第44話 あけまして桃も李もさくらんぼ【解決編】
扨、祐子は改めて考える。取っ掛かりは、当然、吾郎先生の言葉である。あの時、吾郎先生は問題を一読した刹那に、恐らくは、正解に到達したのである。以前にも叙述した様に祐子の暗算能力は途轍も無く早い。更には、類稀な特殊能力もある。勿論、此れらの能力を使えば、一般人の暗算能力の、水平線の遥か彼方迄も、到達する事は可能であろう。だが、此の方法は、正解では無い様な気がした。羅漢先生は、数学補習授業のトピックスとして、此の問題を提示したのである。生徒達に、其処には数学的思考を期したのであって、暗算能力を高める為に、あの様な問題を提起したものとは思われない。然し乍ら、吾郎先生は、略、瞬時に解法を導き出したのである。勿論、元囲碁プロ棋士の思考である。記憶能力も暗算能力も一般人の其れとは、較べるべくも無い事は、百も承知なのであるが、決して、そうした超人的能力を使った様には思われなかった。更に気になるのが、謎の様な言葉である。
『表題が、最大の鍵だよ』
吾郎先生は、確かにそう謂ったのである。恐らく此れは、此の問題の本質を見極めた上での発言であろう。
正太郎は祐子と同様に考える。正太郎は先ず下一桁に着目した。6,000円買い切る為には、下一桁を0にする必要がある。其の為には、さくらんぼ3個と李1個の組合せが必須である。其処で今度は下二桁を0にする。更には下三桁、そして、最終的に6,000円丁度に着地させるのである。だが、正太郎は此の方法では無いと直感した。
(だが、此れだと、俺の暗算能力の限界を、遥かに超越してやがる…)
確かにそうであろう。此の方法であれば、解法に到る迄が計算の連続であり、其れこそ、エクセルを使って、力技でもするのであればいざ知らず。闇雲に組み合わせを考えていたのでは、とても埒が明かない。凡そ人間向きな手法では無いものと思われた。だが、此処で正太郎の脳裏に去来するのは吾郎先生の反応であった。あの時、吾郎先生は文章を一読する間に、既に真相に辿り着いていた風であった。確かに、吾郎先生が超人的な思考速度を持っていたとしても、矢張りあの速度は異常である。あれは、問題を予め知っていたので無いとすれば、論理的な方法があるのだ。吾郎先生は其の論理に沿って、一本道を進んで行ったに違い無い。恐らく、其れは、薬缶が補習対象者に出題した事からも頷ける。だが、其れは一体何なのか、見当もつかない。然し、此処で頗る重要になってくるのが、吾郎先生の示唆にある。吾郎先生は恐らく、問題を見た瞬間に、鍵に気が付き、論理を組み立て、其の光速の暗算能力を駆使して、真相を手繰り寄せたに相違無いのである。
いずなは己の父の思考を追跡していた。恐らく、父は我々が見落としている何かに気がついたのである。父は謂った。
『答えだけ聞いても意味が無い』
そうなのだ。此の問題で重要なのは答えでは無いのだ。其の論理が重要なのである。だが、其の論理が何なのか、悔しい事に判らない。臍の緒を噛む想いとは、将に此の様な事を謂うのだろう。いずなは、頗る、知的天稟に恵まれていた。今迄の人生に於いて、謎が謎の儘、終わると謂う事は余り記憶に無かった。
「ムッキー。ゆうちん。何か判った?」
「ううん。全然。でも、絶対、私たちが見落とした何かがあると思うよ」
「そうだよねえ…」
「正ちゃんは如何?」
「駄目だな。一の位、十の位、百の位と0にして行こうと思ったんだ。そして、最終的に6,000になる迄、試行錯誤しようと思ったんだが、此の方法だと、聊か計算量が多すぎる。だから、多分、薬缶が求めたのは此れじゃあ無いと思う。其処で今は吾郎先生が謂った鍵の事を考えている…」
祐子は頷くと、勢い良く謂った。
「『表題に鍵がある。』あれの事だね」
