第42話 ただいま!(石和温泉旅行編【6/6】)
扨、あくる日の事である。朝7時過ぎ、皆は三々五々、起床する事となった。斯うして描写をすると、少しドキリとする事ではあるが、昨日は、夜23時ごろゆり姉の発案に因り、男子部屋と女子部屋の括りから解放し、部屋を早寝組と遅寝組に分けたのである。早寝組は、ゆり姉、正太郎、祐子、六助、一平、みうみう、葵であり、彼らが女子部屋に移り、残りは遅寝(徹夜)組となったのである。勿論、ゆり姉は、唯一、成年した引率者として、呉々も、風紀倫常の乱るる事無き様、釘を刺す事も忘れなかった。そして、此の辺りは一同全員が良く理解していたのであった。とは謂うものの、深夜、近所のコンビニに飲み物を買いに行く者もいたし、其の途次、暫く二人だけで星を見るなどと謂った、甘い瞬間も有った様ではある。また、早寝部屋であっても、本当に早寝であったのは、小百合、六助、一平だけであり、正太郎と祐子は1時過ぎまで、みうみうと葵は2時過ぎまで遅寝(徹夜)部屋でウノとかミールボーンズを楽しんだのであった。
愈々、チェックアウトの際、帰路の手段についても、多少の議論が起こった。当初はゆり姉以外JRと謂う案もあったのであるが、此れには、一平が大いに難色を示した。然りとて、一平だけが車では、若い男女の事である。どの様な間違いが出来するかも知れず、一部の者(まあ、此処で間違いを危惧する人間は、往々にして、間違いが起こり得る余地が有る事を知悉する一部の人間なのではあるが)から、懸念された事もあり、往路のメンバーでだとか、果ては籤引でだとか、意見が噴出する中で、帰路自動車希望の意見を採った処、一平、正太郎、祐子、みうみうの4名が名乗りを挙げ、何の事は無い、2日目の自動車組のメンバーで、すんなりと決ったのである。
従って、帰路は正太郎達、自動車組の視点で描写していく事となる。石和から清水迄、自動車を使った移動を考えた場合、幾つものルートが考えられる。高速をどの位使うかによっても変ってくるのであるが、まず、一般的なのが、国道140号を笛吹川沿いに南下し、甲府盆地南底部である増穂ICから中部横断自動車道で一気に清水迄南下と謂うルートが一般的であるものと思われる。或いは、高速代を節約したければ、増穂から国道52号を利用しても良いだろう。此のルート、昭和の時代に比べ、昭和61年の山梨国体を機に52号バイパスも大分整備されたので、割と走り易くは成っている。変化を楽しみたければ、甲府南IC付近から国道358号を抜け精進湖脇に出るルート、俗に精進みちと呼ばれるルートもあるにはあるが、実際、此のルートを抜けた事がある人なら判ると思うのだが、結構、峻険で高低差もあり、カーブの連続なのである。小百合の様に免許の取立ての運転手には、非常に過酷なルートであり、更には、祐子やみうみうと謂った乗り物に弱い人間がいる場合には絶対に不向きなルートでもある。ゆり姉が選択したルートは一見不合理な迄に贅沢なルートであった。彼女は国道20号、勝沼バイパスを東に向け進路をとった。3キロ程走行すると、直に中央高速の一宮御坂ICである。此処から中央高速下り線にのる。中央高速は甲府盆地中央部を南に迂回する様な形で、回り込む。そして、甲府南IC。本来、清水に向うのであれば、此処で降りて国道140号、俗に謂う笛吹ラインを笛吹川沿いに南西に進めば、市川大門駅がある市川三郷町の集落であり、其処で釜無川を渡れば直に増穂ICなのである。然し、ゆり姉は甲府南ICを素通りし、更に中央高速を西に進んだ。中央高速は、中央市に入った辺りで、北へ90度、進路を変え、此処から一気に北上する。車窓右手からは初冬の朝靄の中、気だるい佇まいの甲府の街が、のんびりと横たわっているのが見えた。其れにしても、ゆり姉は何故、斯様なルートをとったのであろうか? 其れは、此の先にある双葉SAに立ち寄る為である。此のSAはかなり大規模なSAであり、土産物などの購入には格好であったのだ。山梨の名産品のみならず、近隣の甲信越周辺の土産物迄も取り扱っている。
