第49話 バレンタイン・ラプソディ① お願いだからもうやめて!
バレンタインデイと謂う悪しき風習がある。いや、此れは何も、もてない男がもてる男をやっかんでいる訳でも無ければ、世間を呪っている訳でもない。世の中の人を見る目の無い女性を蔑んでいる訳でもなければ、腐している訳でも無い。筆者は正直に其の様に思うのである。此れも性別によっても、立場によっても、また、パートナーの有無によっても異なる話ではある為、一概に斯う謂う物だと謂い得る物でも無いのであろうが、然しまあ、公平に俯瞰して見れば、もてない筆者が妬みの余りに此の様な序文を記したと思われても、致し方無い話なのかもしれない。然し、一概に其の様に決め付けられても、癪でもあり、甚だ面白くも無いので、此処は、前講として、筆者の思い出話を述懐しようと思う。
筆者は、もうすぐ、還暦を迎えるが、一応、こんなんでも家内がいる。其の家内であるが、毎年、2月の14日になると、チョコレートを送ってくれるのである。まあ、此れに関しては男としても、特段、悪い気もしないし、有難く頂戴しているのであるが、何時も、頂く量が半端無いのである。筆者は正太郎と同様に、かなり、重度のDMである。従って、此の病気にはチョコレート自体、かなりの禁忌であると謂う事は、謂う迄も無い。まあ、DM歴の長い、自身の経験則で物申せば、チョコレート自体、然程、血糖値を上げる物とも思われない。此れは、可なり逆説的な物謂いではあるのだが、たかだか、チョコレートを数g食した処で、然して血糖値が跳ね上がる訳でもない。全ては其の量によると謂うのが本当の処であろう。其処でカミさんが謂うには、余ったら食べてやるとの事なのである。有難く思う反面、よくよく考えれば、実に、とんでもない話でもある。唯、単に、私の病気に託けて、おこぼれにあずかろうとしている様にも見受けられる。更に、うちには、3人の子供がいるが、3人とも男子である。そして、家内はチビたちにもチョコレートを振舞うのである。まあ、此れは、モテないチビ達に対する、母親らしい親心なのかも知れないが、翌月14日にはお返しを其れとなく要求する。全く以って、図々しいにも程がある。従って、3月の14日には4人から、チョコやらクッキーやらが集中する訳である。何の事は無い。自分の身銭を切って、一月後の為に、先行投資している様な物である。
抑々、うちのカミさんは、体重が0.1トン位ある。此の種の体型の女性の常として、基本的に甘い物は断れない。否、断る気は毛頭無い。恐らく、甘い物については、蟻さんより大好物であろう。従って、毎年此の時期のカミさんは、目方が僅かばかり微増する。にも拘らず、DMであるのは、私の方であり、実に理不尽な事此の上無い。将に世の不平等の縮図の様な有様である。
バレンタインデーで思い出されるのが、中3のバレンタインである。元来、筆者は間違っても、もてる類の男ではない。其れは、60年に及ぶ、厖大な迄の、金烏玉兎の巡りに於ける経験則が証明している。其れについては、今更、如何斯う謂う心算は微塵も無いのであるが、そんな筆者も中学3年の件の日に、チョコレートを頂いたのである。其れも直径30cmはあろうかと謂う、巨大手作りチョコである。尤も、此の大きさについては、多分に想い出補正が働いている可能性があり、冷静に考えれば、5割減で考えた方が妥当なのやもしれぬが、何しろ半世紀近くも昔の話ではある。筆者的には、一応、30cmとしておこう。其の当時、筆者はお付き合いをしている女性、所謂彼女が居り、当初は其の子の仕業だろうと多寡を括っていたのであるが、本人に聞いてみた処、全く知らないと謂う。其れ処か、悋気に当てられ、若干、ご立腹の様子である。とんだ薮蛇もあった訳であるが、扨、そうなってくると、送り主の詮議が極めて重要になって来る。
件のチョコレートであるが、私の下駄箱に無造作に入れられていた。其の段階で、直径30cmと謂う件は、如何に人間の想い出補正が強いかと謂う事を物語る証左としか思われないのであるが、此の際、其れは置いておこう。同封された添え文に因れば、
『先輩の事がずっと好きでした』
