胆した。商店街に戻る路地を歩いていると、後ろから、ドアの開く音が聞こえてきた。リルたちの後ろには、先程までいた喫茶店しかないから、マスターだろう。何の用かと、振り返ると、マスターが、リルたちの名前を呼びながら追ってきていた。

「エルマ、それにリルだったな。気が変わった。雇ってやってもいいぜ。」

「・・・!」

「あの、立ち話も何ですので、お店に戻りましょう。」

リルは驚いた(無表情だが)が、エルマは冷静だった。

「そうだな。とりあえず戻るか。」

リルたちはマスターの後について、再び喫茶サヴォルに入った。

 話を切り出したのは、マスターの方からだった。

「雇ってやるし、住み込みもOKだが、条件付きだ。雇うのは、俺が引退するまで。エルマ、お前さんには、その間に俺の仕事を覚えてもらう。」

「それは、いいですが、お仕事を覚えたらどうされるお積もりですか?」

エルマは、今日初めて「人化」して人間の街に来たとは思えないほど、スムーズに会話をしている。

「お前さんが仕事を覚えられたら、この建物ごと、店を継がせてやる。どうせ後を継ぐ子供はいねえしな。仕事を覚えられなかったら、この店は閉店だ。」

「それでは、この老舗を残せるかは、私次第と言うことですか。分かりました。その条件で結構です。」

「・・・わたしは?」

エルマとマスターの間で話が進んでいたので、置いてけぼりだったリルが、口を挟んだ。

「そう言えば、チビちゃんも学校を出てるんだったな。じゃあ、ウェートレスでも、やってもらうか。」

「・・・ん。」

「部屋は2階の空き部屋を使いな。外に出て、店の裏手に、居住スペース用の玄関がある。仕事は明日からでいいぜ。」

と言うことで、リルとエルマは、住む場所と仕事を手に入れた。これで、街の住民として暮らしていける。

 マスターは、引っ越し作業があるのだろうと思って、仕事を明日からにしてくれたのだろうが、特に荷物として持ってきた物はないので、リルとエルマは、身ひとつで、店の外をまわって、玄関から居住スペースに入った。御他聞に漏れず、喫茶サヴォルも2階が居住スペースになっているらしく、小さな玄関から中に入ると、目の前が階段だった。階段を上ると、2DKの間取りで、2つある寝室の片方は、見るからに男性の一人暮らしと言った荷物があったが、もう1つはベッドが1台あるだけで、空っぽだった。昔はマスターも家族でこの場所に住んでいたのかも知れない。ダイニングキッチンには、魔法のコンロが2口と、魔法の冷蔵庫があったが、冷蔵庫は魔力線がつながっておらず、空っぽだった。そのほかに、お風呂とトイレ、洗面脱衣所があり、魔法の洗濯機もあった。

 リルとエルマは、空いている部屋を自分たちの部屋と定めて、中に入る。

「ベッドだけね。」

「・・・ん。」

と言っても、リルもエルマも魔法で人間に化けているだけだから、寝床があれば充分である。服も魔法で再現されているので、着替えや洗濯も不要なのだ。それよりも問題は、今までリルが寝るとき「人化」の魔法を解いていたことである。もし「人化」の魔法をかけたまま眠れないなら、不死なる竜としての姿を、マスターに見られる危険がある。

「・・・かぎ。」

「そうね。すぐに追い出されるわけにはいかないもの。」

幸い、寝室は内側から鍵がかけられるようであった。寝ている姿を見られないよう、鍵はかけ忘れないようにしないといけない。

 そこで、リルがピンと閃いた。門を開いて、魔界の巣に置いてきた物を呼び出す。出てきたのは、リル特製の魔法の金庫だった。中身を確認すると、相変わらず金貨が山盛りだ。

「・・・おかねもち。」

「そうね。でもこれはマスターには内緒よ。」


 まだ寝るには早い時間だったので、街に出て、人々の様子を観察した。なにせ200年のジェネレーションギャップがあるのだ。世間の常識も変わっているかも知れない。

 リルが最初に気付いたのは、買い物の様子が、昔と大きく違うことだ。

「・・・かみの、おかね。」

リルがまだ人間だったころには、紙幣は使われていなかったが、実はリルには紙幣についての知識はあった。出所は悪魔の知識だ。悪魔がリルよりも前に取り憑いた人物に、異世界からの転生者がいて、しかもその人物が前世の記憶を持っていたのだ。異世界では、紙のお金が金貨や銀貨の代わりに使われていたようだ。リルが魔界に行っている200年余りの間に、オストニアでも紙のお金が使われ始めたようだ。リルは、かみのおかね、ほしい、と思った。


