第33話 カッサンドラーの憂鬱【後編】
さて、話は30分程前に遡る。ひろみといずなは手分けして、校内を探し回っていた。如何しても、祐子は見つからない。いずなは、まさかとは思ったが、念の為、校舎の屋上に上がってみた。屋上には常時、鍵が掛かっていたが、其の鍵が本来の機能を果たしてはいない、即ち、壊れている事を思い出したのだ。確か女神ちゃん騒動の時も、其れを利用して進入したのであった。祐子は居た。ぼんやりと景色を眺めている。其の内、酔歩蹣跚とした状態で、ふらふら歩き出したのだ。
(う、嘘。まさか?)
最早、一刻の猶予も無い。いずなは大急ぎでひろみにメールを打つと、咄嗟に飛び出し、大声で叫んだ。
「祐子ぉー」
祐子もいずなに気がついた。顔中涙でくしゃくしゃだった。祐子にしてみれば、飛び降りる心算など皆目無く、本当に無意識のうちに、ただ、蹣跚と歩を進めただけに過ぎなかったのであるが、いずなには、其の様な事など判らない。然し、二人は互いを抱き締め合うと号泣した。
其処へ、ひろみも駆けつけた。三人で気が済むまで泣いた。少し落ち着いたところで、いずなが謂った。
「ごめんね。ゆーちん。いずなが変な事頼んだばっかりに。其れに、正ちんで無くてごめんね」
「いずなちゃん。心配かけてごめんね。私、正ちゃんに嫌われちゃったみたい。如何せ、嫌われたのなら、いっそ正ちゃんの事、嫌いになってやろうと思ったの。でも、出来なかった。小学校の頃のお兄ちゃんみたいな、正ちゃん。中学校の時の輝いていた、正ちゃん。高校入学した時の親切で優しい正ちゃん。花見の時に、照れ乍ら花を摘んでくれた優しい正ちゃん。竜爪山に登った時、命を救ってくれた頼もしい正ちゃん。学校祭での、クイズ大会の時の博識な正ちゃん。合宿の時に一緒に星を見て、夢を語ってくれた正ちゃん。お誕生日の時に、照れ乍ら贈り物をしてくれた正ちゃん。みんなとバカやって、面白い事謂って、飄々として、剽軽者の癖に、ロマンチストで、寂しがり屋で、繊細で、優しくて、素敵な正ちゃんばっかり、…無理だよ。嫌いになんて…なれないよ」
「ゆうちん。心配しないで。いずなが絶対に何とかしてみせる。どんな手を使ってでも、必ず、元の鞘に収めてみせる」
「大丈夫だよ。祐子。私も力ずくでも、元の鞘に収めてみせる」
扨、話は再び赤灯台に戻る。正太郎は、おずおずといずなとひろみの横を通り抜け、寂しく佇んでいる祐子の方に歩み寄って行った。通り抜ける時、いずなとひろみに、小さな声で、其れでいて、心底申し訳無さそうに、
「本当にすまない。迷惑を掛けた」
と謂い、祐子に近づいて行った。
「正ちゃん。あのね…」
正太郎が遮った。そして、祐子に深々と頭を下げると、斯う謂った。
「祐ちゃん。本当にごめんなさい。許して貰えないかも知れないけど、もう、手遅れかも知れないけど、本当にごめんなさい。昨日からずっと考えていた。変な事も考えた。でも、思い出すのは、祐ちゃんの笑顔ばかりだ。俺、祐ちゃんの笑顔が大好きだ。やっぱり、祐ちゃんがいない世界なんて考えられないよ。俺なんか、祐ちゃんの為にならないかもしれない。不釣合いかもしれない。でも、もう一度、チャンスをもらえるのなら、やっぱり、傍にいて欲しい。本当に酷い事をしてごめんなさい。如何か赦してください」
「正ちゃん。私、例え、嫌われても、やっぱり、正ちゃんの事が好きです。だから、迷惑掛けないから、傍にいさせて下さい。お願い…」
「迷惑だ何て…。俺は祐ちゃんにいて欲しいんだ。本当にごめんね」
「ううん。それと、隠していて、ごめんなさい」
正太郎は、目の前にいる、飛び抜けた才能を持つ、16歳のごく普通の、少々、肥満気味の少女を強く抱きしめた。
「ごめんね、つらかったんだね。苦しかったんだね。もう、無理しなくていいから。敬介みたく気づいてあげられなくて、ごめんね」
祐子は、正太郎の腕の中で激しく泣き噦っていた。号泣だった。
「私、…正ちゃんの傍にいていいの?」
「勿論。俺の方こそ。祐ちゃんが許してくれるなら、…一生、傍にいたい。…それと、遅くなっちゃたけど、…優勝おめでとう」
ひろみといずなが安堵して、ホッとした様に顔を見合わせた。そして、ひろみが涙を拭い乍ら謂った。
「今の、プロポーズだったよね」
いずなも、涙を拭いて頷いた。
「うん。すごかった。良かったね。ゆうちん」
祐子も涙を拭い乍ら謂った。
「もう、いずなちゃんの意地悪。でも、いずなちゃん、ひろみちゃん、本当にありがとう。それと、みんな、隠していてごめんなさい」
そして、みんなに向かって頭を下げた。それを見ていた、正太郎も、みんなに謝った。
「ごめんなさい。またみんなに迷惑をかけた」
と謂って、一生懸命に頭を下げた。
「別に謝る事じゃないわよ。正太。友達でしょ。でも、若し、あの場で祐子を捨てていようものなら、顎を粉々に粉砕していたけどね」
ひろみが、真顔でかなり物騒な事を、けろりと謂ってのける。高志もしたり顔で続く。
「其れに、祐子ちゃんも謝る事は無いだろ。人間、秘密があって当然だ。俺だってみんなに内緒にしている特殊能力位、あらあな」
ひろみが醒めた顔で問い糾す。
「へー。どんな?」
「どんな女でも、胸のカップサイズを謂い当てる事が出来る。其れも、かなり正確にだ。例えば、いずなはA、お前はB、但し、Aに近い。そして、祐子ちゃんはHだ。ぐへえぇっ」