と、なっている。肝心の送り主の名は無い。文面を素直に解釈すれば、筆者に懸想する後輩の誰かの仕業と謂う事になるのであろうが、然し、筆者には、思い当たる節が一向に無い。真っ先に思い当たるのが、同級生達による、甚だ性質の良くない悪戯である。当時、もてない男子を標的とした、此の種の偽恋文が猖獗を極めており、筆者も何度か其の標的とされた事がある。然し此の場合、ぱっと見、金が掛かり過ぎている。其の装飾もホワイトチョコを使って、稚拙乍らも、懸命に設えている事が窺える。筆者としては、本気半分、悪戯半分と謂った処であったのだが、然りとて、処置に困ったのは其のチョコレートである。本気チョコなら是非も無い。有難く頂くのが人の道なのだが、万一、悪戯であったとしたら如何であろう? 悪くすると、下剤辺りが混ぜ込まれている恐れがある。いや、もっと悪くすると、全く洒落にならない物、例えば、砒素、青酸塩、昇汞、鉈の類が混入されている恐れすらある(一介の中学生が何処で其の様な物を入手するのかは甚だ疑問ではあったが、満更、前例が無い訳でもない)。其の様な次第であるから、件のチョコレートを食するのも、一応、逡巡した訳ではあるのだが、持ち前の意地汚さが勝り綺麗に平らげてしまった。結局、筆者の体調に変化は無く、異物混入の疑念は晴れた訳でもあるが、残る疑問は件のチョコレートの送り主である。
汽車は出ていく 煙は残る、残る煙が癪の種。
歌の文句じゃ無いけれど、筆者には其の送り主が相変わらず謎の儘である。あれから半世紀近く経過した今であっても尚、相も変らず謎の儘である。筆者も還暦を目前に既に老境である。人生の折り返し地点をとおに越え、そろそろ次のステップへの準備も必要である。今迄の人生、心残りは然程無いものの、流石に件のチョコレートの送り主については、知りたいと思わぬ訳でもない。若し、此の稿をお読みになっている読者の方で、心当たりのある方が居られるのであれば、是非、御一報頂ければ幸甚である。
扨、閑話休題。2月14日が近づくにつれ、清水高校内も俄かにざわつき始めて来た。2月14日と謂えば、将に学年末テストの時期でもあり、本来、学力偏重の清水高校でもある。其の様な浮ついた行事とは無縁なものであると思われたのであるが、其処は其れ、此の様な思春期集団の中にあっては、テストの影響など微塵も無く、全校、甘酸っぱい期待に胸を膨らませ乍らも、2月14日へと収束して行ったのである。其れではバレンタイン狂想曲と謂われた今回の一連の出来事について順を追って見て行ってみよう。
祐子の動きは、概ね予見されたとおりであり、甲州旅行の際に謂っていたマフラーを編み終わり、チョコレートの準備も余念は無かった。其のマフラーであるが、白い毛糸の地に二本の青い毛糸のライン、そして、同じく青い毛糸でSHOWと名前まで入っている。然も同じく白い毛糸の地に、二本の赤いライン、そして赤でYOUと記したお揃いのマフラーを、ちゃっかり編みあげている。あとはチョコレートと併せて正太郎に渡すだけなのである。
一方、正太郎の挙動は、聊か奇妙であった。と謂うのも、1月31日のマラソン大会が終わってから、部活に余り顔を出さなくなったのである。此れについて、祐子は元より、仲の良い高志も事情を知らないとみえて、首を傾げるばかりである。日によっては、部活の始まる前に少し顔を出す時もあるのだが、始まる頃には、いつも匇卒と姿を消してしまうのである。一度、祐子も本人に尋ねてみた事がある。然し、正太郎は困惑した様に言葉を濁すばかりなのである。ただ、そんな中で、判った事が二つあった。一つは、正太郎が約してくれた事なのであるが、遅くとも今月中旬までには、常態に戻る、即ち此の挙動が終了すると謂う事、そして今一つは、正太郎自身も決して望んで此れをしている訳では無いと謂う事であった。更に奇妙な事に、部長を始めとした極一部の上級生たちは、如何やら事情を知っている様なのである。と、謂うよりも、部長の命(或いは頼み)で行動しているらしく、祐子は其れ以上追及する事を止めた。勿論、釈然としないものはある。然し、正太郎が謂った。
「何の心配も無いよ」
そして、祐子は其の言葉を信じる事にしたのであった。否、其れより他は無かった。