「ああ、だが、其れだけじゃあ、漠然とし過ぎていて、何が何やら…」
すかさず、高志が口を挟む。
「なあ、あれって、本当に鍵なのかなあ。いずなの父ちゃんのブラフって可能性は…」
「ムッキー、酷い、ハロゲン族。パパは、そんな嘘は吐かないもん。もっと、いずなが判り難い処で、極、たまに吐くけど…。パパの好きな言葉は、『如何様もルールのうち』、だから。でも、見かけ上は、屹度、正々堂々とやると思うよ」
「うーん」
何とも、微妙な父親像である。一同は首をひねってしまった。
「何か、うちのパパに似ているなあ…」
呟くのは祐子である。祐子の父親、山本恭一郎氏。即ち、株式会社清水インフォメーション・テクノロジー・ディベロップメント・サービスの代表取締役社長でもある。正太郎は祐子との幼馴染であるのだが、此の父親とは十回程度しか会っていない。非常に生真面目な人物で、正太郎に対しては何処か他人行儀で、いつも、鹿爪らしい相好で接していた。一昨日、昆布巻きの件で正太郎が俄かに慄いたのも斯うした経緯があるからであり、正太郎としても、昆布巻きと謂う特殊な状況には、多少の興味を持ちつつも、其の不埒な妄想を断ち切ったのは、偏に此の親父さんが恐ろしかったに相違無い。此の辺りの心境は結婚前の娘の父親に対する婚約者の心理と何ら変らない。祐子の父親としても、小さい頃から友達づきあいの苦手な祐子に、良くしてくれている近所の友達である。憎かろう筈は無い。然し、一方で愛娘の異性の友達でもある。正太郎の真心溢れた祐子への接近が、多少、片腹痛くもある。此の多少ぶっきら棒な塩対応も、手塩に掛けた自分の愛娘を、頓ては攫いに来る、祐子の未来の夫に慄く自身の未来図が、或いは予見出来ていたのかもしれない。
扨、閑話休題。祐子の呟きの後に、ぼんやりと敬介が反芻する。
「でも、表題にヒントがあるって、一体、如何謂う事何だろう?」
「文字通り解釈すれば、桃も李もさくらんぼって事だが…」
明彦も困惑した様に呟く。
「本当に文字通りだな。見た儘じゃねーか。使えねえ眼鏡だな」
高志が横槍を入れる。
「何だと此の野郎。そんなら手前は、如何解釈する?」
高志はコホンと軽く咳払いをすると、
「えーと、其れはだな。つまり、李と桃もさくらんぼの仲間って事だろ…」
「ふざけんな。同じじゃねーか」
熱り立つ明彦。高志達は喧々囂々である。其れらを尻目に、祐子は正太郎に尋ねた。
「如何思う? 正ちゃん」
「うーん。単純に考えれば、桃と李とさくらんぼの共通点を探せ、と謂う意味に取れるけど…」
「そうだよねえ…。でも、共通点って謂っても…」
そう謂い乍ら、祐子はふと口を噤んだ。横にいる正太郎の顔が、何時ぞやの錘問題の時の様に奇妙に強張っている。やがて紙片をまじまじと見つめ直すと、徐に呟いた。
「矢張りそうだ。間違い無い…」
「如何かしたの? 正ちゃん」
「いや、ひとつ共通点らしきものを見つけたんだが、其れが、如何繋がるのかが、さっぱり判らない。何か意味有り気にも思えるんだが…」
正太郎にしてみれば、先程から鼻先を揺曳している正体の解らぬ何者かの尻尾を掴んだ思いは、確かにあったのだ。然し、高志が其処で言葉を吐く。
「正太も其れに気がついたか…。だが、流石に此れは、全然、関係無いだろ」
「そうかなあ、でも、偶然の一致と謂うには、余りにも出来過ぎだぞ?」
「ただの偶然だよ」
呟く高志にいずなが詰め寄る。
「ムッキー、勿体振らずにさっさと教えなさいよ」
「そりゃ、かまわねえけどよ。本当に無関係だと思うがな…」
「いいから、早く、謂いなさいよ」
ひろみもせっつく、高志は仕方無しに口を開いた。
「いや、桃も李もさくらんぼもさ…。全部、薔薇科の植物なんだ…」
「…」
暫しの沈黙の後、ひろみが徐に呟く。
