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第48話 走れ!祐子【後編】

 女子たちが続々(ぞくぞく)とゴールして来る。そんな中で、高志がひろみの姿を探していた。ひろみはグランド(はず)れのトイレの前にいた。ひろみはいつもの溌剌(はつらつ)とした風は無く、気持ち元気が無い。高志は()の姿を見て、一瞬(いっしゅん)、声を掛けるか戸惑(とまど)った(くらい)である。(しか)し、勇を()し、(おもむろ)に声を掛けた。

「よう、3位入賞だったな。おめでとう」

「高志…」

「なんだ、元気ねーじゃねーか? こんな(ところ)黄昏(たそがれ)てよ。あの、谷澤先輩(せんぱい)凛子(りんこ)相手に戦って、堂々の3位入賞だぜ。もっと胸を張れよ。(もっと)も、胸、あんまりねーけどよ」

「…うん」

 ひろみは、高志のくだらぬ戯言(じょうだん)にも、(あま)り反応しない。ひろみはグランドの(はず)れから、高志の視線を(あえ)(さけ)る様に、ぼんやりと富士山の方を見ている。矢張(やは)り、余程(よほど)に悔しかったのであろう。()れ目勝ちな(ひとみ)が、少し、(うる)んでいる。高志は一際(ひときわ)小柄なひろみの頭を、ポンポンと二度ほど優しく叩いた。()所作(しょさ)、一見、無神経かつがさつな風であり(なが)ら、妙に慈愛(じあい)に満ちた(ぬく)もりがあった。

()(かく)よ、胸を張って良いと思うぜ。…でもよ、確かに悔しさもあらあな。だから、()()う時はよ。思いっきり、涙を流すのもありだとは思うぜ」

 ひろみは、一瞬(いっしゅん)屹度(きっと)した眼差(まなざ)しで高志を(にら)むも、すぐに涙腺(るいせん)(ゆる)んだ。

「うわーん」

 気が付けば、ひろみは高志に抱きつき、似気(にげ)も無く、号泣(ごうきゅう)していた。高志は(ふたた)び、ひろみの頭をポンポンと軽く叩いた。

「よく頑張(がんば)ったな。本当に(えら)いよ」

 ひろみの欷歔(ききょ)は、すぐには治まりそうに無かった。

成程(なるほど)。こんな(ところ)(まで)似てやがる)

 (ほたる)にである(第23話参照)。昔、正太郎が高志の好みを(くさ)してからかった言葉。高志は()れを反芻(はんすう)していた。高志は考える。

彼奴(あいつ)も負けず嫌いだったからなあ)

 (もっと)も、(ほたる)は人前で涙を見せる事など、最後の瞬間(しゅんかん)まで決してなかった(わけ)ではあるが…。


 宮本真琴(まこと)は朝から体調不良である。彼女の体調不良の原因は、女の子特有のものである。彼女は中学3年生。約一月後に高校受験を控えている。学業では学年トップである彼女は、受験自体は何の不安も抱いてはいなかったが、(おそ)らく、次回のアレの周期が、高校受験日程と(かぶ)るであろう事が唯一(ゆいいつ)憂鬱(ゆううつ)であった。彼女はもう何年も()の不快感と付き合ってきたが、(いま)だに、馴染(なじ)む事は出来(でき)なかった。彼女は庵原(いはら)一中の生徒であり、ポニーテールが良く似合う、(つぶ)らな(ひとみ)の美少女である。学年で()えば、正太郎達の一級下、ヤスベエの妹である、(あか)(あお)と同学年となる。彼女は状況(じょうきょう)状況(じょうきょう)であり、混み合う校舎内のトイレを忌避(きひ)して、(あえ)てグランド(はず)れのトイレを使ったのであるが、今日は朝から近隣の清水高校の生徒たちが、マラソン大会とかで、何やらバカ騒ぎをしている。彼女は内心、()喧騒(けんそう)苦々(にがにが)しく思い(なが)らも、来年以降世話になる学校の事でもある。冷たい視線を送るだけに(とど)めていた。


