第37話 特急ふじかわ号に乗って(石和温泉旅行編【1/6】)
12月24日、正太郎と別れて帰宅した後の、夜の20時頃、祐子はラインに気がついた。丁度、夕飯を食べ終わったばかりだった。ラインとは別に、メールも入っている。何方も、敬介からだった。
「何だろう?」
祐子は訝しみ乍らも、中を確認して驚いた。書き手である敬介自身、大変混乱している様な内容ではあったが、要旨を掻い摘んで説明すると、明後日、12月26日から、2泊3日で温泉旅行に行かないか? と、謂うより、温泉旅行に来て欲しいと謂う物であった。最低、4人以上、狩り集めなければならないらしい。明日、午前中迄に回答が欲しいとの事だった。すぐさま、正太郎からも連絡が入った。
「あっ。正ちゃん。ライン見た?」
「うん、見た。此れだけだと、良く分からないけど、要は温泉旅行に来てくれって事の様だ。最低5人以上だって。先刻、敬介から電話が来たけど、何とか、祐ちゃんを説得してくれってさ…。今、敬介はいずなを口説いているが、高志たちと、眼鏡コンビは捉まら無いらしい。何てったって、イブだもんなあ。今の処、確定メンバーは敬介とゆり姉だけだって」
「えーっ。今回は、敬介君のおじさんの民宿。あの、ゆり姉の処じゃないの?」
「如何やら違うみたいだ。今回は、石和温泉だって。本格スパ=リゾートだとさ」
「えっ、何処? 石和って山梨県の?」
「ああ。山梨県笛吹市。甲府盆地の中央部のやや東寄りだね。結構、遠いよ。祐ちゃんは如何する? 俺は、ちょっと行ってみたいけど…」
「費用は?」
「宿泊費が半額だって、1泊朝食付きで4千円が2泊で8千円。だけど、旅費が多分往復で1万円位だと思う。祐ちゃん。如何しよう?」
「私は行きたいな。お小遣いもあるし。正ちゃんは?」
「俺は、先刻、おやじと交渉した。成績も上がった事だし、旅費と宿泊費を出してくれるってさ。あと、金をやるから、桔梗信玄餅と、ほうとうを買って来いってさ」
「じゃあ、私もOKだよ。楽しみだね」
「分かった。早速、敬介にメールするよ」
其の頃、高志とひろみは、ひろみが謂う処の、白樺の林に囲まれた別荘風の設備がある、千歳町のとある施設内に居た。まあ、要するに、またしても、パフェを食いに来ていた訳である。此の手の施設が、一年で一番割高になる12月24日に、全く以って、ご苦労な事である。
「高志君。にゃーん。ゴロゴロ」
「ひろみちゃん。かっ、かわいい」
「えへへ。じゃあ、いい子いい子して。あと、キスも」
「うん」
「高志君。優しいから、大好き。にゃん」
ひろみは、例によって、甘えん坊モード全開である。
「にゃんにゃん。高志君大好き。…あれっ。メールが着てる。あと、ラインも」
「あれ、俺もだ」
二人は、ライン、メールを熟読した後、二人は思わず顔を見合わせた。高志が口火を切った。
「如何する? ひろみ。いや、ひろみちゃん」
「高志君は?」
「個人的には行きたいなあ。唯、此の時期、みかんの収穫の真っ只中なんだよなあ。親父達を拝み倒して、なんとかって処かな」
其の収穫の真っ最中の此の時期に、白樺の林に囲まれた別荘風の設備がある此の施設で、呑気にじゃれ合っている割には、実に、殊勝な発言である。
「正太からのメールだと旅費が1万円、宿泊費が8千円。あと、食事代とお小遣いで1万円、計3万円って処か。ひろみちゃんは如何する?」
「私は、いいわよ。でも、高志君、お金、大丈夫? 若し、何だったら貸す事、出来るけど」
高志は、ひろみが時々、家庭教師のバイトをやっている事を知っていた。
「流石に、ひろみちゃんに借りたら、孫子の代迄の恥さらしだ。大丈夫、心配ないよ。実は、俺、家の手伝いでみかんや甘夏の収穫や摘果を手伝うんだが、其の駄賃や手間賃はいつも、家でお中元やお歳暮で貰った商品券やら、旅行券で遣すのさ。小学校の頃から溜めた分が20万円近くある。大丈夫だよ。ひろみちゃんの分も出せるけど…」
「其れこそ、大丈夫だよ。お互い、貸し借り無く、行けそうだね。じゃあ、もうちょっと、甘えちゃお。にゃーん」
「わあ。かわいい」
「えへへ。いい子いい子して」
「もう、ひろみちゃん、可愛すぎ」
全く以って、能天気な二人である。
明彦と凛子が、此のラインに気がついたのは、二人とも自宅で寛いでいる時だった。すぐさま、凛子から電話が掛かってきた。
「明彦君。ライン見た?」
「ああ、其の後に正太からメールが来て、ざっくり、3万円位らしい。凛子さん。如何する?」
「私、先刻、親父に聞いたら、いつも、旅行に連れて行って上げられないから、行って来いってさ。だから、旅費も出してくれるって」
「そうか、うちも、良いってさ。一応、小遣いなら、5万円位、溜めていたんだが…」
「私も同じ位ある。でも、親父がとっておけって」
「じゃあ。二人とも参加って事で」
「うん。楽しみだね」