一同は駐車場に止まると、弾かれた様に車から飛び出して来た。彼らはSAに入ると、早速、思い思いの土産物を物色し始めた。ゆり姉は解放された様に、喫煙所で煙草をふかしている(気持ちは良く判る。でも、煙草は二十歳を過ぎてからだよ)。祐子もみうみうも乗車前に服用した酔い止めのおかげか、懸念された乗り物酔いも無く、実に快適なドライブを満喫出来ている様で、にこやかに買い物に精を出している。正太郎は当初の約定通りに、ほうとうと桔梗信玄餅を買い込んだ。祐子はと謂うと、ほうとうと桔梗信玄餅に加え、甲州名物シャインマスカット。富士山クッキーや葡萄や桃の色鮮やかなゼリー菓子。綺麗な富士山や富士五湖の絵葉書を買い込んだ。更に祐子はみうみうと連れ立って、車内で食べる為であろうか。甘味、大福、草餅、団子の類。そして、アイスクリームを買い込んだ。車内での位置関係は、乗り物に弱い祐子とみうみうが後部座席の窓側。一平が助手席。此れは一平の心情を慮ったと謂うよりも、一平の様な高身長の人物を後部座席に据えると、運転手の後部視界が著しく制限を受けるからである。従って、勢い、正太郎が後部座席真ん中にならざるを得ない。正太郎自身、後部座席の中央に来るのは、然程、吝かでは無いのだが、両隣で甘味をもしゃもしゃ食べられるのは、ちと、辛い。以前から、描写した様に、正太郎には糖尿病と謂う持病がある。甘味を我慢するのも大変だと謂うのに、眼前で舌鼓を打たれるのは、流石に堪らない。祐子も正太郎の持病は、勿論、知っている。多少、申し訳ないとは思いつつも、彼女は肥満女子にありがちな、自分の食欲には頗る饕餮な一面を持つ。そんな次第であるから、帰りの車中では、正太郎にとって誠に不本意乍ら暴飲暴食タイムと成ってしまったのである。
扨、一行は双葉SAを出発した。双葉SAは甲府盆地を見下ろす北西の高台の上にあり、甲府市街地に対する景観が頗る良い。彼らは後ろ髪惹かれる想いで北西へと進路を向ける。そして、双葉JCT。此処で中部横断自動車道と分岐・合流する形となる。頓て、中部横断自動車道にのると、其の進路を360度転ずる。釜無川を渡河すると、一度西に向うものの、其の後、一気に南下を始め、峡南地区へと向うのである。中部横断自動車道は最近開通した道路であり、随分と高い位置に道路が設えてある。此れは峡南地区や県境を抜けてからもより顕著であり、車窓の視点が極めて高い事を意味する。実際、運転してみれば分るが、ちょっとしたジェットコースター気分なのである。頓て、増穂ICを通過後、道の駅富士川で、一旦、トイレ休憩をした。此処、富士川町は甲府盆地の最底部に当る。身延線で謂えば、市川大門駅或いは鰍沢口駅が最寄り駅となるのであろう。此処から先は、富士川を東岸に渡河し、峻険な天子山地に分け入っていく事となり、隧道がちのルートとなるのである。
一方、電車組は甲府発10時44分のふじかわ6号の切符が取れた為、甲府駅周辺で一時間半ほど、時間を潰す形となった。尤も、時間を潰すとは謂っても、石和温泉駅、甲府駅周辺の土産物屋でお土産の物色をしていた為、然程、時間的余裕があった様には感じられなかった。其れでも、彼らは山の様にお土産を買い込むと、早速、ふじかわ6号に乗り込んだ。然し、昨夜の疲れもあったのであろう。彼らは乗り込むや否や、すぐさま安らかに寝息を立て始めた。南甲府駅に到着した頃には、六助、葵を除く6名が既に夢の中にあったのである。
