第47話 走れ!祐子【中編(其の2)】
死闘の果てに二人は、暫くの間、クールダウンを図っていたが、頓て、六助の方が歩み寄った。
「前より、速くなったんじゃないか? 到頭、長距離でも手が届かなくなっちまったな」
「何、謂いやがる。15km走って、1秒差なんだ。明日は何方に転ぶか判らん」
「まあ、何にせよ、攻撃のバリエーションが増えるのは良い事だ。パスの出し先をもう5m伸ばしても問題無さそうだな。…優勝おめでとう」
「お手柔らかに」
二人はがっしりと握手をした。其処へ主将の白坂がやって来た。
「全く、なんてえ奴らだ。何で彼処で加速出来る? 此の化物どもめ。あーあ、折角、最後に一花咲かせようと思ったのによ」
3位の主将、白坂は如何にも悔しそうである。
「其れは此方の台詞ですよ。折角、良い勝負が出来てるって思ってた俺が、まるで道化じゃないっすか、白坂さん」
横には、未だ肩で息をしている高志が恨めしそうにボヤキを入れる。高志は尻からズブズブを喰らって、辛うじての一桁順位である8位である。
「何、謂いやがる。一層、吹奏楽なんぞ止めて、うちにはいったら如何なんだ? 入賞、おめでとう。岡本」
「あざっす」
高志が嬉しそうに応えた。
其の間にも、続々と競技者たちがゴールインしてくる。2学年合同で行なわれている大会である。男子の部の参加者が概ね330人、女子が280人ほどである。いつものメンバーの中では、明彦が23位、敬介が66位、そして、正太郎が92位と大健闘である。正太郎は辺りを見回し乍らクールダウンをしている。正太郎はかなり自分本位に駆けていたせいもあって、未だ、余裕がありそうである。すぐに、グラウンドに腰をおろして、何事かに熱中している高志達を見つけると、声を掛けた。
「おい、何、してるんだ?」
「チンチロリンだよ。お前もやるか?」
「いや、俺はいい」
15キロのマラソンの後である。学校からはサイコロのキャラメルが一個、支給される。中には2粒のキャラメルが入っている。彼ら3人は、中のキャラメルを食べた後、早速、空き箱に砂を詰め、3個のサイコロでチンチロリンを興じているのである。賭け代は学校支給のキャラメルとは別に、前店で調達したコーラ飴やソーダ飴である。
「来たぁ。ジャックポットだ。四五六、親の総取りだ」
高志が歓声を上げる。透かさず明彦が咎める。
「おい、待て、ずるいだろ。賽子が転がってねーぞ。所謂、ただの置き賽じゃねーか」
「うわ、何を謂いやがる。妙な因縁をつけるんじゃねえ」
二人が揉めている隙に、敬介が全ての賽子を、手早くひっくり返し、素知らぬ顔で叫んだ。
「おっ、一二三が出てるぞ。親の総付けだな」
「うわあ、何て事、しやがる。如何様だろ」
三人で、如何見ても、宛ら伝助賭博の揉め事の様なしょうも無い件をつけている。
他の様子はと見渡せば、鉄棒の処に六助と一平がおり、六助は膝裏を鉄棒に引っ掛け、蝙蝠の様にぶら下がっており、時折、上体を大きく反らし、辺りを見渡している。恐るべき、背筋力である。一平は、と謂うと、其の隣で、ぐるんぐるんと大車輪をしている。
「一体、何をしている?」
眉を顰めた正太郎が声を掛けた。六助が気さくに答える。
「おお、正太か? 疲れたから、休んでいるんだよ」
「…とても、そうは見えねえ。虎の穴の特訓紛いの事しやがって」
「体が伸びて気持ちがいいんだよ。お前もやるか?」
「…遠慮しておく」
其の頃、女子トップ集団は高山隧道に差し掛かっていた。谷澤、凛子、ひろみ、そして、いずなである。ひろみ、いずなの両名は、実に良くやっていたと謂って良い。女王二人の争いに割って入る形で、此処迄、追走して来ているのである。ひろみは思う。此の儘、二人の女王の後塵を拝する心算は毛頭なかった。然し、とは謂っても、今の儘では、とても勝機は無い。其れこそ、追走だけで終わってしまうだろう。終盤、5キロの略平地と謂っても良い様な緩慢な下り坂になれば、陸上部二人相手に、為す術など無い(尤も、凛子はもう陸上部などではないが)。恐らくは、抗う事すら、不可能となるであろう。となれば、其の前に勝負に出る事が必定である。では、何処で? 其処迄、考えた時、ひろみは両の足裏の筋肉を、異様に収縮させ、来るべき衝撃に備え、そして、大きく飛翔した。
たんたんたんたん。
ひろみの弾む様な足音が、隧道内に激しく谺する。ひろみがずいと前に躍り出る形となった。二人の女王は、一瞬、遅れて追走しかけたが、然し次の瞬間、自制した。レースは未だ中盤なのである。此処は未だ勝負の時では無い。二人の女王は、図らずも共に、交綏する形となった。谷澤は勿論であるが、凛子も元陸上部である。そして、二人とも、当然の事乍ら、此のコースの下見をしている。此の先の、非人道的な下り坂や、其れ以上に殺人的な上り坂がある事を知悉している。陸上部は、兎角に、足に必要以上の負荷が掛かる事を嫌う。だが、ひろみは吹奏楽部である。少々、足を故障した処で、然程、不自由は無い。其処がひろみの狙いでもあった。此の儘、追走したとても、万に一つも勝機は無い。此処での勝負は、展開上、必至であり、謂わば、ひろみの乾坤一擲であった。