 午後もそれなりに早い時間には、初等部と中等部の授業が終わったらしく、学園の東門から、児童生徒がぞろぞろと出てきた。ただ、学園の規模からすれば人数は少ないから、かつてと同じく、エカテリンブル以外に実家がある児童生徒は、寮暮らしなのだろう。遠目に見た印象通り、リルが学園に通っていた時代なら、まだ学齢に達していないくらい小さい子供もいたから、義務教育開始が、早まったのかもしれない。


 洋服屋で売られている既製服も、一応目を通してみた。といっても、リルもエルマも着替えの必要がないので、ただの冷やかしだ。元生地屋だった洋風屋の奥には、加工前の生地も種類は少ないが陳列されていた。

「・・・うさちゃん?」

「この生地は兎さんの毛で出来ているみたいね。」

兎といっても「角兎(ホーンド・ラビット)」という魔獣だ。角兎の飼育方法は、人間だったころのリルの長兄、オッティが研究し、確立したもののはずである。すでにその毛糸で出来た生地が、売られていた。200年以上の時を超えて、不思議なつながりを感じた。


 夕方近くなると、学園の高等部も終業時刻だ。学園から疲れた顔の学生たちが、街に繰り出してくる。よく見ると、大学の方からも若者たちが出てきた。やはり大学も学園の高等部と並ぶ高等教育機関のようだ。

 街をぶらぶら歩いていると、かつては貸本屋だった店が、屋号はそのままだが、古本という看板を掲げていた。本を見繕っている学生の姿も見える。200年の時は、本や紙も貴重品から、庶民の手の届く物へと変えたのかも知れない。

 それからかつてアウレリウス邸があった場所にできた、マネシトゥスという屋号の家魔のお店に行ってみた。魔法のコンロや魔法のストーブ、湯沸かし器、冷蔵庫に洗濯機、いろいろな家庭用魔道具、略して家魔がところ狭しと展示されている。

「いらっしゃい。おや、見ない顔だね。引っ越してきたのかい?」

愛想のいい店主が話しかけてきた。冷やかしで特に買う物はない、というかこの時代のお金も持っていないから買えないのだが。それでも、エルマはこちらも愛想良く答えた。

「そうなんです。オクタの街に住んでいたんですけど、この子がエカテリンブルの生まれで、こちらに引っ越してきたかったみたいです。」

「・・・ん。」

リルも、エルマの後ろから半分だけ顔を出し、会話に加わった。一文字だけだが。

「娘さん?あんま似てないね。」

「はい。この子の家族が亡くなってしまって、私が引き取ることになったんです。」

「・・・ん。」

「へえ、偉いお嬢さんだ。」

エルマと店主が会話している間に、家魔の中の紋章を観察していた。おねえちゃんやわたしがつくったのそのまんま、まねした、とリルは思った。

「ん?おチビちゃん、家魔に興味があるのかい?」

リルは、家魔から覗く見覚えのある紋章を見て、首を横に振った。


 そろそろ日が暮れて来たころ、リルとエルマは、喫茶サヴォルに戻った。横町の飲食店は、学生たちで賑わい始めていたが、サヴォルはお酒を出していないので、この時間からやって来る客は少ない。店の中に戻ったら、マスターが