いずなは、敬介から話を聞いて、心は既に決まっていた。敬介が困っているなら、何とか力になってあげたいし、其れにも増して是非、参加したいと思っていた。そうでなくても、心躍るものがある。お小遣いなら、10万弱位はある。然し、楽しかった夏合宿が思い出された。出来る事なら、みんなで、大人数でワイワイ楽しみたい。だけど、今回は有料で旅費も掛かる。おまけに、忙しい年の瀬の上、何よりも熟考する時間も然程無い。とても、全員参加と謂う訳には行かないだろう。敬介の話だと、良二おじさんが、同業の組合から頼まれたとの事だった。かなり割安な料金ではあるが旅費が実費で掛かるし、最低でも6人、2部屋以上の予約が必要との事だった。いずなは祈る様な思いで、ラインを見つめていた。突然、携帯が鳴った。葵からだった。
「あっ。いずなちゃん。ライン見たよ。私も参加したいんだけど、いいかな?」
「勿論だよ。良かった。誰も参加しないのかと心配してたんだよ。お金も掛かるしね。葵っちは、お金は大丈夫?」
「うん。パパが出してくれるって。私が、お友達と旅行って謂ったら、ひどく喜んで。でも、私、26日は、午前中ママと一緒に浜松まで行かなきゃならないから、後から遅れて参加になっちゃうけど…」
「うん。分かった。ケースケに謂っておくよ」
「私、部外者だけど、いずなちゃんから、夏合宿の楽しい話を、沢山、聞いてたから、行きたくなっちゃったの」
「葵っちは、部外者じゃないよ。いずなね。夏の合宿、すごく楽しかったの。それで、今回もみんな参加してくれればなあって、でも、今回は急だったし、お金も掛かる話だし、年末の忙しい時期だし、参加者0かなあって思ってたんだ。本当にありがとね。何か決まったら、また、メールするよ」
「うん。じゃあ。ラインに返事入れるね」
続いて、またしても、電話があった。酷く間延びした声。みうみうからである。
「もしもしいー。みうみうだよー。みうみうも、温泉行きたいよお。行って良い?」
「勿論。大歓迎だよ」
「でも、其の日は御餅つきがあるから、あとから遅れて参加になっちゃうけど…」
『お誘いありがとうございます。よろしかったら、参加させてください。当日は、所用のために、清水に戻るのが14時頃になります。其れからですので、石和到着は18時位になると思います。―葵』
『みうみうだよー。みうみうも参加するよー。でも、みうみうも遅れて参加なんだよ。そうだ、葵っち、一緒に行かない? ―美羽』
ラインを見つめていたいずなは、ほっとした。此れで何とか4人確定した訳だ。あと、二人だ。でも、もう少し欲しいな。せめて、ゆうちんと正ちんだけでも…。あれ、既読がつき始めた。そして、瞬く間に既読がついた。ぴこっという音とともに、ラインが入った。
『お誘いありがとう。参加いたします。よろしくお願いします。―祐子』
『親父の許可が下りた。喜んで参加させてもらうよ。楽しみだな。―正太郎』
更に、やや、間をおいて、
『敬介。面白そうな企画ありがとうな。喜んで参加させてもらう。―高志』
『敬介。ありがとね。私も参加するね。とても、楽しみ。―ひろみ』
いずなは、スマホを握り締め、涙を流した。
(よかった。みんなありがとう。そうだ。私自身が、返事を入れてなかった)
いずなが、返事を入れようとしたら更に、ラインが入った。
『俺だ。六助だ。俺も参加するぞ。―六助』
『御招待下さいまして、ありがとうございます。私も是非参加したいと思います。ただ、当日はサッカー部の練習が、午前中からお昼過ぎまであり、オフになるのが14時過ぎとなります。恐らく、16時前のワイドビュー富士川号となります。此れだと、甲府着が18時過ぎとなり、恐らくホテル到着が19時近くになるものと存じます。従って、私と六助は遅れて参加となりますが、ご無礼ご容赦願います。―一平』
いずなは、送られたラインを見て、ぷっ、と噴出した。一平君は相変わらずだ。間髪いれず、六助からラインが入った。
『なげーよ。要点だけにしろ。あっ、返事はいいからな。―六助』
然し、残念なラインも入った。
『敬介、みんな、ごめんね。あたし、明日から家族で鹿児島に帰省するの。お父さんのお墓参り。また、誘ってください。―ヤスベエ』
『六助、一平、みんな、よろしくな。俺も参加だ。―明彦』
『敬介。また、ありがとね。私も参加でーす。―凛子』
いずなは涙を拭き乍ら思った。
(もう、みんなったら、私が一番、最後じゃないの)
『みんな。よろしくね。楽しみにしています。―いずな』
いずなは、敬介から話があった時、真っ先に両親に相談していた。吾郎先生にも、順子先生にも、否やは無かった。彼らは、娘の中学校時代、クラスメートから拒絶される愛娘を見てきた。然し、娘は、泣き言、一つ漏らさず懸命に耐えていた。吾郎先生も、順子先生も、臍の緒を噛む思いであったに違いない。頓て、彼らは、高校に入学して素敵な友人達に恵まれ、明るく、活発になっていく我が娘を目の当たりにして、心の底から喜んでいた。吾郎先生は、先日、ゲーム大会に参加して、誠実な友人達の、人となりも知っている。友人達にはいくら感謝しても、足りなかった。祐子の家と同様、裕福な家である。吾郎先生も、順子先生も、友人達の宿泊費も出して差し上げたい心境であったのだ。流石に、其の好意はいずなに反対されたものの、当然、いずな自身の、旅費、宿泊費は吾郎先生が負担してくれた上に、3万円のお小遣いをくれたのだった。裏を返せば、いずなの小、中学校生活は、吾郎先生、そして、順子先生にとって、心痛の種だったのである。同様の、反応は、祐子の家、或いは、葵の家でも見られた。彼らは、勉強こそ出来たものの、友人関係で苦労している愛娘達の今後を、心から案じていたのだ。