自動車組に話を戻す。彼らは、愈々、天子山地と身延山地に挟まれた狭隘な地域に分け入って行った。此の地区、中部横断自動車道は身延線同様、富士川の東岸を進む形となる。先程も述べた様に、此の道路は視点が極めて高い。元より、隧道が多い上に、余りにも道路が高過ぎて、頗る逆説的では有るが、眼下に富士川を見る事が、殆ど出来無い。六郷ICを過ぎると、中部横断自動車道は無料区間となる。六郷ICは身延線で謂うと甲斐岩間駅付近になるのであろうか。身延線は此処いら辺りで大きく東へ逸れ、山を隧道で超え、国道300号、即ち、本栖みちの方へ行く形となる。山を越えた処には甲斐常葉駅がある。此の駅自体は何の変哲も無い田舎の駅なのであるが、近年、某アニメの影響で俄かに観光客が増えたと謂う。此の駅周辺にヒロインたちが通う本栖高校のモデルの学校が存在し、筆者も見物に行った。扨、祐子たち一行であるが、中部横断自動車道を一旦、下部温泉早川ICで下りると、身延駅に向った。身延駅前には、先程のアニメで有名になった饅頭屋がある。みのぶまんじゅうと謂うのであるが、アニメ好き・甘味好きの祐子には、絶対に外せないポイントである。折角、暴飲暴食タイムの終焉となりつつあった正太郎にとっては、新たなる燃料投下でも有る。結局、此処でもまんじゅう、アニメグッズをしこたま買い込むと、身延山ICから再び中部横断自動車道に乗り、南下を始めたのである。
12月28日12時40分、いずなの母親、即ち、順子先生は清水跨線駅の改札口前にいた。小泉医院は本日より休みに入り、夫、吾郎先生と共に娘の出迎えである。吾郎先生は下の駐車スペースで待機している。其の時に、順子先生はでっぷりとした四十がらみの男に声を掛けられた。
「あれっ、順子先生。如何も、ご無沙汰しております。今日は、一体何方へ?」
「あらっ、宮城島君。お久しぶり。今日は一体如何したの?」
「僕は娘のお迎えに…」
「あら、私もよ。娘がお友達と旅行に行っていて、もうすぐ、到着の予定なんです」
「えっ、うちもなんですよ」
宮城島君と呼ばれた温和そうな男は、汗を拭き乍ら時計に目をやっていた。彼もまた、医師であり、清水病院時代の順子先生や吾郎先生の一回り後輩にあたる。彼は研修医の時代から、指導医である順子先生に散々扱かれた口で、順子先生には、畏敬の念と畏怖の念。伴に抱いている。彼の実家は三保地区で内科医を開業しており、父親の入院と共に、清水病院を退職し、実家の病院に入ったのであった。そして、ご想像通り、葵の父親であった。宮城島先生は恐る恐る、順子先生に切り出した。
「…順子先生。ひょっとして、娘さんの乗っている列車ってふじかわ6号ですか?」
「ええ、そうよ。じゃあ、宮城島君のお嬢さんも?」
「はい。…あの、大変、不躾ですが、お嬢さんの旅行先は石和温泉ですか?」
「…ええ。ひょっとして…一緒に行った葵ちゃんって、宮城島君の…」
「はい、うちの娘です。って事は、娘が謂ってたいずなちゃんって、ひょっとして、菜月ちゃんの事ですか?」
「ええ、菜月ったら、渾名で呼ばせるもんで…。すみません」
「いや、此方こそ。知らぬ事とは謂え…」
其処で、二人は話の継ぎ穂を失ってしまった。暫しの間、両者は無言の儘であった。二人の間には、多少、お互い気まずい時間が流れていた。が、口を開いたのは宮城島の方だった。
「実は、あんまり、胸を張れる様なお話でも無いのですが、うちの葵は人間関係が上手ではなく、小中時代とかなり苦労しておりました。高校に上がったら、変わるのかと希望を持っていたのですが、一向に変わりません。処が、夏休みが明けた頃から、クラスで良いお友達が出来、毎日が楽しくなったと謂っておりました。そして、今回、其のお友達と旅行に行きたいと謂って来ました。僕も、其のお友達にお会いしたかったのと、其のお友達に一言お礼を謂いたくて、お迎えに来た次第なんです。まさか、順子先生のお嬢さんだとは、露知らずに…。本当に有難う御座います」
