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第39話 アナーニ事件とヴァレンヌ逃亡事件(石和温泉旅行編【3/6】)

 買い物から帰った後、早速(さっそく)、待望の温泉へ行った。いずなの(ひとみ)は、脱衣所の段階でお星様状態である。みんな浴場に入って驚いた。本当に風呂(ふろ)種類(しゅるい)が多いのである。温水プール、檜風呂(ひのきぶろ)、ジャグジー、ワイン風呂(ふろ)、高温サウナ、低温サウナ、塩サウナ、水風呂(みずぶろ)寝風呂(ねぶろ)岩盤浴(がんばんよく)、ミルキー風呂(ふろ)、屋外に行って、薬草風呂(やくそうぶろ)釜風呂(かまぶろ)炭酸風呂(たんさんぶろ)露天風呂(ろてんぶろ)。ありとあらゆる風呂(ふろ)があった。

「ムッキー♪。ゆうちん、みうみう。どれから、入る? どれから、入る?」

「とりあえず、ワイン風呂(ぶろ)に」

 馥郁(ふくいく)たるワインの甘い芳香(ほうこう)が優しく鼻腔(びくう)(くすぐ)る。(あおい)が深呼吸をし(なが)()った。みうみうも、子供の様に(はしゃ)ぐ。

「うっきー。ふわあ、葡萄(ぶどう)のお風呂(ふろ)だぁ」

「すごく、甘い、()い香りだね」

「本当だ」

 凛子もうっとりし(なが)()った。一行(いっこう)背丈(せたけ)ほどの大ジャグジーのあと温水プールに移ると、祐子がゆり姉に話しかけた。

小百合(さゆり)さん。私達の高校の先輩って聞きましたけど…」

「そうだよ。今年の3月に卒業。丁度(ちょうど)、あなた達と入れ違い」

「一橋って事は、文系だったんですか?」

「ううん。私は特進科。()れこそ、岡村君のお兄さんと同級生だったわよ。でも、失敗しちゃったなあ。普通科にすればよかった。女の子は数人しかいないし…」

 祐子は、現役で一橋大学に合格しているから、当然(とうぜん)、成績は上位の方だとは思っていたが、特進科だとは思わなかった。

「あっ、でも、確か、()の中に特進科の子いたよね?」

 ()の、問いにひろみが答えた。

「はい、明彦です。()の、凛子の彼氏(カレシ)

「ちょっと、ひろみ」

 凛子が、赤くなり(なが)(たしな)めた。ゆり姉が続けた。

「でも、敬介に聞いたけど、みんな、かなり、成績が良いって」

 ()の問いにも、ひろみが答えた。

「そうですね。私が答えるのが、一番、角が立たないように思うので、私が答えますけど、多分(たぶん)、一番出来(でき)るのは、祐子といずなですね。二人とも、大体(だいたい)、10番乃至(ないし)20番。時々、一桁。次が高志と明彦かな。大体(だいたい)、30番乃至(ないし)50番。()の次が凛子。50番前後。そして、(あおい)。70番前後。で、私。80番乃至(ないし)100番。で、()の次が正太。そして、みうみう、敬介。()の三人は、ムラがありすぎるんです。花道すれすれの時もあれば、120番くらいの時も有る。特に、正太は得意な教科はマニアックな(まで)に、いろんな事を知ってます。学校祭のクイズ大会も優勝したし…。で、サッカー部コンビは花道も後ろの方、だけど、彼奴(あいつ)ら、サッカーに関しては、全国区の様ですし…」

「ありがとう。大変(たいへん)、分かりやすい説明だったわ。ところで、祐子ちゃんといずなちゃんは、特進科を考えなかったの? 当然(とうぜん)、中学校側は推薦(すいせん)しようとした(はず)だけど…」

 祐子が、もじもじし(なが)()った。

「私は、正ちゃんが普通科志望だったから…」

 祐子はそう()うと、ぶくぶくぶくっと、温水プールの中に顔を沈めてしまった。明らかに照れている。()の後をいずなが引き継いだ。

「つまり、ゆうちんは普通科を選んで、7分の1の当り(クジ)を命中させた(わけ)です。いずなは、中学校時代は(みんな)から、浮いていて、苦しんでいましたから、特進科はちょっと自信がありませんでした。()れに、ゆうちんもいずなも、ちょっと、人に()えない特殊な能力があったんです」

「へえ、どんな?」

「超記憶力。と()うか、忘れられない能力。自分で()うのもなんですけど、多分(たぶん)、サヴァンと呼ばれるような能力だと思います。いずなは、開き直って、隠そうとしなかったけど、ゆうちんは、徹底(てってい)して隠してたもんね。相手が正ちんだから、分かる気がするけど…」