扨、話が決まってからは、ボストンティーパーティーの面々の行動は、俄かに活発化した。敬介の話だと、15畳の部屋が2部屋。男女、6人と7人に分かれる形である。家に帰った高志は、早速時刻表を調べ、ふじかわ5号で行く事を提唱した。15時のチェックインに、丁度良い様に思われたからである。祐子は、みんな、バラバラの席になる事を恐れ、明日、指定席を手配する事を提唱した。また、正太郎は当日、車中で昼飯時を迎える事から、六助の家で弁当を手配する事を提案した。いずなはゲーム機、トランプ等の持込を提案した。更に、現在、東京にいるものの、明日、帰省予定のゆり姉からは、サッカー部の二人と葵とみうみうを車で拾っていく事が提案された。明日、高志が持っている旅行券及び金券で、8人分の片道の切符を購入する事が決まった。此れを、車内で清算すれば、高志の宿泊費、および、小遣いが工面出来る筈である。此れらは、全員が参加の意思表示をした後、10分足らずの間に、瞬く間に決まった事なのである。
特急ふじかわ号。静岡―甲府を結ぶ優等列車である。約2時間20分程度で100キロ弱の行程を結ぶ形となる。此の距離であれば、自動車で高速を使えば、1時間強の行程である。2時間20分では、少々、時間が掛かり過ぎとも思われるが、何しろ、身延線は富士宮以北が単線である。列車の行き違いを待つ上に、狭隘な路線、山岳地形による急な勾配により、仕方が無い部分はあるのであろう。ふじかわ号自体は筆者が少年の頃から存在する。当時は急行富士川号として、同区間を運転していた。其の頃は、古き良き昭和の時代でも在り、国鉄の列車全盛の時代でも在る。在来線の優等列車と謂っても、静岡地区では、東京発の夜行特急である、客車型寝台列車が強盛を極めていた。東京―西鹿児島(現鹿児島中央)を日豊本線経由で結ぶ、特急『富士』。東京―西鹿児島(現鹿児島中央)を鹿児島本線経由で結ぶ、特急『はやぶさ』。東京―熊本を結ぶ、特急『みずほ』。東京―博多を結ぶ、特急『あさかぜ』。東京―長崎・佐世保を結ぶ、特急『さくら』。他にも、客車型寝台列車型急行、『桜島』に『高千穂』。『桜島』や『高千穂』などは、当時、清水駅にも停車しており、鉄道好きの筆者は、良く清水駅に見物に行ったものである。此れらは、全て、客車型寝台列車であり、国鉄の全盛期に於ける、豪華ラインナップで有った。他にも、名古屋―博多を結ぶ特急『金星』。新大阪―宮崎を結ぶ特急『彗星』。新大阪―西鹿児島(現鹿児島中央)を結ぶ特急『明星』。此れらは一部電車型寝台特急であり、筆者は、当時としては、其のモダンでスタイリッシュな車体に憧れたものでもある。寝心地は、客車型寝台列車、電車型寝台特急、伴に甲乙つけ難かったが、其れでも、甲乙をつけるのであれば、電車型寝台特急の下段が最高であろう。客車型寝台列車は列車進行方向に対し、垂直に寝台が来るのに対し、電車型寝台特急は中央の通路に対し平行に寝台があるのである。従って、下段寝台は車窓を独占出来るのである。深夜、灯りを消した車窓から眺める、見知らぬ街の夜の風景は、宛ら、夢の様な光景であり、筆者の幼い心に、未だに深く刻まれている。筆者が鉄道好きになったのは、此の頃からであった様に思う。尤も、筆者の鉄道への興味は、各種寝台列車の廃止と伴に、急速に薄れて行ったのである。中学校時代には、松本清張の超有名作品に感銘を受け、小遣いを溜め、熱海から静岡迄、立席特急券で特急『あさかぜ』に乗車したのは、今となっては良い思いでである(思えば、良く補導されなかったと思う)。当時は、列車火災の事故を受け、営業休止中の食堂車を頗る残念に思い乍らも、『早く再開しないかな』と、子供心に思った記憶がある。頓て、時代は移り、矢継ぎ早に客車型寝台列車、電車型寝台特急は姿を消して行った。一方、静岡地区の昼間の特急も、特急『東海』が姿を消し、いまや特急『ふじかわ』が令和の此の時代に姿をとどめているのみなのである。
扨、閑話休題。翌日、早速に計画の修正を大幅に余儀なくされる様な事態が発生した。ふじかわ5号の指定席が8人分確保出来無かったのである。高志は一緒に同行した正太郎と急遽協議し、他の車両も当たってみた。結果、一本前のふじかわ3号で、8人分の確保が出来た。全席、2人並びの席であった。高志、正太郎は即決した。と、同時に、全員に列車の変更を連絡した。此れに因り、集合時刻は清水駅改札前に9時30分となった。そして、清水発が9時50分となる。甲府到着が12時過ぎとなり、チェックインまでの時間が3時間程余る形となるが、車中で弁当を食べ甲府駅で一度、改札を出て山梨県立科学館を見学する事になった。一方、自動車組は、清水高校通用門に15時集合となった。