扨、愈々2月14日当日の事である。放課後祐子は部活へと急いでいた。例に因って正太郎は、授業が終わるや否や、匇卒と姿を消していた。ヤスベエからの情報に因れば、如何やら他のクラブの手伝いをしているらしかった。祐子が見るに、いつも正太郎は化学室などがある専門棟の方向へ向かっているらしく、此の処、放課後に専門棟で見かけたと謂う級友が何人かいた。葵なども其の一人であり、葵が図書室から降りて行く時に、正太郎が忙し無さそうに階段を駆け上がっていくのを見たとの事である。元より、此の学校は部活数は多いものの、実質的な活動内容は不明な胡乱なクラブも多く、其の有象無象なクラブが学校祭もない此の時期に活動しているものとも思われない。此の時期、専門棟で活動しているクラブと謂えば、音楽部や合唱部なのであるが、其の手伝いとなると、祐子も首を傾げるばかりなのである。
其の日の放課後の事である。
祐子は正太郎への贈り物を大切に抱え、部室のある講堂へと急いでいた。少し慌て過ぎたのかもしれない。一階の校長室の横、専門棟から来る通路の交差部分で上級生と出会いがしらに衝突してしまった。祐子は尻餅を搗き、確りと抱えていた筈の正太郎への贈り物である白い紙袋が、コロコロと廊下を転がった。
「ご、ごめんなさい」
祐子が、まず詫びた。ぶつかった男は上級生である。其の男は顔を顰め乍ら立ち上がり、祐子を悪意のある鋭い眼差しで一瞥すると、彼女が手放した紙袋を摘み上げ、
「ほらよ」
上級生は悪意を込めてそう吐き捨てると、紙袋を宙に放り投げた。
「おっと」
もう一人の上級生が祐子の頭越しに紙袋キャッチした。
「そらよ」
紙袋は無様にも何度と無く、祐子の頭上を舞った。彼らは全員男子であり、4、5人の集団である。何故、此の様な子供もせぬような厭な絡み方をするのかは定かでないが、祐子は此の清水高校には、そう謂う下らぬ真似をする人種は居ない物と思っていた。然し其れは、唯の理想であり、実際は太古の昔より、いじめはどんな世界にも存在する。其れは万古不易の法則の様な物で、祐子の抱いていた感情は唯の大いなる幻想に過ぎぬであろう。
だが、祐子にとっては、其れ処ではなかった。彼女は狼狽し、もう半泣きであった。
「…やめて。お願いだから、もうやめてえ!」
祐子の悲鳴の様な絶叫が廊下に谺する。石田が投擲した紙袋は、祐子の頭上を大きく越え、祐子の後方にいる巽も取り損ね、ぼふっと音を立てて廊下に着地した。其の紙袋を、つと、拾い上げる人物がいた。気品溢れる佇まいの眼鏡を掛けた優男、明彦である。
「てめえ。何しやがる」
明彦は、突っかかって来る巽を、幽鬼のように音も無くゆらりと交わすと、何の造作も無く祐子の下に歩を進め、
「はい、祐子ちゃん」
そう謂って、祐子に紙袋を優しく手渡した。続いて、いずなと凛子が駆け寄った。
「ゆうちん。大丈夫?」
「…うん」
そう謂い乍らも、安心したのだろう。とうとう祐子は泣き出してしまった。然し、祐子の後方には巽が居た筈なのである。いずなと凛子が容易に祐子に接近出来る道理が無い。だが、其の道理は廊下の横の壁際に居た。巽の顎下に右肘を押し付け、校長室の前の壁に彼を磔にしている。高志である。巽の瞳に浮かんでいるのは恐怖の色、其の物であった。巽は高志の同郷、即ち、興津一中の出身である。高志が中学時代に仕出かした兇状については、此のメンバーの中に在っては、誰よりも其れを知悉している。高志がにこやかに囁き掛ける。
「巽先輩、ご無沙汰してるっす。相変わらず、詰まんねえ事、してるっすねえ」
「おっ、お…おかもと」
「岡本…さん…だろ。ところで先輩、前に俺が謂った事。覚えてますよねえ?」
巽は恐怖に引き攣った顔で、コクコクと頷く。
「次に俺の視界に入ったら如何なるか、其の時は…」
ひいぃ、と素っ頓狂な悲鳴を挙げ、巽が逃げ出した。
「全く…」
高志は呆れた様に溜息を吐きつつ、肩を竦める。だが、石田は負けていなかった。明彦に向って吠える。
「特進科の糵が何の用だ」
だが、明彦は平然と眼鏡を外すと、折りたたんで凛子に渡した。其処には別人の様に眼光鋭い冷酷な眼差しがあった。
「凛子さん、ちょっと此れ持っていてくれる?」
「ちょっと、明彦。喧嘩は駄目だよ」
凛子は、当然成り行き上、次に来るべき懸念を口にした。
「大丈夫だよ。凛子さん。喧嘩はしないよ。つーか、喧嘩にはならないと思う…」
「舐めるなあ」