「明日から覚えてもらうことになる俺の味だ。」

と、ぶっきらぼうな言葉で、お茶を淹れてくれた。リルが人間だったころ、オストニアで庶民が飲むお茶といえば、薬草茶だったが、マスターが淹れてくれたのは、紅茶だった。

「・・・?」

「この味を覚えるんですね。」

これからマスターのお茶の味を覚えることになるエルマにお茶が出されたのは分かるが、リルにも淹れてくれた理由が分からない。

「これから身内だ。お代は要らねえぜ。」

「リル、遠慮しないで頂いたら。」

リルは、マスターの好意と解釈して、お茶を頂くことにした。

「初めてだけど、いい香り。それに赤くて透き通っていて綺麗なお茶ね。」

「これは、巨壁山脈東麓地方南部で、茶の木の栽培が始まってて、それを使ってる。まだ知る人ぞ知る、ってもんだけどな。」

それから、マスターの紅茶蘊蓄が続いた。リルは聞き流していたが、エルマは熱心に聞いていた。


 その日の夜、リルは「人化」を解かないで、人間の姿のまま、床についた。ベッドが1つしかなかったから、エルマと一緒に寝た。エルマに抱いてもらって、落ち着いて寝ることができた。


 この季節は日が昇るのは早い。リルは日の出とともに目を覚ました。自分の姿を確認すると、人間の姿のままだった。同じベッドでまだ寝ているエルマもそうだ。「人化」は、リル自身の意識がなくても、維持されるようだ。エルマが余りに気持ちよさそうに寝ていたので、起こさないように、ベッドからするりと抜け出した。耳を澄ますと、隣の部屋からも、マスターのいびきが聞こえた。

 エルマとマスターが起きるまで、ぼーっとしていても退屈なので、朝の街を散歩に出掛けた。ただ街を歩くだけだと昨日と代わり映えのない景色を見るだけなので、靴を履き直すと、寝室の窓から、ぴょんと外に出て、家々の屋根伝いに、市壁の上に飛び乗った。

 そう言えば、兄のオッティから槍の稽古をするように勧められるまで、姉のモカイッサ(モカ)と、市壁を走り回って、銃剣の稽古をしたものだった。そんな思い出に浸りつつ、市壁の上をのんびり歩いて1周した。市壁の上から街の様子を見下ろしていたのだが、全然人が出歩いていなかった。リルは、みんなおねぼう、と思った。その実、この時代には魔法のランプが普及しているので、夜明かりを採るための油や蝋燭を節約する必要がないので、リルが人間だった時代ほど、みんな早寝早起きではないのだ。

 リルが街の人々が起き始めるのをのんびり市壁の上から眺めていると、一番早かったのは、昨日カレンダーを覗き見させてもらった、キオスクだった。それから、起き出した人々がキオスクにやって来て、文字がびっしりと印刷された紙束を買っていく。支払いはやっぱり紙幣だった。リルは、あれ、しんぶん?と思った。悪魔の知識には、異世界で毎朝読まれていた、新聞という出版物があった。それに似ていると思ったのだ。ぴょこっと市壁から飛び降りて、キオスクの近くまで確認に行った。紙束はやはり新聞で「本日」という大きな字で印刷されていたので、それが新聞のタイトルのようだ。中身にも興味があったが、この時代のお金を持っていないので、買えなかった。

 キオスクで新聞が売られているという小さな発見をしたリルは、そのまま、昨日から我が家となった、喫茶サヴォルの2階に戻った。窓の下から、ぴょんと飛んで、窓から帰宅した。リルが帰ってきても、エルマはまだ気持ちよさそうに寝ていたが、マスターはもう起きているようだった。寝室を出て、ダイニングの方に行くと、案の定、マスターが朝食の支度をしていた。

「おう、チビ、起きたか。ちょっと悪いが、新聞とパンを買ってきてくれ。」

と言って、100オースと書かれた紙幣を2枚くれた。ぱんやさん、きづかなかった、とリルは思った。リルは無言で頷くと、100オース札2枚を持って、お使いに出掛けた。喫茶サヴォルがある路地から出ると、目の前にパン屋があり、朝食のパンを買いに来ている主婦らしき人が結構な人数いた。パン屋に入ったリルは、少しおどおどしながら、