そう謂うと、宮城島医師は深々と順子先生に頭を下げた。其れを見た順子先生は慌てて宮城島を止めた。
「止めてください。宮城島君。うちも同じなんです。うちも、小中とクラスメート達から、ひどいイジメの対象になってました。主人も大変心を痛めていましたし、私も何回泣いたか分かりません。そんな、状況でした。其れでも、菜月はずっと堪えておりました。然し其れが、不憫で堪りませんでした」
宮城島医師は大きく頷いた。自分の娘と重ねているのだろう。
「其れが、高校に入学してからは、目に見えて明るくなり、お友達のお話ばかり。其れに、夏休みには、お友達の民宿に泊まりに行ったり、今回の旅行もそうなんですけど…。菜月がお友達と旅行に行きたいって、謂い出すなんて、ただただ、唖然とするばかりで、私も主人も、お友達に一言お礼が謂いたくて…」
「…そうだったんですか」
もうすぐ、そんな彼らの娘たちが帰郷するのである。
一方、祐子たちである。祐子たちは漸くに隧道勝ちで地峡の様な身延を抜けた。元より、此の辺りは身延山地の七面山、身延山。そして、天子山地の雨ヶ岳と2千メートル近い山々に挟まれた狭隘な地域である。如何しても隧道が多くなる。此の辺り富士川東岸は、雨ヶ岳、毛無山、長者ヶ岳、天子ヶ岳などが鱗次櫛比しており、其の向うには朝霧高原があり、此れらの山塊は、其れらとを分かつ分水嶺を為しているのである。彼らは富士川を大きく渡河すると、再び、西岸の南部町へと入って行った。此の南の富沢ICより、中部横断自動車道は西へと大きく舵を切り、再び南下すると、山梨・静岡県境を越える樽峠隧道へと差し掛かるのである。静岡・清水地区から安倍奥の山を抜け、山梨県へ行く場合、幾つかの峠越えルートがある。安倍峠、地蔵峠、田代峠、徳間峠、樽峠である。どの峠を抜けるかで其の難易度は変ってくるのであるが、いずれも、自動車での通行は無理であり、登山として楽しむ場合も、鎖場などの結構難易度の高いルートもあり、お手軽にと謂う訳には行かない。中部横断自動車道は其の安倍奥の峠のうち、一番東側にある樽峠直下をぶち抜いているのである。県境の長い隧道を一気に抜けると、故郷の街が見える。更に、其の先に見えるのは海である。祐子も正太郎も、漸くに故郷に帰って来た事を自覚した。そうこうする内に、直に清水ICである。ゆり姉は清水ICでおりると清水高校に寄った。学校につけると、其処で一平とみうみうを下ろした。
「ゆり姉。有難うございまーす。面白かったよー。良いお年を」
「小百合さん。楽しかったです。良いお年を。正太、祐子ちゃんもな」
みうみうに続いて一平もお礼を謂う。車を出したゆり姉は謂う。
「正太君と祐子ちゃんたちお家は?」
「はい、清水駅で。私たちは自転車ですので」
其の時、正太郎は少々怪訝に思った。
(然し、祐ちゃん。変な事、謂うなあ。駅に自転車なんて置いて無いだろうに…)
其の時は、そう思った正太郎であったが、お昼前でもある。腹でも減ったのかと思い返し、聞き流したのであった。
(然し、先刻、あれだけ食べたのに、もうお腹がへったのかな)
そんな、取り留めの無い事を思う正太郎であった。
清水駅の改札口をにこやかな笑顔で抜けてきたのは、いずな、敬介、葵、ひろみ、六助である。高志は興津である。上り電車を待つ為ホームに残り、同様に明彦と凛子は草薙である。明彦は草薙駅から、三保行きのバスを利用した方が、遥かに便が良いのである。
「菜月ちゃん。お帰りなさい」
順子先生が声を掛ける。いずなは順子先生の姿を認めると、
「ただいま。ママ」
と、順子先生に抱きついたのであった。一方、葵も、父親の姿を見つけると斯う謂った。
「あっ、パパ。ただいま」
宮城島医師はニコニコ微笑むと、
「おかえり。葵」
と、優しく声を掛けた。
「如何だった? 山梨は?」
「うん。凄く楽しかった」
葵が満面の笑みで返す。