「黙んなさいよ。此の女性の敵。そう謂うのを、鶏鳴狗盗って謂うのよ。全く以って、しょうもない」
「ムキーッ。ひろみっち。もう一発。鶏の鳴き真似男にもう一発」
祐子も真っ赤になって怒る。
「全然、違う。正確じゃない。頗る不正確。だって、私、Eだもん。全く、もう…」
然し、此れには、多分に祐子の見得が含まれている。実際の処、近頃の祐子のブラジャー事情は、Hでも物足りなく、愈々、Iの範疇になりつつある。
「だが、俺は知ってるぜ、いずな。お前はAでも、やや大きめだろ? 多分、AAカップ位。だから、俺は心の中で、AAカップの事を、密かに『いずなカップ』と、命名して呼んでいるんだ」
いずなが真っ赤になって吼える。
「ムッキーッ。ひろみっち。此の無礼者の毛皮泥棒を何とかしてー」
「あいたたた…」
ひろみが高志の腕を、後ろ手に捻りあげ、素っ気無く謂った。
「いずな、此れで良い?」
いずなはぷりぷりし乍ら謂った。
「うん、良いよ。全く、ハロゲン族は…。本当に、失礼なんだから…。だけど、ケースケ君、いずなの事はすぐ分かったのに、ゆーちんの事は、全然、気が付かなかったの?」
「うん。全然気が付かなかった。勿論。えらく頭が良い子だな。とは、思ったけど…。其れに、俺、いずなちゃんの事ばかり見ていたし…」
敬介がもじもじし乍らも、惚気る。
「ウキーッ。そう謂う恥ずかしい事、謂っちゃ駄目。もう、おてて繋いであげないよ。…そりゃ、いずなも、本当はね…すごく嬉しいけど…。みんながいる処では、絶対禁止」
「うひゃあ。ごめんね。いずなちゃん」
敬介といずなのじゃれ合いを他所に、ひろみが悲しげに首を振り乍ら謂った。
「でも、正太は、全然、気づいてなかったんだね。不思議だよね。昔からいつも一緒にいるのにね」
「うん。全然気が付かなかった。勿論、えらくおっぱいが大きな子だな。とは、思ったけど…。其れに、俺、祐子ちゃんのおっぱいばかり、見ていたし…」
祐子が真っ赤になり、当然の事乍ら、憤慨する。
「もう、正ちゃんのエッチ…。何よ、今の」
「えっ。俺じゃないよ。今、謂ったの、高志だよ。此奴、得意なんだ。声帯模写が…」
「えっ、そうなの?」
「大体、いくら、祐ちゃん相手でも、俺が女の子に面と向かって、彼処まで、明白に下品な事、謂える訳ないだろ。抑々、そんな度胸もないよ。然し、…全く、鶏鳴狗盗の故事、其の儘だな」
いずなが素直に感心した。
「ムッキー、すごいね。正ちんの声、其の物じゃないの。内容はハロゲン族、其の物だったけど」
「なっ。誰にも、特技の一つや二つあるんだよ。抑々、其れに、ショックを受けて、突っ走る方が間違い」
高志がニヤリとする。
「あれっ。俺を責めないんじゃなかったけか?」
高志がけろりとして謂った。
「ああ、責めないよ。だけど、お前も祐子ちゃんも笑顔になった今なら、話は別だ。今だから、責めるんだ。今なら、聞く耳も持っているだろう。もうこんな事も無いとは思うが、今度あったら、祐子ちゃんがどんだけお前の事を想ってくれてたか、思い出してみるんだな。尤も、お前も、俺に謂われるまでも無く、昨夜から一晩かけて、それを考えたから、今、此処にいるんだろ」
「…ああ。本当に済まなかった」
高志が急に何かを思い出した様に、高らかに叫んだ。
「そうだ。思い出した。確か、正太の説得に成功したら、触らせてもらえる筈だったよな。ひろみのおっぱいとおま●こ。此の状況は、如何考えても任務完了だろ…。ぐへぇっ」
ひろみが真っ赤になり乍ら、肘打ちを放ちつつ謂った。
「乙女になんてえ事、謂うのよ。此のとんちき。後者は約束すら、して無かったわよ」
「いてて、なら、前者は良い訳だ。何処にする。インター前か? 鳥坂か? なんなら、お前んち近所の、千歳町界隈にするか?」
「バカ謂わないで。私、あの界隈二度と歩けなくなるじゃないの。いずな、お願いだから、此のうすらとんちき何とかしてぇ」
ひろみが泣き声を挙げる。いずなは諦めた様に肩を竦め乍ら、斯う謂った。
「ひろみっち。もう、諦めた方が良いよ。其のうすらとんちきを選んだのはひろみっちだし、其れに、ひろみっち、とんちきに謂ってた。『何でも謂う事、聞いてやる』って」
「こんな時に、能力発動しないでよ。あれは、唯の言葉の綾でしょ」
祐子が正太郎の後ろから、小声で心配そうに囁いた。何時の間にか、祐子も何時もの定位置に戻っている。
「正ちゃん、正ちゃん。ひろみちゃん、困っているよ。私達のせいだし、ひろみちゃんを助けてあげないと…」
「大丈夫だよ。高志流の冗談だ。あんな状況の俺の意向ですら尊重しようとする奴が、ひろみの意向を尊重しない訳が無い。あいつ、謂う事は下品此の上なく、袒裼裸裎な奴だけど、俺達の中で一番紳士だよ」
「お願いだから。何か、別の事で」
混乱の極にあるひろみが、高志に懇願する。
「仕方がねえなあ。じゃあ、ストロベリーパフェで手を打とう」
「分かった。奢る。奢る。奢る」
「あのなあ…。違うって。俺が奢るんだよ。みなと祭りの時の約束。もう忘れちまったのか。あん時のストロベリーパフェ1回分、未だ残っているだろ。ちったあ、いずなや祐子ちゃんを見習えよ。だから、其の約束を履行させろ」