「其れで?」
「其れでって、其れだけに決ってんだ…ぐわっ」
ひろみが高志の後ろからスリパー・ホールドを掛けている。
「くっだらない事を勿体振って」
「アホか手前は。関係ある訳ねーだろ」
「とて過ぎだろ」
明彦と敬介も熱り立つ。後ろから締められ、じたばたともがく高志は、懸命に虚空に手を伸ばす。頓て、其の右手がむんずと何かを掴む。
其れはみうみうご自慢の西瓜だった…。
「ひーーっ、ハロゲン族の痴漢!」
みうみうが思いっきり、高志の横っ面を張り飛ばす。
「がはぁ」
みうみうは目に涙を浮かべていたが、堪らず、しくしく、泣き出してしまった。流石に、敬介が諫言する。
「あーっ、おめえ、ひでえ奴だな。新年早々、女の子の胸を揉んで泣かすたあ」
「だってよ…。不可抗力だろ…」
「泣かすこたあ、ねーだろうに」
「仕方無いだろ…。大義の為だ」
「何が、大義よ。どさくさに紛れて、あの名台詞を貶めるんじゃないわよ。兎に角、謝りなさいよ」
原因の一端でもある、ひろみも、ちゃっかり便乗して口を尖らす。
「みうみう、すまん。今度、前店で何か奢るから…」
「本当? じゃあ、コーラ飴3個…」
「意外と安っぽいぞ…おい」
敬介が呆れる。明彦もうっかり思いを口にする。
「確かにな。其れなら、あと、ソーダ飴を3個追加すれば、両胸同時にいけるんじゃね」
「おう、おまい、意外と頭いいな。そう謂う訳だ。みうみう、ソーダ飴も追加するから、反対側も頼むわ…」
つと、伸ばした高志の右手を、ひろみが瞬間的に極め、脇固めに押さえ込んでいる。
「ぐわわー」
押さえ込まれた高志は、手足をばたつかせ、すかさずタップをする。横では、明彦を凛子がコブラ・ツイストを掛けている。みうみうは、キョトンとし乍らも、羨望の眼差しで見つめている。
「何て事しやがる。新年早々、骨折したら如何する心算だ」
「喧しい。新年早々、破廉恥行為を働いて。此の女の敵!」
祐子は眼前にて展開されるドタバタ劇を、冷やかに流眄し乍らも、斯う謂った。
「正ちゃんが見つけたのも、先刻、高志君が謂ってた薔薇科の植物って事?」
「…全然、違う」
「えっ」
「俺が見つけたのは、メロン以外、桃も李もさくらんぼも、値段が全部、17の倍数だと謂う事だよ…。偶然と謂うには、余りにも出来過ぎだろ…」
「!」
其れを聞くや否や、祐子はがばっと身を乗り出し、紙片を凝視する。略、同時にいずなも食い入る様に紙片を見つめる。
「本…当だ」
そして、突如として、祐子はテーブルの紙片の余白に、何やら筆算を始めた。いずなは祐子に問い掛ける。
「ゆーちん。ゆーちんは何方をやってる?」
「…メロン」
「じゃあ、いずなは6,000円をやるね」
そして、暫しの沈黙の後、再び、いずなが尋ねた。
「如何だった? ゆーちん」
「余り1。いずなちゃんは?」
「余り、16」
「そうかあ。そう謂う問題だったんだ。成程ね。ああ、すっきりした」
祐子は感に堪えた様に、思わず安堵の溜息を漏らす。其処へ子供たちから解放された吾郎先生がやって来た。彼は、半ば虚脱した態であり乍らも満足げな笑みを浮かべた愛娘を見ると、確信した様に声を掛けた。
「やあ、菜月ちゃん。如何やら、何か判った様だね」
いずなはにっこりと微笑むと、斯う謂った。
「うん。答えは16個だね。パパ」
「はっはっは。ご名答」
其処で高志が不平を託つ。
「いやあ、先生。早く、答えを教えてくださいよう。丁度、此奴らが解いていた時に、俺ら彼方で、コーラ飴とソーダ飴の等価交換の法則について熱く論じていたもんで…」
「何が等価交換の法則よ。馬鹿馬鹿しい。あんたとエロ眼鏡が、破廉恥行為の悪巧みを立てていただけでしょうに…。」
「なっ、俺は関係ねーだろ。あれは、ハロゲン族が勝手にだな…」