翌日、26日は、肌寒くはあったものの、晴天に見舞われた。季節の割には麗らかな小春日和であった。正太郎はチェックのシャツの上から、水色のVネックのセーターにベージュのスラックスにトレンチコートといういでたちで、祐子の家を朝8時に訪れた。祐子は例によって玄関の框で待っていたに違いない。黄色のタートルネックのセーターに、濃茶のジャンパースカートにブーツ。上にはグレーのロングジャケットを羽織っている。頭には緋色のベレー帽をちょこんと乗せて、髪は何時ぞやの様にツインテールにしている。其れに、誕生日に正太郎から貰った星型の髪飾りをつけるのを忘れなかった。あと、普段と違う点を挙げれば、眼鏡をつけている所であった。
「祐ちゃん。すごくかわいいよ。ベレー帽がよく似合っている」
「もう、…恥ずかしいよ。でも、正ちゃんもコートが良く似合っているよ」
祐子はボストンバッグを片手に、デイパックを背負い込んでいた。二人して花月に行くと頼んでいたお弁当を受け取った。店番は六助だった。
「おっ、おはよう。正太、祐子ちゃん。今日はよろしくな」
「おはよう。六。悪いな。一足先に行っているが」
「おはよう、六助君」
「誘ってくれてありがとな。俺も一平も楽しみにしている。練習が終わったらすぐに行くよ。ところで、お前ら、人数8人だよな。弁当、10個あるんだが」
「高志と明彦だよ。彼奴ら、一個じゃたりないんだと。それじゃあな。気をつけて来いよ」
正太郎と祐子が、バスで清水駅に着いたのは、8時40分頃である。祐子は先刻から胸の高鳴りが止まらなかった。いつだって、旅行は胸が躍るものである。流石に、早く着きすぎた為、マックで時間潰しをしようとすると、いずなが店内にいた。チェック柄のシャツに赤白ボーダー柄の派手なセーター、デニムのオーバーオールにバスケットシューズ。大きな旅行トランクにデイパックを背負っている。
「あっ、ゆうちん、正ちん、おはよう」
「いずなちゃん。おはよう」
「うーす。いずな。早いな」
いずなはニコニコし乍ら話しかけた。
「もう、楽しみで、昨日、寝付けなかったの。本当に、お友達とのお泊り旅行が、楽しみになる日が来るとは、思わなかったな」
すかさず、祐子も相槌を打つ。
「私もだよ。昨日、ベッドに入ったのが22時だったけど、1時過ぎまで寝られなかったもん。ところで、敬介君とは、此処で待ち合わせ?」
「うん。あと、ひろみっちも」
「おっはよー」
謂っている、矢先にひろみが現れた。
「えっ」
濃紺のワンピースにベージュのVカーディガンに、グレーのロングコートを羽織っており、頭にはストローハットを乗っけたひろみが現れた。
「おっ、おはよう。ひろみちゃん。なんか、イメージが変わってて、びっくりしちゃった」
「もう、恥ずかしいから、あんまり見ないで」
ひろみが、照れて赤くなり乍ら謂う。いずなも、八重歯を煌めかせ乍ら謂った。
「とっても素敵だよ。ひろみっち」
「もう…恥ずかしい」
其処へ、田舎の小学生の敬介がやって来た。水色のワイシャツに赤のセーター。上には派手なスタジャンにジーンズである。
「おはよう、みんな。バスが遅れちゃってさ…。わっ、ひろみ如何したんだよ、其の格好」
「…うっ、うるさいわね」
9時20分過ぎに、清水駅改札口に移動した。改札口前には、高志、明彦、凛子がいた。高志はチェック柄のシャツにジーンズにランチコート。明彦は紺のスラックスに、緑色のVネックのセーターにYシャツ。凛子は白のブラウスに、紺の上下。髪にはレモン色のカチューシャをつけていた。凛子が呟いた。
「あっ、来た来た。おっはよう、みんな」
「おはよう、凛子っち」
高志が時計を見乍ら謂った。
「おー、来たか。遅刻かと思ったぜ。わっ、何だ。ひろみ。森ガールみたいな格好しやがって」
「うるさいわね。もう」
ひろみが膨れるのを見て、祐子が窘めた。
「高志君、駄目。其処はちゃんと褒めてあげないと」
正太郎も祐子に続いた。
「そうだぞ。女心が分からない奴だな」
「お前が其れを謂うかあ」
各カップルの代表が抽選の結果、海側最後尾窓側から祐子、正太郎、通路を挟んで反対側に敬介、いずな。祐子の後ろ窓側がひろみ、高志、通路を挟んで明彦、凛子となった。高志が其の決定に基づき、切符を配り、改札を抜けた。全員、ホームに降り立つと、麗らかな冬の朝の気配に紛れ、微かに海の香りがする潮風が流れ込んで来た。程なく、特急ふじかわ3号のシルバーグレーのスマートな車体が、音も無くホームに滑り込んで来る。乗り込んで、各自、座席に着席したところで、正太郎が弁当を配り始め、弁当代と、切符代の清算を行った。列車は、ガタンと大きく揺れると、一路、東へ向かって出発した。一同、麗らかな冬晴れの陽気の中、未だ見ぬ北の温泉地に向って出発である。祐子が正太郎に謂った。
「変なの。凄く見晴らしが良いけど、後ろ向きなんだね」
正太郎がうなぎ弁当をほおばり乍ら、笑って答えた。
