第40話 水琴窟と正太郎の思い出(石和温泉旅行編【4/6】)
騒動が一段楽した処で、正太郎が切り出した。
「ところで、小百合さん。先刻、祐ちゃんに聞いたんですけど、明日、車で回るなら、僕らもご一緒していいですか? 其の、一平には申し訳ないんですが」
「ええ、いいわよ」
然し、意外な事に、一平が愁眉を開き乍ら、斯う謂った。
「いや、助かった。小百合さんみたいな美人と二人だけだと、俺には、少々、役不足だと思ってたんだ」
正太郎がニヤニヤし乍ら、一平の有り勝ちなミスの訂正を奨めた。
「なあ、一平。一応、念の為に訂正を推奨するが、其れだと、多分、お前が意図しているのとは、全く、真逆の意味になるぞ。ゆり姉に対して、抑々、失礼だろ」
「ま、マジか?」
一平は、俄かに顔色を変え、真っ赤になると、
「さ、小百合さん…、さ、さーせん」
と、叫ぶ。ゆり姉も笑い乍ら、微笑み掛ける。
「良いのよ、一平君。日本語あるあるだもんね。明日は宜しくね」
「あざーす」
一平が冷汗三斗で、頻りに恐縮し捲くる中で、お礼を謂う。其処で祐子がみうみうに謂った。
「ねえ、みうみうちゃん。明日はみうみうちゃんも、私達と一緒に行かない?」
「えっ、私も良いの?」
「うん、勿論だよ。私もお買い物したいし…」
「其れじゃあ、ゆり姉。私もご一緒させてください」
「宜しくね。みうみうちゃん」
斯うして、明日のメンバーが何と無く決って行ったのであるが、ある意味、此れは祐子のファインプレーでもあった。と謂うのも、此のメンバーを俯瞰するに、みうみうを除いて、全メンバーが、何となく番になっているのである。修学旅行や遠足の班決めと同じで、単騎となった人間に寂しい思いをさせてはならない。此れは祐子が中学校時代の経験から来ている。祐子の誘いは、将にそんな配慮であった。現にみうみうも、此の状況に、多少の居心地の悪さを感じていたのであろうか。漸くに愁眉を開くと、酷くホッとした表情で、斯う謂った。
「ありがとね。祐ちん」
そんな、みうみうと祐子を他所に、六助がニヤニヤし乍ら、一平に突っ込んだ。
「お前、先刻から何、然も当然の様に、小百合さんと回る事になってんの?」
「バカ野郎。小百合さんみたいな綺麗な人を、一人で出歩かせる訳には、いかないだろ」
「お父さんか? お前は」
「いいのよ、六助君。ありがとうね、一平君。明日はエスコートよろしくね」
「とんでもないっす。此方こそ、よろしくお願いしまっす。ところで、六助。お前は、如何すんだ?」
「おっ、俺か? 俺は未定だ。明日は一日中、温泉でもいいんだが…」
葵がおずおずと手を挙げた。
「あの、其れなんだけど、六助君。若し、良かったら、私と山梨県立科学館に行って見ませんか? いずなちゃん達がすごく面白かったって謂ってたから」
「うん、分かった。いいよ。葵ちゃん、明日はよろしくな」
其れを受けて、一平が溌剌と叫んだ。
「よし、六。明日も忙しいぞ。今日は明日に備えて、早めに寝よう」
「ムキーッ。こら、でかいの。何、謂ってるの。まだ、18時だよ。今日はオールナイトゲーム大会に決まっているでしょ。お風呂もあと、2回ノルマだし。みんなでワイワイ楽しむんだよ。あのね、祐ちん、今日は桃鉄、ぷよぷよ、いたスト、カルドセプト、カルネージハート、提督の決断を持ってきたよ。全部、パパから借りてきた」
祐子が目を星にし乍ら謂った。
「いたスト持ってきたの? じゃあ、早速やろうよ。正ちゃんも…」
「いや、祐ちゃん。俺、抑々、ルールを知らないんだが…」
「大丈夫だよ、簡単だから。欠陥を改良したモノポリーってとこかな」
「ムッキイ。祐ちんなら、絶対、食いつくと思った。じゃあ、ケースケも」
「えっ、俺も、ルール知らないよ。いずなちゃん」
「大丈夫。ルールは簡単。お金儲けした人が勝ち。以上」
「うわっ、何だよ其れ」
いずなの大雑把な説明に敬介が大仰にふてる。高志が呆れた。
「然しまた、ニッチなラインナップを持って来たなあ…。ボードゲーム系はいいとしても、大体、カルネージハートや提督の決断を如何やって、みんなでワイワイ謂い乍らやるんだよ」
「ヴー。余り考えてなかった。でも、面白いよ、あれ」
「…まったく。他には何か持ってこなかったのか?」
「ヴー、カードゲームがウノとミールボーンズ。あと、ボードゲームがカタン」
「おー、ミールボーンズがあるのか? じゃあ、俺、ミールボーンズな。でこぼこコンビもやるだろ」
然し乍ら、ルールを知らないでこぼこコンビは及び腰である。
「いや、俺ら、抑々、ルールを知らんし…」
「此れなら、二人ペアで出来る。おい、のっぽ君、ゆり姉と組めるぞ」
其処で、一平がすかさず寝返る。
「おい、六。細けえ事をがたがた抜かすな。折角、高志が誘ってくれたんだ。ミートボールとやらを楽しもうじゃないか。小百合さん、よろしくお願いします。俺、ルールは良く知らないっすけど…」
「わーっ、一平。てめえ、何、調子の良い事、謂ってやがんだ。良くじゃなくて、全くだろ。大体、何だよ、ミートボールって。抑々、全然、違うじゃねーか」
「うるさい。俺は、橡面坊の故事に倣ってだな…」
一平の意外な発言に女子一同、唖然としている。高志が訝り乍ら、祐子と正太郎に囁いた。
「なあ、橡面坊って…、彼奴、あの作品読んだの? とても、漱石なんぞ読むタマには、見えねーが」
正太郎が、祐子に代わって答えた。
「いや、読んだと思うぜ。中学2年の時の、課題図書だったからな。そう謂や、お前がひろみに告った時、ひろみが、あの作品から引用してたよな(第14話参照)」
「テメーは恥ずかしい事、思い出させるんじゃねえ。てか、お前、そんな、序盤から狸寝入り決め込んでやがったのか。ふざけやがって」
「まあまあ。ところで、お前らは、明日、如何する心算なんだ?」
「ああ、其れなんだけど、ひろみの奴、本当は清里に行きたかったらしいんだよな。今、真冬だから諦めたみたいだけど」