 そんな彼女が、トイレを出た時の事である。


「ひっ」


 入口のまん前で、長身の男が女の子を抱きすくめ、有ろう事か、何とお尻を触っているのである。(しか)如何(どう)やら()の女の子は、羞恥(しゅうち)(あま)り泣いている様である。

「な、何て事してんのよ! ()痴漢(ちかん)

「でえぇ。全然(ぜんぜん)、違う」

「違わないわよ。大方(おおかた)、女の子のおしっこする(ところ)(のぞ)きに来て、劣情の(もよお)(あま)りに事に(およ)んだんでしょ。先生に()いつけてやるわ!」

 真琴(まこと)()め付ける。

「な、何なんだ? ()のマニアックな設定(シチュエーション)は? 一体、のメンヘラ女はなんだ? 頼む、ひろみ、何とか()ってやってくれ。()(まま)じゃあ、本当に痴漢(ちかん)にされちまわあ」

 ひろみが(あわ)てて(あいだ)に入る。

「ち、違うのよ。確かに、普段(ふだん)から誤解(ごかい)される様な行動が多い(やつ)だけど、今回は違うの。私が腰の筋を痛めたって()ったから…」

 ひろみも咄嗟(とっさ)(うそ)()いた。で、無ければ、ひろみのお尻を()で回している高志の痴漢(ちかん)疑惑(ぎわく)払拭(ふっしょく)するのは難しいであろう。現に真琴(まこと)は疑わしそうな眼差(まなざ)しで、高志を凝視(ぎょうし)している。

「おいこら、て、てめーもきっちり、フォローしねえか…。誤解(ごかい)増幅(ぞうふく)すんだろ」

「何、()ってんのよ、抑々(そもそも)、どさくさに紛れてお尻触ってたのは事実でしょうに」

「ほーら、やっぱり。そう()うのを、世間一般では痴漢(ちかん)って()うのよ。警察に突き出してやるわ」

「わーちょっと待て」


 どたばたしている(ところ)へ、敬介がやって来た。

「おっ、何だ。こんな(ところ)で何やってんだ?」

「あっ、敬介先輩(せんぱい)

「ありゃ、何だ、真琴(まこと)じゃねーか? お前こんな(ところ)で何やってんだ? 抑々(そもそも)、今、授業中じゃ、ねーのか?」

「そーなんすけど、ちょっと、体調不良で…、()れでトイレに来たら、痴漢(ちかん)がいたもんで…」

「誰が痴漢(ちかん)だ!」

 高志が真っ赤になって(いき)り立つ。

「あんたよ!」

 真琴(まこと)が決め付ける。敬介が高志との(あいだ)に割って入ると、

「まあまあ、痴漢(ちかん)って()うけど、此奴(こいつ)に何かされたのか?」

「あたしじゃないっすけど…、其方(そっち)のお姉さんがお尻を触られてて…」

 真琴(まこと)(あご)でしゃくった延長上には、真っ赤になったひろみがいる。状況(じょうきょう)を一目で見て取った敬介は、真琴(まこと)(なだ)めた。

「まあまあ、確かに此奴(こいつ)痴漢(ちかん)境界域(きょうかいいき)の振る舞いも多いけど、一応(いちおう)(オレ)親友(ダチ)だ。()れに其方(そっち)のねーちゃんは、一応(いちおう)此奴(こいつ)の彼女だ」

「ええっ」

「そんな(わけ)だ。真琴(まこと)も授業に戻れ」

「判りました。あっ、そうだ、敬介先輩(せんぱい)。高校で吹奏楽(ブラスバンド)始めたそうですね。(よろ)しくお願いします」


 (あわ)てて校舎の方に戻る真琴(まこと)後姿(うしろすがた)を、(うと)ましそうに(なが)(なが)ら、高志が(つぶや)く。

「ガチャついた野郎(やろう)だったな。何者(なにもん)だ? ありゃあ」

「うちの近所の子だよ。ほれ、先刻(さっき)とおってきただろ。雀田橋(すずめだばし)彼処(あそこ)の橋の(たもと)に住んでる。真直(まっす)ぐな(やつ)で、男相手にも一歩も引かないが、根は素直(すなお)ないい子だよ。」