次の瞬間、石田が怒声と共に明彦目掛け、猛然と突進して来た。だが、明彦はバックステップを踏む。そして、ふわりと後方45度に優雅に飛び退る。明彦の肉体が、宛ら空中を滑る様に、撓やかに後方へ伸び、とても元レスラーとは思われぬ腰高の身のこなしであった。然し、着地の瞬間、猫が獲物を狩る様なレスラー本来の低い体勢へと変化した。其の動き、現実には、明彦が体勢を低く構えただけであったのだが、傍目には彼が一歩踏み出した様な印象である。石田が怒声と共に突進する。然し、明彦は石田の突き出した右手を、僅かに右にゆらりと交わし、刹那、明彦の左手が石田の右手を軽く払っただけの様にみえた。だが次の瞬間、石田の巨体は翻筋斗を打って、遥か前方に飛ばされ、尻から大きく大地に着地した。
「うぎゃあ」
明彦は哀れむ様な眼差しで、上から覗き込む様に石田を見据える。
「扨、如何します? 続きをしますか? だけど、僕も友人を侮辱した輩に、此れ以上、容赦をしませんよ。次は…、折ります」
石田は怯えたきった眼差しで、明彦を見上げるときまり悪そうに、右手首を押さえ乍ら、すごすごと仲間と共に去って行った。
高志の位置からでは、明彦が特段何かをした様には見えなかった。見かけ上は、柔道で謂う隅落としの様な態であった。足を払った訳でもなければ、腰を入れて投げを打った訳でもない。石田はただ前のめりの体勢の儘、明彦の体捌きと体重移動だけで勝手にすっ飛んで行った様な感じではある。然し、明彦のあの台詞。矢張り何かはしていたのだ。真横で見ていた凛子からは、明彦が何をしたかが高志よりは見えていた。ただ、払った様に見えた明彦の左手は、石田の右手の甲を確りと掴んでいた。其の時、石田の右手首が略直角に曲がっていた。恐らく、明彦は前のめりに崩れ突進して来る石田の力を利して、彼の手首の関節を可動域限界迄曲げたのだろう。斯うなってしまうと、掛けられた側は人体の構造上、何も出来ない。所謂、関節を極められた状態であった。然し、明彦は更に巧妙であった。左手で相手右手首を極めると同時に、スウッと入った右手で相手右腕を掬い上げる様にして、力を上方かつ前方に逃がしている。斯うして、明彦の右手と左手による下方かつ後方への動きにより完成された、反時計回りの大きな円運動に巻き込まれる形となった石田は、翻筋斗を打って大地に叩き付けられる羽目になるのである。とは謂え、此れによって石田が救われたのも事実であろう。何故なら、あの時明彦が右手で石田を掬い上げなければ、彼の右手首は可動域を超えて曲がり、結果、骨折の憂き目を見ていたかもしれない。明彦の此の技、本来であるレスリングと謂うより寧ろ、祖母から教わった合気道の技に近いのであろう。否、合気道だけでは無い。彼女の合気道には古武術が渾然一体となっている。関節を極めながら投げる。打撃と投げが同時に発動する。全ては近代スポーツであるレスリングや柔道に於いては、反則とされる物ばかりである。
「祐子、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう、凛子ちゃん。明彦くんも、高志くんも、いずなちゃんもありがとね」
「全く、何なんだろうね。彼奴ら」
凛子が呆れる。
「むっきー。本当だよ。子供でもしないよ。あんな事」
「彼奴ら、確か副会長様の取り巻き連中だろ。祐子ちゃんの円周率大会の件で逆恨みをして…、って処かな。其れより、高志。彼奴らの一人と何か因縁があったみてえじゃねーか?」
「ああ、昔ちょっとな…、あの野郎相変わらず、下賤な事しか、しやがらねえ。でも、明彦。お前で良かったぜ。ちゃんと手加減してたしな。あれがひろみだったら目も当てられねえ。彼奴だったら、あんな状況に出くわしたら、其の場で半殺しだろ」
「失礼ね。そんな事する訳無いわよ」
ひろみがすました顔で答える。いつしか参戦している。
「わっ、ひろみ」
「せいぜい、顎を粉砕する位で…」
「馬鹿野郎。其れを半殺しって謂うんだよ。全く、飛んでもねえ奴だな」
「なーにーよー」
メンバーが揃った処で全員、講堂へ移動した。講堂には正太郎が居た。祐子は正太郎の屈託の無い笑顔を見て、彼が其の頸木から解放された事を知った。祐子は正太郎に無事紙袋を手渡したのであった。だが、其の頃、グランドの外れでもひとつの事件が起きていたのであった。
バレンタインデーのドタバタ騒ぎ、まだまだ続きます。次回、『第50話 バレンタイン・ラプソディ② 何よ!修吾の癖に』お楽しみに。