「・・・ぱ、ぱん。」

と言って、100オース札1枚を差し出した。

「パンって言っても、どれか分からんな。」

確かにパン屋にはいろいろな種類のパンが売られていた。マスターはどのパンとは指定していない。リルはおどおどしながら、

「・・・さう゛ぉる?」

と言うと、

「あー、そう言えば、大将が親子連れを雇ったって言ってたな。チビちゃんがその子供って訳だ。お使いかい?」

そう言ってパン屋の主人は、長くて固いパンを出してくれた。

「大将はいつもこれを買ってくんだ。で、20オースだから、お釣りは80オース。毎度。」

パン屋の店主は100オース札を1枚受け取ると、固くて長いパンと銅貨を8枚、リルに渡した。リルはパンとお釣りを受け取ると、

「・・・あ、ありがとう。」

と、おどおどしながら言った。

「こちらこそ、おチビちゃん。」

パン屋の主人が言った。リルは、ちゃんとおつかいできた、わたしえらい、と思った。

 それから、キオスクまでまた行き、

「・・・しんぶん?」

と言って、100オース札を出した。

「ほい。」

キオスクの売り子は「本日」をリルに渡してくれた。お釣りはない。題字の横には、定価100オースと書かれていた。リルは、ぴったり、と思った。

 家に帰ると、マスターにパンと新聞、お釣りの銅貨8枚を渡した。

「おう、チビ。ご苦労。お前も食うか?」

マスターは、リルを朝食に誘ってくれたようだ。ただ、リルは食事が必要ない体なので、無言で首を振った。

「じゃ、俺が飯食ってる間に新聞、読んでいいぞ。学校出てるなら読めるよな。」

マスターは好意で新聞を読ませてくれた。リルは、新聞を読んで、最新の情報を得ることができた。この日以来、リルは早起きして、パンと新聞のお使いに行くようになった。


 さて、マスターが朝食を終えたので、リルは新聞を渡し、寝室でまだ寝ているエルマを起こしにきた。

「・・・まま、おきて。」

「ん。おはよう、リル。」

エルマが起き上がり、小柄なリルを抱きしめる。

「・・・おはよう。」

エルマが人間の言葉でおはようのあいさつをしたので、リルも人間の言葉で返した。そのまま、リルはエルマを引っ張るように、ダイニングに出たが、マスターは、もう1階の店に降りた後だった。新聞もない。

「リル、マスターは?」

「・・・たぶん、した。」

「じゃあ、私たちも行きましょう。」

リルは無言で頷くと、エルマと一緒に1階の店に降りた。

 家の玄関のすぐ横に、店の厨房に通じる勝手口がある。そこから店の厨房に入ると、マスターが待っていた。

「お姫様はようやくお目覚めか。じゃあ、今日からよろしく頼む。」

そう言うと、マスターはエルマに自分と揃いの黒いエプロンを投げてよこした。

「よろしくお願いします。」

リルは、エルマにエプロンを着けながら、無言で頷いた。

「そう言や、エルマはともかく、チビはその格好で、働くのか?」

言われてみて、リルはポンと手を叩いた。それから勝手口から出て行ってしまった。

「チビ…。まあいい。エルマ、とりあえず、開店準備の仕方を教えるから、一緒にやるぞ。もうすぐ今日の分の食材が配達されてくるから、その前に、厨房の掃除だ。」

「はい。」

言われて、エルマが厨房の掃除をしていると、勝手口からリルが戻って来た。

「・・・うぇーとれす。」

リルの格好は、いつもの黒ロリファッションから、リボンやフリルなどのカワイイポイントを押さえつつ、黒いエプロンドレスを合わせた服に着替えていた。上も半袖で、白い肌が見えている。

「あら、リル。いつもの格好もいいけど、このお店に合わせたのね。可愛いわよ。」

エルマに褒められて、リルは嬉しくなった(けど無表情は変わらない)。

「チビは着替えに行ってたのか。掃除が終わったら、配達が来るまで適当に休んでな。んで、食材を受け取って、整理するのが、次の仕事だ。」

 掃除が終わってしばらくしたら、勝手口がノックされ、近所の食料品店から、食材が配達されてきた。中身は、鶏卵やナッツなどだった。サヴォルは、喫茶のみの店で、食事メニューは出していないので、食材は茶菓子用の製菓材料だ。