正太郎が祐子に、ニッコリと微笑みかけた。
「ねっ」
「本当だ」
みんなが帰る頃はもう、辺りは漆黒の闇であった。正太郎と祐子はみんなに、丁寧にお礼とお詫びをしていった。特に正太郎は誠心誠意お詫びをしていた。如何に混乱していたとは謂え、祐子と別れる寸前であったのだ。みんなと別れた後、正太郎は祐子に、今一度、丁寧に謝った。
「祐ちゃん。本当にごめんね。俺、本当に如何かしていた。祐ちゃん、気を悪くすると思うけど、あの、優勝の瞬間、俺、祐ちゃんの事、…化物。と、思った。それに、ホテルの前の事だって、あんな謂い方すれば、祐ちゃん泣いちゃうかもしれないと思ったけど、謂ってしまった。それに、家に帰ってからも、謝ろうと思ったけど、出来なかった。今日、敬介の話を聞いていて、とても、恥ずかしかった。敬介はいずなの事、あれだけ理解して、守ってあげようとしていたのに…。祐ちゃん、こんな俺なのに、許せるのか?」
「許すも何も無いよ。私は正ちゃんに嫌われなくて良かったって。それに、正ちゃん、先刻、自分にとって謂いにくい事、謂ったよね。私、そんな、真っ直ぐな正ちゃんが大好きだよ。私だって、昨日、メールを送ろうと思ったよ。でも、振られるのが怖くて出せなかったの。…ごめんね」
「昨日、祐ちゃんの事ばかりを考えた。でも、思い出す祐ちゃんって、笑顔の祐ちゃんばっかりだ。もう、笑顔が見られなくなっちゃうと思うと、悲しかった。然も、引き金を引いたのが俺だと思うと、気が変になりそうだった」
「ありがとうね。もういいよ。正ちゃんもすごい苦しんだんでしょ。私、正ちゃんの事は、前と変わらずに、ううん、前以上に大好きだよ。だから、もう、謝らないで」
「うん。此れで最後にする。本当にごめんなさい。そして、此れからも、よろしくお願いします」
「はい、…よろしくお願いします」
にっこりと微笑んだ祐子の眼に、再び涙が光っていた。二人は自転車を引き乍ら、夜の繁華街を歩いて行った。
正太郎はドキリとした。祐子の輝く様な笑顔に対してである。
(一体、何時の頃からだろう)
そう、考えずには、いられない。正太郎が物心ついた頃には、何時だって祐子は、必ず正太郎の傍に居た。振り向けば、其処には常に祐子の笑顔があった。はにかんだ笑顔、遠慮がちな笑顔、ぱあっと花開く様な輝く笑顔。祐子の笑顔は幾つもあったが、兎に角、正太郎は祐子の笑顔が大好きだった。特に、ぱあっと花開く様な輝く笑顔が一番好きだった。
(小学校の頃は未だ素直だったな)
そう、思わざるを得ない。祐子の笑顔を見たいが為に、花を摘んだり、髪飾りを造ったりした。祐子とクラスが違った3年生の頃は、何時も祐子のクラスへ行き、一緒に帰っていた。そんな時、祐子は何時でも正太郎を待っていた。祐子の方が先に終わった時は、正太郎のクラスへ祐子が来た。
「祐子、一緒に帰ろう」
「うん!」
正太郎が声を掛けると、其れを待っていたかのように、決って祐子は、弾ける様な笑顔を見せるのを常としていた。小学校の頃は一緒に帰るときは、何時も手を繋いで帰ったものだった。頓て、4年の頃、正太郎は修吾や六助に誘われサッカー部に入り、祐子と一緒に帰る機会はグンと減った。其れでも、祐子の笑顔は正太郎の日常であった。然し、中学校に入り祐子と疎遠になってから、何時しか、祐子の笑顔は日常では無くなっていた。そして、高校時代に至るのである。今の生活は祐子の笑顔が日常と謂えるのだろうか? 正太郎は、そんな事を回想していたのである。
(一体、何時の頃からだろう)
今一度、正太郎は自問した。其の笑顔が無償の物と思う様になったのは。そう思い至った時、正太郎は今回の振る舞いを、只管、恥じていた。
何時しか、昨日のホテルの近所だった。件のファッションホテルは『リバー・サイド・ホテル』と謂い、巴川河畔に面した、割と澹乎で趣のあるホテルであった。然し突然、其の前で祐子は、否、アポロンを取り戻したカッサンドラーは、突如として、其の歩みを止めたのである。正太郎が驚いて、訝り乍らも、何の気無しに尋ねた。
「如何したの? 祐ちゃん。何処か具合でも悪いの?」
祐子は下を向いた儘、真っ赤な顔で頻りに、ブンブンブンと頭を振っている。此の辺りが、正太郎が朴念仁と謂われる所以でもあろう。祐子は真っ赤な顔をし乍らも、じっと、下を向いた儘、其処から動こうとはしない。木枯らしが吹きぬける中、地元進学校の制服姿の女子高生が俯いて佇んでいるのは、疎らではあるものの、人の往来のある通りのファッションホテルのまん前。即ち、所謂、ラブホテルの入口の前なのである。
祐子は眦を決した様に謂った。
「あの、其の昨日は、拒絶して…ごめんね。でも、…其の」
如何に朴念仁な正太郎と謂えど、流石に何かを察した様である。
「そんな、申し訳ないよ…。抑々、俺にそんな資格も無いよ。昨日だって、其の、…欲望の赴く儘に祐ちゃんの事を微塵も考えずに…」
祐子は下を向いた儘、殊更赤い顔で、屹然と謂い切った。
「…でも、私にだって、…あるよ」