 ひろみが相槌(あいづち)を打った。

「そういえば、発覚して、ちょっとした危機を迎えたのって、まだ、今月の初めの事だったよね」

「うん。もう、終わりだと思った」

 祐子が当時を思い出して、身震(みぶる)いする。

「でも、ゆうちん達、今の方が、より、仲良しさんに見えるよ」

 ゆり姉が(うなず)いた。

「そんなもんだよ。危機を乗り越える(たび)強靭(きょうじん)になっていくものなのよ。友情と同じよね。(もっと)も、私は、恋した事もないけどね」

「そうなんですか? ゆり姉、綺麗(きれい)なのに」

「まあ、相手もいなかったし…」

「でも、一平君がゆり姉に一目惚れしたって、先刻(さっき)、六助君から」

「ああ、()きに車に乗ってきた、よく(しゃべ)面白(おもしろ)い子?」

 ひろみが(たず)ねた。

()れ、六助じゃなくて?」

「ううん。一平君なの。私、驚いちゃって」

 いずな、ひろみ、凛子の目が点になっている。ひろみがゆり姉に()った。

「あの…、彼、とんでもない無口で、クラスでも、声を聞いた事が無い人が、いると思います。()れ位、無口なんです」

「そうなの? 彼、サッカー部のエースなんでしょ。なんか、光栄ね。でも、彼の冗談(じょうだん)じゃないの?」

「でも、一平君。付き合い長いけど、冗談(じょうだん)自体(じたい)()ったのを聞いた事がないですよ。…かなり、天然ではあるけど…」

「そうなの? 祐子ちゃんが、彼とは一番付き合いが長いの?」

「はい。小学校からの付き合いです。特に、中学になって、良く勉強を聞きに来て…。彼、多分(たぶん)、六助君以上に、学力的に()の学校は厳しかったと思うんです。勿論(もちろん)、サッカーでの誘いはあったとは思うんですけど。でも、2年の2学期くらいに、突然(とつぜん)、清水高校を受験するって()い出して…。だから、私とか、正ちゃんに良く勉強を聞きに来ていたんです」

「そうなんだ」

「でも、なんで、うちの高校にきたんだろ? プロからの誘いもあったって、(うわさ)が有ったのに…。六助君もだけど…」

 話題が切れた(ところ)で、いずなが()った。

「ねえ、ゆうちん。そろそろ、サウナデビューしようよ」

「うん。(あおい)ちゃんは? 中のテレビでアニメやっているみたいなの」

「本当? じゃあ、私も行くよ」

「凛子、私たちは、岩盤浴(がんばんよく)行かない? ゆり姉は?」

「いいわね、私も行くわ」


 正太郎は温水プールで、顔を上に向けて、ゆらりゆらりと水母(クラゲ)のように(ただよ)っていた。が、どぶん、どぶんと、誰かが飛び込んできた。顔に大量に水が降り注いだ。高志と明彦である。

「わっ、手前(てめえ)らか? 此処(ここ)に、『湯の中飛び込むべからず』って、書いてあるだろうが?」

「へっ、正太め。今度は漱石で(たばか)ろうってんだな。誰が、()の手に乗るか」

「いや、高志、本当みたいだぞ。何か此処(ここ)に、書いてある」

「あっ、本当だ」

()れで、見つかったのか? 『銀河鉄道の夜』は?」

「ああ、でも、1冊しかなくてよ。結局(けっきょく)、じゃんけんで(おれ)が勝って、(おれ)が買った。敬介はオーヘンリーを買ったがな」

「オーヘンリーを…? 何でだ?」

 正太郎が首を(かし)げる。

「おめーらが、オーヘンリーもネタにぶっこんで来たじゃねーか」

「そーいや、そーだっけな。でも、(おれ)じゃないぞ。ネタにぶっこんだのは、いずなだ」

「おかげで、(うるさ)くてよー。敬介と明彦、本屋へ行く途次(みちすがら)、ずっと、誰の作品だって、聞きっぱなしだったぞ。明彦は凛子に釣堀(バーボンハウス)に飛ばされたのが、余程(よほど)(くや)しかったらしくてよ。もう、泣きそうだったぞ」

(やかま)しい」

 明彦がふてる。正太郎がニヤニヤし(なが)ら、()った。

「ところでさあ、良く考えれば、わざわざ、本屋に行かなくても、青空文庫あたりにあるんじゃないのか? 宮沢賢治なら」

()れな、(おれ)も本屋からの帰りに気がついたんだが、青空にあるんじゃないかってな。そうしたら、やっぱりありやんの。(まった)く、とんだ(ひま)つぶしだったぜ。()の寒空の下、往復30分もな。ところで、でこぼこコンビは?」

「ああ、彼奴(あいつ)らなら、露天風呂(ろてんぶろ)へ行ってるぞ。一体(いったい)如何(どう)したんだ?」

「おお、彼奴(あいつ)らも、ぶっちめないとな。いずなと口裏(くちうら)を合わせて、人を()めてくれたからな」

「わー、待て待て。彼奴(あいつ)ら、()で答えていたぞ。お前も学校祭のクイズ大会見てただろ。大体(だいたい)一平(イチ)(ロク)が、口裏(くちうら)合わせるような器用(きよう)さが、あると思うのか? 彼奴(あいつ)らが器用(きよう)なのは、サッカーの時だけだぞ」

「マジか?」

「ああ、大マジだ。ところで、敬介は?」

彼奴(あいつ)なら、サウナだ」

 其処(そこ)へ、茹蛸(ゆでだこ)のように()()になった敬介が飛び込んで来た。高志の顔に、大きくはねが掛かった。

「ぷはっ、こら、敬介。飛び込むなって書いてあるだろうが」

「おおっ、悪りい。いやー、気持ちいいわ、サウナ。病み付きになりそうだ。いやー、いずなちゃんと、一緒(いっしょ)に入りたかったな」

 高志がニヤニヤし(なが)ら、()った。

「なんだ、Hな(やつ)だな。胸でも触るつもりか? ぺちゃんこだぞ、彼奴(あいつ)

「ば、ば、馬鹿(バカ)野郎(やろう)(おれ)は、変な下心無しでだな…」

「嘘、つけ」

 わいわい、()り合う二人のやり取りを聞き(なが)ら、正太郎は思った。若干(じゃっかん)、敬介の気持ちは分かるような気がした。正太郎も、下心無しに、祐子と一緒(いっしょ)に入りたいと思っていた。恐らく、からかった高志も、似たような思いだったのかもしれない。

(おれ)、ちょっと、露天風呂(ろてんぶろ)の方に行ってくるよ」

「待てよ、(おれ)も行くよ」

 高志も付いて来た。露天風呂(ろてんぶろ)は、露天風呂(ろてんぶろ)以外にも、薬草風呂(やくそうぶろ)釜風呂(かまぶろ)炭酸風呂(たんさんぶろ)があった。師走(しわす)(こお)る様な風に、ちょっと熱めの湯温はとても心地(ここち)よかった。でこぼこコンビは、横の籐椅子(とういす)に寝そべっていた。六助は呑気(のんき)にも、鼻歌を歌っている。高志は薬草風呂(やくそうぶろ)の中から声を掛けた。