「嘘、おっしゃい。あんたが馬鹿を煽っていたでしょうに」
凛子が決め付ける。
「ちょっと待ってよ。いずなちゃん。俺には、未だ、何が何だか…」
「むっきー。ケースケったら。あのね、桃も李もさくらんぼも、全部、17の倍数なんだよ」
「其れは、もう判ったよ。でも、其れが何か関係あるの?」
「もう、ケースケったら。其れでね、6,000円は17の倍数じゃあないんだよ。6,000円を17で割ると余り16。つまり、メロン以外の3品目を、如何組み合わせた処で、6,000円には、なり得ない…」
「あっ」
「其れで、メロンは?」
「メロンは17で割ると余り1」
「そうか…」
あちこちで感嘆の声が挙がる。
「つまり、6,000円丁度使い切る為には、メロンで調整するしかないんだよ」
「成程。そう謂う問題だったんだ…。でも、待ってよ、いずなちゃん。如何してメロンが16個に特定出来るんだ。其の理屈なら、もう、17個足してメロンが33個でも…」
いずなは優しげな微笑を浮かべると謂った。
「ムッキー、ケースケ。其れだと、6,000円を超えちゃうよ…」
「ああ!」
敬介が思わず声を挙げる。
「つまり、此の状況に於いてメロンの数だけは、絶対に特定出来ると謂う事…」
「そうかぁ、良く考えられてるね」
其処で高志が不平を託つ。
「其れにしても、薬缶の野郎。人が悪いにも程があるぜ。17の倍数なんて…。普通、こんなん気がつける訳、無いだろう。然も、一平や六助、正太みたいな赤点予備軍に出題してさ…」
「おい、彼奴等は予備軍なんかじゃあねえぞ。何方かと謂うと精鋭部隊だ」
明彦がニヤニヤし乍ら訂正する。其処で透かさず正太郎が熱り立つ。
「おい、俺は、今回は違うと謂ったろうが…。いい加減、しつこいぞ」
わいわい、謂い合っている正太郎達を聞き咎めて、吾郎先生は考え深げに謂った。
「ねえ、君達。此の問題の出題者、薬缶とか謂っていたけど、本当は羅漢って謂うんじゃ無いのかい?」
「えっ、そうっすけど…。此れがまた、べらぼうな野郎でして…」
「そうか、矢張り、羅漢仙吉君か。彼は元気かね?」
「むっきー、パパ。知ってるの?」
「はっはっは。高校の同級生だよ。まあ、尤も、パパは高校に入る前に3年間遊んでいたから、パパの方が年齢は3つ上になるが…」
吾郎先生は当時を思い出して述懐する。吾郎先生は中学卒業後、プロ棋士としてタイトル争いをしていたのである。遊んでいたとは、とても謂えぬであろう。
「清高の数学教師。学年主任で、生活指導を担当してるんですよ。僕と祐ちゃんと高志のクラス担任です」
正太郎が答えた。
「生活指導? 彼がかい?」
吾郎先生は目を丸くする。
「そうっすよ。野郎が生活指導をしてたら、何か不都合なんすか?」
「不都合も何も、…彼は、当時、清高の停学回数の記録保持者だよ。確か3回だったかな…」
「ぷっ」
一斉に、クスクスと、あちこちから笑いが洩れる。
「野郎は、一体、何をやらかしたんです?」
にやついた高志が尋ねる。
「一回目は、不純異性交遊だったな。ほら、千歳町の巴川河畔に『ホテル・カリフォルニア』ってファッションホテルがあるだろう。えーと、今じゃあ確か、『リバー・サイド・ホテル』だったかな…」
意外と、此の先生は詳しい。
「彼処は当時から、パフェがウリでね。彼は『パフェを食いに行く』と謂うのが口癖だった」
「…何処かで聞いた事のある台詞だ」
ボソリと呟く正太郎。
「喧しい!」
熱り立つのは高志である。
「ホテルから出て来た処を、当時の先生に御用となった訳だ」
「どはははは…」
蝟集した面々が一斉に嘲笑う。
「おいおい、笑い事じゃあ無いよ。抑々、君達も前科一犯だろう。明日は我が身と謂う言葉もある。気をつけたまえよ」
明彦が笑い乍ら弁解する。