「だったら、連れて行ってやればいいじゃねえか。折角の機会だし、冬の清里ってのも、良いじゃねえか。中々、乙なもんだと思うぜ。でも、小海線、本数少ないから、計画を立てて行かないとな」
「…そうだな。ちょっとひろみに話してみるか」
結局、正太郎、祐子、敬介、いずながテレビにPS2を接続して、いたストを始め、他のメンバーはミールボーンズペア対決をはじめる事となった。1時間ほど遊んだ後で、もう一度、風呂に入ることになったのだが、其の前に、裏手にあるショッピングセンターで、夜食や飲み物を買いなおす為に、全員で散歩がてらに出かけた。
全員、室内着にスエットを着込んだり、ジャージを羽織ったりしている。19時を回って、師走の冷え込みが一入となっている。此の後、温泉に入る前提が無ければ、とてもじゃないが、出歩け無い寒さだ。頭上には満天の星が煌めいている。祐子が正太郎に尋ねた。
「ねえ、正ちゃん。冬の大三角形って見えるかなあ」
正太郎は携帯で時間を確認した。19時10分である。首を傾げていった。
「うーん。ギリギリアウトかなあ。見えるとすれば、東の方角なんだが…」
いずなが、甲府盆地の東端。勝沼、笹子峠方面を眺めて謂った。
「ゆうちん、正ちん。オリオンなら辛うじて見えるよ」
「あっ、本当だ」
祐子も頷く。
「ムキ、正ちん。真上の真っ赤な星は?」
「ああ、あれか? おうし座のアルデバランだよ。雄牛の心臓とも呼ばれてる。冬のダイヤモンドの一角さ。シリウス、プロキオン、ポルックス、カペラ、リゲルで冬のダイヤモンド」
「ふーん。正ちん、本当に星に詳しいんだね。じゃあ、真上の固まって、ぼやぼやーっと見える星は?」
「ふふふ、秘密だ」
「ムキー、意地悪しないで教えなさいよ。でも、何となく分かった。ひょっとして歌で有名な星…」
「謂ってみな。いずな」
「散開星団プレアデス」
「其方かよ。…まあ、正解なんだけど。歌、関係ねーじゃねーか」
「えへへ、あれが、そうなんだ」
「あーっ、二人だけで盛り上がって…ずるい。正ちゃん教えてよ」
祐子が膨れ乍ら、首を突っ込み、正解を尋ねる。
「もー、祐ちんたら。ほら、枕草子や谷村新司さんの歌で有名な…」
「わかった。昴だ」
「正解」
正太郎が笑い乍ら謂った。
「へえ、あれがそうなんだ。本当に幾つも連なって見えるんだね」
「通常なら6、7個の星が肉眼で見えるからね。ギリシア神話のプレイアデス7姉妹の名が当てられている。日本では六連星とか呼ばれているけどね」
「本当に綺麗だな。あれも冬の大三角の一つなのか」
いつの間にか、敬介も会話に参加している。正太郎は笑い乍ら、説明を始めた。
「違うよ。冬三角はとても見つけやすいよ。オリオンが分かれば直ぐに分かる。オリオンの向かって左肩の赤い星。これをベテルギウスって謂うんだが、此れが、冬三角の一角だ。冬三角は、ほぼ、正三角形だし、おおいぬ座のシリウスは、全天中、太陽以外で一番明るく見える恒星だし、こいぬ座のプロキオンも一等星だから、オリオン座が確認できれば、すぐ、分かると謂う訳さ。ああ、やっぱり、まだ、見えないね。もう少しなんだけどなあ…。今日、21時位なら見えると思うよ」
「ありがとう、正ちゃん。其れなら、3回目にお風呂に入る前に確認に来ない?」
「ん、いいよ」
「ムッキーッ、ケースケ。私たちも来よ。いずなも見てみたい」
いずなは大燥ぎである。其の後ろで、高志がひろみに聞いた。
「なあ、ひろみ。明日は何処へ行きたい」
「何処でもいいわよ。高志の行きたい処なら」
「なら、清里に行って見ないか?」
「えっ、でも、冬は何もないって…。其れに、お店もやってないって」
「でも、行ってみたいんだろ」
「…うん」
「だったら、行こうぜ」
「…いいの?」
「ああ、其のかわし、現地滞在は1時間だ。いいかな?」
「…うん」
澄み渡った星空の下、二人は肩を並べて歩いた。気がつくと、ひろみが目に涙を浮かべている。高志は声を潜めて、優しく囁いた。
「バカだな。こんな事位で、泣くなよ」
「…だって、だって」
「温泉から出たら、ゆっくり計画を練ろうぜ」
ひろみは零れ落ちた真珠を手で拭うと、元気良く肯いた。
「うん」
凛子と明彦は最前列、桑畑の横を歩いていた。年の瀬の冷たい風が吹き抜けていく。
「あー、早く温泉に入りたいわ。体がすっかり冷えちゃった」
「おいおい、風邪なんて引かないでくれよ。ところで、明日は、本当に、博物館と美術館巡りでいいのか?」
「うん。其れだけは、明彦君と付き合っていて、感謝している。趣味が同じだもんね。私も、博物館と美術館は大好きだから」
「凛子ちゃん、其れだけはって、何だよ。ひでーよ」
「あはは、ごめん、ごめん。明彦君は他にもいっぱい良い処あるよ。何よりも、優しいもんね」
「ば、ば、バカヤロー。照れるだろうが…」
「あはははは、ごめん、ごめん」
後ろを歩いていたのは、いずなと敬介だった。二人仲良く、手を繋いでいる。
「ふーん。凛子っち、明るくなったね。良く笑うもん。明彦効果かな」
「えっ、そうだっけ?」
「うん。そーだよ。凛子っち、4月に入学したばっかの時は、何処か斜に構えたところがあって、ちょっと、近づき難かったもんね。殆ど、笑わなかったもん。尤も、斜に構えたって謂えば、私達、ゆうちんを除いた女子全員、そうだったけどね。ゆうちんも、すごく内向的だったし」
「そう? いずなちゃんも?」
「うん。そーだよ。自分で謂うのもナンだけど、あの頃のいずなも、みんなが敵に見えていたよ。でも、いずなはみんなと知り合えて変われた。特に、ゆーちんとケースケと知り合えて」
「そんな、俺、何にもしてないよ。いずなちゃん」
「そんな事無いよ。いずなは、ケースケの優しさと、純粋さに触れて、変われたと思っているよ。本当にありがとね」
いずなは、そう謂うと、すっと、体を寄せた。敬介の体の温もりが伝わってきた。敬介の体はとても温かかった。
(ケースケの優しさが、いずなの心の氷を溶かしてくれたんだよ)