ひろみの全力疾走は続く。
非人道的な下り坂も、速度を殺さず、軽やかな跳躍で快調に疾走して行く。足裏に力を溜め、着地の衝撃を相殺し乍ら、進んで行くのである。
たんたんたんたん。
ひろみの快調な足音が響き渡る。体が妙に軽い。足には、まるで羽が生えている様であった。
頓て、急激なアップダウンの区間は終わり、新東名を潜り抜け、緩慢な下り坂。上伊佐布の集落へと入って行った。ひろみは少し後方が気になった。此の約4キロの間の力走はひろみの持てる全力以上のものだった。
(明日は筋肉痛で歩けないかも…)
そう、思わぬ訳でも無かったが、然し、如何に女王と謂えども、そう、易々と追走出来る筈は無かった。だが、先程から、ひろみの足音には俄かに変化が現れ始めていた。其れまでは、たんたんたんと謂う強靭な護謨を叩き付ける様な力強い足音であったのが、ぱちゅんぱちゅんと謂う、何処か張りが無く脆い音に変化している事に気がついていた。
(恐らくは、もう、そんなに長くは持たない)
ひろみは、そう、予感していた。此の状況、正しく死の舞踏。此の儘では、死ぬ迄、走り続ける事になるだろう。そんな、不吉な妄想が脳裏を過ぎった、そんな時だった。其の僅かばかりのひろみの鬼胎が怯懦を生み、彼女に後ろを振り向かせたのであった。
(なっ)
追走者たちは、すぐ、後方に迫っていた。其の距離、10mと離れていない。ひろみの今迄の無茶を嘲笑うかの如くに、谷澤と凛子が迫って来ているのである。流石にいずなの姿は確認出来なかったが、女王二人は、未だに健在なのである。
(最早、万策尽きた。此処迄か…)
常識的には、そう考えざるを得ない。然し、此処で諦めていたら、らしくなかった。其の一念で、更に一歩を踏み出そうとした時の事である。静謐な、其れでいて、鋼鉄の様に力強く、そして、大堤琴の様な優しく暖かい声が聞こえた。
「其処迄にしておきなさい。其れ以上は、本当に足が壊れるわよ」
其の言葉を残し、谷澤が、何の衒いも気負いも無く、然も当然の如く、颯爽と、ひろみを抜いていったのである。其れでも、此処で諦めるのは、らしくは無かった。然し、らしくは無かれども、ひろみは其の言葉に従った。完全に追走を止めたのである。其れは、図らずも、谷澤育美の圧倒的な本気を目睹した瞬間であり、そして、ひろみの乾坤一擲が脆くも敗れ去った瞬間でもあった。
2年の谷澤育美、そして、1年の如月凛子。女子の優勝の行方は此の両名に絞られた。一方は、現在の清高を代表する短距離走者であり、インターハイ常連の走りの女王であり、もう一方は、様々の事情により、志半ばにして、陸上競技から身を引いた吹奏楽女子である。此の二人。奇しくも、昨年の学校祭で対決した間柄であり、二人とも専門は短距離走ではある。然し、お互いに凡そ、駆けっこと名の付くもので、後塵を拝する訳にはいかない。学校祭の両雄激突では、僅かばかり凛子に、勝利の天秤が傾いた。だが、其の後の半年間、谷澤は明らかに、体を作って来ている。勿論、谷澤は、此の大会に照準を合わせて来た訳でもあるまいが、其れでも、半年前とは別人の様な体躯に仕上げて来ている。
レースは一進一退の様相を呈して来た。谷澤が逃げれば凛子が追い、凛子が仕掛ければ、谷澤も応じる。斯うなって来ると、両者、意地の張り合いである。二人は連なって、麓までやって来た。変化があったのは、矢張り、雀田橋付近である。此処いら辺りから、凛子が、少しづつ、少しづつ、遅れだした。もう少し、やれる筈、走れる筈、そんな自身の理想と今の現実の肉体との齟齬が、図らずも、結果となって現れてきている様だった。凛子の、想像の中の自分の姿は、谷澤と渡り合っている筈であった。然し現実に庵原一中の校門を抜ける時は凛子が5mほど後ろを追走する形であった。凛子は前を行く谷澤の上体が、スタート直後と然程変らず、殆どぶれていない事に気がついた。余程、丹念に基礎トレーニングを積んだのであろう。15キロ走り抜いた後であっても、其の上体のフォームは微動だにしていなかった。
(駄目だ。最早、私には届かない)
此れを見た時に、凛子は自身の敗北を予見したと謂う。流石に、残り300mで短距離走専門である谷澤との差を覆す自信は無かった。果然、大きく手を広げ、先にゴールインしたのは谷澤だった。続いて、凛子がゴールイン、そして、3位には何とか踏み止まったひろみがゴールインした。いずなは7位入賞となったのである。
女子の部の勝者も決した。然し、スタート直後に転倒した祐子が戻ってこない?!果たして、祐子の運命は如何に? 次回、マラソン大会完結編『第48話 走れ!祐子【後編】』お楽しみに。




