8月31日 晴れ 『見ているだけ』
都内の中堅文具メーカーの本社に勤めて三年目のDさんは手狭なワンルームのアパートに住んでいた。給料は悪くない方だったが、関西に住む両親に毎月仕送りをしていたので生活に余裕はあまりなかった。あまり裕福な家庭ではなかったが、両親は昔からコツコツ貯金をして、Dさんを奨学金に頼らずに大学に行かせてくれたこともあり、Dさんは親孝行のために相場より多めの仕送りをしていた。両親はいつも、こんなに良いのに、と言いつつ、Dさんの気持ちを受け取り、季節ごとに米や食品、生活に必要な消耗品をDさんに送っていた。家族関係は良好、あとはきっと両親は、Dさんが順調に結婚して孫の顔を見せてくれることを望んでいるのだろうとDさんは考えつつも、毎日仕事で忙しく、元々引っ込み思案な性格のDさんには、出会いもなければ女性にモーションをかける勇気もなかった。
そんなDさんだったが、ある日営業職の同期であまり接点のなかったFさんに合コンに誘われた。
「数合わせだし全員割り勘だから! 気分転換か何かだと思ってさ! お前がこういうの好きじゃないのは知ってるけど、もう他に誰もいないんだよ! 俺を助ける為だと思って頼むよ! 」
と懇願され、Dさんは断り切ることができなかった。Dさんにとって、人前に出て話をすることなど気分転換にはかけらもならなかったが、流石に自分もいい年齢であることを考えると、これもまた何かの縁かもしれない、と割り切って、その合コンに参加することにした。
三日後の仕事終わり、Dさんの会社の最寄りから二駅離れたハブ駅の駅前から徒歩5分の小洒落たイタリアンの居酒屋に集合した。Dさんが到着すると、既にDさん以外のメンバーは揃っていた。男性はFさんの他に、一年年上の営業のHさんがいた。三対三の合コンらしい。
「本当は五対五が良かったんだったんだけどさ。俺めっちゃピンチっしょ、やばくね? 」
セッティングしたFさんが合掌しながらDさんに耳打ちした。待ち合わせの時間には間に合っていたがDさんは既に着席しているメンバーに詫びて、空いている下手のソファー席にかけた。FさんがDさんにドリンクのメニュー表を渡して、皆に目配せした。
「えーっと、じゃあ、全員揃ったので、こいつの飲み物が来るまでの間、軽めの自己紹介から始めましょっか。まあ、名前と趣味くらいで、あとは食べ飲みしながらお話しましょってことで。じゃー俺から」
そう言ってFさんが自己紹介を始めた。既に居心地悪く感じていたDさんは飲めもしない生ビールを近くでぼーっと立っていた若い女性の店員に注文して、Hさんの自己紹介を続きから聞いていた。
「あざーっす! Hさん見ての通りバリバリ仕事できる良い男なんで! お願いします! じゃー次!」
Fさんが先輩のHさんを持ち上げつつ、Dさんの方をチラッと見た。Dさんは溜め息が漏れそうになるのを飲み込んで立ち上がった。
「えっと、Dです。Fくんとは同期で、ちょっとこういう場は得意じゃないけど、見聞広められたら良いなって。お願いします。趣味は読書です。」
壁に備え付けで引けないソファーの上で中腰になり、軽く会釈すると、対面の一番遠い席に座っていた女性が一瞬顔を上げた。店に入ってきた時から、Dさんをそっくり真似たように俯いて、早く帰りたいオーラが背中から滲み出ていた女性だった。椅子側の下手に座っていた女性側の幹事と思しき雰囲気の明るい女性が、Dさんから順にFさんとHさんを見てありがとうございますと拍手する。そして、じゃあRちゃんから、とその縮こまった女性に自己紹介の順番を振った。
「あっ、R、と申します。私も、こういうの、慣れていない、んですけど、読書、好きです。よろしくお願いします」
そう自己紹介をする間、Rさんは明らかにDさんのことを見ていた。その場にいたDさんとRさん以外のメンバーはその瞬間に目配せして何かを察し、自己紹介が終わるとすぐに席替えが為され、DさんとRさんは端の席に向かい合わせで座らされた。
話をしてみると、DさんもRさんもミステリーとローファンタジーが好きで、互いが読んだことがある本の感想や考察を語り合い、まだ相手が読んだことがない本の紹介や見所の解説をしただけで一次会の二時間が終わってしまった。初回の席替え後、残りの4人は酒をおかわりしたり、再度席替えをしたり、お手洗いに立ったりしていたらしいことを後日FさんからDさんは聞かされたが、全く気付いていなかった。
店を出て、DさんとRさんも社交辞令的に二次会に誘われたが、二人は目配せをして断り、連絡先だけ交換してその日はお開きにした。帰りの電車の中で早速DさんはRさんに連絡を入れた。まだ恋心というようなものはなかったが、純粋に本の話ができる人が上京してから周囲におらず、どうやらRさんも殆ど同じ境遇だったようで、同志を見つけた喜びで翌週に古本屋巡りをする約束があっという間に決まった。Dさんは思わぬ収穫に心躍らせ、帰宅して風呂に入って、読みかけの新作ミステリーを一章だけ読んで布団に入った。