いずなは、優しげに敬介を見つめた。澄み切った星空の下、また、一段と冷たい北風が吹きぬけていった。
「如何したの、いずなちゃん」
「ううん、なんでもないよ」
「ところで、ねえ、いずなちゃん。明日は如何しよう?」
「うーん。笛吹川フルーツ公園って行って見たいなあ。アニメで出てきたんだよ。ケースケは?」
「じゃあ、其処に行こうよ。あとは、宿に戻ってお風呂三昧?」
「わあ。いずなも、其れでいいよ。楽しみだね」
さて、本日2回目のお風呂である。女性陣が脱衣所で脱いでいた。いずなが紅白のだんだらの大きなバスタオルを持っている。祐子が豊満な胸を、手で隠し乍ら謂った。
「あれ、いずなちゃん。バスタオル、宿の備え付けのがあるのに」
「うん。いずなのお気に入りのバスタオルを持ってきたの。其れより、早速、サウナへ行こうよ。みんなも」
女性陣が全員サウナに移動した。ゆり姉は開口一番いった。
「如何? みんなの、明日の予定は決まったの? ひろみちゃんは?」
「はい、高志が清里に連れて行ってくれるって…」
「まあ、良かったじゃないの。冬の清里なんて幻想的だわ。いずなちゃんは?」
「うーんとね。いずなは、ケースケと笛吹川フルーツ公園に。で、帰ったらお風呂三昧」
「其れも、楽しそうね。折角、温泉に来たんだもんね。凛子ちゃんは、如何するの?」
「私は結局、予定通り、明彦と博物館・美術館めぐり」
「其れも、素敵ね。すごくアカデミック。でも、凛子ちゃん達、そういう処、良く行くの?」
「はい。初めてのデートは県立美術館でしたから」
「ムッキー、初めて聞いたよ、凛子っち。すごくロマンチック」
「もう、当たり前でしょ。…誰にも謂ってなかったし…」
ひろみが意外そうに謂った。
「あの眼鏡がねえ。ちょっと、意外だよね」
ゆり姉が続けた。
「葵ちゃんは如何するの?」
「私は、六助君と山梨県立科学館に。プラネタリウムを見てみたくて。甲府の町も歩いてみたいし」
「そうすると、全員、朝から活動だね。朝ごはんは8時でいいかな? バイキングだって謂ってたけど。祐子ちゃん、みうみうちゃん。私たち車組は9時頃出発と謂う事で」
「はい、分かりました。正ちゃん達に伝えます」
「ムッキー、ゆうちん。もう、限界」
「私も」
みんな、一斉に、サウナ室から飛び出し、水風呂や、温水プールに飛び込んだ。
「ムッキー、気持ちいい」
「確かに、病み付きになるわね。此の、サウナと冷水のコンボ」
凛子が水風呂の中で手足を伸ばし乍ら、謂った。
「本当だよ。いずな、最初にスーパーに行った時、ダイエットコーラを1本買ったんだけど、飲みきっちゃったもん。だから、1500を2本も買って来た」
「すごいね。でも、私もお茶の1500を2本買って来ちゃった」
「サウナの後だと、一気に飲みきっちゃうもんね」
一方、温水プールでは、ゆり姉、祐子、葵、ひろみ、みうみうが次々と飛び込んだ。
「ぷはあ、気持ちいいね」
「本当ですね。ゆり姉」
ひろみが自分以外の四人を横目で見乍ら謂った。
「其れにしても、いいなあ。みんな、胸があって…。如何みても、D以上だもん」
祐子が赤くなり乍ら謂った。
「私の場合、唯のおデブだし、肩が凝るし、好奇の目で見られるし、良い事なんか無いよ」
「うっきー。そうだよ。大体、服選びが大変なんだよ。Tシャツなんか、胸にあわせると、だぶだぶの物しか着れなかったり…」
「一度、謂ってみたいわね。其の台詞」
ひろみがヘソを曲げる。
「そんな、気にする事ないわよ。ひろみちゃん。私もひろみちゃん位の頃は、もっと、ぺっちゃんこだったから…」
「…私ぐらいですかあ?」
いつのまにか、いずなと凛子が水風呂から場所を移して参戦している。
「…うーん。もうちょっと、あったかな…」
「ムッキー、ゆり姉までも、苛める」
「大丈夫。其のうち、大きくなるから、其のうちに…ねっ」
凛子が思い出したように、謂った。
「そう謂えば、彼奴ら、合宿中、女湯を覗こうとしてたわよね(第14話参照)」
「うん。其れも、毎晩のように。其の手の企てを…」
「あらあら、其れで、籐の衝立が壊れていたのね。一体、誰なの? 首謀者は」
ひろみが、憮然として謂う。
「そんなの、決まってますよ。夜、一人でおしっこに行けない奴と、むっつり眼鏡」
「へー、正太君は?」
ひろみが溜息混じりに謂った。
「大体、諸悪の根源はハロゲン族ですね。エロ眼鏡の手綱は、キッチリ凛子が握っていたし、敬介は、基本、無邪気な小学生だし、正太は、摺れてないと謂うか、意外と、異性に対して臆病なんです。結局、告ったのも、祐子の方だったし…」
祐子は、また、顔を赤らめ乍ら、ぷくぷくっと潜水してしまった。矢張り、自分の事が話題になるのは、少し、恥かしい。
「へー、そうなの?」
ゆり姉が感心する。ひろみが続けた。
「祐子も内向的だったけど、異性に対してという点に於いては、正太は其れ以上だったと思います。然も、女心に対しては、極めて、鈍感。其れに、祐子は、人間観察力というか、洞察力が優れていたから…。此の儘だと、何の進展もないって思ったんでしょ?…だよね、祐子」
「…うん」
葵が感心したように謂った。
「すごいよね。祐子ちゃん。良く、勇気出したね」
「ううん。みんなが、背中を押してくれたの。特に、高志君が」
ゆり姉がひろみに謂った。
「ひろみちゃんは?」
「私は、合宿中、高志に告られて…」
凛子がニヤニヤし乍ら、謂った。
「みんなの前で、情熱的に告られたんだよね。最後はお姫様だっこされて、部屋を出て行ったとか何とか。詳しく話しなさいよ、私、其のシーン見てないんだから」
ゆり姉と葵が目を丸くする。
「違います。其れは、正太の創作です。実際は、私と高志以外、居たんだけど、熟睡している振りをしていて、其れに、気がつかなかった高志が…」
ゆり姉が羨ましそうに謂った。
「いいなあ、本当に、みんな、青春してるわね。羨ましいなあ。私、そんな、盛り上がりは無かったもの。凛子ちゃんは?」
「私は、そんな、盛り上がりなかったですよ。其れより、いずなの方が…」