「そうか、良かったな」
「あのね、パパ。お願いがあるの。お友達を送って行ってあげて欲しいの」
「ああ、其れは構わんが…」
そう謂って、宮城島先生はまじまじと其の友達を見る。六助である。酷く小柄な青年である。だが、身長の割りに、筋肉の付き方が尋常でない。余程、体を鍛えているに相違ない。葵のボーイフレンドなのであろうか。
「さーせん。お願いします」
六助はぴょこりと頭を下げた。
「えっ、ああ…」
宮城島先生は急激な展開に多少面食らい乍らも頷いた。一方、いずなは順子先生に、
「ママ。いずなもお願い。大切なお友達なの。送って行って欲しいの」
敬介とひろみである。順子先生は二人をまじまじと見つめた。そして、丁寧に頭を下げると、
「いつも、菜月がお世話になっております」
と挨拶をした。
「とんでもないっす。此方こそいつもいずなちゃんにお世話になって…」
慌てて、挨拶をするのは敬介である。少しも垢抜けた処が無い田舎の小学生の様な青年である。続いて、ひろみが挨拶した。
「私は稲森と謂います。いつも、菜月さんにお世話になってます。宜しくお願いします」
酷く、礼儀正しい、お人形さんの様な凛々しい顔立ちのお嬢さんである。気の強そうで、非の打ち所が無い様な美人なのであるが、若干の垂れ目が其れらを緩和させている。そう謂った印象を受ける。
「あら、あなたは、ひょっとして、稲森茶舗さんのお孫さん?」
「えっ、如何して其れを?」
順子先生はニコニコし乍ら、斯う謂った。
「私も良く、お抹茶を買いに行くんですよ。お祖母様には、いつもお世話になっていて…」
「わあ、そうなんですか。いつも、ご贔屓にしていただいて有難う御座います」
ひろみは如才なく謂った。そうである。順子先生はお茶をするのである。当初は、厳格な両親から女性の嗜みのひとつと謂う事で躾られた物ではあるが、今では趣味のひとつとなっている。やがて、葵たちは駅の東口へ、いずな達は駅の西口へと散会して行った。
吾郎先生は駅の西口で愛車のベンツを止めて待っていたが、エスカレーターを降りてくる一団に気がつくと、徐に呟いた。
「おっ、来たな」
一団は順子先生を先頭に、和気藹々と何事か談笑し乍らやってくる。いずなが吾郎先生を見つけると、満面の笑みを浮かべて、斯う叫んだ。
「あっ、パパ。ただいま!」
「おかえり、菜月ちゃん。楽しかったかね?」
吾郎先生もにこやかに応じる。
「ムッキー。とっても…。其れでね、パパ。お願いがあるの。此の子たちを送って行って欲しいの。いずなの大切なお友達なの」
いずなはそう謂うと、敬介とひろみを紹介した。吾郎先生は、多少の驚きと伴に、先程の順子先生同様に、二人の友人をまじまじと見つめた。娘が友人だと謂って友達を紹介したのは初めての事では無いだろうか。そう考えると、其の感慨も一入である。
「ああ、勿論だよ」
吾郎先生は快諾すると、二人に向って丁寧に挨拶した。
「いつも、菜月がお世話になっております。我儘放題の不躾者で、嘸や、ご迷惑だった事でしょう。さあ、乗って下さい」
「うわぁ、ベンツのEクラスだあ。いずな、あんた、本当にお嬢だったんだ…」
「ムッキー、ひろみっちったら」
一行はトランクに荷物を収めると、後部座席に右から敬介、いずな、ひろみと収まって行った。そして、順子先生は助手席である。
「扨と、何処から行けば良いのかな?」
吾郎先生は快活そうに声を掛ける。思わず、顔を見合わせた3人だったが、敬介が意を決して謂った。
「其れじゃあ、僕から…。初めまして。僕は今井敬介です。いずなちゃんにはお世話になってますし、其の、仲良くさせていただいております。僕は、遠くてすみませんが、庵原の金谷橋の先まで」
「了解」
吾郎先生は北へ向かって車を走らせた。