()れにしても、ガチャつき過ぎだろ。まあ、(オレ)清高(きよこう)に来て、あー()(たぐい)野郎(やろう)には、免疫も出来(でき)大分(だいぶ)慣れては来たが…」

 敬介はにやにやし(なが)ら、()()った。

「そーか、其奴(そいつ)は良かった。()真琴(まこと)なんだが、彼奴(あいつ)の学力だと、間違い無く清高(ウチ)に来るぞ。何でも、学年首位を絶賛独走中だそうだ」

「なっ」

()れに、真琴(まこと)が高校にはいったら、多分(たぶん)吹奏楽(ブラスバンド)部に入るぞ」

「何だと!」

「だって、先刻(さっき)挨拶(あいさつ)聞いたろ。入る気まんまんじゃあねーか」

(うそ)だろ。なあ、敬介。其処(そこ)()と無い()な予感がするんだ。一応(いちおう)、念の(ため)に聞くんだが、野郎(やろう)のパート。一体(いったい)、何だ?」

「予感的中だな。喜べ。アルトサックスだ。仲良くしてやれよ」

「マジかよ…。ところで、敬介。如何(どう)かしたのか? (オレ)を探していたんじゃなかったのか?」

「そうなんだ。正太が大変なんだよ」

野郎(やろう)が何か為出(しで)かしたのか?」

「ああ、学校を飛び出して行っちまって…」

「何だそりゃ?」

「何でも、女子のスタート直後に、祐子ちゃんが怪我(けが)をしたらしいんだ」

 其処(そこ)でひろみも口を出す。

「そうなの、結構(けっこう)、激しく転倒(てんとう)して…。()れで棄権(きけん)したのだと思うんだけど…」

「ところが、棄権(きけん)してないんだよ。すみれちゃんの話だと、()(まま)、ふらふらしながら、競技に復帰したらしい」

「なっ」

()れを聞いた正太の馬鹿(やろう)が、先刻(さっき)一目散(いちもくさん)に飛び出して行っちまって…」

「あのバカ…」

 ()れは高志の感想の通りであろう。行動パターンとして、以前に叙述(じょじゅつ)した小学校時代の遭難の時から、何ら進歩が無い。


 早速(さっそく)、高志達は、先生方の(ところ)へ移動する。途中、鉄棒の(ところ)で、ぶら下がった六助から声を掛けられた。

「よお、高志。あわくって何処(どこ)へ行くんだ?」

「何だ、六助(ロク)か。お前の方こそ何をしている?」

「体を休めているんだよ」

「とても、そうは見えねえ」

 六助はぶら下がった(まま)で、海老(えび)の様に腹筋で頭を持ち上げている。一平はと()うと、()の隣でぐるんぐるんと、呑気(のんき)大車輪(だいしゃりん)をしている。高志は鉄棒から飛び降りた六助に、今聞いたばかりの話を伝えた。六助は心配そうな面持(おもも)ちで聞いている。(やが)て、一平も大車輪(だいしゃりん)を止め、鉄棒から降りて来て、難しい顔で会話に加わった。(すべ)てを聞き終わると六助は()(たず)ねた。

()れで高志。正太は何方(どっち)に行った?」

「?」

 高志には六助の()った言葉の意図(いと)が、咄嗟(とっさ)に読み取れなかった。が、(やが)て、六助の意図(いと)を理解すると、おずおずと答えた。

「グランド側の方だ」

「つまり、順路を逆走するルートだな?」

「あ、ああ…」

 一平は大きく屈伸(くっしん)をし(なが)ら、(おもむろ)に六助に(たず)ねた。

「おい、六助(ロク)。行けるか?」

「誰に物を()っている? ()れより、一平。先刻(さっき)の記録を塗り替える気で行くぞ。高志、わりいが先生には上手(うま)誤魔化(ごまか)しとけよ…」

「おい、ちょっと待てよ。お前等まで行く気かよ?」

当然(とうぜん)だろ。(オレ)たちゃ、祐子ちゃんに借りがあるんだ。でっけえ借りがな」

「そんなら、せめて携帯(スマホ)くらい持って行け。いざと()う時に役に立つ。位置情報もオープンにしておけよ」

 一平は(すで)に走り出している。六助は後ろを振り返ることなく、大きくサムアップして見せた。『持ってるよ』の合図なのだろう。()くして、でこぼこコンビは脱兎(だっと)の如く校門を飛び出して行ったのである。