「ムッキー、凛子っち、ズルい。其れより、ゆうちん、あのでこぼこコンビは?」
「うーん。あの二人も、人気はあったけど、正ちゃんと同じだと思うよ。異性に対しては敷居が高かったな。何人か、アタックした子達がいたけど、みんな、撃墜されてた。特に、一平君の異性に対するATフィールドは強固だったよ。ゼルエルレベル」
凛子がいずなに囁いた。
「ねえ、いずな。如何謂う事? ATフィールドって何よ?」
「うーん。バリヤみたいなもんかな。最強の拒絶型って事」
葵が驚いて聞いた。
「そうなの? 六助君も?」
「うん。本当は、今日の一平君もそうだけど、遠足の時の六助君見て、驚いちゃったもん」
「そうなんだ」
「だから、がんばってね。明日」
「うん」
女性陣がぞろぞろと男子部屋に入ってきた。高志と明彦が布団で大の字になっている。正太郎と敬介がぷよぷよに興じている。
「ムキー、気持ち良かったあ。あれ、でこぼこブラザーズは?」
高志が起き上がると、ミネラルウオーターをラッパ飲みし乍ら謂った。
「ああ、彼奴らなら、台湾式足つぼマッサージに行ったぞ。其れにしても、此処の、リラクゼーション施設はすごいわ。10位の施設が入っている。あれ、ゆり姉と凛子と葵ちゃんは?」
ひろみが答えた。
「ゆり姉と葵は、英国式ヘッドマッサージ。凛子はタイ式マッサージに行った。私もちょっと、行ってみたかったんだけど…」
「なら、行って来いよ。折角の温泉旅行だぜ」
「だって、高志と明日の計画も練らなきゃなんないし…」
「計画ってったって、列車時刻の確認ぐらいだぜ。いいよ、俺がやっとくから、行って来いよ。二泊しかない、大切な一泊目だぜ」
祐子が助け舟を出した。
「ねえ、ひろみちゃん、私達も行ってみようよ。いずなちゃんも、みうみうちゃんも如何」
「ムキーッ、本当は、いずなも、ちょっとやってみたかったんだ。ねえ、ゆーちん。何にする、何にする?」
祐子は、リラクゼーションの案内パンフレットを見乍ら呟いた。
「うーん。肩凝りがあるから、華北式頚肩指圧をやってみようかな。いずなちゃんやみうみうちゃんは?」
「みうみうはゆうちんと同じでいいな」
「私は、アモイ式全身マッサージ。ひろみっちは?」
「うん。私も英国式ヘッドマッサージ。そうだ、ねえ、高志たちも行かない? 折角来たんだし…」
「そうだな。正太、明彦、敬介。俺達も行くか?」
「ああ。そうだな」
「実は俺も行ってみたかったんだ」
と、明彦。敬介も燥ぎ乍ら、
「行こう、行こう。実は、俺も行ってみたかったんだ」
結局、全員リラクゼーションに行き、初日の凝りをほぐした。
いずながダイエットコーラをラッパ飲みし乍ら、
「ムッキー、ひろみっち、気持ちよかったね。明日はひろみっちがやったヘッドマッサージやってみようかな」
ひろみもニコニコし乍ら、
「本当。気持ちよかったあ。いつも、敬介には面白い企画を持ってきてもらって申し訳ないわ」
「ムッキー、本当だね。あれっ、ゆうちん、正ちん、如何したの?」
祐子と正太郎が、丁度、部屋から出てきたところだった。
「あっ、いずなちゃん。もうすぐ、0時になるから、コンビニに夜食購入がてら、星を見に行こうと思って」
「ムッキー、ゆうちん、敬介呼んで来る。ちょっと待ってて。ひろみっちは如何する? ハロゲン族呼んで来る?」
「うん、高志を呼んで来る。祐子、ちょっと待っててね」
斯うして、一同は思い思いのリラクゼーションを満喫したのであった。
翌日、概ね、7時頃には、全員起床した。此処では、朝型、夜型が、物の見事に分かれる形と相成った。朝型の代表格は祐子、正太郎、六助、一平である。現に、正太郎と祐子は、6時頃から、笛吹川河畔へ散歩に出掛けた様であったし、六助は笛吹川側道をランニング。一平は、ランニングがてら国道20号を西進し、然る後、平和通を北上し甲府駅まで行くと、スポーツ新聞を買って帰って来たとの事である。一方、中々起きられなかったのが、高志といずなであり、正太郎と祐子が7時頃、宿に戻った時にも、未だ、夢の中であり、起こした後も、寝ぼけ眼で食堂に来た次第である。朝食はバイキング形式となっていたのであるが、此れ又、面白い様に和食派と洋食派に分かれたのである。正太郎、高志、六助、敬介、葵は和食派であるのに対し、明彦、祐子、いずなは洋食派。そして、折衷型である、凛子、ひろみ、みうみう、百合姉である。彼らは、倉皇として、朝食をかっこむと、部屋に戻り、今日の活動の準備を始めたのである。
出発は、各グループ、三々五々出発する形となった。凛子と明彦は山梨県立博物館を目指した為、徒歩で国道20号を東へ向った。距離にして約2km。営業開始が9時となっているから、のんびり、道中を楽しめば丁度良いのではないか。宿の送迎バスを利用して、石和温泉駅に向ったのは、高志、ひろみ、敬介、いずな、六助、葵である。尤も、高志、ひろみは甲府駅であずさ1号に連絡する関係上、8時16分発の普通列車に乗らねばならず、一本先の7時50分の送迎バスを使って、一足先に駅に向かった。敬介といずなは上り列車で山梨市駅迄行き、其処からバスで、笛吹川フルーツ公園を目指す様である。六助と葵は高志達より一本遅い下りで甲府迄行き、山梨県立科学館を目指す様である。扨、正太郎と祐子、一平、みうみうは小百合の車に便乗する形で、甲府駅北部の躑躅ヶ崎館跡地。即ち、武田神社を目指したのである。
躑躅ヶ崎館は武田三代の居館である。甲府駅北方2kmの甲府盆地北端に位置し、武田通りと謂う大学や専門学校に挟まれた賑やかな坂道を上り詰めると突き当たる。神社は扇状地の上端にあり、後方を、要害山城を後詰とし、甲府市を一望出来る高台に睨みを利かせている。今では武田神社として、甲州一円の信仰を集めており、地元では、今でも、信玄公の事を呼び捨てにする者は無く、信玄公とか信玄さんと親しみを込めて、呼んでいると謂う。正太郎は、昔、父親から聞いた話を思い出した。父親の郷里、鹿児島でも似た様な状況にあると謂う。