「おう、お前ら、良く寒く無いな」

「おっ、高志か。やっぱり、いいな。温泉は。っていうか、オフはいいな。お前らと、つるんで正解だったぜ。なあ、一平」

「…ああ。気持ち良い。ところで、明日、小百合(さゆり)さん何処(どこ)か行くのかなあ。(おれ)も連れてってくれないかなあ」

 高志が正太郎に耳打ちした。

「…如何(どう)したんだ? のっぽ君。異様に(しゃべ)っているんだが…。風呂(ふろ)にのぼせたのか? ()れとも、何か、変なきのこでも食ったのか?」

「…惚れたんだとさ、ゆり姉に」

 高志が眉間(みけん)(しわ)を寄せた。

「マジか? (おれ)の兄貴の同級生だぞ? 3つも年上だぞ?」

「関係ねーだろ。そんなの」

 正太郎が、湯船の中でお湯をかき混ぜ(なが)ら、(おだ)やかに()った。高志が表情を(やわ)らげた。優しい顔つきになって()った。

「…そうだな」

 流石(さすが)に体が冷えてきたのだろう、一平と六助が薬草風呂(やくそうぶろ)に入ってきた。すると、一平が(おもむろ)()った。

「正太、高志。ありがとうな。素敵(すてき)な人と出会えた。最高のオフだ」

「…おお。まあ、がんばれよ」


 一方、女湯の方では、祐子、いずな、(あおい)、三人が、(ほぼ)、同時に高温サウナから飛び出し、いずなは水風呂(みずぶろ)に、祐子、(あおい)は温水プールへ飛び込んだ。祐子は(あおい)()った。

「ぷはあっ、もう少しで、アニメの終わりだったんだけど、我慢(がまん)出来(でき)なかったね」

 彼女たちは、サウナ内のテレビで、アニメを見ていたのだが、熱さ(ゆえ)に最後まで見ていられなかったのである。

「うん。すごく熱くて、限界だった。でも、とても、気持ちいいね」

 其処(そこ)へ、いずなが飛び込んで来た。

「ウッキー、気持ち良い。いずな、サウナ気に入っちゃったよ。やっぱり、一日3回は入りたいね」

「本当だね。ところで、いずなちゃん、(あおい)ちゃん、明日は如何(どう)する?」

如何(どう)しようかなあ。いずな、ケースケと一日中、部屋でゲームでもして、ゴロゴロしてても良いよ。()れで、時々お風呂(ふろ)に入るの。(あおい)っちは?」

「私、みんなが行った、県立科学館って行って見たいな。あとから、六助君を誘ってみようと思っているの。みうみうは?」

「みうみうはお買い物に行きたいなあ。祐ちんは如何(どう)するの?」

「うーん。私は…」

「正ちんの行く所なら、何処(どこ)へでも。だよね。ゆうちん」

「…もう、いずなちゃんの意地悪(いじわる)。でも、みんなは如何(どう)するんだろ?」

小百合(さゆり)さんは、朝から、車で回りたいって、()ってたよ」

「ねえ、ゆうちん。一平の(やつ)、本気なのかなあ」

 祐子が、昔を思い出し(なが)()った。

多分(たぶん)、本気だと思うよ。一平君、そう()冗談(じょうだん)()わない子だったもん」

彼奴(あいつ)、もてたの?」

「うん、すごく。一平君はマスクはいいし…。無口だけど。あのサッカー部の3人は、()(かく)、もてたよ」

「3人?」

「あっ、ゴメン。もう一人は梅高に行った、康代ちゃんちのお隣さんの岩井修吾君。3人とも正ちゃんとすごく仲が良くて…。六ちゃんと一平君と修ちゃんは、県代表だったの。女の子達の人気の的だったよ。でも、3人とも浮いた話は無かったな。サッカー一筋って感じで…」

 祐子が遠い目をし(なが)ら語るのを聞いていた(あおい)は思った。遠足の時に六助が()っていた(ひそ)かな想いを。六助が3年間守り続けていた(ほの)かな想いを暴露(ばくろ)する様な、無粋(ぶすい)真似(まね)をする気は毛頭(もうとう)無かったが、ちょっと、祐子が(うらや)ましくもあった。多少(たしょう)の好奇心も手伝い、祐子に(たず)ねてみた。

「祐子ちゃんは、()の3人の中では誰が一番好きなの?」

「えっ、私? 私はみんな好きだよ。みんな、優しくて、一生懸命(いっしょうけんめい)で…。()れに、私。…好きな人いたし」

「はいはい、ごちそうさま」

 いずなが、八重歯(やえば)(きら)めかせて、囃子(はやし)たてた。

「3人とも、バレンタインの時なんか、すごかったよ。50個位貰ってたよ」

「ねえねえ、ゆうちんは正ちんに渡したの?チョコレート」

「ううん。渡せなかった。小5の時からだから、5回分。いつも、おうちに持って帰って、泣き(なが)ら自分で食べてたよ」

「えーっ」

 祐子は回想した。特に今年は、風の(うわさ)で正太郎に彼女が出来(でき)た事を聞いていたので、泣き(じゃく)(なが)ら食べた事を思い出した。

「でも、来年は、堂々と渡せるね。祐子ちゃん」

 祐子の顔が、晴れ晴れとした顔になり(うなず)いた。

「うん。…あのね、来年はチョコレート以外に準備しているの。今、編んでいるの」

「えっ。何を」

「…マフラー。()の前の危機の翌日から、編み始めたの。記憶に残るもの、贈りたくなって…」

「いいなあ。ゆうちんは、技術があるもんね。いずな、女子力低いからなあ…。(あおい)っちは、()のメンバーの中では、好みの人、いる?」

「えーっ、でも、みんな、彼女いるし…」

「いいから、いいから、誰なの?」

「うーん。高志君か、六助君かな。あと、祐子ちゃんといずなちゃんには悪いけど、敬介君と正太君も好きだよ」

「なんで?」

「みんな、すごく明るいもの。私に無いものいっぱい持ってるよ。高志君と六助君は陽気なところが素敵(すてき)だし、敬介君は無邪気(むじゃき)な小学生みたいなところが母性本能を(くすぐ)るし、正太君は隠君子(いんくんし)見たいな独特な雰囲気(ふんいき)を持ていて、かっこいいな」