正太郎は、激しい混乱の中、明らかに述語が欠如した祐子の台詞の、述語に該当する言葉を懸命に探していた。勿論、正太郎は、咄嗟には分らなかった。然し、いくら朴念仁である正太郎であっても、文章の前後、否、状況の前後からの推測は出来る。其れは、何時も祐子の豊満な胸や大きなお尻を見たときに、衝動的にムラムラと巻き起こるアレでは無いかと推測はした。現に、正太郎が昨日祐子に、混乱の余り性衝動を叩きつけようとしていた事を、吐露した直後の祐子の台詞なのである。そう考えるのが、頗る妥当であろう。だが、正太郎には、其れが正解である自信はまるで無い。然し、此れが若し、例えば国語の試験であれば、選択肢の中に、性衝動、若しくは性欲と謂う言葉があって然るべきだと思ったし、若し、其れらの単語が選択肢の中にあれば、正太郎でも容易に選択し得たであろう。だが、本当に此れが正解なのだろうか? 本来、此の二つの単語は、祐子には最も縁遠く、そぐわないものだ。そして、当然の如く正太郎は、勝手にそう思い込んでいた。祐子は謂わば、正太郎にとって、無垢な聖女の様な存在なのである。正太郎自身、祐子に対して、激しい性衝動を抱く度に、そんな祐子に対して申し訳ない。勝手にそう思い込んでいたのだ。良くある、思春期の幻想と謂う奴である。然し、常識的に考えれば、人間には男性と女性しか居ないのである。其の片方にしか性衝動が無い等と謂う事は、本来、有り得ない事なのである。そんな、下を見つめた儘の祐子が、真っ赤な顔でホテルの方をチラリと見ると、徐に呟いた。
「あのね、…祐子。行きたい」
「!」
驚愕する正太郎をよそに、祐子は最後まで謂い切った。
「今日は…。私が、その…、正ちゃんと一つになりたいの…。祐子が正ちゃんを欲しいの。…駄目かな」
一方、高志とひろみは約束のストロベリーパフェを食べるべく、新清水駅方面に向かっていた。二人とも自転車を引いている。ひろみが突然、切り出した。
「高志。今日はありがと。本当に、有難う。お陰で、祐子は救われた」
「俺は、何にもしちゃいないさ。赤灯台に来た時には、正太は既にあの結論を選んでいたんだ。あとは、正太が祐子ちゃんに頭を下げるだけだったのさ。強いて挙げれば、敬介の説得かな。彼奴の実直で朴訥な説得が、正太の心を打ったのさ」
「何でそう思うの」
「そりゃあ、だって、正太が祐子ちゃんと別れる決心をしたのであれば、俺達が待ち構えている赤灯台になぞ、来る訳なんか無いだろ。普通に無視だ。正太が来たと謂う事は、図らずも、正太が元の鞘に収まりたがっている。或いは、戻りたいが背中を押してくれ、と謂う事だったのさ。他に合理的な解釈の仕様が無いだろ。だから、彼奴が赤灯台に姿を見せた瞬間に、『すぐ来い』と、メールしたのさ」
「そうだったの。ところで、高志は祐子の能力に、気がついていたの?」
「ああ」
「何時から?」
高志はちょっと考え込む様な仕草で躊躇した後、斯う謂った。
「4月位からかな…」
「えーっ、何故?」
「俺の席、一番、後ろだからなあ。良く見えるんだよ。あの子、祐子ちゃん。授業で当てられた時、教科書無しで朗読してたよ。厳密には、違う教科の教科書を見乍らだったけど。最初は目を疑ったよ。其のうちいずなの噂を聞いて、『斯う謂う事が出来る人間って本当にいるんだ』って、思ったよ。でも、いずなは、割と開けっぴろげだったけど、祐子ちゃんは違っていた。徹底して隠していたからな。最初は性格の違いだと思ったけど、其のうち、正太が原因だと、すぐ判ったよ。俺が祐子ちゃんでも、正太には、徹底して隠したと思うぜ。彼奴、柄にも無く繊細だからなあ。そんな、詰まんねえ事で嫌われても損だろ。俺も、祐子ちゃんも、良くも悪くも、算盤を弾く。つまり、損得で動くんだ。だが、正太は違う。彼奴は、まず、感性で動く。理屈や道理、何よりも損得なんぞは二の次だ。そして、彼奴の感性に、間違い無くあの能力は相容れ無い。祐子ちゃんも、本能的に其れが分かっていたから、隠したのさ。そんな奴相手に、説得なんて意味がねえ。だから、気が乗らないと謂ったのさ。ただ、彼奴の良い処は、自分が間違った、と思ったら透かさず修正が利く点だ。そして、彼奴は赤灯台にやって来た。だから、勝負になったんだ」
「そうだったんだ。…でも、其の後、へんな話を持ち出した。…おっぱいとか彼処を触る話」
「わー、悪かった。本当にごめん。でも、あの場の空気。正太を悪人にする様な構図を避ける為には、笑いを取るしか、思い浮かばなかったんだよ。だから、最後はストロベリーパフェに誤魔化したんじゃねーか」
垂れ目の天使が慈愛に満ちた優しげな眼差しで、下から見上げる様に、頗る屈託の無い笑顔を向ける。
「優しいんだね。高志は。…無理にストロベリーパフェに誤魔化さなくても良かったのに…」
「…?」
「おっぱい触りたいって謂ってたし」
「…?」
「彼処も触りたいって謂ってたし」
「あの…。ちょっと?」
「合宿の時は、彼処の毛も見たいって謂ってたし」
「ちょっと、ひろみさん」
「丁度、此処は千歳町だし」
「ひろみ姉さん!」
「如何せ、私の初体験…。高志以外の人にあげる心算、…無いし」
「もし、もーし」
「…で、如何なのよ?」