「島津の殿さんや西郷さんを呼び捨てになんかはしない。そんな奴は、生麦事件で切り殺された英国人と同じ目に遭って、然るべきで、文句は謂えない」
正太郎は、酔っ払って其の様な事を宣っている父親を何度か目撃している。冷静に聞いてみると、頗る物騒な話であり、随分と、偏った郷土愛と謂えなくも無いが、此れが薩摩人の本心なのであろう。正太郎にしてみれば、例えば、権現さん(家康公の事)に対し、流石に其処迄の思い入れは無い。正太郎は、子供心に半ば冷静に、酔客の戯言を聞き流していた事を思い出した。
武田神社は結構な観光客で賑わっていた。もうすぐ、新年を迎えるにあたり、其の準備もあるのであろう。巫女さんや業者さん達が、慌しく行きかっている。武田神社、いや、此処では敢て、躑躅ヶ崎館と呼称するが、如何にも甲斐の国の、国守の居館らしく、甲府市を一望出来る丘の上にある。扨、正太郎、祐子、小百合、一平、みうみうの一行は北にある本殿へと向かって歩いて行った。小百合と一平が、二人、ぎこちなくも肩を並べ先行し、其の後、3人が並んで歩いている。祐子も、まあ、正太郎もそうなのであるが、友達作りは器用な方ではなく、割と、中学時代はボッチな方であった。更に謂えば、みうみうもである。従って、正太郎と祐子の間にみうみうが割り込む形となる。此の日のみうみうは、赤のトレーナーであり、白で可愛らしい猫ちゃんが描かれている。下はチェックのロングスカートで、中々に少女チックである。
「わあ、みうみうちゃん。可愛い柄だね。其のトレーナー」
「うん。にゃんにゃんなんだよ。みうみうのお気に入りなの。でも、ゆうちんのジャンパースカートもすごく可愛いよ」
「そうかな? 私が着ると、何か、露西亜小芥子みたくなっちゃうんだけど…」
「そんな事無いよ」
みうみうが肩身が狭い思いをしないように、祐子が頗る気を使って、頻りに話を振る。更に、そんな祐子を慮って、正太郎もみうみうと打ち解けて話をする。実に見事な、以心伝心であった。
「此れ。一体、何だろ?」
祐子が傍らにある井戸の様な物を指差す。
「ははあ。水琴窟だな」
正太郎が答えると、
「なんだよ。其れ」
と、一平が訝る。正太郎が笑い乍ら答える。
「落ちる水滴の音を反響させて、音を楽しむ為の仕組みさ。此処の下には、中に大きな甕が仕込んであってな。其処に落ちた水滴が、反響する様な仕掛けになっているんだ」
確かに、時折、ポロン、ポロンと、弦楽器の様な神秘的な音が、幽かに聞こえる。
「へええ、其れで琴なんだ。昔の人は、実に風流だね」
祐子も感心する。だが、其処でみうみうが異論を提出する。
「うっきー。綺麗な音色だね。でも、琴と謂うよりも、月琴かリュートみたいな音色だね。でも、低い音は、やっぱり、コントラバスかなあ」
「みうみうちゃんは耳が良いわね。私なんか殆ど聞き取れないわよ」
ゆり姉がみうみうの耳の良さを、不平と伴に讃える。みうみうは無邪気な屈託の無い笑顔で、斯う応える。
「えへへ。だって、私、元ブラスバンド部ですよお。今は帰宅部だけど。耳は自信があるんです。正ちん程じゃあ無いけど…(第30話参照)」
だが、みうみうの此の発言に対し、驚いて反応するのは祐子である。
「えええー。初耳だよ。みうみうちゃんも、ブラスやってたの? だったら、ブラバンに入ろうよ。楽器は何やってたの?」
「みうみうで良いよ、祐ちん。パートはクラだよ」
「えええー。私もクラだよ。みうみうちゃ、ううん、みうみうも一緒にやろうよ。身近で教えてくれる人が欲しかったんだ。いつも、いずなちゃんに聞いてばかりだと申し訳ないモンね。だけど、みうみう。4月に何で入らなかったの?」
「うーん。えーと、一身上の都合かな…」
「えー、みうみう。ブラバンはいろうよ。一身上の都合とやらがあるかもしれないけど。私、みうみうと一緒にやりたいな。考えといてね。みうみう」
「…うん」
此の場は、祐子に押し切られる形で、思わず頷いてしまったみうみうであったが、然りとて、みうみうの、所謂、一身上の都合も、中々に剣呑なのである。
正太郎は此の件を見ていて、自身の小学校時代を思い出した。正太郎は小学校の4年の4月に、サッカー部に入部した。体を鍛えたかった訳ではない。修吾の執拗な勧誘に、抗いきれなかった訳でもない。祐子との日々に厭いた訳でもない。強いてあげるとすれば、男友達の中、孤独で居るのに聊か嫌気したと謂うのが、正鵠を射ていると謂えるだろう。多少、自閉スペクトラム症的気質を持つ、此の少年は、友達を作るのが余り上手な方では無かった。此の決断は、祐子を、当然、傷心させた訳でもあるが、然りとて、祐子も流石に文句を謂えた義理では無かった。だが、正太郎にしてみれば、此処から先の道は、割と茨の道でもあったのである。二の丸小学校のサッカー部は、結構、強かった。所謂、強豪校なのである。其れは、小学校時代から県代表に選抜される、六助、一平、修吾と謂ったタレント揃いであった事からしても、頷ける。正太郎はと謂うと、毎日、トラップ、インサイドキック、そして、球拾いの繰り返しである。一級下の3年生や、ともすれば、2年生相手に、延々とサイドキックの練習である。当時から県代表で、謂わば、ヒーローでもあった六助や一平、修吾相手に、ボールが蹴れる筈も無く、下級生とのパス練習ばかりであった。其の下級生にも、いつしか、抜かれ、そして、置いていかれ、正太郎にとってサッカーとは、必要以上の劣等感を体験する為の、倶楽部活動でもあった。其れでも、何とは無しに、インサイドキックは蹴れる様になったのであるが、彼の場合、インステップキックが剣呑であった。如何蹴っても、地面を転がるだけで、ふわりと宙を浮く様な、軌跡を描くボールが蹴れないのである。六助や一平、修吾などは、いとも簡単にボールを蹴り、其れが、ギューンと、20メートルも、30メートルも飛ぶのに対し、正太郎が渾身の力を込め蹴ったボールは、コロコロと虚しく地面を転がるのみなのである。