「食材の整理が終わったら、箱は勝手口の外に出しとけ。回収に来るから。で、それから、客席の方の掃除もすりゃあ、開店準備は完了だ。」

 リルとエルマは、客席の掃き掃除をして、カウンターやテーブルを磨いた。

「2人とも、初めてにしちゃあ手際がいいな。エルマ、ちょっとまとまった時間があるから、今のうちに、茶の淹れ方を教えてやる。」

マスターはやかんを魔法のコンロにかけて、湯を沸かし始めた。

「湯は1度沸騰させてから冷まして使うんだ。それから、茶葉はケチらずにたっぷり使う。温度と時間が肝だ。」

「はい、マスター。」

それから、エルマはマスターに教えられるままに、お茶を淹れた。リルはエルマの作業を見学していた。そんなこんなで、エルマが初めて淹れたお茶が出来た。マスターがそれを一口。

「うめえ。俺が教えた通りとは言え、初めてでこの味が出せるのなら、いい筋してんな。」

「ありがとうございます。」

リルは、エルマとマスターの遣り取りを聞いていて、ままなら、とうぜん、と思った。不死なる竜は、人間より高い知能の持ち主なのだ。

 サヴォルはモーニング営業はしておらず、午前11時開店である。それまで、何もしていないのも退屈なので、リルは、メニュー表を見て、予習をしていた。マスターは、すぐにお茶を淹れられるよう、秤で1杯分ずつ茶葉を取り分けている。エルマはマスターの動きを見て勉強している。そんなこんなで開店時間になった。

 最初のお客は、常連らしい、老人だった。リルが案内する間もなく、老人はカウンターの一番奥に座った。

「マスター、いつもの。」

タイミングを見計らっていたかのように、マスターが茶を淹れていた。

「おい、チビ。爺に、冷蔵庫の菓子と、茶を出してやれ。」

リルは、言われたとおり、お茶と菓子を常連客に出した。

「マスター、辞めるんじゃなかったのか。おチビちゃんに別嬪さん、新しい人を入れるなんてよ。」

「気が変わったんだよ。この老舗を俺の甲斐性なしが理由で潰しちゃあ、ご先祖様に申し訳ねえからな。」

「それは、儂が言ったんじゃろ。」

それから、マスターと常連客は、カウンター越しに、親しげな会話をしていた。リルは、なんとなく2人が同世代のような気がした。

 学園や大学の昼休みを告げるチャイムが聞こえると、常連の老人は帰っていった。入れ替わるように、学生の集団が次々と、入店してきた。背格好からすると、学園の高等部か、大学の学生たちだ。リルは、客の人数を確認すると、カウンターやテーブル席に客を案内し、注文をとる。テラス席は何故か人気がなかった。ほとんどの客の注文は、お茶と日替わり茶菓子のセット。リルの感覚では、そろそろ冷たいお茶が飲みたくなる時季の様な気がしたが、客の注文は温かいお茶ばかりだった。茶菓子は昨日のうちにマスターが仕込んでいたのか、冷蔵庫にストックされていたので、マスターの淹れる茶が出来たら、茶菓子とのセットを、次々に配膳していく。ちなみに終始無言で無表情。仕事に就いたからと言って、苦手を克服できるわけではない。

 仕事をしながらも、ちょっと気になることがあったので、リルは客の話に聞き耳を立てていた。銀嶺騎士団や、アウレリウス家についての話が聞けないと期待したのだ。ただ、学生たちの話題は、間近に迫った前期試験の話題ばかりだった。

 学生の昼休みに波が去ると、サヴォルに残っている客もまばらになった。教官か実際に授業をサボっている学生くらいだ。その中で、空きコマを利用して休憩に来ていると思しき、大学の教官風の男が、カウンター越しに、エルマに話しかけていた。

「初めて見る顔だね。どこから来たの。」

「オクタからです。」

「へー。随分田舎から来たんだね。その見た目なら、田舎じゃモテモテだったでしょ。」

「いえ、そんなことは。」

「またまた、ご謙遜を。ところで、仕事は何時まで?良かったら、もっと君のこと知りたいな。」

「困ります、そういうお誘い。」

明らかなナンパだ。マスターは、明日出す、お茶菓子の仕込みをしていて、客の悪質なナンパに気付いていない。リルは、音もなくナンパ野郎の背後に回ると、一瞬だけ、右手に槍を出現させ、ナンパ野郎の脛を打った。槍はすぐに隠す。多分相手にはリルが何をしたか見えなかっただろう。