吾郎先生は車を走らせ乍ら、時折、後部座席に座った敬介の方に、ちらちらと視線を走らせる。瞑った様な細い目尻で丸眼鏡の、一見、老人の様な先生であるが、先程から、敬介の事が気になって仕方が無いのだ。恐らく、此の青年が最近出来たと謂う、愛娘の彼氏に相違ない。吾郎先生はそう直感した。此の青年の極度の緊張が其れを物語っている。吾郎先生は此の青年を落ち着かせようと態と丁寧に語り掛けた。
「庵原街道を行けば良いのかな?」
「はい、すいません」
此の酷く純情そうな青年は、侘びでもの事まで、不必要に謝る。実に垢抜けない、悪く謂えば、野暮ったい青年なのである。然し、吾郎先生は此の青年を一目で気に入った。此の青年の所作、立ち居振る舞いの一つ一つが、娘を気遣っている事が良く判る。勿論、愛娘の父親としては、多少、片腹痛くもある。然し、娘も頓ては年頃になり、愛する人の処へ巣立って行くのである。其れを思えば、此の青年であれば、娘を自身の事の様に大切に扱ってくれるであろう。吾郎先生は、略瞬時に、其れを洞察したのだ。
敬介の家迄、吾郎先生は送って行った。敬介が車を降りる際に、吾郎先生は、はっきりと斯う謂った。
「此れからも、娘を宜しくお願いします」
其れを聞いた敬介はカアッと赤くなると、
「ちょっと待っていてください」
と謂い、家へ向って駆け出したのだ。頓て、彼は大きなタッパーを持って戻って来た。中には昨日ついたと謂う切り餅が入っていた。彼は、いずなとひろみにタッパーを差し出すと、
「正月に摘んで下さい。タッパーは其の儘使っていただければ結構です」
と、名残惜しそうに謂い、順子先生やひろみが遠慮するのを、半ば強引に置いて行ったのだった。そして、ひろみの家でも、祖母が待っていて、ひろみが降りるのと同時に、紙袋に入れた抹茶と玉露を差し出すと、お送りの礼を述べた。別れ際にこんな件があった。いずながひろみに、
「ムッキー、楽しかったね、ひろみっち。良いお年を…」
と、謂ったのだ。其れに対しひろみが少し怒った様に謂う。
「ちょっと、其れ如何謂う事? いずな」
「?」
「其れって、来年まで、会わないって事でしょ?」
「ムキ?」
「もう、鈍いわね。明日も明後日も、爆盛り上がりするに決ってんでしょ」
「ムッキー、そ、そうだね」
此の状況を見て、順子先生も目を瞬いた。
(愛娘は心底、友達から好かれているのだ)
順子先生は、そう確信したのである。彼女は今迄、小中学時代の娘を見ているのだ。話だけでは、俄かに信用出来なかったのも、無理は無い。順子先生はいつしか目頭を押さえていたのであった。頓て、懐かしの我が家に到着すると、いずなは改めて謂った。
「ただいま。パパ、ママ。行かせてくれてありがとう。すごく楽しかったよ」
「お帰りなさい。菜月ちゃん」
「お帰り」
夫婦でにこやかに応えた。
其の日の夜の事である。いずなは居間のパソコンで祐子と正太郎がアップした写真をダウンロードしていた。先程から、吾郎先生が頻りに覗き込んでいる。其処へ順子先生がお茶を淹れて持って来た。先程、ひろみの祖母から頂いた玉露である。
「まあ、旅行のお写真なの? ママも見て良いかしら?」
「うん、良いよ」
いずなの同意を得て、吾郎先生と順子先生は画面を覗き込んだ。其処には仲間達と楽しげにカメラの前でポーズを取る娘が居た。腹の底から笑い転げる娘の写真。屈託の無い笑顔。其れは将に此の様な笑顔の事を謂うのであろう。順子先生は、いや吾郎先生もであるが、娘が其れこそ掛け替えの無い仲間と、巡り合う事が出来た事を、改めて理解したのであった。其の直後、件のひろみから電話があった。明日のカラオケの事と新年会の事である。明日のカラオケは兎も角、問題は新年会の会場であった。矢張り、会場になる家が見つからないと謂うのだ。当初は敬介の家を宛て込んでいたのだが、如何やら難しいと謂うのである。矢張り、惣領の家である。親戚筋が集まって来る為、難しいのだろう。他にも、祐子の家や一平の家も駄目であった。挙句、ゆり姉の家迄打診したのだが、当日は宿泊客があり、此れ又、空振りに終わった。