「じゃあ、明日は取り()えず、六だね。がんばってね」

「うーん。チョコ50個の人だからなあ。難易度(ハードル)高いなあ」

 其処(そこ)へ、凛子がみんなを呼びに来た。

「おーい。みんな。露天風呂(ろてんぶろ)行かない?」

「わあ、いくいく」

 祐子はみうみうに水を向けた。

「みうみうちゃんは?」

「うん。みうみうも行くよ」

 ()の一連の会話。実の(ところ)、祐子はみうみうの意中の人の事について、聞いた心算(つもり)であったのだが、みうみうは、そんな祐子の気持ちを知ってか知らずか、実にさらりとかわしたのであった。だが、(のち)になってみれば、みうみうは自身の気持ちを、物の見事に韜晦(とうかい)していた事が、判明するのである。


 冷たい外気に混じって、(ただよ)ってくる温泉の湯煙は、水の香りを含んだ、えも()われない香りである。()の上、薬草風呂(やくそうぶろ)から漢方薬のような香りが(ただよ)ってくる。祐子がゆり姉に声を掛けた。

小百合(さゆり)さんは、明日は如何(どう)するんですか? 車で回るって聞きましたけど…」

「うん、明日は車で回るつもり。勝沼、恵林寺(えりんじ)躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)、山梨県立博物館。()(あた)りかな。みんなは如何(どう)するのかな?」

 凛子がお湯を(すく)って顔に(ひた)(なが)()った。

「私は明彦と山梨県立博物館に。此処(ここ)の、近所らしいですし。あと、山梨県立美術館も。ひろみは?」

「うーん。高志次第(しだい)かな…」

 祐子がゆり姉に()った。

「あの、()だ正ちゃんと相談してないんですけど、良かったら、私たちもご一緒(いっしょ)させていただいても、よろしいですか? …()の、一平君にはちょっと申し(わけ)ないんですが…」

「でも、ゆうちん。何で?」

「えっ、正ちゃんが行きたいって()った所が入っていたから…」

 ゆり姉もホッとし(なが)()った。

()れは、ありがたいよ。祐子ちゃん。恋愛経験0のお姉さんに、サッカー部のエース君が相手だと、ハードルが高過ぎるわよ。お風呂(ふろ)から出たら、正太郎君に確認しておいてね」