其の当時、正太郎が最も仲が良かったのは、岩井修吾であった。当時ですら160センチと恵まれた体格の修吾は、昭和の時代で謂う処の、ガキ大将キャラであった。幼稚園の時分から、自分の意に沿わぬ事に対しては、常に腕力で従わせて来た。そんな、乱暴者な彼であったが、何故か、正太郎には一目置いていた。正太郎が、勉強が出来る事に斟酌した訳でもあるまいが、他の子達は、彼の粗暴さを敬遠していたのに対し、正太郎は割りと遠慮なく物申していた。そんな処を、気に入ったのかも知れない。然し、正太郎が入部した4年の初めに、彼が、其れ迄守って来たFWのポジションを、追われる事となるのである。彼は、DFにコンバートされた。此れには、流石の修吾も落胆した。だが、其れも、たった1日だけの事で、明くる日からは、いつもの修吾らしい溌剌とした様子で、練習に勤しんでいた。修吾のポジションを奪ったのは、なんと、一平である。典型的な俺様キャラである修吾が、ポジションを追われた事で、チーム内が俄かにざわついた。粗暴な修吾が、一平と一悶着起こすのではと、懸念されたのであった。然し、修吾は大人しかった。傍から見れば、当然、納得づくとは思われぬのであるが、修吾は不気味な程、物静かに振舞っていた。勿論、ド素人である正太郎の私見ではあるが、修吾と一平を比較した時、何方がCFに向いているかと考えると、其れは明らかに修吾の方なのである。確かに、足技や速力は一平に一日の長がある。然し、あの、当り負けしない体幹と謂い、高い身体能力と謂い、洗練されたヘディング技術と謂い、何の外連味も衒いも無く一直線にゴールへ向うあの突進力と謂い、何が何でも点を取ると謂う、あの胆力と謂い、CFとしての資質は修吾の方に分があるだろう。抑々、一平は典型的なWG型のFWである。縦横無尽にサイドを切り裂き、CFにラストパスを供給するのが最大の持ち味である。事実、長らく、修吾と一平のコンビで、前線を張って来たのである。恐らくは、監督が、修吾にFW以上にDFの適正を見出し、手薄なDFの人材育成の為にコンバートしたのであろう。斯うして、正太郎と同じポジションに修吾が来てくれた事で、正太郎と修吾の間はますます深まって行ったのであった。修吾は、実に良く練習をした。練習が終わってからも練習をした。日も暮れ、学校を追い出されると、修吾の自宅前の資材置き場、所謂、空き地でボールを蹴った。其の時の相手が正太郎であった。修吾は、其れ迄の粗暴な振る舞いが災いして、練習が終わってからなお、修吾に付き合おうと謂う奇特な友達は、正太郎しかいなかった。正太郎は一度、修吾に尋ねてみた事がある。噂どおりに、一平をやっつけるつもりかと。其れに対して、修吾は如何にも驚いた風で目を丸くすると、斯う答えた。
「そんなバカするかよ。野郎をぶちのめしたら、FWに戻れるならいざ知らず…。いや、戻れてもやらねえな。だって、俺、彼奴の事が好きだからな」
「好き?」
「おっとっと、妙な誤解をするなよ。そう謂う意味じゃあ、ねえ」
「そりゃ、判ってる。お前の好きなのは、ヤス…」
「喧しい!」
ゴンッ。
顔を赤らめた乱暴者の鉄拳が、正太の頭上に振り下ろされた。
「…たく、もう」
「あいたたた」
「そうじゃあねえ。俺は彼奴の華麗なサッカーが好きなんだ」
「華麗なサッカー?」
正太郎は訝しんだ表情で、そう反芻する。
「ああ」
修吾が肯く。下手糞な正太郎からすれば、六助や一平だけでは無く、修吾のサッカーも充分に華麗である。何しろ、県代表なのである。だが、そんな修吾から見ても、矢張り、六助や一平は別格だと謂う。正太郎から見れば神々の如く思われるそんな彼らの間にも、斯様な軒輊があろうとは、思われ無かったのだ。
「今の俺は、彼奴らに、到底、及ば無い。だけど、いつかは辿り着きたい。そう、思っているんだ」
「そんなに、思うのなら、一緒に練習しようと誘ってみたら、如何なんだ。俺みたいな下手糞相手にする練習より、得る物も多いだろ」
修吾は悲しげに肩を竦めると、斯う謂った。
「俺は、本気になった彼奴らを、見てみたいんだよ。彼奴らとボールを蹴ると判るんだ。勿論、手を抜いている訳じゃあねえが、彼奴ら、一段も二段も降りて来て、俺の相手をしてくれて居る。そう思うと、やっぱりな…。彼奴ら、良く謂ってるだろ。『人前でするのは、練習じゃあねえ』って」
正太郎は其の時、成程と、思った。此の言葉、プロ野球選手である、落合博満が口にしたと謂われる。彼は卓越した野球センスの持ち主ではあったが、其れ以上に練習の鬼でもあった。そんな彼が、集中力の削がれる他人との練習を嫌い、一人での練習を好んだのは、有名な話である。謂われて見れば、イチローにも、其の様な逸話が有ったと伝う。未だ、小学生ではあったが、六助や一平にも其の様な処が確かにあった。正太郎はふと思った。確かに、天才肌の此の二人であったが、何よりも、天才的なのは、努力を惜しまず、其れに没頭出来る事ではないかと。努力し続ける事が、其れ自体、最大の才能なのだ。其れこそが、屹度、天賦の才能、即ち、天才と謂う奴の正体なのであろう。だが、然し、一方で、六助や一平にも相手がほしい時は、ある。そう、そんな時でも、彼らは、一年中、夜明け前から練習をしているのである。朝の早い正太郎は、自宅の前の広闊な空き地で、一人でボールを蹴っている六助の姿を目撃した事が、何度かある。
「一緒に蹴らないか? 俺にも教えてくれよ」
正太郎が声を掛けた事もあった。そんな時、六助は、決って含羞んだ様な笑顔を浮かべ乍ら、相手をしてくれるのであった。屹度、修吾が正太郎を練習に誘う時も、同じ様な心理であったのかもしれない。
結局、正太郎は、3年間で公式戦の出場は一度も無かった。インステップキックすらまともに蹴れない正太郎に、お呼びの声が掛かる筈も無く、出る幕など無かった。二の丸小学校のサッカーチームは部員が50名程いるのだ。人数にして4チーム以上の人数である。普通に考えれば、此れは宜なる話では、あった。