「痛っ。ん。何だ?このちびっ子。」

リルは、最大限の怒りを持って、ナンパ野郎を睨み付けた(でも無表情)。

「この子は、私の娘で、一緒に働かせてもらっています。」

ナンパ野郎にも、エルマは丁寧な態度を崩さなかったが、リルの1撃とエルマが子連れだという事実に、ナンパ野郎も興が冷めたようで、

「なんだ、子連れか。美人だと思って誘って損した。」

と、不機嫌そうに残りの茶を飲み干し、代金を置いて店を出て行ってしまった。

「リル、私、あの方を怒らせるようなこと、したかしら?」

「・・・わるい、むし。」

「そう。リルは私に悪い虫がつかないように、追い払ってくれたのね。」

リルは、ままはびじんだから、わるいむしにはきをつけないと、と思った。

 昼過ぎの、客もほとんどいなくなったタイミングで、マスターから声がかかった。

「この時間は、客が少ないから、休憩していいぞ。」

と言われても、リルとエルマは不死なる竜なので、この程度の労働で、疲れるということもない、ただ、マスターの言葉には甘えることにして、2階の住居部分に上がった。ただ、休憩と言っても、魔力さえあれば生きていける不死なる竜にとっては、お茶でも飲んで一息、ということにもならない。意外と退屈だ。休憩時間にできることを考えていると、リルはある物に思い至った。寝室にある魔法の金庫から、適当な金貨を1枚、取り出して、1階の厨房にいるマスターのところに降りる。エルマにもついてきてもらった。

「・・・これ?」

「マスター。リルが、この金貨が、今、どのくらいの価値があるか知りたいそうです。」

「これは、…ハベス1世の時代の金貨か!随分珍しい物、持ってるじゃねえか。」

オストニアでは、当代の国王の肖像が硬貨に鋳込まれていて、かつては国王の代替わりの度に、硬貨の改鋳が行われていた。ハベス1世の時代は、まだ貨幣の普及は道半ばで、その時代の金貨は現存数が少なく、貴重な品だった。

「いくらの値がつくかまでは、俺も分からん。今度の休みに、王都の古銭商にでも、行ってみな。」

そう言うと、マスターは、手近な紙に、古銭商の住所を書いてくれた。

 そんなこんなで、休憩時間が終わってしまった。それから後は、授業後の時間を過ごす生徒、学生のグループが、ポツポツと来る程度で、昼ほど忙しくはならなかった。マスターは客の少ないタイミングを見つけて、エルマに、お茶の手ほどきをしていた。リルは、ままなら、すぐにみにつける、と思って、2人の様子を観察していた。

 最後の客を見送った後、マスターは算盤を弾きながら、伝票と売上金が合っているかのチェックを始めた。我々の世界で言うところのレジ締め作業だが、この時代のオストニアにはレジスターのような機械はない。手計算で、売り上げチェックをするマスターの様子を、リルは観察していた。

 それから、翌日の営業で出す、茶菓子の仕込みに戻る。この時もエルマは超人間的な学習能力を発揮して、マスターに驚かれていた。一応料理ができるリルも、お菓子作りの経験はないが、エルマとマスターの様子を観察して、だいたいのレシピは覚えてしまった。


 初めて働くとは思えないほどの学習能力を発揮し、リルとエルマは最初の1週間を無難にこなしてしまった。

 さて、学園前商店街のお店は、だいたいの店が氷曜休みである。サヴォルも氷曜日が定休日だった。リルとエルマは、マスターに教えてもらった王都の古銭商に行ってみることにした。

「俺は、ちょっと野暮用で出掛けるが、夕方までには帰れよ。」

何でも、エカテリンブルと王都ウラジオの間では、平日の日中は1時間に1往復、乗り合いの魔導車が出ているらしい。片道20分くらい。あくまで給料の前借りだといって、マスターが往復の運賃2人分を出してくれた。リルは、袋に魔法の金庫の中にあった金貨を、適当に半分くらい入れて、持って行った。