 祐子がニコニコし(なが)ら答えた。

「分かりました。早速(さっそく)、正ちゃんに聞きますね」


 男子勢は、ガヤガヤし(なが)ら、部屋に戻ってきた。部屋には布団(ふとん)が6組敷いてあった。高志がみんなの顔色を(うかが)(なが)ら、こそこそっと()った。

「なあ、(おれ)、真ん中の布団(ふとん)でいいかな?」

 明彦と敬介、正太郎がニヤニヤし(なが)()った。

「はいはい」

 ()れを見ていた、六助と一平が(たず)ねた。

如何(どう)したんだよ? 彼奴(あいつ)?」

「怖いんだと。部屋の(はし)っこが…」

 二人はぷっと吹き出した。

「マジか?」

「どははははー」

「やかましい。()のでこぼこ赤点コンビが。(おれ)は、ただ、死んだばあちゃんの遺言に従ってだな…」

「なんだとお。高志」

 わいわい、やっているところに、女子勢が入ってきた。ひろみが(さわ)ぎに首を突っ込む。

「あーっ、また、(さわ)いでいる。今度は何なのよ?」

「いや、高志がよー。寝る場所が部屋の真ん中じゃないと、怖いんだと…」

 女性陣がぷっと吹き出して、いずなが()う。

「ムッキー、かーわーいいー」

「本当。母性本能が(くすぐ)られちゃうわね。かわいいわね、高志君。お姉さんが可愛がって、あ、げ、る」

「やかましい、()貧乳(ひんにゅう)コンビが…。何がお姉さんだ。おっぱい小さい(くせ)生意気(なまいき)な…。ぐはあっ」

「乙女に向かって、なんてこと()うのよ。()の、ぼけなす」

「むっきーっ、ひろみっち。もう一発。ナスに、もう一発」

 (あおい)が、(ひじ)撃ちを食らって(うずくま)る高志をじっと見ていて()った。

「…すごい。ひろみちゃん。瞬殺(しゅんさつ)だった」

 ひろみがガッツポーズをしている。

「当たり前よ。高志の行動パターン位、お見通しよ」

「むっきー、ハロゲン族は本当に失礼なんだから」

「バカヤロー、失礼なのはお前らだろ。誰だって苦手なもの位あるだろうに…。()れを、いつも、いつも、からかいやがって…」

 多少(たしょう)の後ろめたさがあったに相違無い。ひろみが意外と素直(すなお)に、高志に謝罪した。

「もう、悪かったわよ。高志が可愛いから、ついからかっちゃって…。明日、何か(おご)るから…」

()れだけじゃ、やだぞ。結婚しても、夜、寝る時は手を繋いでくれないと…」

 いずなが思いっきり噴出(ふきだ)した。みんな、大爆笑である。ひろみが()()になり(なが)ら、()った。

「ちょっと、あんたは、何、恥ずかしい事、()ってんの? いい年して…」

 明彦がニヤニヤし(なが)ら、

「手だけじゃなく、別のところが(つな)がってたりしてな…。あ、痛、何すんだよ、凛子」

 凛子が顔を赤らめ(なが)()った。

「品がなさすぎ。()のエロ眼鏡(めがね)如何(どう)して、そう、すぐ滑る事、()うの。みんな、引いてるじゃないの…」

「えっ」

(まった)く、バカなんだから」

「…すみません」

 明彦が頭を()(なが)ら謝った。凛子が怒り(なが)(いぶか)った。

(まった)く、もう…。でも、変ねえ。ハロゲン族は合宿の時、一番遅くまで、一人で勉強やってなかったけか?」

 ひろみが否定する。

「違うわよ。大体(だいたい)、あたしが一緒(いっしょ)にいたわよ。あたしが眠くなって()めようとすると、彼奴(あいつ)一緒(いっしょ)にあがってたもん。夜、ムシ暑かったもんで、網戸だったんだけど、外で山鳥が鳴くたびにひどく(おび)えていたわよ。『(ぬえ)の鳴く()は恐ろしい』とか、()って…。()れに、初日だか、二日目に、一番遅くまでやっていたら、寝る時に(はし)っこしか空いてなくて、すごく怖かったとか…。其処(そこ)で、仕方(しかた)なく、正太と敬介の間に潜り込んだって、()ってた…」

 正太郎が(あき)(なが)ら、怒りを(あらわ)にする。

「どわーっ、高志。あれは、おめえの仕業(しわざ)か? 真夏の雑魚寝(ざこね)に、なんてえ事しやがる。此方(こっち)は、暑苦しくて、朝の五時に目が覚めたんだぞ」

「いや、だってよ…」

 ゆり姉が、ニヤニヤし(なが)(たしな)めた。

「失礼しちゃうわね。高志君。うちに、お化けなんて出ないわよ。でも、清志君が()ったとおりね」

 高志が不安そうに(たず)ねた。

「いや、()の、あの、ゆり姉。()れで、バカ兄貴は、何と…」

「…()っていいのかなあ。弟はひどい、怖がりで、夜、ひとりでトイレに行けないとかって…」

 みんなが一斉に吹き出した。

「ムッキー、かわいい。ハロゲン族。いいなあ、ひろみっち、こんな可愛い旦那(だんな)さんで」

「…もう、いずなは」

 明彦がニヤニヤし(なが)()った。

「そう()えば、今年の夏合宿の時には、肝試(きもだめ)しをやらなかったな。来年の夏合宿はやるか?」

「じょ、じょ、冗談(じょうだん)じゃねーぞ」

 高志が()(さお)になって反対する。ゆり姉が()った。

()れなら、絶好のスポットがあるわよ。川向こうの古びた地神様(じがみさま)。ちびたちも、楽しみにしていたみたいだけど、肝試(きもだめ)しが無かったってがっかりしてたもの…」

 いずなが怪訝(けげん)な顔して()った。

「ムッキー、でも、今年も計画の段階では、あったよ。だって、いずな、書いたもん。折角(せっかく)経帷子(きょうかたびら)天冠(てんかん)、葬儀屋さんで借りたのに…。何で無くなったのかなあ」

 高志が目を(みは)る。

「なんちゅう物、用意してやがんだ。何、考えてんだ。てめーは」

 正太郎が当時を思い出し(なが)ら、首を(かし)(なが)ら、()った。

「確か、子供達が(おび)えるといけないとかってんで、ひろみが猛反対したとかって聞いたけど…」

「えーっ、私、知らないわよ。私だって、肝試(きもだめ)し楽しみだったのに…。一体(いったい)、誰よ、そんな事、()ったのは?」

「誰って、確かそう聞いたぞ。高志から…。あーっ、(さて)は、手前(てめえ)仕業(しわざ)か? 高志」

「いや、高校生が、小学生を(おど)かして、大人気(おとなげ)ないだろ」

 六助が笑い転げて、腹を押さえ(なが)()った。

「ひーっ、腹が痛い。何を殊勝(しゅしょう)な事、()ってやがんだ。オメーは。ひろみちゃんも大変(たいへん)だなあ」

 正太郎が思い出したように()い出した。

「そう()えば、合宿計画書の最後の方に、妙な一条が有ったよな。確か、『小さい子がいるから、怪談(かいだん)猥談(わいだん)(たぐい)は禁止』とか()う一条、あれも、ひょっとして…」

 ひろみが(ふく)(なが)()った。

()れも私、知らない。確かに下ネタ禁止は書いたけど、みんな、全然(ぜんぜん)、守ってなかったし…。怪談(かいだん)の方は、正太の意見だと思っていた」

 全員が一斉に高志を見る。

「いや、だってよー…」

 明彦が高らかに宣言(せんげん)した。

「よーし。来年は肝試(きもだめ)し決定な。勿論(もちろん)経帷子(きょうかたびら)天冠(てんかん)使用で…。あと、怪談(かいだん)も解禁な。ついでに猥談(わいだん)も…」

猥談(わいだん)駄目(アウト)に決っているでしょ」

 ()ました顔で駄目(だめ)出しをする凛子。

「わーっ、明彦、手前(てめえ)、ふざけんな」

 (あわ)てる高志に、六助がニヤニヤし(なが)()った。

「だいたい、正太が怪談(かいだん)禁止なんて、()(わけ)ねーだろ。怪談(かいだん)大好き人間なのに」

 いずなが聞いた。

「ムッキー、そうなの? 正ちん」

「だって、此奴(こいつ)、中二の夏に、深夜、墓場で補導(ほどう)されたんだぜ」

 高志が驚いて()った。

「なんで、そんな、おっかない(ところ)で…。一体(いったい)、何をやっていたんだ」

「本を読んで居たんだよ」

「墓地で読書だあ。如何(どう)()う趣味だ? 一体(いったい)、何だってそんな(ところ)で…?」

雰囲気(ふんいき)を味わいたかったんだよ」

「で、何を読んでいたんだ」

「『屍鬼』…」

「よく、墓場で、んなもん、読む気になるなあ。()れで、如何(どう)した?」

如何(どう)もこーもねーよ。墓石の上にランタンを置いて、墓石に腰掛け読んで居たんだよ。そうしたら、通りがかったおっさんが、(おれ)を見るなり、腰を抜かしやがってな…」