でも、悔しかった…。
最後の公式戦が終わった後、正太郎は、スタンドで皆とは、やや離れて、遅い弁当を食べていた。何故だか、一人で居たかった。随分と小ぶりの弁当である。母が正太郎の活躍を祈念し、彼の為に、早起きして一生懸命作ってくれたものである。白いご飯と、黄色い卵焼きで見立てた砂浜。赤いウインナーで作られた蛸。菠薐草の海草。人参の海星。其の綺麗に彩られた弁当は、正太郎の視界の中で、見る見る内に暈けて行った。何故か、涙が止まらなかった。其れを見た下級生のチームメイトたちが、面白がって頻りに囃し立てる。
「下手糞正太のぼっち飯」
子供と謂うものは、実に残酷である。悔しくも悲しい、一人ぼっちの涙午餉。其れでも、涙は止まらなかった。人前で、唇を噛み締め乍ら、顔中くしゃくしゃにして、ぼろぼろと涙を零す正太郎。頓て、其れを見かねた修吾が、正太郎を嘲笑うチームメイトたちに一人づつ、鉄拳制裁を加えだした。中には、修吾の打擲を受け、泣き出す子供達もいたが、其れでも、修吾は容赦をしなかった。如何やら、正太郎の涙とは重さが違うと謂う事らしい。正太郎の涙は止まる事はなかった。正太郎の悔しくも哀しい、最後の公式戦の想い出なのである。
扨、正太郎が小学校6年生の2月の事である。其の日、正太郎の代の、最後の活動として、紅白戦が組まれた。30分の試合を4本。監督は、全てのメンバーを出場させる心算で、選手を目まぐるしく交代させて行った。そんな中、矢張り、正太郎には出番が無かった。だが、4本目の試合の先発に正太郎が出場した。正太郎は紅組。ポジションはDFであった。正太郎にしてみれば、生涯初の試合である。紅組には六助がいたものの、全体の戦力比は、やや、白組に分があった。白組は、一平、修吾に加えて、一級下の、ヨシキやリュウジといった、現チームでも、既に先発組のメンバーが名を連ねている。白組は終始押し気味に試合を進めていた。正太郎は左サイドバックでの出場であったが、一級下のヨシキには、再三、突破されていた。意地の悪い事に、ヨシキは、態々、正太郎の股を抜くのだ。ヨシキは修吾たちに並ぶ実力者であり、ポジションはMFである。彼は其の華麗な技術で、正太郎の接近を待ち、股抜きを敢行するのである。点差も開始10分で0―2と開いており、其れさえも、何とか六助の活躍で其の点差に収まっている状態であり、六助がいなければ、最早、試合にならなかった状態なのである。斯様な状況であった為、勢い、試合は紅組陣内で展開される事となったのである。
扨、試合も残り3分。点差は0―5と大差がついた状況であったのだが、正太郎は未だ試合に出場していた。例に因って、ボールを保持していたのはヨシキである。彼は懲りもせず、正太郎の股抜きを狙って来た。
パシッ。
乾いた音と伴に、正太郎は股抜きを阻んだ。ヨシキが股抜きに来る事を予見した正太郎の踵と地面の間にボールが引っ掛かった。ヨシキは俄かに顔色を変える。格下と目されていた正太郎に、股抜きを阻止された事が、彼の自尊心を甚く傷つけたのであろう。彼は猛然と正太郎に向けて突進して来た。下手糞な正太郎の事である。斯うして、圧力を掛ければ、直に、ボールを失う可能性が極めて高い。事実、正太郎は、聊か途方に暮れていた。ボールを奪ったはいいが、自分には其れを保持する技術は無い。周辺にも紅組はいない。後方に固まっているのみなのである。正太郎は右足で軽くボールに触る。と、同時にヨシキが猛然とスライディングを敢行して来た。ボール保持者の、最初のボールタッチ直後を狙う。此れは鉄則である。ヨシキの選択も、然程、悪くは無かった。
パパン。
然し、正太郎は右足で軽く叩いたボールを、左インサイドで透かさず、前方へ蹴りだした。決して、深い考えがあっての事では無い。周りが見えていた訳でも無い。無我夢中の所業である。右足で叩いたボールをすかさず左足で蹴る。此れは、修吾から伝授された、極、初心者向けの技術であった。然し、正太郎の蹴ったボールは、奇しくも、猛然と迫り来るヨシキの股を抜く。更に、正太郎と其のボールの延長上には、六助が居た。彼は、懸命に正太郎が繋いだボールを受けると、ひらりひらり、瞬く間に2人を交わし、俄然、加速すると、敵陣に向って疾走を開始した。正太郎も、ボールを出して終わりでは無かった。監督から教わったとおりに、猛然と敵陣に向って全力疾走を始めたのだ。紅組の他の子供達も、四方や、下手糞の正太郎が、ヨシキのボールを奪取するばかりか、彼を交わしてパス出しするとは夢にも思わなかったので、一瞬、傍観者となってしまった。然し、次の瞬間、全員、白組陣に向って駆け出したのだ。所謂、キック&ラッシュのカウンターである。此れが紅組の唯一のカウンターとなった。ボール保持者である、六助に対して、白組守備陣が殺到する。然し、六助は慌てた風も無く、左へ、右へ、踊る様に、歌う様に、ドリブルスピードを殺さず、軽く往なして行く。味方にすれば、此れほど頼もしい男はいないだろう。だが、白組も一筋縄ではいかない。多少、引き気味に守っていたFWの一平。DFのリュウジ、そして、CBの修吾が天聳る泰山の如くに、白組ゴール前に立ちはだかる。守備の要である修吾が叫ぶ。
「一平、左のコースを切れ! リュウジ。お前は右だ。正太とのコースを切れ! 俺と一平で、六を仕留める!」
其の言葉の通りに、一平がパスコースを切り乍ら、六助の右前方から迫ってくる。そして、修吾が小山の様な体格で、六助とゴールとの間に立ちはだかり、シュートコースを消し乍ら、やや後ずさりしつつも、徐々に、六助との間合いを詰めて来る。矢張り此の男、知性とは無縁な風であっても、サッカーIQは中々に高い。2対1と謂う数的不利を常に強いてくる。六助の前にはドリブルをする空間は略無い。だが、六助は保持中は勿論の事、ドリブルの最中で有っても、常に、自身が制御出来る処にボールを置く。彼は、本来は右利きである。然し、左右同等の性能を発揮出来る。そして、此処でリュウジが少し遅れた。六助は兎も角、攻撃側の今一人は、下手糞の正太郎なのである。正太郎の後方から、先程抜かれたヨシキが鬼の形相で迫って来ている。其の驕りが、リュウジの動きを、僅かばかりに緩慢にさせた。そして、六助が此の隙を見逃す筈が無かった。