「富士までの辛抱だよ。富士駅でスイッチバックして、身延線に入っていくから、此の車両が先頭車両になるんだよ」
「へー。そうなんだ」
高志は、うなぎ飯を平らげたあと、鳥飯をほおばり乍ら、ひろみに詫びていた。
「先刻は、無神経な事を謂って、ごめん。女の子らしくて、其の…、可愛いよ」
「なーに、らしくない事、謂って…。でも、ありがと」
ひろみは、ニッコリと微笑んだ。明彦はうなぎ飯二つを平らげると、昼寝を始めた。凛子はイヤホンで音楽プレイヤーを聞いている。いずなは敬介と今日泊まる『スパ=リゾート石和』について話をしている。何でも、20種以上の様々な温泉があるらしい。いずなの瞳が輝く星になっている。
「ゆうちん。ノルマ、一日3回は入ろうね。いずな、サウナって入ったこと無いんだよ。とても、楽しみ」
「私も無いけど、3回も入ったら、ふやけちゃうよ」
高志が横から茶々を入れる。
「俺、サウナより、ソープの方がいいなあ。…あいたたたた」
横でひろみがそっぽを向き乍ら、高志の耳を引っ張っている。いずなが、むっとし乍ら、
「ハロゲン族、相変わらず、最低。ケースケはそんな所行っちゃ、だめだよ。行ったら、おてて繋いであげないからね」
「うん、行かないよ。て、謂うか、抑々、未成年者は、行っては駄目だろ」
「分かっていれば、いいんだよ」
祐子がおずおずと謂った。
「正ちゃんも、そういう所は、…だめだよ」
「行く訳無いよ。…もう」
祐子もほっとした様に謂った。
「其れならば、よろしい」
ひろみの低い声が聞こえた。
「高志くうん」
ひろみが頬杖を突き、穏やかな顔付きで景色を見ている。高志が気さくに応じる。
「なんだい」
「そんな処、行ったら…」
此処で、ひろみは、初めて高志の方を向いた。半眼でアルカイックスマイルを浮かべている。ひろみの場合は、なんと謂っても、此の笑顔こそが恐ろしい。
「…殺すわよ」
「…はい」
高志は小さくなり乍ら、小声で正太郎に謂った。
「…正太。何か怖えーよ。頼む。席、変わってくれよ」
「アホか。詰まんねー事、謂うからだ。俺まで巻き添え喰ったじゃねーか。馬鹿だな。早く謝れ」
ひろみは、相変わらず、景色を見ている。
「さあせんでしたあ」
頓て、列車は連続トラス橋が架かる大河を渡り始めた。富士川の鉄橋である。
「普段、止まる駅を通過するのは、何か気持がいいね」
祐子が楽しそうに、呟く。もうすぐ、富士駅に到着する筈である。気が付けば、眼鏡コンビがスヤスヤと寝息を立て始めていた。やはり、昨日、寝付けなかったのかも知れない。正太郎が予告した様に、富士駅で進行方向が逆になり、最後尾が前向きに進み始めた。列車は、愈々加速する。タタンタタン、タタンタタン、車輪が奏でる小気味よいリズムと共に、踏み切りの警報機の音を置き去りに、列車は北へ向かって疾走して行く。敬介といずなは、テレビドラマの話題で盛り上がっている。高志とひろみはお菓子を食べ乍ら、ゲームの話をしている。頓て、富士宮駅を過ぎた辺りから、列車は軋る様な金属音を響かせ乍ら、次第に左へのカーブが多くなった。目の前には、天子山地の山塊が、大きく行く手を遮っている。頓て列車は、略180度向きを変えると、一旦、南へと進路をとり始めた。そして、北方に展開する山塊の西端を掠める様に、抜けて行った。其の内、かなり峻険な切り通しや、ごく小さな隧道が、断続して続く様になる辺りから、周囲の風景が、ススキや枯れた木立が続く様になり、何時しか、左手に冬の薄日を受けて、キラキラと輝く大河が平行して走る様になっていた。特急電車は酷く呑気な速度ではあるが、快調に飛ばしている。身延線自体は電化されているとは謂え、単線なのである。車窓両側からの圧迫感が半端無い。時折、沿線からの笹藪が線路内に覆い被さってくる様に見える。遠くの身延山地の向こうに、雪を頂いた山々が寒々と連なっている。此の地は天子山地と身延山地に挟まれた、一衣帯水の地である。頓て、進行方向左手に紺碧の大河が顔を覗かせるようになって来た。富士川である。
富士川は赤石山脈北端の鋸岳に端を発する一級河川である。此の正太郎たちが乗車している特急列車の名称が、此の川の名称に由来している様に、甲府までの道中の殆どが、此の川と進退を共にする形となる。此の川自体は、球磨川、最上川と並び、日本三急流と呼ばれ、大層、流れの早い川として知られ、戦国の昔より、其の水運は地域の重要な交通路として利用されてきた。南アルプスに端を発する富士川は、甲府盆地を一気に南下するかの如く縦断すると、峡南地区を丿乀として、蜿蜒たる大河を形成し、流域の水を集め乍ら、頓ては駿河湾に至るのである。
列車は俄かに加速した。今や、完全に大河は並走する形となった。其の大河の上空、列車と同じ目線に、小型の猛禽類、恐らくは隼であろうか、並走している。列車は今、隼と同じ風を体感しているのだ。頓て、隼は、風に抗う凧の様に、ふわりと優雅に静止すると、一気に川面に急降下して、獲物を掴むと、ひょうと、身を翻し、遥かなる身延山地の方に、静かに飛翔して行った。祐子が、ぼんやりと、其の光景を見ている正太郎に謂った。