ひろみは、下を向いて、真っ赤になり乍ら、ちょっと怒った様に謂った。此のやや垂れ目の勝気な天使は、其れでもかなり自身の分を超えて、背伸びをしていたのだろう。少し、震えている。のみならず、うっすらと目に涙さえ浮かべている。高志にはそんなひろみがとても愛おしく思え、そして、申し訳なかった。と同時に、此の小動物の様に小さく震える垂れ目の天使を、自身の性衝動の赴く儘に、無茶苦茶にしてみたいと謂う嗜虐的な思いも、不謹慎乍らも、心の何処かには、確かにあった。然し、結局の処、理性が勝った。だが、よくよく考えてみれば、此の場合、理性が勝利しようと敗北しようと、実際、結果として、同じ事ではあった。高志は、天使の顔をまじまじと見つめ、ふうっと、小さなため息を吐くと、肩を竦め乍ら斯う謂った。
「此の状況で、如何も斯うも、ねーだろ」
そして、居住まいを正すと、斯う続けた。
「…すまん、ひろみ。無理をさせた。其れでは、ひろみちゃん、いや、ひろみさん。…其の、良いかな?」
「…うん」
二人は千歳町のとあるホテルに、手を繋ぎ乍らも、人目を憚る様に入っていった。ロビーでは、愛を育む煌びやかな部屋を選択するパネルの前に向かった。高志、ひろみ、二人とも、所謂、初体験である。心臓が早鐘の様な鼓動を刻んでいる。今なら此の二人も、何時ぞや筆者が患った不整脈の状況を、極めて正確に体感してくれる物と思う。パネルの前には、もう一組、手を繋いだカップルが佇んでいる。其れを認めた高志とひろみは一瞬、慄然としてたじろいだ。偶然、其のカップル達も人の気配に気がついたのだろう。後ろを振り返った。そして、カップルが振り返った時に、瞬間的にお互いの目が合った。
「う、嘘。…祐子?」
「…ひろみちゃん?」
「げっ、高志」
「正太郎…」
将に、驚愕の瞬間である。だが、或る意味、此の組み合わせで良かったのかも知れない。何故なら、此の組み合わせだからこその、奇妙な安心感があった。然し、一方で、筆者にも経験があるが、此れは此れで、流石に超恥ずかしい。況してや、正太郎たちは未成年。然も其の内一組は初体験同士である。一同、無言の儘、混乱の極にあった。扨と話を戻す。正太郎と高志がツツツーッ、と移動しあって小声で囁きあった。高志がまず謂った。
「バカヤロー。お前ら、帰ったんじゃなかったのかよ。お前は兎も角、祐子ちゃん、制服じゃねーか。制服でこんな処に来やがって、一体、如何謂う心算だ。大体、お前ら停学明けだろ。バカじゃねーのか?」
「お前らこそ、二人とも制服じゃねーか。それに、停学明けはお互い様だろ。抑々、こんな処で何やってんだよ。今度こそ、停学処じゃすまねーぞ」
「俺達は、其の、…ストロベリーパフェを、食いに来たんだよ」
「こんな処にか? 何処の世界に、こんなところにストロベリーパフェを食いに来る馬鹿が居るんだ? 明白な嘘吐いてんじゃねー」
「おまえらこそ、何なんだよ?」
「俺んちも、祐子んちも巴川縁だ。唯、単に道を間違ったんだよ」
「道を間違っただあ? ふざけんな。何処を如何間違ったら、此処へ来るんだ。2キロも離れてるだろうが。抑々、ベクトルがおかしいだろ。見え透いた嘘こきやがって」
「…」
暫しの沈黙の後、正太郎が呟いた。
「…やめよう」
「…ああ」
「健闘を祈る」
「ああ」
「今日の事は」
「他言無用な」
正太郎は高志に更に近づくと、ひそひそと耳元で囁いた。
「お前、分かってると思うが、ちゃんと避妊具を使えよ」
「…ああ、分かってる」
「彼処も、ちゃんと洗えよ」
「お、おう」
「歯、磨けよ」
「…」
「宿題、やれよ」
「…ドリフかよ。馬鹿野郎」
「また、来週!」
「喧しい!」
「よし。話は着いた。行こう、祐ちゃん」
「一体、何の話なのよ。もう」
祐子が呆れる。正太郎と祐子は405のボタンを押すと先にエレベーターを上がって行った。高志とひろみは呆然とし乍ら、二人を見送っている。其れもそうである。なにしろ、あの正太郎と祐子なのである。目が点になるとは将に此の事だろう。高志は首を振り乍ら、呟いた。
「正太め、あの野郎、完全にいつもの彼奴に戻ってやがる。全く以って、現金な野郎だ」
「良い事じゃない。其れよりも、祐子だよ。あの、祐子だよ。私、未だに目を疑ってる。本当に祐子だったよね?」
「ああ、其れも彼奴ら、恐らく、今日が初体験じゃない」
「ねえちょっと、嘘でしょ。あの、正太と祐子だよ。奥手が、服着て、道歩いて、挙句の果てに、何かの間違いで告っちゃった様な二人なのよ」
「だって、聞いたろ。先刻のあの会話。如何聞いても初体験のラブホじゃねーだろ。余裕綽綽じゃねえか。くっそー。前々から、妙な感じはあったんだよな。合宿の前位から…。野郎、此方が猥談してても、酢を飲んだ様な顔してやがるしよ、あの助平が、変だ変だとは思ってたけど、相手があの祐子ちゃんだったからな。四方やこんな事はあるまいと…。くっそー、油断した」
「未だに、信じられない…」
高志とひろみは406のボタンを押して次のエレベーターで上がっていった。入室すると、ひろみはもじもじし乍ら謂った。
「あの、高志。私、かなり、胸ちっさいよ」
「んな事。分かってるよ。…それより、その、何て…呼んだら良い?」
「何でも良いわよ。…待って、あの、…ちゃんづけでも良い? 高志の事は、高志君で…」
「うん。良いよ」
「あと、ちょっと、…恥ずかしいお願いしても良い?」
「うん」
「二人きりの時は、…其の、うんと甘えん坊になっても良い?」
「うん」
「うれしい。高志君。大好き」
「俺も、ひろみちゃん。大好きだよ」
刻一刻と其の瞬間が近づいて来る。一つ隣の部屋では、正太郎と祐子が致している。否、愛を育んで結ばれている筈なのである。