 ()の頃、祐子は(ようや)くに高山隧道(トンネル)まで辿り着いた(ところ)である。速度(スピード)はと()うと、祐子には誠に申し(わけ)ないが、()れはもう歩いていると()っても過言(かごん)ではない速度(スピード)であった。(しか)し、当人にとっては歩いているなどと()う感覚は、微塵(みじん)も無い。隧道(トンネル)手前で監視している体育教師の伊沢が、『残り8km』の看板を掲げ(なが)ら、心配して声を掛けた程である。

「おい、大丈夫(だいじょうぶ)か?」

 祐子は力無く(うなず)いたのみである。何とか気力だけで走り続けている。(しか)し、行程は(いま)だ半分にも満たないのである。


 一方、サッカー部の二人組は、時候(じこう)山切(やまきり)、杉山、奥杉山の集落を、稲妻(いなづま)の様な速度(スピード)で、急激な上り坂を駆け抜けて行っている。所謂(いわゆる)、本気の走りであった。勿論(もちろん)先程(さきほど)の本戦も本気で戦ったのであろうが、今回の走りは、(いささ)かの余裕(よゆう)も感じられない。まさに鬼気(きき)迫る走りと()って良い。彼らは、(またた)く間に高山隧道(トンネル)(まで)達したのである。其処(そこ)で帰り支度(じたく)の準備を始めている伊沢にあったのである。当然(とうぜん)、伊沢は目を丸くした。

「うわっ、何だ? お前ら?」

「ちわっす、監督(コーチ)。自主トレっす」

 一平が挨拶(あいさつ)方々、咄嗟(とっさ)(とぼ)けた。此処(ここ)(まで)走り詰めであり、高志の()う携帯の位置情報をオープンにする操作を、今更(いまさら)(なが)ら完了した六助が()れに続く。

「ところで、監督(コーチ)。祐子ちゃんが此処(ここ)を通過したのはどれ位、前ですか?」

「祐子ちゃん? ああ、あの丸っこい子、山本の事か…」

 ()の会話からも(わか)る様に、伊沢はサッカー部顧問兼監督(コーチ)である。伊沢もサッカー部の部員である彼らに、教師にあるまじきくだけた表現をしている。

「5分くらい前かな…。なにやら怪我(けが)をしていてな。余程(よほど)に止めようと思ったくらいだ」

「行くぞ、六助(ロク)!」

 一平は六助を()かせ、再び、走り出そうとするのを、伊沢が止め、六助に(たず)ねた。

「何だ、ひょっとしてお前のコレか?」

 伊沢が小指を立てている。()の教師も少々(ひん)が無い。()れに対し六助は笑い(なが)らも、多少(たしょう)真剣な面持(おもも)ちで、()う答えた。

「そんなんじゃあ、ありません。(オレ)たちの…、恩人です」

 一平が走り出した。六助もそう()い残すと、一平を追走し始めた。()後姿(うしろすがた)を見ていた伊沢は、感慨(かんがい)深げに(つぶや)いた。

「おうおう、青春だねえ。まあ、あのくらいの年頃だと、恩人も想い人も紙一重(いっしょ)だからなあ…」

 そして、再び片づけを始めたのであった。


 高志は多少(たしょう)いらいらしていた。先刻(さっき)から正太郎、六助にラインで呼び掛けているが、一向に既読(きどく)がつかない。(もっと)も、話を聞く限りでは、正太郎が携帯を持って飛び出したものとは、思われない。そんな思慮(しりょ)があれば、抑々(そもそも)、飛び出してはいないであろう。だが、六助の方も既読(きどく)はつかない。のみならず、位置情報も不明である。