「当たり前だ」

()(まま)(そく)、通報されちまってな。あっという間にお(なわ)になった」

「つくづく、問題児だったんだなあ。お前」

 高志がしみじみ感心する。

「うるせえ」

「ムキキ、正ちんも、随分(ずいぶん)面白(おもしろ)みがあるよね。昔からだったんだ…」

 六助がニヤニヤし(なが)()った。

「でもよ、()の一件が発端(ほったん)で、うちの中学では、夜の墓場徘徊(はいかい)は、禁止になっちまったんだぜ…。まったく」

 明彦が(あき)れる。

「また、()のオチかよ…。そんな(やつ)はいねーだろ。正太しか」

「ああ、(まった)く、あのじじい()まんねえ事で、いちいち学校に乗り込んできやがって。此方(こっち)(あや)うく、停学になるところだったんだぞ」

「そう()えば、おじさん、カンカンに怒って、翌日、学校に、怒鳴り込んできたもんね」

「ああ、もう少しで、あのじじい、憤死(ふんし)するかと思ったぜ」


 其処(そこ)で明彦が突っ込む。

憤死(ふんし)って何だよ。抑々(そもそも)、そんな死に方した(やつ)。世界史の教科書でしか、見た事ねーぞ」

 と、明彦が()えば、高志も同意の意を示す。

「確かにな。()われてみればそーだな。えーっと。あれは、確か、アナーニ事件だったけか? ぐはあっ」

 何故(なぜ)かひろみの(ひじ)が、高志の鳩尾(みぞおち)にめり込んでいる。すかさず、顔を(しか)めた高志が抗議する。

「何しやがんだ」

「いや、ごめん。…てっきり、また、下ネタを()ます心算(つもり)かと…」

「ふざけんじゃねえ。何処(どこ)が下ネタだ。ははあ? 判ったぞ。成程(なるほど)、そうか、アナーニ事件か? (まった)()って、下品(げひん)な女だぜ」

 ひろみは()()な顔で下を向いている。(しか)し、図に乗った高志は此処(ここ)ぞとばかりに、(かさ)に掛かる。だが、()の男が調子付くと、大体(だいたい)()いて(ろく)な事が無い。

大体(だいたい)(おれ)が本気で下ネタ()ましたら、そんなんで済む(わけ)ねーだろ。例えば、ローマ皇帝のヌメリアヌス…」

 大半のメンバーがニヤ付くか、()()な顔をしているが、みうみうと敬介だけはキョトンとした顔をしている。

「まあ、確かに。世界史の用語って、微妙(びみょう)卑猥(ひわい)な用語があるよなあ。イングランド七王国とかさ」

 素直(すなお)に感嘆するのは明彦である。だが、高志は(さら)に加速する。

「わはははは、そーだろ。だが、何と()っても極めつけは、インカ帝国最後の皇帝…、マ…ぐわぁ」

 ひろみの正拳突きが高志の顔面に突き刺さっている。

()わんでいい!」

 ひろみが()えれば、いずなも追随(ついずい)する。

「ムッキー、ハロゲン族。本当、最低」

 正太郎がにやつき(なが)らも、(あき)(なが)(つぶや)く。

「…絶対(ぜったい)()うと思ってた。(まった)く、相変(あいか)わらず、周囲の状況(じょうきょう)を読まない(やつ)だな」

 だが、みうみうが、

「うっきー、何て王様なの? ハロゲン族、教えてよー。みうみう、知りたいよー」

「ふふふ、教えても良いが、みうみう。()れは意外と安くないぜ。()ず、両腕を頭の後ろで組んで、胸を張るんだ」

()う?」

 みうみうが高志の()われたとおりの、姿勢(しせい)を取る。元来(がんらい)(ひど)小柄(こがら)なみうみうではあるが、()の胸は祐子規模(スケール)なのである。そんな彼女が、高志が指定した様な姿勢(しせい)をとれば、(いや)(おう)でも、胸元(むなもと)が強調される。()姿態(したい)(ひど)くなまめかしく、(あたか)も、ウッフンと()った感じである。一同の、と()うより、主に男性陣の視線が、みうみうの胸元(むなもと)釘付(くぎづ)けになる。特に巨乳(きょにゅう)好きの高志や正太郎の眼は、(さなが)ら、獲物(えもの)(ねら)猛禽類(もうきんるい)の様に、『おおっ』とばかりに、完全にロック・オン状態であり、目標(ターゲット)をガン見している。

「そ、そうだ、いいぞ、みうみう。()(まま)其処(そこ)静止(じっと)していろよ。教える代わりと()ってはなんだが、自慢(じまん)()(ちち)、一度、むぎゅうと鷲掴(わしづか)み…ぐへえぇぇ」

 ひろみが、高志の後ろから、鬼の形相(ぎょうそう)で、裸締め(スリーパー・ホールド)をしている。祐子はと()うと、正太郎のお尻をかなり強く(つね)っている。

「いい加減(かげん)にしなさい。(まった)く、もう。みうみうも、()馬鹿(バカ)どもの甘言(かんげん)に、簡単に乗らないの」

 高志は(なか)ば白目をむいている。

「えー、みうみう、謎の王様の名前知りたいよー」

「いいのよ、如何(どう)せ、途轍(とてつ)も無く卑猥(ひわい)な事を、()心算(つもり)だから。聞くだけ馬鹿(バカ)馬鹿(バカ)しいわよ」

 (しか)し、()の時、いずながみうみうの耳元で、何事かを(ささや)く。すると、みうみうは耳朶(じだ)の付け根(まで)()()にすると、()(さけ)んだ。

「うっきー。ハロゲン族の馬鹿(バカ)()のド助平(スケベ)