そしてそれは翌日から始まった。
Dさんのワンルームの部屋にはドアがない。玄関を入ってすぐに風呂場と台所がある廊下があり、その奥に部屋がある。その部屋と廊下はカーテンで仕切っていたのだが、一人暮らしを始めてすぐに慌てて買ったそのカーテンは、少し部屋の入り口より丈が長いうえに、ぴったりと閉まらない構造になっていた。玄関のドアには明かり取りのすりガラスがはめ込んであり、西向きのDさんの部屋では、玄関の窓から朝日が毎日眩しく差し込んできて、Dさんはその眩しさで毎日目を覚ましていた。そのカーテンの隙間の前に、男が立っていた。百八十センチはあろう長身で、スーツを着た、細身で首が長い神経質そうな男のシルエットが、玄関の窓から差し込む朝日の中に逆光で浮かび上がっていた。Dさんは布団の中からそれを見て固まった。不審者だと思った。目覚めたことが気取られたら殺されると思った。寝ぼけ眼で男を凝視しつつ、十分ほど動けずにいると、よくよく見るとその男はたまたまカーテンの隙間の形が男に見えるだけだと気付いた。意識が覚醒してそれに気付いて漸くDさんは体を起こすことができた。ゆっくりと布団から足を出し、カーテンに近づき、やはりカーテンの閉め具合で見えた幻だと確認して安堵した。
出社すると、FさんがすぐにDさんのところに駆けつけてきた。前日の合コン参加を感謝し、自分も残りの女性二人と連絡先交換に漕ぎ付けられたことを報告された。
「そっちはどうだったん? 」
そう訊かれ、Dさんも来週の古本屋巡りの約束のことを話した。
「え、めっちゃ良いじゃん、よかったな。いやぁ、思わぬ収穫って感じだな」
とFさんも自分のことのように喜んでくれた。
その日もDさんは仕事の合間を縫ってRさんと連絡を取り、お勧めの本の話などをした。約束の日が楽しみだと伝えると、私もです、とRさんから連絡が来た。
そしてその翌日も、翌々日も、逆光のスーツの男はDさんの部屋に現れた。毎朝、Dさんが寝ぼけている間だけ、男はそこで立って見ているだけ、ただそれだけだったが、Dさんは毎朝心臓を真空パックにされるような愕きを味わった。毎朝ストレスがかかるせいか、毎日朝から体が気怠かった。しかしDさんは、目がしっかりと醒めればそれが見間違いであることを確認できていたので、誰にもこのことを相談できずにいた。
来るRさんとの約束の日、同志とはいえ異性にバカにされたくない思いから、Dさんは箪笥をひっくり返して服を選んだ。都心の古本屋街の最寄駅で待ち合わせ、1週間ぶりに会ったRさんの前髪から覗く額には、薄らと青痣があった。一瞬ハッとしたが、Dさんは気付いていないふりをして、Rさんと古本屋を巡った。
午前中に三件ほど古本屋を巡り、給料日後だったことも助けてDさんは十冊近い本を買っていた。Rさんも五冊ほど本を買い、Dさんがお勧めだからと買ってプレゼントした本を含めると七冊近い本を持っていた。DさんはRさんの本も持ち、そろそろ昼時だしご飯でも、と二人して近くのファミレスに入った。
「今日は僕が持ちますから」
と気を遣って一言添えて、それぞれランチメニューを注文した。メニューを待つ間、Dさんはその日にRさんに勧められて買った本を取り出し、裏表紙のあらすじを見ながらRさんに話しかけようと顔を上げると、Rさんは神妙な面持ちでスマホを見つめていた。
「あ、ごめんなさい、このあと何か用事でもありました? 」
えっとRさんが顔を上げる。そしてまたスマホに目線を落とすと、今にも泣きそうな顔をした。Dさんは、何か気に障るようなことでも言ってしまったのかと驚き、また急いで詫びたが、Rさんは首を振って言うのだった。
「ごめんなさい、Dさんとは本当に良いお友達になれると思うんですけど、もう会えないんです」
Rさんは、スマホを素早く操作して、汚らわしいものでも放り出すかのようにDさんの前にスマホを差し出した。そこには、Rさんと仲睦まじく映る、長身の男が写っていた。その男は、Dさんが毎朝部屋で見ていた逆光の男の体格や髪型に瓜二つで、Dさんは、毎日部屋に現れていたのがこの男だと直感した。
「今実は、お付き合いしている人がいるんですけど、この人、いわゆるDVをしてくる人で、この間の合コンの日からずっと機嫌が悪くて、毎日Dさんのことを問い詰められて、昨日メッセージも全部読まれて、今日も、どこに行くんだって問い詰められて、それで」
殴られて、その額に傷を作ったまま、逃げるようにDさんに会いに来たというのだ。あの男は、DさんがRさんと出会ったその日から、毎日Dさんのことを監視していたのだ。見ているだけ、ではなかった。Dさんが初日に感じた殺意も、本物だったのだ。もしRさんとDさんの関係が進めば、本当に殺されていたかも知れない。
DさんはRさんに、別れた方がいいよ、とは言えなかったそうだ。