 ピコッ。

 突然(とつぜん)既読(きどく)がつく。そして、位置情報もオープンとなる。地図によると、高山隧道(トンネル)周辺である。

彼奴(あいつ)ら、もう、そんな(ところ)(まで)行ったのか」

 (のぞ)き込んだ明彦が(あき)れる。敬介もしみじみと(うなず)く。

「確かにな」

「まあ、そんだけ、彼奴(あいつ)らも必死なんだろ」

「?」

「いや、()れは、正太に聞いたんだが…」

 そう、前置きして高志が語り出した。


 以前にも叙述(じょじゅつ)したやも知れぬが、正太郎の中学校は3年間クラス替えが無い。従って、祐子、六助、一平は中学時代に3人とも3年間同級生であったのだ。清高(きよこう)合格の絶対的安全圏にいた祐子や正太郎と異なり、六助や一平の清高(きよこう)受験は、学力的にはかなり果敢(かかん)な挑戦、と()うよりも、無謀(むぼう)な挑戦と()っても、過言(かごん)では無かった。勿論(もちろん)、彼らのサッカーに()ける実績を加味(かみ)すれば、簡単に合否(ごうひ)を論ぜられるべきものでも無いのであろうが、単純に学力だけであれば、かなりの無理筋(むりすじ)であったのである。祐子は彼らと近しいと()う程の、間柄(あいだがら)でも無かった。(しか)し、事態を一変させる様な出来事(できごと)が起きる。()の当時、疎遠(そえん)となっていた正太郎が祐子の(ところ)(まで)態々(わざわざ)、彼らの勉強を見てくれる事を頼みに来たのである。当然(とうぜん)、祐子は快諾(かいだく)した。正太郎としては、学年トップの祐子が彼らの面倒(めんどう)を見てくれれば、()れ以上の安心はない。そう()った意味では、祐子は格好(かっこう)であり、逆に()うと、()れ以上の意味は無かったのであるが、祐子にしてみれば少々、意味合いが違う。勿論(もちろん)気性(きだて)の良い祐子の事であり、幼馴染(おさななじみ)であるサッカー部の二人の面倒(めんどう)をみるのはなんら(やぶさ)かではなかったし、祐子にしてみれば、()の二人によって、疎遠(そえん)となっていた正太郎との接点が、再構築された様な気がした。祐子は忠実(まめ)に二人の勉強をみてあげたのであるが、()れは、()の二人にとっても幸いした。女神(ヒュパティア)先生の(くだり)叙述(じょじゅつ)したように、祐子は勉強の教え方が、(すこぶ)上手(じょうず)であった。俄然(がぜん)()の二人の学力はめきめきと向上し、無事、清高(きよこう)に合格する(はこ)びとなった(わけ)である。高志は、以前、正太郎から()の様な話を聞いていたし、でこぼこコンビが、(すこぶ)る、祐子に感謝の念を抱いていると()うのは、容易に想像出来(でき)た。


 ()の頃、祐子は、高山の集落で、聳立(しょうりつ)した壁に向って伸びている様な道を見上げ絶望していた。


(うそ)でしょ…)


 見上げる様な山肌に向って、急勾配(きゅうこうばい)土瀝青(アスファルト)の道路が、延々と続いている。気力だけで走り続けるにも、(おの)ずと限界がある。傍目(はため)には祐子の速度(スピード)は、最早(もはや)、通常人の徒歩の速度(スピード)より遅い。(しか)し、祐子は、決して歩いている気持ちは無いのだ。祐子の気持ちの中では、懸命(けんめい)に走り続けているのである。祐子は走り(なが)ら、今回のマラソン大会に(のぞ)んで、正太郎達が(もよお)してくれた、楽しかった練習の事を思い出そうとしていた。温かい正太郎の優しい笑顔。何時(いつ)も陽気な六助の、冗談(じょうだん)()じりの助言。無口な一平はただ伴走するだけである。(あか)(あお)の姉妹は一生懸命(けんめい)声援(せいえん)を送ってくれた。心から祐子の事が好きなのだろう。そんな事を思い(なが)ら、祐子は眼下の高山の集落を見下ろした。気がつけば随分(ずいぶん)と登って来たものだ。高山の集落の前を清高(きよこう)のジャージを着た二人組が凄い勢いで爆走している。一体(いったい)誰だろう? そんな事を思い(なが)ら前方の(とうげ)の方へ目を移した瞬間(しゅんかん)、祐子は愕然(がくぜん)とした。其処(そこ)にはあり()べからざる人物が立っていたのである。


 高野正太郎である。


(うそ)? 正ちゃん?)