そして、ひろみと高志はかなり熱烈なキスをした後に結ばれた。思ったより、呆気無いものだった。そして、賢者タイム。高志はたった今、破瓜したばかりの、垂れ目の天使の状態を気遣って聞いた。
「あの、ひろみちゃん。…痛くなかった?」
「ううん。平気だよ。…それじゃあ、ご褒美にいい子いい子して」
「うん」
高志はひろみの髪の毛を優しく撫でてあげた。ひろみは一糸も纏わぬ姿で、布団の中で高志に抱きついた。高志も同じ姿で、優しくひろみを抱いた。
「本当は、高志君に思いっきり、甘えたかったんだ。…変かな」
「いや、お転婆なひろみも、あっ、ごめん。ひろみちゃんも好きだけど、女の子しているひろみちゃんは、…その、すごく、かわいいから、大好き」
「よかった。うれしい…」
「本当は、不謹慎かもしれないけど、みなと祭りの夜に、其の…、浴衣姿のひろみちゃんが余りにも可愛かったから、斯う謂う処へって…ちょっと思っちゃったんだ。でもまだ、抑々、告ってもいなかったし…」
「もう。高志君の…ばか。…本当は少し期待してたんだよ。でも、高志君。紳士だから、期待薄だったけどね。じゃあ、埋め合わせにキスして。それに、来年、浴衣の時は期待しても良いのかな?」
此の、たった今破瓜したばかりの、垂れ目の天使の可憐な台詞に、高志の下半身はドキリとすると伴に、おもわず、肯いた。
「うん」
「あー。高志君、胸さわってる。ちょっと、感じちゃうんだぞ」
「あっ、ごめん」
慌てて離そうとした高志を、ひろみが優しく止めた。
「…良いよ。其の儘で」
キスの後、高志が優しく謂った。
「今日はありがとう。でも、ひろみちゃん、すごいツンデレだったんだ…」
「嫌…かな?」
「ううん。…すごく、可愛いから、大好きだよ」
「えへへ。にゃーん」
「か、かわいい…」
「じゃあ、ご褒美に、もう一回キスと、いい子いい子して。あとね。今度二人きりになった時も、…又、甘えん坊になっても良い?」
「うん。いいよ。それと、ちょっと謂いにくいんだけど。ひろみちゃんの浴衣姿想像したら、其の…又、元気になっちゃったんだ。ひろみちゃんさえ、…良ければ…其の、…良いかな?」
ひろみが真っ赤な顔を、更に赤く染め乍らも、こくりと肯き乍ら謂った。
「…うん。…もう、高志君の…H」
或る意味、ひろみのスーパーツンデレが炸裂した一日だった。
一方、正太郎と祐子は、結ばれた後、此れ又、一糸纏わぬ姿で、ベッドの上で賢者タイム&寝物語をしていた。
「驚いちゃったね。ひろみちゃんや高志君と出くわしちゃうとは…」
「うん。でも良かったよ。高志、人の事は良く見える癖に、自分の事はからっきしだもん。あの儘じゃ、ひろみが可哀相だったよ。彼奴、バカやっている癖に、紳士過ぎるんだよ」
「あら、正ちゃんもでしょ。だって、本気で私と別れるつもりなら、絶対に赤灯台なんかに来ないでしょ」
「うん。本当にずるいけど、行けばみんなでよってたかって、正してくれると思った。みんなで、力ずくでも、祐ちゃんの前に連れてってくれると思った。卑怯だよね。本当は、祐ちゃんにメール一つ打てば良かったんだ。でも、拒絶されたらって思ったら、怖くて出来なかった。ごめんね」
「正ちゃん。其れは駄目だよ。謝るのは、先刻のが最後だった筈だよ。罰としてキスして。ちゃんとお口に」
正太郎は優しくキスをした。
「あのね、祐ちゃん。前に祐ちゃんが謂った様に、お金を割り勘にするのと同じで、隠したり、我慢したり、無理したりするのは無しにしよう。長続きしないし、お互いにつらいだろ。本当は何でも謂い合えれば、一番いいと思うけど、祐ちゃん優しいから、飲み込んじゃう事も多いと思うんだ」
「其れは、正ちゃんもでしょ」
「そうかな。でも、祐ちゃんからみて、『正ちゃんそれは違っている。でも、正ちゃんに怒られそうだから謂えない』って、思ったときは、シャーロックホームズじゃないけど、一言、『円周率』って、謂ってくれないかな。そうすれば、僕は深呼吸して、10数えてから行動する」
「分かった。ホームズが失敗したあの話と同じだね。じゃあ、私が同じ様になったら、私にも、『円周率』って謂ってくれると助かるよ。正ちゃんと一緒にいる為だもん」
「ありがとう。本当に、ごめんね」
「あー。また謂った。もう、罰則一回追加。今度はもっと激しいの。…其の。先刻みたく舌入れる様なのじゃないと駄目」
「えーっ。恥ずかしいよ」
「駄目。ペナルティだから。異議は認められません」
「もう、祐ちゃんのH!」
「祐子は、正ちゃんと二人きりの時は、本当はHな子なんだもん。あっ、でも、二人きりの時だけじゃないかも」
そんな祐子が赤面し乍ら続ける。
「あのね、…本当は、いつも、正ちゃんの事を想像し乍ら、その、一人で…、その…。あと、時々、女神先生の動画を見たり…とか。正ちゃんはそう謂う事って無いの?」
祐子が頗る意外な事を、すごい早口で捲し立てる。祐子の突然の赤裸々な告白に、正太郎もモジモジし乍ら追随する。
「実は、…女神先生の動画は時々見てる」
「あー、正ちゃんのH! 祐子、ヤキモチ焼いちゃうよ」
「なんだよ、祐ちゃんだって見てるって、たった今、謂ってた癖に」
「そんなの、覚えて無いもん。あのね、あのね。他には? そう謂う時、私の事は考えたりするの?」
