1 グローブ
※2021.11.30 文章を少し変更しました。
「──縞黒中、ベスト4かー」
夏休みもあとわずかという時期になったが、気温はいまだに高く、じっとりとした蒸し暑さがある。
三年生は、夏の地方大会に敗退した時点で引退となる。しかし、引退となってもすぐに部活動を去るわけではない。今日は、部室の片付けや後輩への引継ぎなど、諸々を片付けるために部活動へ顔を出していた。
「もういいだろ、それは」
セカンドのレギュラーだった藤田の呟きに、てきぱきと片づけをしていた石垣がそう答える。
県大会で優勝した縞黒中学は、その後にある地方大会、全国大会も順当に勝ち進め、最終的にベスト4まで駒を進めて敗退した。
「いや、別に齋藤を悪く言ってるわけじゃないんだぜ? ただ、惜しかったなって話で……」
藤田はもみじの顔色を伺いながらそう弁明する。しかし、その言葉はどんどん尻すぼみしていき、最終的に黙り込んでしまった。
しばらく沈黙がその場を包み込んだ。
「齋藤はもう進路はもう決めたのか?」
「……まだ決まってない。女子野球からはいくつか声かけてもらってるけど」
もみじは下を向いたまま、静かに手を動かし続ける。
──齋藤もみじ。
女子でありながら、県内ではトップレベルの実力を持つ本格派の右腕。そんな彼女を、女子野球部のある学校が放っておくわけがなかった。
「俺が齋藤なら女子野球一択だぜ」
藤田は反省した様子もなくそう言い放つ。藤田は悪気こそないのだろうが、思ったことをすぐに口に出してしまうのが欠点だ。
ただ、この場において藤田の言うことは正しかった。
「……まぁ、高校野球は公式戦に出られないからな」
石垣も下を向きつつそう呟く。
中学野球までは女子も男子に混ざって野球をすることができた。しかし、高校野球はそうはいかない。いかに実力があろうとも、女子であれば高校野球の公式戦には出場できないのだ。
「……分かってるよ。そんなことは」
もみじは眉間に小さな皺を作る。
誰が考えても「女子野球」を選択するだろう。せっかく野球の才能に恵まれているのだ。しかし、それを発揮できないのであれば、それはあってないのと同じ。
周りはみな同じことを言う。
もみじだって、皆の言うことはよく分かる。しかし、分かっていても理解していても、なぜか心がそれを受け付けないのだ。
「──それにしても、上には上がいるんだな」
藤田は持ってきたバックから一冊の雑誌を取り出す。そして、折り目を付けたページを開いて、机の上に広げ始めた。
その雑誌は藤田が愛読している野球雑誌で、彼は読み終えるとその雑誌を部室に寄贈していた。すでに山のように保管している──乱雑に積み重ねているだけだが──わけだが。
「ほら、見ろよ。また『浅賀特集』だってさー」
藤田は見開き一ページに大きく書かれた記事を指さす。
《浅賀旺士郎 決勝完全試合達成!》
そんな目を引くタイトルが、ページのど真ん中に書かれている。そして、見るからに整った顔がそこには張り付けられていた。
「俺らみたいに軟式でやってるんじゃなくて、硬式だぜ。ほんと、どこの高校に行っても甲子園行けるぜ」
──浅賀旺士郎。
名門・橘シニアのエースで、中学一年生からU15の日本代表選手に選ばれた天才投手。体こそ大きくはないが、その類まれな野球センスと超人的な身体能力から、甲子園どころかプロ野球まで視野に入っているであろう「怪物」だ。
「ほんと、俺らとは住む世界が違うぜ」
藤田はそう言いながら、部室を出ていく。部室の外から「部室に雑誌置いといたから、見ていいぞ!」という藤田の調子のいい声が聞こえた。
◇
「ただいま~」
大きな袋にたくさんの荷物を詰め込んで、もみじは家に帰り着く。思っていたより部室に私物が多かったことや、後輩から予想外のプレゼントをもらったことから、手荷物がここまで多くなるとは誤算だった。
「あら、思ったより早かったのね!」
「まぁね。片付けはほとんど済んでたし、各自私物を持って帰るだけだったから」
リビングでは、もみじの母、佐恵子が洗濯物をたたんでいた。
「そういえば、おばあちゃんが探してたわよ。何でも蔵の整理をしてたら貴方の荷物が出てきたって」
「──え? 記憶にないけど」
もみじは頭を捻るが、蔵に物を置いた記憶はない。
「まぁ、一回見てきなさい。あんたのかもしれないじゃない」
「はーい」
佐恵子は普段は優しいが、怒らせるとすごく怖い。そのため、あまり口答えはせずに確認するのが最善手だ。
それにしても、まったく覚えがない。
もみじの家は古いが大きな家で、母屋や蔵なんかも家の敷地内にある。もみじ達の住む「神ケ谷」の中でも「安岡」という村落では、大体こんな家庭が多い。「安岡」は「神ケ谷」の中でも小さな村で、もみじの通う「安岡中」しか中学はない。
蔵はおばあちゃんが管理していて、もみじが中に入ることはほとんどない。かくいうおばあちゃんもすべてを把握しているわけではなく、こうやってたまに誰かの荷物が紛れ込んでいるということは多々あった。
「もみじ、帰ったんかい?」
蔵の前でせっせと作業をしているおばあちゃんが、もみじを見つけてそう声をかける。
「今さっき帰って来たばっかり。──で、私の荷物って?」
「あぁー。これさねぇ」
おばあちゃんは、もみじに少し大きめの箱を手渡す。もみじは何となくその箱に見覚えがある気がした。
「箱んなかにグローブが入ってたから、もみじのもんやないかぁ思ってねぇ」
もみじは箱の中身を確認する。
そこには、数冊の日記のような物と使い古された青いグローブが入っていた。
「……うん、これ私のだ」
もみじはそのグローブから目が離せなかった。
確かに、これは自分のものだ。しかし、どこで買ったのか──いやもしかしたら貰ったものかもしれない──ともかく、どうやって手に入れたのか全く覚えていない。
しかし、どうしてもこのグローブから目を離すことができなかった。
「そりゃ、あんなに大事にしとったもんやから、そうやろうって思ったわぁ」
おばあちゃんはそう言い残して、また蔵の中に入っていく。
──大事にしていた。
その言葉が、もみじのなかの何かを掴んで離さない。何か大事な物である気もするが、それは微風のように形を現さない。
「まぁ、何かの拍子に思い出すでしょ」
どうしても思い出せないが、もみじはその箱を持って家のなかに入っていく。
この時のもみじは、このグローブがどれほど重要なもので、彼女にとっていかに意味のある物かをまだ知らなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
誤字脱字等ありましたら「誤字報告」にて知らせていただけるとありがたいです。何か感想等ございましたら、これからの参考になりますので、送っていただけると嬉しいです。