 正太郎は、祐子に対し、手を振る(わけ)でも無く、声を掛ける(わけ)でもなく、ただ、立ち()くすのみであった。正太郎は()邂逅(かいこう)(さい)し、祐子の無事を確認出来(でき)て、取り(あえ)えず、安堵(あんど)すると共に、(わず)(なが)らの後悔もあった。()れは祐子と出発前に交わした約束である。正太郎は祐子を待っていると約束したのである。(しか)し、如何(いか)に祐子の事が心配とは()え、此処(ここ)(まで)来てしまったのである。約束を破ってしまった事には変わりが無い。正太郎は祐子の後方にも目をやった。呻吟(しんぎん)(なが)ら走る祐子の遥か後方から、猛然(もうぜん)と迫ってくる二人組がいる。六助と一平である。(やが)て、祐子と六助、一平は正太郎が立っている、(とうげ)の付近で合流したのであった。


 実に奇妙(きみょう)道行(みちゆき)であった。正太郎は祐子に声すら掛けない。祐子も祐子で、正太郎に、声を掛けない。黙々(もくもく)と走っているのみである。勢い、後から追いついてきたサッカー部の二人組も、正太郎が(もく)して語らぬ(わけ)であり、(なら)って、沈黙せざるを得ない。()うして、4人は黙々(もくもく)と下山を始めた(わけ)でもあるが、俯瞰(ふかん)してみるに、祐子の表情が随分(ずいぶん)(やわ)らいで感じられた。祐子のペースに合わせる事となり、余裕(よゆう)出来(でき)た六助は、極短いラインを打った。

『祐子ちゃんに追いついた。正太も合流した。今から戻る』

 ()れを見た、いずな、ひろみ、凛子(りんこ)安堵(あんど)したと()う。勿論(もちろん)、下りコースになったせいもあるのであろうが、次第(しだい)に祐子に安定感が出て来た。何処(どこ)と無く余裕(よゆう)の様な物も感じられる様になった。伊左布(いさぶ)の集落に差し掛かった時の事である。突然(とつぜん)、一平が素っ頓狂(すっとんきょう)な声を()げた。


「ラースト、3千。頑張(がんば)れ!」


 確か、此処(ここ)には、薬缶(やかん)が『残り3000m』のプラカードを持って立っていた。薬缶(やかん)(すで)撤収(てっしゅう)してしまっていたが、一平が代わりを務めた形となった。一平は、先程(さきほど)から祐子にエールを送りたくて仕方が無かったのだ。声を掛けるのは(かな)わぬまでも、せめて道標(みちしるべ)の代わりなら、との思いだった。続いて、雀田橋(すずめだばし)。今度は六助が(さけ)んだ。


「あと、1500。もう、少しだ!」


 二人の切実(せつじつ)(まで)の、祐子に対する感謝の念の発露(はつろ)である。(やが)て、(ようや)くに庵原(いはら)一中が見えて来た。


 庵原(いはら)一中の門を潜ると、祐子は唖然(あぜん)とした。(すで)に、グランドへと続く道には、人垣が出来(でき)ている。正太郎と六助、一平は何時(いつ)の間にか溶暗(フェード・アウト)して行った。喝采(かっさい)の栄誉は、祐子が、祐子だけが(よく)するべきものなのである。祐子が入場すると、人々から、歓声と拍手(はくしゅ)喝采(かっさい)が巻き起こった。祐子はもう、涙で前が見えなかった。人垣の先頭にはひろみといずながいる。