「謂えない」
「あーずるい。隠したり無しにとか謂っていた癖に。私は謂ったのになあ」
祐子の追及は割りと執拗である。正太郎も祐子にやり込められ、渋々、口を割った。
「僕は、その、祐ちゃんの裸とか、胸を想像し乍ら、一人で、夜、其の。頻度は大体、…週に6日くらい。あと其の、動画を見乍らとか」
正太郎は、最早、しどろもどろである。祐子はニヤニヤし乍ら流し目で流眄すると、斯う謂った。
「へー、おっぱいと裸って、本当に其れだけかなあ? 何か怪しいなあ。他に想像する事はあるの? 一体、祐子のどんな処をおかずにするのかな?」
「そんな恥ずかしい事、絶対、謂えないよ。ずるいぞ祐ちゃんばかり。祐ちゃんの事も教えてよ。例えば、先刻、一人でとか謂ってたけど、どんな事するの?」
「絶対に謂えないもん」
「わあ、ずるいぞ。それに、回数も謂って無いし」
「絶対に秘密ですよーだ。其れは」
然し、賢者タイムの気楽さでもある。正太郎の執拗な追及に、祐子も、少しだけ、遠慮がちな口を割った。
「…あのね。本当は、正ちゃんより、少しだけ、…多いかも。其の、…月に1日か2日。…しない日がある位で。…もう、正ちゃんの意地悪。早くキスして。」
全く以って、男性はいつだって女性に教えられる。其の時、正太郎は素直にそう思ったのである。頓て、二人はしっかり抱き合って、濃密なキスをして、嵐の様な一日を締め括った。
筈、だった…。
然し、若い二人の事である。お互いの此の会話に触発されたのであろうか。結局、2回戦、3回戦、4回戦迄、濃密な時間を過ごしたとの事である。初めて結ばれた時とは異なり、性欲の赴く儘に、所謂、行為を楽しんだ二人であった。まあ、要領を得た言葉で叙述すれば、要するに、『此の後、無茶苦茶、青春した』状態だったのである。全く以って、思春期の男女と謂うものは実に御しがたいものである。と、謂うよりも、実に羨ましい限りである。
翌日、金曜日は、打って変わって、強烈な冷え込みがする、どんよりとした曇りの日だった。部室にはひろみがぽつねんと座っていた。未だ、昨夜の高志の感触が、体の奥底に疼痛として残っている。部室に顔を出した祐子は、ひろみの隣に座ると、早速、小声で声を掛けた。
「あっ。ひろみちゃん、昨日はありがとね。あと、…変な所で合っちゃたね」
「て事は、アレやっぱり、本当に祐子だったんだ…。私、未だに、信じられない気分だよ」
「でも、私だって、思春期の恋する乙女だよ」
「それは、そうなんだけど…」
「高志君。優しかった?」
「…うん。すごく、優しかった。私、いっぱい甘えちゃった」
祐子は満面の笑みで、
「よかったね。ひろみちゃん」
「ありがとうね。祐子。本当はね、祐子が赤灯台で高志に告られた時、ちょっと、羨ましかったんだ。ううん、妬ましかった。いや、祐子の事は勿論大好きだよ。それに、高志のあれは、正太の背中を押す為だってのは分かってた。でも、頭では分かっていても、心がね…。ごめんね。変な事、謂っちゃって…」
「ううん。私も其の事が、ずっと、ひろみちゃんに申し訳なかったもの。ごめんね」
其の頃、部室の外側では高志が腕組みをして、眉間に皺を寄せて立っている。まるで渋柿でも食らった様な表情である。其処へ、能天気な正太郎がやって来て、早速、軽口を叩く。
「おう、如何した。深刻な顔をして。扨は、避妊具でも破れたか? 昨日」
高志は、慌てて、口元に人差し指を当て、『静かにしろ』の意を通わせると。うんと、小声で謂った。
「中で、ひろみと祐子ちゃんが密談してやがるんだよ」
「なんだと!」
二人は壁に耳を当てた。中では話が続いている。確かにひろみの声だ。
「其れに、高志が昨日謂ってた。祐子たち、多分、初体験じゃないって」
「…うん」
「で、…何時なの?」
「…灯篭流しの夜」
高志は正太郎に、思いっきり非難めいた眼差しを送っている。正太郎は真っ赤になって、小さくなっている。
「て、あんた、告られた直後じゃないの。正太の奴め。彼奴、手が早いにも程があるわ。如何にも、晩熟です。みたいな顔をして置き乍ら」
「いや、違うのひろみちゃん。あの時は、実質、私の方から誘ったの。いや、そう仕向けたと謂うか…」
ひろみは、あんぐりと口を開けている。呆れて物も謂えないとは、将に此の事であろう。其の頃、正太郎は、只管、焦っていた。
「おい、止めなくて良いのかよ? 此の儘だと、俺達の秘め事、其のうち、悉く、素っ破抜かれるぞ」
だが、高志は割合と冷静である。
「いや、待て待て。今、素っ破抜かれているのは、取り敢えず、お前の秘密だけだ。此の儘、事態を楽しもう」
「わーっ、ふざけんな、此の野郎」
一方、中の二人の会話は更に続く。
「ちょっと待って。すると、何? 一昨日、正太はあんたとそう謂う関係にあり乍ら、あの騒ぎを起こしたって謂うの? 冗談じゃないわ。良い事、祐子。今度、ああ謂う事があったら、すぐに私に謂いなさい。全く、女の子を何だと思ってんの…。顎だけでは済まさないわ。ギタギタにしてやる」
高志がニヤニヤし乍ら、正太郎に謂った。
「おーい。何やら、結構、物騒な事、謂ってるぞー。何かと大変だなあ。お前も」
「ふざけんな。だから、止めろと謂っただろうが…」
中の過激な会話は更に続く。
