8 来訪
その後、少し歩いて浅賀と別れた。そして、それから2、3分で石垣とも別れる。
もみじが家に帰りつくと、そこには真っ黒な車が止まっていた。車種などに全く知識のないもみじは、その車の正式な名称を知らなかった。しかし、おそらく高級車だとは判断できる。
「ただいまー」
玄関には女性用の少し底の高い靴がある。やはり、誰か訪ねてきているのだ。もみじの帰宅に気が付いたのか、居間の方からドタドタという元気な足音が聞こえてくる。
姿を見なくても誰の足音か一目瞭然だ。
「お姉ちゃん、おかえり!」
もみじの予想通り、その足音は双葉のものだった。少し興奮しているのか顔に赤みがさしている。
「ただいま。……誰か来てるの?」
もみじは荷物を置きながら腰を下ろす。そして右足から靴を脱いでいく。
「あ、女子野球の監督さんが来てる!」
「女子野球?」
まさかの言葉に、もみじはそう聞き返す。そして、荷物を持ったまま人の気配がするリビングへと向かった。
「久しぶりだね、もみじ」
そこには母と、スーツを着た女性の姿があった。この女性をもみじは知っている。
「東雲先生」
東雲志乃。
県内に唯一女子野球部がある「桜坂女子高」の監督であり、女子野球の元日本代表選手だ。東雲志乃は、神ケ谷高校の出身で、高校時代は選手ではなくマネージャーをしていたらしい。
ちなみに、もみじの母、佐恵子とは同級生だ。
「……そろそろ進路も決まった?」
志乃は意地悪そうな笑顔でそう尋ねる。佐恵子と話をしているのなら、もみじが未だ進路を悩んでいることなど知っているはずなのに。
「――もう、私の前で娘をいじめないでくれる?」
「ごめんごめん」
少し仏頂面をして怒った様子の佐恵子に、一応謝罪をする志乃。といっても、特に悪いとは思っていないのだろう。
「……まぁ、あなたが望むならうちは大歓迎よ。一年で即レギュラーも狙えるわ。――ただ、私も高校は神ケ谷高校だったし、別に高校から女子野球に行かなきゃならないわけでもない」
志乃は自分の高校時代を思い出しながらそう話す。
「まぁ、存分に悩みなさい」
志乃のその表情からは、彼女が生きてきた時間を感じさせる。自分よりも長く、濃い時間を過ごしてきたのだろう。
自分が志乃の年齢になった時、あんな表情が出来るだろうか。もみじはそんなことを考えながらその横顔を眺めていた。
「そういえば東雲先生はどうして神ケ谷高校に?」
志乃が帰ろうと荷物を手に取った時、もみじはふと疑問に思ったことを聞いてみる。
志乃は佐恵子と同級生で年齢は35歳。そして、桜坂女子高の女子野球部は創部30年。女子野球の中ではかなりの伝統校といえる。つまり、志乃が中学生の時には既に女子野球部があったという事だ。
「――え? え~と」
竹を割ったような豪快な性格の志乃だが、ここにきて急に返答を渋った。
何か重大な理由でもあったのか。
もみじは志乃の表情を見てそんなことを勘繰る。尚も答えを渋っている志乃を見て、しびれを切らした佐恵子が隣から会話に入ってくる。
「好きな人が神ケ谷高校に入学したのよね? それを追いかけて――」
「ちょっと、佐恵子! もみじ達の前で、それは秘密にしててよ。私にも威厳というものが……」
佐恵子の発言に、志乃は顔を真っ赤にして言葉を被せていく。志乃のイメージから考えると、まさかの理由だった。
「――もう! 私の事はいいの」
志乃は何とか場を整える。まさか佐恵子から自分に攻撃が来るとは思っていなかったためか、特に言い返すなんてこともしなかった。
志乃は一つ咳ばらいをして、さっきまでの真剣な顔に戻す。
「いい? とりあえず自分の好きなようにしなさい」
そう言って志乃は席を立つ。そして、「じゃあ、私は帰るわ」と佐恵子に告げて足早に玄関の方へ向かっていく。
「ほんと、変わってないわね」
佐恵子は帰っていく志乃の背中を見ながらそう呟いた。
「『存分に悩みなさい』か……」