 相変(あいか)わらず、実に騒々(そうぞう)しい連中である。(さわ)ぎが少し下火になった(ところ)で、敬介が染み染み(しみじみ)()う。

(しか)し、確かに世界史の用語って、()れまでの人生で触れた事の無い様な用語って出て来るよな。憤死(ふんし)だけじゃなくてさ」

「ムッキー、例えば、どんな?」

「うーん、そうだな。例えば、枢機卿(すうききょう)とか」

 高志が()かさず同意する。

「確かにな」

「そーだろ。大体(だいたい)、うちの近所で枢機卿(すうききょう)になった人はいねーぞ」

「そりゃ、いねーだろ」

今迄(いままで)、人生に()いて聞いた事もねー単語なのに、何故(なぜ)か漢字まであるじゃねーか」

「まあ、ローマ・カトリック教会の最高顧問だからな。日本にカトリックが入って来た時に、そう翻訳(ほんやく)されたんだろ」

 そう解説するのは、正太郎である。だが、此処(ここ)でも茶々(ちゃちゃ)を入れるのは、高志である。

「でもさ、枢機卿(すうききょう)って何かラスボス感が半端(ハンパ)無くね? いつも権謀術数(けんぼうじゅつすう)(めぐ)らしていそうでさ。柳生一族に出て来た烏丸(からすま)の少将みたくさ」

 ひろみが(あわ)てて(たしな)める。

「ちょっと、あんた、何を()ってんの。怒られるわよ」

 正太郎が苦笑(くしょう)(なが)ら、(なだ)める。

「まあまあ。でも、()(あた)りの印象って、デュマの三銃士(さんじゅうし)の影響なんだろうなあ。あの作品では、主人公達から見れば、完全にラスボスだもんなあ。でも、リシュリュー枢機卿(すうききょう)って、史実に()れば、無茶苦茶(むちゃくちゃ)立派(りっぱ)で、高潔(こうけつ)為政者(いせいしゃ)だったらしいけどな…」

「えっ、実在の人物だったの?」

 驚くのは、祐子である。だが、()れに対して、正太郎の方が驚いた。

「そーだよ。三十年戦争の頃の、フランス宰相(さいしょう)だよ。王権の拡大に尽力(じんりょく)した名宰相(めいさいしょう)だよ。彼の名を記念(きねん)して、第二次大戦中に彼の名を(かん)した戦艦(まで)あるよ」

「へええ。そうなんだ。てっきり、架空(かくう)の人物だと思ってた。逆説的だけど、あのお話だと、キャラが立っていると()うか、敵キャラだけど、何処(どこ)か憎めないって()うか、(あま)りにも生き生きと(えが)かれていたから」

「確かに、そうだね」


 祐子が染み染み(しみじみ)と語り出した。

「そう()えば、歴史上の事件と()えば、『ヴァレンヌ逃亡事件』。ほら、中3の頃あったじゃない」

「ああ、確かにあったな」

「?」

 辻褄(つじつま)の合わぬ祐子の発言に、何の事か判らずにキョトンとする一同を尻目に、正太郎が同意する。祐子が説明を始めた。

「あのね、江尻中の裏門の向かいに小さなパン屋さんがあったの。おじいさんとおばあさんがやってるお店で、『ヴァレンヌ』さんって()うんだけど…」

「ほー」

 正太郎が染み染み(しみじみ)と回想する。

「確かに、そんな事件(こと)があったなあ。あの頃の体育は、いつも持久走の練習で一部の生徒たちが、閉口(へいこう)してたんだよなあ。()れで、学校の外周を走っていた(ところ)、一部の生徒が逃走して、ヴァレンヌでサボってパン食ってたんだよ。()れが体育教師に見つかって、全員、(まと)めてとっ(つか)まって…」

迷惑(めいわく)な連中だな。()れで、お前も一枚()んでいたのか?」

()んでねーよ。だって、(おれ)、別に持久走、苦手じゃねーし」

嘘吐(うそつ)け。小学校のサッカー部の練習では、いつも最後尾(どんけつ)が定位置だったじゃねーか」

「うるさい!」

()れで、ヴァレンヌ逃亡事件か。(しか)し、ネーミングが、秀逸(しゅういつ)()うよりも、恐ろしく、くっだらねえなあ」

「でも、()のおかげで、授業中にサボってヴァレンヌに行くのが、禁止になったんだぜ」

馬鹿(バカ)野郎(やろう)。当たり前の話じゃねーか。抑々(そもそも)()わずもがなの話だろ。そりゃ」

 其処(そこ)で祐子も(おもむろ)に語る。

「えーっ、でも、他にもヴァレンヌさんが舞台(ぶたい)になった事件があったよ。隣の西久保中の子と喧嘩(けんか)するとかで、一部の子達が木刀とか、ヌンチャクとかを持ってヴァレンヌさんに集結してたの。そしたら、其処(そこ)で凶器を(たずさ)えた西久保中の子達と鉢合(はちあ)わせになって、(たちま)ち、乱闘になったと()う、ヴァレンヌ抗争事件。()のときはパトカーが出動する事態になったみたいだよ」

 明彦がにやつき(なが)ら口を挟む。

「何か、すげえ話だな。昭和の少年誌で、ありがちな展開だな」

(まった)く、迷惑(めいわく)()の上ない連中だな。ヴァレンヌさん、とばっちりもいいとこだな。完璧に被害者じゃねーか」

「他にも、買い食い根絶キャンペーン中に、生活指導の先生と、買い食いしていた一部の生徒が、ヴァレンヌさんで鉢合(はちあ)わせになり、大騒動(だいそうどう)に発展したヴァレンヌ騒擾(そうじょう)事件」