「あと、此れはお願いだけど、高志が浮気したらすぐに教えてね」
「うん。あのね、浮気じゃないけど、合宿の川遊びの時、何度か、どさくさに紛れて、胸を触られた…。そのうち一回は、後ろから鷲掴みにされたの。…あと、お尻も、結構、触られた」
「何ですってえ」
いきなり、矛先を向けられた高志は真っ青になる。
「おい、正太。早く祐子ちゃんを止めろ。お前の嫁だろ」
正太郎はニヤニヤし乍ら答えた。
「仕方無いな此れは。抑々、自業自得だろ」
「此の野郎、ふざけんな。祐子ちゃん、俺たちが聞き耳立てているのを知っていて、態と謂っているんだよ。くそっ、あの性悪女め。早く止めないと、然もないと、次は又、お前の番だぞ」
其の頃、中では、ひろみが熱り立っていた。
「で、祐子。高志は何処なのよ。あんた、同じクラスでしょ。知ってるんでしょ」
祐子は、ひろみの肩越しに正面の入り口を指し乍ら、小声で謂った。
「多分、其処の入り口の向こうで、聞き耳立てていると思う…」
ひろみは、最後迄、聞かなかった。憤怒の形相で部室を飛び出すと、壁にへばりついている高志の首根っこを、瞬く間に捕まえた。
「わー待って。あの、ひろみさん。いや、ひろみちゃん。勘弁。ぐへえぇっ」
正太郎はと謂うと、風を食らって早々に、匇卒と逃走している。其処へ、敬介、いずな、明彦、凛子とやって来た。敬介がニコニコし乍ら謂った。
「おー、やってる。やってる。おーい。今度は、一体、何の騒ぎだ」
「煩いわね。観世物じゃあないわよ」
ひろみが心底、怒っている。余りの迫力に、敬介が泣き声をあげた。
「わー、ごめんなさい」
明彦がニヤニヤし乍ら謂った。
「いや、如何見ても、観世物だろう。今度は、一体、何を仕出かした」
「祐子の胸とお尻を触ったのよ。然も、胸の方は鷲掴みよ、鷲掴み。私には何にもしなかった癖に」
「なんだよ、やって欲しかったのかよ。其れならそうと先に…」
「な訳、無いでしょ!」
「まあ、落ち着け。抑々、揉んで欲しいのなら、学校祭のお化け屋敷で一分弱程、揉んでやったじゃねーか」
「て事は、やっぱり、アレは最初から最後まで、あんたの仕業だった訳ね。人のおっぱいを執拗に…。然も、乳首迄摘んで。此のド助平!」
熱り立つひろみ。然し、よくよく考えれば、ひろみも、桜ヶ丘公園の花見の際に、いの一番でやられているのである。皆の冷ややかな醒めた視線が、高志に集中する。一方、高志は弁明に必死である。
「ちょっと待ってくれ、大体、昨日、今日の話じゃ無いぞ。合宿の時の話だぞ。川遊びの時の…」
凛子がすかさず左手を挙げた。
「あー、それなら、私もやられた。後ろから抱き抱える様に…鷲掴み。然も、両胸よ」
「何ですってえ、此の浮気者!」
「いや、あれは、ただの不可抗力で…。聊か、揉み応えはあったけど…ぐわぁ」
「悪かったわね。どーせ、揉み応えは無いわよ!」
ひろみの正拳突きが炸裂する。漸く、いつものメンバーにも、いつもの余裕が戻ってきた。ひろみの照れ隠しの的にされた高志には災難だったが…。
一方、其の頃、正太郎は脱出して、図書室で寛いで芥川を読んでいた。
(本当に俺は、一体、何をやってたんだろう。また、祐ちゃんを泣かせてしまった)
そう、思わざるを得ない。僅かばかりの気の迷いから、あわや、祐子と別れる寸前であったのである。祐子の能力とても、知ってしまえば何の事は無い。何で今の様に冷静に振舞えなかったかが、不思議なくらいである。其れと同時に、甚だ不謹慎乍らも、今回の一件は良かったとさえ思っている自分も居る。自分の祐子への思いを再確認できた事、そして、祐子の人間らしい一面も見えた事である。ちょっとHな普通な女の子。正太郎の事を一途に思ってくれている、やや、ぽっちゃりした笑顔が素敵な女の子。そう思うと何故だか急に、祐子に会いたくなった。記憶の中の祐子が屈託の無い笑顔を浮かべる。正太郎が一番好きな笑顔である。祐子に会いたい。祐子の笑顔を見たい。無性にそう思う自分が居た。其の時、祐子からメールが来た。
『皆も来たよ。正ちゃんも早くおいでよ』
メールはそう謂っていた。そうだ、祐子に会いに行こう。今なら、未だ、部室にいる筈である。だが、其の時、何故か、祐子の豊満な胸や大きなお尻が思い出された。それと同時に、昨夜の激し過ぎる交歓も思い出された。そして、次の瞬間、正太郎の男の子が過敏に反応してしまった。制御不能とは将に此の事であろう。実にまずい。こんな状態で皆の前に行く訳にもいかない。もう少し時間を置いて行こう。そして、正太郎の男の子が鎮まったら、部室に行って、祐ちゃんの笑顔を見るんだ。早く、祐ちゃんに会いたいな。正太郎の素直な思いであった。然し、豈図らんや、そう思えば、思う程、正太郎の男の子は逞しさを増して来ており、静まる気配など、微塵も無い。全く以って、思春期の男の子は、実に御しがたい。思春期の少年である正太郎。揺れ動くカッサンドラーは、俄かに伸びをすると、自身の男の子の過剰な迄の反応を、憂鬱に思い乍らも、また、小説の続きを読み始めたのであった。
無事、2学期終業式も終了し、今年も残すところあとわずか。そんな中で、此れ以上は無い位に落ち込む正太郎と、頗る上機嫌の祐子。一体、二人の間に何があったのか? 次回、『第34話 約束の地アマルフィにて』お楽しみに。