「いや、先生。大丈夫っすよ。彼処のホテルで危ないのは、此奴らだけです」
明彦がamong us大会の如何様の仇とばかりに、高志達を指し示す。
「こらっ、明彦。手前!」
「はっはっは。元気な子供達だねえ…」
「でも、パパ。先刻から黙って聞いていると、パパも矢鱈に詳しいんだけど、ひょっとして行った事あるの?」
「はっはっは。ちょっと、パフェを食べにね…」
「ムッキー。校則違反だよ」
「はっはっは。菜月ちゃん。私はあの当時、既に20歳を超えていたからね。校則違反には該当しないよ」
「ムッキー、嘘おっしゃい。校則ではあの手の如何わしい施設への出入りを禁止しているのであって、年齢は関係無いよ。パパの不潔!」
「あら、私はお相手の方に興味がありますわ。彼処は如何考えても、野郎同士で行く処じゃあ、ありませんからね」
此処でにこやかな微笑を浮かべた、順子先生の登場である。凍てついた微笑とでも謂おうか、頗る美しくはあるものの、案の定、目は少しも笑ってはいない。
「ひぃ」
慄く吾郎先生と順子先生の間に、まあまあと割って入った高志が話の続きを促す。
「其れで、野郎の2回目の停学は一体、何をやらかしたんです?」
「あ、ああ。2回目は飲酒・喫煙かな…。ほら、駅裏に大将と謂う居酒屋があるだろう。彼処で飲んでいたら、教師陣が飲み会で鉢合わせになってね。まあ、彼も運が悪かったね…」
「ムッキー。此の話も、パパ、妙に詳しいけど…、ひょっとして」
「当初、私も一緒に飲んでいたんだが、知人との約束があってね…。一足先に失礼したのが幸いして、間一髪セーフ」
「ムッキー、パパったら。其れって校則違反だよ」
「はっはっは。菜月ちゃん。私はあの当時、既に20歳を超えていたからね。法律違反には該当しないよ」
「ムッキー。法律的には抵触しなくても、校則的には駄目でしょう。校則では飲酒・喫煙をただ単に禁じていたもん」
「あら、私は、其の約束した知人とか謂う方に興味がありますわ」
相変わらず順子先生はたおやかなる笑みを浮かべている。然し、矢張り目は笑ってはいない。
「ひぃ」
吾郎先生が似気も無く怯える。高志が次を促した。
「そして、3回目は?」
其の問いに対して、吾郎先生は、
「余り謂いたくない…」
と返すのみである。
「?」
訝る一同。其れに呼応したのが、順子先生である。
「つまり、余り謂いたくも無い様な悪所に行かれて…」
吾郎先生は、蛇に睨まれた蛙の如くにこくりと頷く。
「またしても、羅漢君だけが逃げ遅れたと…」
「ムッキー。パパったら。全部の件で全て関与しているじゃないの?」
「面目ない…」
いずなはプリプリ怒っている風ではあったが、内心密かに驚いてもいた。自身の父が此の様に人間味のある振る舞いをする男とは思っても見なかったからである。順子先生も同じ思いであったのかもしれない。
頓て、パーティーも打ち上げとなった。子供たちは後片付けをした後、三々五々帰宅の途についた。最後に残った組である正太郎と祐子が吾郎先生に挨拶をした時の事である。祐子は深々とお辞儀をすると、今日のお礼を述べると伴に斯う謂った。
「本当に有難う御座います。賢者の先生」
吾郎先生は優しげな瞳を瞬き乍ら謂った。
「矢張り、覚えて居られましたか。随分と久しぶりですね。山本祐子ちゃん。確か、小学1年生だった」
祐子は、はいと頷くと、
「祖母の伝言を預かっております。お伝えしますね。『先生、本当に有難う御座います。先生は私を恐ろしい呪縛から解放してくださいました。先生のおかげで私の人生の晩年は、実に素敵な色で彩られました。本当に有難う。いつまでもお元気で。さようなら』、此れが伝言です。祖母の今際の言葉でもあります。本当に有難う御座いました」
祐子は再び、深々と頭を下げた。吾郎先生はそうかと謂った態で頷く。