「祐子。何やってんの! あと少しでしょ! ボストンティーパーティーの根性見せなさい」

「ゆーちん。あと、300mよー」

 続いて、凛子(りんこ)(さけ)ぶ。

「祐子。ゴールの瞬間(とき)は一番美しい瞬間(しゅんかん)だから、笑顔を忘れずにね」

 女子の部優勝者の谷澤も(さけ)ぶ。

「山本さん。あと、200mよ。最後(まで)気を抜かないでね」

「祐子ちゃん。あと、少しだ。頑張(がんば)れ」

「祐子ちゃん。頑張(がんば)れ」

 明彦や敬介からの声援(せいえん)も聞こえる。


 (やが)て、祐子がテープを切った。記録、3時間35分48秒。流石(さすが)金栗四三(かなぐりしそう)の記録には、遠く(およ)ばなかった。


 テープを切った祐子はフラフラと倒れ掛かったが、()の祐子をがっしりと支えたのは、当然(とうぜん)、高野正太郎だった。祐子は正太郎だと気がつくと、激しく(あえ)(なが)()った。

「正ちゃん。私、歩かなかったよ。最後(まで)、歩かなかったよ…」

「うん。見てた…よ。よく…。よく頑張(がんば)ったね。約束破ってごめんね」

「そんな事無いよ。ありがとね正ちゃん」

 正太郎はがっしりと祐子を抱きしめる。歓声と拍手(はくしゅ)に加え、多少(たしょう)(はや)し立てるような声も混じるようになる。其処(そこ)へ、伊沢先生がやって来て、少々、苦言を呈する。

「あのなあ…。一応(いちおう)、体育の授業の一環なんだがな…」

 祐子はひどく赤面した。取り乱す正太郎。

「サッ、サーセン」

 (しか)し、真っ赤な顔で、(あわ)てて祐子から離れようとする正太郎を、伊沢は叱り飛ばす。

「こら、ふらふらになった女の子から、離れる馬鹿(ばか)があるか!」

 正太郎が祐子から離れるべきか、抱きしめるべきか、逡巡(しゅんじゅん)している間隙(かんげき)()い、高志が音頭(おんど)を取る。

「そら、行くぞ!」

 (たちま)ち、多数の生徒たちが祐子の回りに殺到(さっとう)した。一瞬(いっしゅん)、祐子の体が仰向けに倒れこむと思いきや、次の瞬間(しゅんかん)、祐子の体が、5、6度、大きく宙を舞った。

「ちょ、ちょっと。やめてよ、高志君。みんな。恥かしいよ」

 悲鳴を上げる祐子。胴上げの嵐は止みそうになかった。(やが)て、胴上げが終わると万雷(ばんらい)拍手(はくしゅ)である。祐子は(うれ)しいやら、(はず)かしいやらで、困惑している。()の間にも、親しい女の子たちが完走の祝辞を述べている。其処(そこ)へ高志がやって来て、祐子に向かって、(うやうや)しく()()った。

「お姫さま。馬の用意が出来(でき)ました」

 見ると、一平を先頭に、右に六助、左に正太郎と、3人で騎馬戦の騎馬が組まれている。

「ちょっと、正ちゃん、六助(ロク)ちゃん、一平君。恥かしいよ」

 嫌がる祐子を無理やり騎馬に乗せると、高志は大声を張り上げた。

「よーし。()(まま)、学校まで帰るぞ!」

「おー」


 ()くして、マラソン大会は、無事完了したのである。()の騒動を窓から見ていた真琴(まこと)は、

「ふーん。なかなかに面白(おもしろ)そうな学校じゃん」

 (さわ)やかな笑顔とともに、そう(つぶや)いたのだった。

いつも、ご愛読有難う御座います。当面の間休載致します。12月末より再開の予定です。また、お会いしましょう。

大変お待たせしました。2月末より再開いたします。バレンタイン・デイのドタバタ劇をコミカルに描いたバレンタインシリーズ第一弾、『第49話 バレンタイン・ラプソディ① お願いだからもうやめて』お楽しみに。

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