「正ちゃん、何、見ているの」
「ん。富士川を見ているのさ」
俯瞰される富士川には、濃い紺碧の部分と緑柱玉色の部分とがあり、上空からも瀬や淵が良くわかる。
「今、どの辺りかなあ」
「先刻、寄畑を通過した。もうすぐ、内船だよ。南部町の中心駅だよ。清水から国道52号沿いに行くと、山梨県側の最初の大きな町だよ。岩手の南部氏、発祥の地だよ」
「ふーん、そうなんだ。ねえ、ところで正ちゃん。此の辺りって、来た事あるの?」
「えっ? ああ。内船駅や、寄畑駅や、井出駅を利用した事がある。日帰りで安倍奥辺りを歩くと、此処いら辺りが出口になるんだ。だから、割と、良く使うんだよ」
「へー、そうなんだ」
「其れに、此の南部町、身延町はアニメ『ユルキャン』の舞台になっていたもんね。俺、初めてあれ見たとき、ヒロインが南部橋渡るシーン見て、『あっ、此処、此の前、渡った』って思ったもん」
「えっ、いずなも見てたけど、舞台までは分からなかったよ。此の辺りじゃないかとは思ったけどさ…」
何時しか、いずなも会話に参加していた。頓て、少し開けた集落が見えた処で、内船駅に到着した。内船駅を過ぎると、列車は、富士川を挟んで、進行方向左手に身延山地、右手に天子山地に囲まれた狭隘な土地を北へ疾駆していく。正太郎は祐子に語りかけた。
「祐ちゃん。先刻、川の向こう側に、洞門の道が見えただろう。あれが、国道52号だよ。清水と甲府を結んでいるんだ」
「そうなんだ」
「此れも、軍用路の名残なんだなあって」
「…?」
「祐ちゃん、僕達が通っていた小学校が、城跡だったって知ってた?」
「うん。江尻城」
「江尻城を作った人。誰だか知ってる?」
「うーん。ちょっと、待って。正ちゃんの小学校時代の、夏の自由研究を思い出してみる」
祐子は、目を瞑って、小学校5年の9月の光景を瞑想した。5年2組。正太郎のクラス、横の廊下。小学校5年の時、正太郎の夏休みの自由研究、見事、校長賞に輝いた。テーマは『江尻城と其の歴史ついて』。其の研究が廊下に張り出されてあった。祐子は今、彼女の特殊能力、フォトグラフィックメモリーにより、記憶を辿っていた。あった。祐子は自身の記憶の映像を読み上げた。
「えーっと、縄張りが馬場信春。初代城代が山県昌景。二代目城代が穴山信君(梅雪)。えっ、此れって、正ちゃん、間違いじゃなくて?」
「やっぱ、すごいね。祐ちゃんの超記憶力。うん、間違いじゃないよ。俺、当時、散々、資料を調べたもん」
「でも、此れって、みんな、武田方の武将だよね」
いずなも、横から口を挟む。
「間違い無いよ。いずな、知ってるよ。馬場信春と山県昌景は武田四天王、穴山梅雪は武田二十四将の一人だよ」
「やっぱりすごいな、お前ら。ご名答。つまり、江尻城はガチガチの武田信玄の持ち城って、訳さ」
祐子といずなが訝しんだ。祐子が徐に尋ねた。
「でも、如何して? 清水って武田領だったの? 今川の本拠から、10kmとはなれてないよ」
「そう、だから、此の身延線が走る富士川東岸ルートも、52号線の走る富士川西岸ルートも輜重の為の道、即ち、軍用道路だったと思うんだ。もともと、此のルート、甲州往還とか、富士川街道とか呼ばれていてさ、ちゃんと、宿場もあるんだが、ところどころ、峻険な山に阻まれていて、見ての通り、身延線にも、52号線にも、洞門や隧道があるところを見ると、戦国時代には、さぞかし難路だったんだろうと思うんだ。甲府から清水まで、何日位で行けたのかな?」
其処で正太郎はダイエットコーラを飲むと、一息ついた。
「ああ、ごめん。江尻城だったね。そう、もともと、清水は今川領だよ」
「ならば、如何して?」
「先刻、過ぎた南部町あたりが、土地の豪族である穴山氏の領地。恐らく、此の辺りが武田方の最前線だったと思うよ。此処から、清水に抜ける国道52号線ルートは、実際、歩いてみると分かるけど、高低差があって、結構、峻険だよ。勿論、尾根伝いに安倍奥に抜ける道もあるけど、其れは更に峻険で、とても、軍用路と謂える様な物じゃ無い。今でも、車で抜けられる道はないし、鎖場なんかがあるくらいだからね。結局、領地の目安は今の県境と大差無いと思う」
祐子といずなと敬介が正太郎の話を聞き入っている。更に、正太郎が続けた。
「ところが、此の辺りの地政学を一変させる様な出来事が起こったんだ。武田、今川、後北条による、『甲・駿・相三国同盟』さ。俺は、此の出来事により、大きく、日本史が動いたと思っている」
「へえ、如何して?」
祐子が興味深げに尋ねる。時々、富士川が視界に飛び込み、正太郎が謂う様に、西岸を走る国道52号線の洞門が見え隠れする。
「其れ迄は、此の三国、事あるごとに、小競り合いを繰り返して来ていたんだ。然し、此の同盟を境に、日本史上、有名な出来事が続発する事となる。三国とも、後顧の憂いが消失した事で、対外的に膨張し始めている。武田は小豪族がひしめく、信州を手中に収め、北信濃の覇権を巡って、上杉と衝突している。『川中島の合戦』の背景は、此の同盟だったと思うよ。北条は関東侵略を推し進め、瞬く間に、関東を手に入れた。また、今川は後背の懸念が無くなった事で、遠江、三河と手に入れ、西進を本格化させ、結果、『桶狭間の戦い』で義元は討たれてしまった」