「君の言葉だ…。恐らく、一言一句と違わぬのだろうね」
吾郎先生は感に堪えた様に呟く。此の先生は、祐子の特殊能力を、矢張り知っているのである。
「祖母は、私が小学校6年の冬に目を瞑りました。穏やかで。最期はまるで眠る様に…」
言葉と同時に祐子の瞳から、はらりと一片の涙が零れ落ちた。無表情の吾郎先生の表情に僅かな変化があった。両の眉の根が、ぴくりと1ミリほど上がった。
「あの患者さんが…、5年も永らえた。と、謂うのかい?」
祐子は、黙した儘、同意の意を示す。
「祖母は、愈々と謂う時、私を枕元に呼び、今の言葉を私に託しました」
吾郎先生はボソリと呟く。
「そうか、恐らく、おばあさまも君の才能に気がついていた。世界で一番信頼出来る人間に、最期の言葉を託した。と謂う訳だね。最後まで、あの合理的知性が曇る事は無かったと謂う事か…」
「恐らく、そうだろうと思います」
「…そうか。本当はあの時の5年前、即ち、君が小学校1年の頃に、いつ、そうなっても不思議では無かった。だからこその措置だったんだが…」
「はい、祖母も常々其れを謂っておりました。『私はあの賢者様に救われた』と…」
其処で、吾郎先生はお悔やみの言葉を伝えると、祐子は改めて御礼を謂い、正太郎と二人して小泉宅を辞して行った。
「菜月ちゃん。今の方は…」
順子先生が祐子の後姿を見送り乍ら尋ねる。
「山本祐子ちゃん。いずなの清高での最初のお友達だよ」
いずなは誇らしげに答えた。そして、吾郎先生も言葉を添える。
「そして、あの山本君のお嬢さんだよ。即ち、山本祐子さんのお孫さんと謂う訳だ」
「あの子が…、あの時の」
順子先生は其処で絶句する。然し、振り絞る様な声で言葉を加える。
「でも、あの時の奥様は、ステージ4。其れも最後の段階でしたわ。とても、5年も生き永らえる様には…」
「僕の見立ても同じでしたよ。あの時、あの方は絶望の中、家族を、特にお孫さんを見守る事に希望を見出していたのでしょうね。でも、あの人には使命があった。実に馬鹿げた使命がね。其の使命は、あの人の半生を費やして護り抜いたものだった。だが、僕には其れが酷くバカバカしいものに思われた。とても、あるべき姿とは思えなかった。だからこそ、余計なお節介を承知で、手を貸したのだが…」
「其れにしても、5年とは…」
「屹度、生命の奇跡の為せる業なのだろうね。最大の希望を生み出すのが、絶望なのであれば、最大の奇跡を生み出すのは、矢張り人間だ。人の希望と謂うものは無限の可能性を秘めている。そう謂う物なのだろうね。順子さん、我々も医師として、まだまだと謂う事なのだろう…」
「…はい」
いずなは両親の会話を黙して聞いていた。話の内容から察するに、祐子の家族に纏わる話なのであろう。両親が此の件で、何らかの役割を担ったのは明らかである。いずなは尋ねてみたい気もあった。断片的な言葉では、何があったのか推測する事すら困難である。でも、屹度、此の両親の事だ。其れは、誰かの為になる事だったに相違無い。結局、いずなは此の事を両親に尋ねる事はしなかった。此の両親の事である。聞いた処で、恐らくは口を開く事は無いであろう。
『天と大地の間には、お前の哲学では思いも寄らない出来事が、まだまだあるぞ。ホレイシオ』
人間は全智全能では無いのだ。全てを知ろうというのは、甚だ、不遜かつ無謀な、唯の思い上がりなのかもしれない。いずなの天稟を嘲笑うかの如く、いずなの脳裏には、此の名台詞がいつまでも去来していたのだった。
清高、冬の風物詩であるマラソン大会が、愈々、開催される。皆の様々な思惑の中、開催された大会は如何いった経過を辿るのか。運動音痴に悩む少女、祐子の決断とは? 次回、『第45話 走れ!祐子【前編】』お楽しみに。