 教えられた住所は王都の新市街にあった。リルも、王都には詳しくなかったが、何とか目的の住所にたどり着いた。新市街にある商店街に、目的の古銭商の店はあった。なんでも、古銭商とは、古い貨幣を仕入れて、コレクターに売る商売らしい。金貨を普通に紙幣に換金するよりも、古い金貨には値がつくそうだ。しゅうしゅうへき?とリルは思った。

 古銭商に、リルの持ってきた金貨の山を見せると、相手の目の色が変わった。

「これは!ハベス1世の時代から、ハベス2世の時代までのオストニア金貨ですね。こんなに大量に揃っているところは初めて見ました。お嬢さん、これはどこで?」

「・・・?いえの、きんこ。」

「うーむ、ご自宅の金庫にこんな貴重な品が眠っているなんて。実はお嬢さん、身分のある家のご出身では?」

「・・・ぎく。」

古銭商の言葉に、内心はビクビクしながらも、リルはいつもの無表情を貫いた。

「うちでの買い取り価格は、この通りになります。」

古銭商が示した算盤の桁を数えて、リルは、、ぜろがたくさん、と思った。が、古銭商の目をみて、だますひとのめ、と思ったので、

「・・・もちかえって、けんとう。」

とだけ、答えて、古銭商の店を出た。その実、古銭商は、古銭としてのプレミアを計算しない、金地金としての価格を提示していたのだ。

 店を出ると、エルマが、

「リル、良かったの?」

と聞いてきたので、リルは無言で頷いた。そのまま商店街を歩いていると、別の古銭商の看板を見つけたので、入ってみた。

 今度は慎重に、袋の中身を全部見せず、ハベス1世からハベス2世の時代までの金貨4種類を、1枚ずつ見せた。

「これは!こんな貴重な物をどちらで?」

「・・・いえの、きんこ。」

「そうですか。うちでの買い取り価格だと、ハベス1世の物と、ドラク1世の物が1枚につき2000オース、レオン4世の物と、ハベス2世の物が1枚1500オースになりますが、いかがでしょう?」

それを聞いて、リルは、袋の中身を確認した。さっきの店の買い取り価格より、0が1つは多くなりそうだ。リルは、古銭商の目の前で、袋の中身を出した。

「こんなに!むう、そういたしますと…。」

古銭商は金貨を種類ごとに分けて枚数を数え始めた。算盤を弾く音が、パチパチと、小さな店の中に響く。

「出ました。合計でこちらの金額になります。」

リルは算盤で示された金額を見て、おもったとおり、と思った。

「・・・うる。」

「それでは、現金を用意して参ります。…。おい、金を下ろしてくる。店番を頼んだぞ。あの小さいのは絶対逃すな。」

店のバックヤードから怒号が漏れ聞こえてくる。それからしばらく。古銭商が、大量の紙幣を持って、戻って来た。

「お待たせしました。こちらです。ご確認下さい。」

リルは、差し出された紙幣の束を無言で数えながら、かみのおかね、たくさん、おかねもち、と思った。金額を確認したリルが無言で頷くと、

「それでは商談成立と言うことで。」

と、古銭商が言った。リルは、金貨の山を古銭商に渡し、代わりに札束を受け取って、袋に入れた。大金をまとめて持ち歩くのも不用心だと思ったので、札束のうち半分くらいは、小分けにして、服のポケットや、靴下の中などに、忍ばせた。といっても、目にもとまらぬ早業だったので、洋服に札束を突っ込まれたエルマ以外、リルの動きには気付かなかっただろう。

 金貨を換金するという目的を果たしたので、リルとエルマは、乗り合いの魔導車に乗って、エカテリンブルの街に帰った。リルが持ち帰った札束の量を見て、マスターが仰天していた。


 そんなこんなで、リルとエルマは、人間の振りをして、人間の街に潜り込んで過ごすという、目的を順調に果たしていくのだった。

〈第1章完〉

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