「本当だね。そう考えると、日本史でも有名な事件ばかりだね」
「が、今川氏真の代になると、今川家の力の衰憊が甚だしくなった。三河の松平の独立に端を発し、最後は、武田と松平の間で交わされた、大井川を境に東を武田、西を松平という密約により、滅ぼされてしまった。独ソ不可侵条約下のポーランドみたいなもんだね。そして、其の後に出来たのが、江尻城と謂う訳さ」
いずなと敬介が口々に感心した。
「ふーん。正ちんすごいね」
「本当だよ。中々、面白い」
正太郎はちょっと顔を赤らめ乍ら、
「好きなだけだよ。しかし、此れに因り、武田は、永年、渇望していた、海への出口を手に入れた。港を手に入れた事で、交易ルートと塩を手に入れる事が出来た。甲州は山国だけに、塩の入手は困難だ。実際、上杉謙信の『敵に塩を送る』と謂う、エピソードもあるくらいだ。また、今川氏真は、『塩止め』という、塩の交易禁止にも踏み切っている。だから、信玄が駿河侵攻と同時に、江尻城を築城したと謂う訳さ。重要な海への拠点だからね。其れに、江尻津(清水湊)には、武田水軍という名の海軍も、置かれていたらしいよ」
いずなが疑問を口にした。
「でも、いくら、『桶狭間の戦い』で主将を討たれたからって、其れだけで、衰退するって、あるのかなあ」
旅の無聊を慰める様な閑人閑話ではある。正太郎は、斯う謂った話柄が途轍もなく好きなのだろう。頗る、楽しそうに見えた。いずなが少し話の腰を折る様に、呟いた。
「あれ、富士川がみえなくなっちゃった」
正太郎も車窓に目を落すと、徐に呟いた。
「ああ、もうすぐ、下部温泉かな」
正太郎が呟いた様に、身延線は波高島付近から、富士川には、一旦、別れを告げて、富士川の一支流である常葉川沿いに、本栖道を北上する様な形となる。確かに開けた大河沿いの景色から、一転して、山間の渓流沿いの素朴な景色へと、風景が一変した。敬介が呟く。
「本当だ。何だか、景色が変わった」
「もうすぐ、大きな温泉ホテルが見えるよ」
正太郎の其の言葉が終わらぬうちに、下部温泉ホテルが視野に入って来た。祐子が思わず、
「うわあ、何か立派なホテルだね」
「うん、此れが見えると下部温泉だよ。景色も富士川沿いとはかなり変わるよね。此処、下部温泉は信玄の隠し湯の一つと謂われている、昔からの温泉場なんだ」
確かに、正太郎の言葉の通り、山間の渓流沿いの風景と謂った趣で、いつしか、見慣れた富士川の風景からは一変しており、湯煙が立ちのぼる温泉場の素朴な街並みが現れた。
「ムキー。此の儘、富士川とはさよならなの?」
「ううん。そんな事無いさ。暫く行くと、隧道で富士川沿いに戻るよ。」
「本当に正ちゃん。此の辺りの地理に明るいね」
祐子が感心した様に謂うと、正太郎も応える。
「此の辺も、散々、歩いたからね」
「其れより、正ちん。桶狭間の戦いの後の話。今川の衰憊の話。義元が討たれたから、一族が滅んじゃうって件」
「ああ、そうだったね」
正太郎も思い出したらしい。とても楽しそうに答えた。
「思うに、それだけ組織が属人的だったんだろうね。ただ、一つ謂えるのは、今川義元が小説やドラマで描かれるように、暗愚な武将ではなかったと思うよ。寧ろ、高いカリスマ性を持った有能な武将だったからこそ、討たれた後の今川家の衰退が激しかったんじゃないかな。大体、『桶狭間』自体、知多半島の付け根くらいの場所なんだが、正確な場所は良く分かっていないらしい。桶狭間が山なのか窪地なのかもはっきりしないらしいが、最近では小高い丘のような地形であったらしい。今川方が油断していた。あるいは、織田方が情報収集の末、奇襲をかけた。いろんな説が有るけど、真相は、はっきりしないのが、実態みたいだよ。ただ、今川方は幾つかの砦を攻略し乍ら進軍していた訳だから、今川方の戦力は相当分散していたのだろうね」
祐子も疑問を口にした。
「でも、中学の時、歴史の授業では、今川方25000に対して、織田方3000って習ったけど。其処迄、戦力差があったのなら…」
正太郎が答えた。会話自体を楽しんでいる様であった。
「そうだよ。でも、それって、駿河を発った時の兵力であり、今の研究では、今川方の本陣兵力は、会戦時はせいぜい、数千、多くて5千位だった様だよ。其れと、大豪雨の中での戦いだったらしい、若し、そうだとしたら、略同数の、視界が利かない雨中遭遇戦で、しかも、片や、土地勘の有る尾張勢な訳だから、此の結果も当然なのかもしれないよ」
「成程ねえ」
敬介が感心した。正太郎が更に、続けた。
「そして、今川の領土半分を手にした武田も躓く時が来た。『長篠の戦い』だ」
敬介が謂った。
「ああ、それなら、知っているぜ。有名な鉄砲の三段撃ちだろ」
正太郎がニヤニヤし乍ら謂った。
「いや、如何も其れも、後世の創作らしいんだ」
「えっ、そうなの。学校でも、そう、教わったよ」