パシィ。
六助が極軽く、利き足とは逆の左足でボールを叩く。丁度、リュウジとヨシキの狭い間。俗に謂う、門と謂う奴である。軽く叩いた様に見えたボールではあるが、ギューンと唸りを上げると、地を這う様な球勢から、グンと浮き上がり、右へ、即ち、ゴール方向へ、そして、正太郎の右後方45度から、正太郎の頭上を越え、前方へ抜けて行った。だが、此処で不思議な事が起きた。件のボールであるが、俄かにフラフラと失速すると、急にお辞儀を始め、正太郎の前方3m程の処へふわりと落下したのであった。宛ら、大型の鷙鳥が優雅に翼を広げふわりと着地した様な趣があった。だが、此れは、修吾、一平、ヨシキ、リュウジ、其の場にいる全員が予見出来ていた事でもあった。六助の置きに行くパス。所謂、ベルベッドパスである。リュウジは思った。初動で出遅れはしたが、何と謂っても、パスの受け手が下手糞な正太郎なのである。右後方から来る難易度の高い浮き球を、難なくトラップ出来る物とも思われぬ。トラップにもたついている間に、クリヤーすれば良い。然し乍ら、六助のパスは実に受け手に優しいパスである。彼は球に、強烈な逆回転を掛けている。斯様なロングボールであっても、ボールが地面に落ちた時ですら、地面に吸い付く様にピタリと止まり、バウンドすらしないと迄謂われていた。事実、此の時もバウンドする事は無かった。と、謂うよりも、ボールが地面に落ちる事は無かったのである。
パシィッ。
と謂う、妙に軽い音と伴に、正太郎の右足の甲が、吸い込まれる様に、完璧なタイミングで、空中にあるボールを捉えたのである。今迄、何度練習しても、まともに蹴れなかったインステップキック。確かに、インステップキックは、プレースキックよりも浮き球の方が、容易であると謂われてはいる。然し、あの正太郎が、後方からの浮き球を、ノートラップで捌くとは、誰も思いも因らなかったのである。
果然、正太郎の放ったボレーシュートは、次の瞬間に、ゴール右上隅天井に突き刺さり、ゴール内で大きくバウンドしていた。キーパーは一歩も動けなかった。スタンドで見ていた祐子に因れば、ライナー性の弾道で、ズドンと謂う感じであったと謂う。蹴った正太郎自身が、自身が目を疑った程である。何よりも蹴った感触がまるで無かった。然し、サッカーに携る人間であれば、凡そ、一度は決めてみたいゴールであった。当然、沸き立つ紅組陣営。だが、敵である筈の修吾が真っ先に近づいて来た。彼は豪放磊落に、ガハハと笑うと、バシンと正太郎の肩を叩き、斯う謂い放った。
「やったな、正太。ナイスシュートだ」
彼は親友である正太郎のゴールを、我が事の様に喜んだ。と、同時にヨシキとリュウジに向って、説教を垂れ始めた。
「お前ら、抑々、人を舐めすぎだ。此奴が、毎日どれだけ、練習していたのか、見てなかったのか? 『点滴、人を穿つ』と、謂うだろ」
多少の照れ隠しもある正太郎が、透かさず、修吾の誤謬を指摘する。
「点滴が人を穿って如何する? 其れを謂うなら、『涓滴岩を穿つ』、だろ」
「喧しい!」
正太郎の頭上に、真っ赤になった修吾の鉄拳が炸裂する。相変わらず、蒙昧な乱暴者ではある。だが、実に、男気溢れる乱暴者でもあった。更に此の乱暴者は続ける。
「兎に角、人を余り舐めるな! 此奴だって、3年間休まずに練習を続けて来たんだ。抑々、侮るべきでは無いんだ!」
と、何処かで聞いた事のある様な台詞を口にする。意外と、冷静でクールだったのは、六助である。正太郎は、試合終了後に六助に聞いてみたのだ。
「何故、俺にパスを出した? お前が打った方が、確実だっただろうに…」
六助は、頗る怪訝そうな顔をすると、
「確実? 俺は一番確実な手段を選んだ心算なんだがな。何しろ、此方は、修吾と一平にマークされてんだ。そうそう、簡単にシュートなんか、打たせてもらえるもんか。すぐ、目の前にフリーで走り込んでいる奴がいるんだ。司令塔として、当然の選択だろ。まあ、ノートラップで決めに来るとは思わなかったけどな。あれだけ、強烈な逆回転を掛けたんだ。結構、蹴りにくかったろ?」
斯くして正太郎最後の紅白戦は1―5のスコアで、幕を閉じたのである。恐らくは、正太郎のサッカー人生に於いて、最初で最後の得点の思い出と伴に。
「何だって? 中学ではサッカーをやらないって謂う心算か?」
「ああ、悪いな。でも、いろいろ、教えてくれて有難う。本当に楽しかったよ」
「馬鹿野郎。楽しくなるのは、此れからだろうがよ。なあ、正太。続けようぜ。一緒に中学でもブイブイ謂わそうぜ」
「本当にすまない。修吾。だけど、中学では、如何してもやりたい事があるんだ」
修吾は正太郎の顔を、ギョロリと、睥睨する。正太郎の其の顔には、一歩も引かないぞと謂う決意が滲み出ていた。
(そうだ、此の顔だ。以前、此奴が此の顔をした時には、俺様相手にも、一歩も引かなかった)
修吾は思う。元来、正太郎はボールを蹴るよりも、本を読んでいる方が似合う男だ。屹度、中学にあがったら、今迄、出来なかった読書を存分にやりたいのだろうな。修吾はそう思うと、正太郎を引き止める事を、渋々、断念した。だが、此の時の修吾の勝手な思い込みが、隣家の喧嘩友達であるヤスベエに伝わり、其れが、頓ては、祐子へと伝播して行く事となるのである。此の物語の冒頭。第1話で祐子に齎された誤情報は、斯うして創生されて行ったのである。
愈々、佳境に入って来た甲州旅行記。あちこちで楽しんできた一同ではあるが、矢張り、ドタバタが無ければ、赤燈台物語ではない。戻って来て、早々に、宿で一悶着が発生する。次回、『第41話 私もあるよ!(石和温泉旅行編【5/6】)』