もみじは自室の机に向き合いながらそう呟く。机の上には「神ケ谷高校」と「桜坂女子高校」の2つのパンフレットが広げられていた。
約3か月ほど前だが、桜坂女子の練習は一度見に行ったことがある。
女子プロ野球選手を目指す者が集まっているため、活気がありとても良い環境だと感じた。コーチ陣も充実していたし、器具もしっかりと設備されていた。
だが――。
「甲子園か……」
もみじはもう片方のパンフレットを眺める。部活動紹介の欄に「甲子園準優勝」という文字が書かれている。
神ケ谷高校に進学して、もし仮に甲子園に出場できたとしても、もみじがそのメンバーに名を連ねることはできない。そんなことは理解していた。
しかし、諦めきれない自分もいる。
「――はぁ、ちょっと気晴らし」
ここでいくら考えても答えは出ない。もし出るなら、ここまで悩むことはないだろう。
もみじはバットを持って家を出ていく。向かう場所は決まっている。
「やっぱりここが落ち着く」
場所は家から徒歩10分くらい。ゴムが擦れた時に放たれる独特な匂いと甲高い音のするこの場所は、もみじが小さな時から通っている特別な場所だ。
建物の中に入ると、見知った顔がある。
「あら、もみじちゃんじゃない!」
「充子おばさん、久しぶり!」
茶髪に少し白髪が混じった充子おばさんは、もみじの顔を見て可愛らしい笑顔を見せる。常連のもみじを自分の孫の様に可愛がってくれている。
もみじも充子の事が大好きでよく話をする。しかし、今回は充子と会うことが目的ではない。
「――よし、ちょっと待ってね。すぐ準備してくるから」
充子は「受付カウンター」から出て「マシン」の裏側の方へ消えていく。もみじの手にバットがある事を見て、すぐに目的を察したのだろう。
充子が戻ってくる前に、もみじは持ってきた千円札を「ある機械」に入れて、メダルに変換する。メダルの枚数は5枚。普通よりもかなり安い部類に入る。
レジ横に置かれている軍手を手にはめていると、充子が小走りで帰ってくる。
「はい、いつものに設定しといたから。ゆっくりやって来な」
「ありがとう!」
充子は「3」と書かれたゲージの方を指さす。もみじは充子に礼を言い、持ってきた愛用のバットを握ってゲージ内に消えていった。
20分ほど経って、もみじはゲージから出てくる。顔には少し赤みが指しており、少し息も上がっている。しかし、表情には満足感があった。
「充子おばさん、ありがとう」
もみじは軍手を取ってレジ横に設置されている籠に入れる。そして、いつもの様に充子が用意してくれた水を受け取る。
「……今日は何か考え事かい?」
充子は水を飲みながら休んでいるもみじにそう尋ねる。
やっぱり、充子おばさんは鋭い。
もみじは、そんな感想を抱く。充子おばさんはもみじの心境をよく理解してくれる。一度聞いた話では、スイングや打球音を聞いていると何となく感じるものがあるらしい。
「まぁ、ちょっと進路を……」
もみじは少し目線を下げながらそう言う。といっても詳しい事まで話すつもりはない。
充子はもみじの顔を笑顔で見つめ、「そう」とつぶやくだけで、それ以上聞くようなことはしない。こういった配慮が出来る人だから皆から好かれるのだろうと思う。
もみじは少し休むと勢いよく立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ帰るね。お水、ありがとう」
「また来なさいね」
もみじからコップを受け取った充子は笑顔でそう答える。もみじは充子の言葉に一つ頷いてからその場を後にする。
やっぱり何かあった時は『岡村バッティングセンター』に行くに限る。
もみじは少しすっきりした気持ちで家に帰るのだった。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございます。
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