「仕方が無いね。また、カラオケで盛り上がろうか」
「そうだね」
斯うして、通話を終了したいずなであったのだが、横で其れを聞きとがめた吾郎先生が、いずなに聞いた。
「如何したんだい?」
「ううん。ひろみっちから。新年会の場所が無いって」
いずなが寂しそうな笑顔を浮かべる。新年の事である。何処の家も人が集まるし、宜なる事なのかも知れない。
「其れなら」
吾郎先生は快活そうに謂うと、
「うちは如何だろうか? ねえ、ママ」
順子先生も嬉しそうに同意する。
「えっ良いの? パパもママも騒々しいのは嫌いだから、抑々、俎上にも上ってなかったんだけど…」
「大切な菜月ちゃんのお友達だからね。其れに僕もアマンガスで遊んでもらったからね。満更、縁が無い訳でもない」
「うわあ、やったあ。パパもママも大好き」
満面の笑みで叫ぶいずなに、吾郎先生と順子先生は慈愛に満ちた微笑を返した。子供に甘いとの謗りを受けるやも知れない。然し、吾郎先生は其れだけでは無かった。勿論、先日、アマンガス大会で遊んだと謂うのも、あるのだろうが、娘を惨めな孤独の境遇から救い出してくれた友人達に、興味が湧いたと謂うのが正鵠を射ていると謂って良いだろう。いずな発の此の報は、瞬く間にメンバーを席捲したのである。鯔の詰りが、1月2日の10時より、いずなの家で新年会の開催が決定したのである。
扨、話は半日ほど逆戻る。11時前の清水駅前である。電車組は未だ甲府盆地を脱出してすらいない。恐らく、南甲府駅を過ぎた辺りであろう。そして、正太郎は祐子に先程の発言の真意を問い質していた。
「ところで、祐ちゃん。何故、先刻、家迄送ってもらわなかったの?」
当然と謂えば、当然の疑問である。祐子は多少、キョドり乍らも、理由を謂い始めた。
「あのね、ママには夕方頃帰るって謂っちゃったし、丁度お昼前だからご飯も食べたいかなって、其れに、祐子、先刻からお手洗いに行きたかったし…」
と、余り理由にもならぬ事を、矢継ぎ早に並べ立てている。其の様、気も漫ろであり、心の在処は何処に、と謂った様子でもある。正太郎はやれやれと謂った風で、徐に呟いた。
「其れじゃあ、兎に角一度、荷物をコインロッカーにでも預けようか?」
「…うん」
荷物をコインロッカーに預けた後、祐子に何処に行こうか水を向けた時の事である。此の少女は、実に飛んでも無い事を謂ってのけたのである。尤も其れは、昨日のいずなの時と同様に、祐子がボソボソと口中で呟いただけでは、あったのだが…。
(あのね、正ちゃん。祐子、二日間もしてないの中学の修学旅行や夏合宿以来だから、其の、ちょっと…。だから、正ちゃんに可愛がって欲しいかなあって。でも、祐子、殆ど生娘だから自分で誘うのも、何か恥かしいし、端無いかなって思って…)
年の瀬の駅前、全ては雑踏の中での出来事である。勿論、此の呟きは、当然、誰に聞こえる筈も無い。
ただ一人、正太郎をのぞいては。
正太郎は、呆れた様な眼差しでまじまじと祐子の横顔を見つめたが、照れが先立って直に視線を切った。然し、切った視線の其の先が、祐子の豊満で西瓜の様な胸元である。そして、今度は其の大きすぎる胸元から、如何しても視線を切る事が出来ない。正太郎の視線は、祐子のたわわな胸元に釘付けである。正太郎は真っ赤な顔でごくりと生唾を飲み込んだ。更に、祐子は照れ隠しなのか、若干、俯き、顔を赤らめ乍らも、とんでもない手遊びをしている。其れは、左手でずいずいずっころばしの様に軽く拳を握り、茶壷を作ると、あろうことか、右手食指を、ぬぽぬぽぬぽと、茶壷に出したり入れたりしているのである。
「うわわあ〜」