「オイー。最早(もはや)、ヴァレンヌさん、全然(ぜんぜん)、関係ねーじゃねーか」

 高志が声高(こわだか)(さけ)ぶと、明彦も追随(ついずい)して(つぶや)く。

「確かにな…。話を聞く限り、正太たちが、一方的に(あば)れて、ヴァレンヌさんに迷惑(めいわく)を掛けてるってだけじゃねーか」

「…おい、何処(どこ)如何(どう)聞いたら、そう()文脈(ぶんみゃく)になるんだ。(はな)から(おれ)は、一枚も()んじゃあ、いねーぞ」

 正太郎は不満げに(こぼ)す。(しか)し、祐子は続ける。

()だあるよ。学校の帰りに、ヴァレンヌさん(まで)何方(どっち)が早いか競った生徒達が居たんだけど、()の内の一人が、ヴァレンヌさんの前で車に()ねられて…」

「し、死んだのか?」

「ううん。でも、前歯4本を折る大怪我(おおけが)だったの。(しか)も、人体錬成に失敗して、全部差し歯になってしまったらしいの…。人呼んで、ヴァレンヌ競争事件。()れ以来、ヴァレンヌさん(まで)競争する事は、校則で禁止になったの…」

「…人体錬成って何だよ」

「『持ってかれたぁ』って、(ヤツ)じゃね?」

「他にも、ヴァレンヌさんの隣の家の大型犬が、(すご)く良く()える犬だったの。ヴァレンヌさんの前でパンを食べてた生徒達が、面白半分(おもしろはんぶん)()の犬をからかってたら、猛烈に()えられて、あの犬は凶暴(きょうぼう)だって…。其処(そこ)でヴァレンヌ凶暴(きょうぼう)事件。あと、ヴァレンヌさんの前でパンを食べてた子たちが、店の前から見える、富士山の(あま)りの美しさに感銘(かんめい)を受けた、ヴァレンヌ眺望(ちょうぼう)事件」

 明彦が(あき)れ、高志も激しく同意する。

「…おい、脚韻(きゃくいん)が合う単語ばかり臚列(ろれつ)しやがって。(いん)()んでいれば良いってモンじゃないだろ。最早(もはや)、事件にすら、なってねえぞ…」

(まった)くだ。抑々(そもそも)今迄(いままで)(すべ)ての事件が、ヴァレンヌさん、全然(ぜんぜん)、関係ねーじゃねーか。純粋に被害者だろうが」

 其処(そこ)で、祐子が悲しげに続きを話す。

「でも、(あま)りにも(さわ)ぎが続いたせいで、ヴァレンヌさん、とうとう、お店を(たた)んじゃったの…。おじいさんとおばあさん、一生懸命(いっしょうけんめい)にお店を切り盛りしてたのに…、かわいそう」

「ムッキー、何、()れ。ひどい話」

「つ、(つぶ)れたのか…」

 敬介も愕然(がくぜん)とする。

「おいー。ヴァレンヌさん、全然(ぜんぜん)悪くないだろ。謝れ、ヴァレンヌさんに謝れ」

「ヴァレンヌさあーん」

 (みんな)が口々に(さわ)ぐ中、渋い顔をした正太郎から異論(いろん)が飛び出す。

「ねえ、祐ちゃん。一応(いちおう)、念の(ため)に聞くけど、()のいかれた謬言(びゅうげん)の数々、抑々(そもそも)一体(いったい)、誰から聞いたの?」

「えっ、誰って、確か康代ちゃんからだよ…」

 ヤスベエの、にやついたしたり顔を連想した高志が、血相(けっそう)を変える。

「まーた、あの野郎(やろう)かあ。するってえと、正太。()事件群(じけんぐん)(ほとん)どが捏造(ねつぞう)か?」

「まあ、(すべ)てが捏造(ねつぞう)って(わけ)じゃあないけど…、(おおむ)ね、そうだな…、98%位が脚色(きゃくしょく)されているなあ。先刻(さっき)の西久保中の話も、2組の連中が、西久保中の剣道部の連中に、道聞かれたってだけだったし、買い食いキャンペーンの時は、腰の悪い婆さんの荷物を持ってあげたという、ほっこりする話だったし…。大体(だいたい)、お前らも知っているだろ。あのヤスベエだぞ。彼奴(あいつ)なら、人口(じんこう)膾炙(かいしゃ)する話を捏造(ねつぞう)する(ため)には、大概(たいがい)の事はやってのけるぞ」

(まった)く、人騒(ひとさわ)がせな野郎(やろう)だぜ。あの野郎(やろう)抑々(そもそも)、やっている事は、●スポと同じレベルだからなあ…」

抑々(そもそも)(くだん)のヴァレンヌさんだが、別に(つぶ)れた(わけ)じゃあないぞ。新清水駅横に新装開店しただけだぞ。()の前、久し振りに行ったら、じいさん、妙に懐かしがって、アンパン2つおまけしてくれた…」

「糖尿病患者が、何てえもん、買ってやがんだ。まあ、ヴァレンヌさんも、そんないかれた中学校の前で、騒動(そうどう)(おび)(なが)ら、細々(ほそぼそ)と営業するよりは、駅前で手広くやったほうが幸せだろう」

「何だと、()野郎(やろう)

 正太郎、六助、一平の江尻中トリオが(いき)り立つ。気儘(きまま)な旅先での放楽な歴史談義である。一行(いっこう)は取り留めの無い会話を楽しむのであった。


甲州旅行2日目。それぞれのメンバーは個別行動で甲斐の国を満喫する。武田神社を訪れた、正太郎一行。不思議な音色の水琴窟と、正太郎の小学校時代の、少し切ない思い出のお話です。石和温泉旅行編第4弾。次回、『第40話 水琴窟と正太郎の思い出(石和温泉旅行編【4/6】)』。お楽しみに。

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