祐子も驚いた。
「『長篠の戦い』は長篠城をめぐる設楽ヶ原で行われた戦いなんだが、織田・徳川連合軍3万8千に対し武田方1万5千となっている。先刻、敬介が謂ったとおり、鉄砲の三段撃ちが有名だが、どの、資料も三段撃ちの記述は無い。信長の史書である、『信長公記』ですら、大量の鉄砲を投入した、とあるだけさ」
いずなが謂った。
「でも、何で?」
正太郎が楽しそうに答える。
「結局、歴史ってのは、勝者の歴史って事だろ。勝者を華々しく、劇的に描く事で、勝者の決断の無謬性が演出される事になる。『桶狭間の戦い』と同じさ。敗者はただ、歴史に埋もれて行くだけだよ。設楽ヶ原は単純な平原じゃない。川あり、丘陵ありの河岸段丘の様な、複雑な地形だよ。しかも、織田方は、此の時、かなり巧妙な陣城(野戦陣地)を作っている。そして、攻撃方は少数の武田方だ。近代の用兵思想に『攻撃方3倍の法則』と謂うのが有る。攻撃方は守備方の3倍の兵力が必要、と謂う考え方なんだが、此の時に関して謂えば、兵力比は真逆。しかも、織田方は陣城を築いて待ち構えている。多くの武田方の重臣達は撤退を主張したそうだが、勝頼は聞き入れなかったそうだ。鉄砲の三段撃ちが無くても、かなう訳、無いよ。実際、此の戦いで、武田方の有名な武将が多数討ち取られている。江尻城の馬場信春、山県昌景等も戦死している。結局、其れが、命取りとなった。勝頼は命からがら、甲斐の国に逃げ帰ったが、此の戦いによる、重臣の大量の戦死が後々に響いた。櫛の歯が欠ける様に、家臣が欠けていった為、領国経営に支障を来たし、最後は武田家の滅亡となった訳さ」
祐子が興味深そうに尋ねた。
「江尻城は如何なったの?」
「其の後の江尻城主は、穴山梅雪だったけど、家康に調略されて、徳川方に寝返った。徳川方は無血で江尻城と、此の峡南地区(山梨県南部の富士川沿い一帯)を手に入れている。結局、滅ぶ時はこんなもんなんだろうね。でも、こんな話、退屈だろう」
敬介が目を輝かせて謂った。
「いや、そんな事ないよ。すごく面白かった。『その時、歴史は動いた』を、見ている様だった」
正太郎は照れ乍ら謂った。
「よしてくれよ。恥ずかしい。好きなだけさ。扨、どの辺かな? おっ、もうすぐ、鰍沢口か」
祐子は思った。此れが、正太郎なんだと。正太郎は小学校時代から、教科書に載っていない様な知識は途轍も無く豊富だった。そして、良く嘯いていた。『俺は、勉強は嫌いだよ』と。確かに其の通りかもしれない。然し、自分の好きな事は、徹底的に掘り下げる。本人は勉強をしている心算は、全く無いのだろう。だが、小学校、あるいは、中学校で此れだけの知識を持っていたら、其の教科は満点のレベルだろう。正太郎の知識は、別に、歴史だけでは無い。地理や化学、生物、国語と多岐に渡っている。特に、雑学に到っては比類を見ない。恐らく、此のメンバーの中でも屈指だろう。果てしなく如何でも良い様な知識が、好きなのだ。祐子にとって、社会や理科は、無味乾燥な暗記教科であるが、恐らくは正太郎にとっては違うのだろう。学者肌、と謂うよりも、芸術家が、芸術を愛するような感覚なのであろう。同様の印象をいずなも持った様だ。
「正ちんすごいね。私、教科としての歴史を此処迄、楽しそうに話す人、初めて見た。クイズ大会のあの博識ぶりも頷けるね。ケースケ君の地理もそうだけど、何か尊敬しちゃうな」
正太郎は、ますます、照れ乍ら謂った。
「中学時代に、全教科、満点をとった人間が、何を謂いやがる。俺からしてみれば、祐ちゃんや、いずなや、高志みたく、全教科、穴が無い人間の方が、瞠目に値するよ。オールラウンダーって謂うのかな。大したもんだよ。なあ、敬介」
「ああ。でも、お前らと話すと、勉強したくなるよ。追いつかなきゃって思ってな。今日は、勉強道具持ってこなかったけど…」
「やめてくれ、今回は、夏合宿と違って、純粋に楽しもうと思っているんだから。この、3日間は勉強はしないつもりだから。あっ、如何やら、甲府盆地に入ったみたいだよ」
成程、甲府盆地とは良く謂ったものである。四方を山に囲まれている。確かに、甲府盆地に入ってからは風景が一変した。何時しか、列車左手に見えていた、山々と大河が消え、田畑が続く様になって来た。笛吹川の鉄橋を渡ると、列車は甲府盆地の穀倉地帯を北へ疾走する様になる。目の前を甲府盆地の北壁を織り成す山々が迫り、頓て、中央本線とぶつかると、西へ大きく曲がり並走する事となった。そして、進行方向右手に、ホテルであろうか、白い大きな建物と、瓦斯タンクを横目に、其の儘、山梨県都の玄関口である甲府駅のホームに滑り込んで行ったのである。果て扨、ボストンティーパーティによる、でこぼこ温泉道中記。一体、如何なる事やら…。今月、今宵は、此処迄にしたいと存じます。
プラネタリウムの上演映画に端を発した、其処は彼と無い文学論議。旅の徒然のなる儘に、能天気な面々が奏でる石和温泉旅行編第2弾。次回、『第38話 俺たちの銀河鉄道(石和温泉旅行編【2/6】)』。お楽しみに。