激しく狼狽する正太郎。全く以って、飛んだ生娘も有った物である。清楚で内気な少女として、猫かぶっている祐子は、普段は絶対に人前ではやらない。然し、最近、極稀に正太郎と二人きりの時は、此の種の下品な冗談を飛ばす事がある。其れは、とりもなおさず、祐子の発情サインでもあるのだろう。そして祐子は、聞こえたかなと謂った風で、ちらりと正太郎を上目遣いで一瞥する。哀れなるかな正太郎少年は熟れた蕃茄の様な顔色で硬直して、祐子の高校生離れした、自称Eカップ、実質Iカップの大きすぎる胸元を、まじまじと凝視している。宛ら、体中の血流が顔面に集中した様な顔色を呈しているのだ。祐子は、先程の呟きが充分過ぎるほど伝わった事に、俄かに満足すると、急にいたずらっ子の様な顔つきになり、曰有り気な微笑を浮かべ、斯う謂った。
「如何する? 正ちゃん。お昼ご飯にする? 其れとも…」
正太郎はごくりと生唾を飲み込むと、辛うじて、斯う謂いきった。
「ご、ご、ご…。ご飯じゃ無い方…」
祐子は、何時もの様に、ぱあっと弾ける実に嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「やったー、決定だね。じゃあ正ちゃん。早速、行こうよ!」
如何やら祐子が饕餮なのは、何も食欲に限った事では無いのは、明白である。彼女は正太郎の手を引くと、一秒でも惜しむ様に先を急ぐ。
「ちょ、ちょっと待って」
「?」
正太郎は酷く歩きにくそうに、頗る不自然な前傾姿勢になっている。如何やら先刻の血流の集中先は顔面だけでは無かったらしい。少し落ち着いた正太郎が小声で謂った。
「でも、祐ちゃん。僕も二日間もしてないから、其の…、すごく溜まっているよ。だから…其の…、祐ちゃんに獣みたく求めちゃうかもしれないし…、すごく変な事、しちゃうかもしれない…」
「わぁ。其れちょっと、楽しみかもしれない。でも、祐子も二日間もしてないから、激しく乱れちゃうかも…、だから、そうなっても嫌いにならないでね」
全く以って、飛んだ生娘もあった物である。正太郎の前傾姿勢は愈々以って顕著になる。更に、正太郎が心配そうに謂った。
「其れにいつも行く処、2つしか置いてないだろ。だから…、其の…、其れで足りるかちょっと心配で…、行く前に薬局でも…」
「わぁ、ますます楽しみ!」
祐子は嬉しそうにそう謂うと、徐にデイパックから小箱を出して見せた。箱は真っ赤なパッケージで0・01と謎の数字が書いてある。間違っても、コーラ飴等では無い事は明白である。
「えへへ。こんな事も有ろうかと昨日買っておいたの。此れなら此の箱の分だけでも、12回は出来るよ。ほら、箱にも10のマイナス2乗って書いてあるし」
優等生の祐子が、何故か指数表現をする。全く以って、飛んだ生娘で有る。然し、正太郎は思う。
(もう、祐ちゃんたら。何が『こんな事もあろうか』だよ。此れ間違い無く確信犯だろ。道理で家迄、送らせない訳だ。いくらなんでも、流石に12回も出来るもんか…。)
確かにそうであろう。昨日の段階で此の展開を予想していなければ、コーラ飴もどきを購入する様な状況にはなり得ない。だが、そうは謂う物の正太郎には、そんな祐子がとても可憐で愛おしく思えた。年末の駅前には、何処からか流行歌が聞こえて来る。此の季節の月並みな鳴り物かもしれない。そんな事を思う中、頓て、一見、清楚な、肥満で巨乳でちょっぴりエッチなジャンパースカートの肉食系生娘と、不自然なまでに前傾姿勢で、生娘の尻に敷かれた草食系少年が、昼の日中から駅の裏通り、年末の雑踏の中へと消えて行ったのである。
二人の行方は誰も知らない。
いずなの家で開催される事となった新年会。年が変れど、相も変らぬメンバー達。怒涛のバカ騒ぎが始まった。そんな中で数学補習名物、薬缶の宿題が話題となったのだが…。次回は久々の数理パズルネタです。『第43話 あけまして桃も李もさくらんぼ【問題編】』




