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第32話 カッサンドラーの憂鬱【前編】

 十二月の中頃、小春日和(こはるびより)のある日の事である。停学明けの正太郎と高志が前店(まえみせ)でラーメンを(すす)(なが)ら、(なご)んでいた。流石(さすが)大分(だいぶ)、冷え込んで来ている。ふと、高志が思い出した様に、(おもむろ)に切り出した。

「そう()えば、先刻(さっき)、聞いたんだが、数学研究会の(れい)のあの行事(イベント)。祐子ちゃんだか、いずなが出るんだって?」

「ああ。()れは、祐ちゃんじゃないよ。いずなが出るってさ」

「ふーん、そうか…。祐子ちゃんでも、行けそうな感じがするんだが…」

「いくらなんでも、流石(さすが)に祐ちゃんでも無理(むり)だろ。数学クイズとかなら、()(かく)さ…」

 二人が話していた行事(イベント)とは、数学系サークル数学研が主催(しゅさい)するコンテストである『円周率何処(どこ)まで()えるかコンテスト』である。清水高校内の有象無象(うぞうむぞう)(あや)しげな倶楽部(クラブ)の一つである数学研究会(すうけん)開催(かいさい)するオープン競技で、円周率を何桁(なんけた)まで()えるかを競う、と()うものだった。()うした行事(イベント)は、中間・期末テスト明けの放課後等、所謂(いわゆる)閑散期(かんさんき)(まさ)門前雀羅(もんぜんじゃくら)を張る様な()の時期を(ねら)って行なわれ、定期試験も終了し、心に余裕があり、無聊(ぶりょう)(かこ)つ生徒達の、(わり)と人気の行事(イベント)となっていた。去年の優勝者は936(けた)で1年のミス清高である森藤順子という、合唱部の部員が優勝者だったとの事である。まあ、よくよく聞いてみれば、何の事は無い、先日の騒擾事件(そうじょうじけん)で活躍した、瑰麗(かいれい)なる美少女、生徒会副会長様である。行事(イベント)は、明日の水曜日の放課後、講堂で開催(かいさい)される(はず)だったが、正太郎は()したる興味も無く、自然と()の話題は()れて行った。(しか)し、先程(さきほど)の会話に()ける、正太郎と高志の、祐子の能力に対する些細(ささい)な認識の齟齬(そご)が、そして、()行事(イベント)自体(じたい)が新たなる騒動の幕開けになろうとは、二人とも知る(よし)も無かったのである。


 そして、()翌日(よくじつ)である当日、ちょっとした出来事(ハプニング)があった。いずなが風邪(かぜ)(こじ)らせ学校を休んでしまったのだ。当日、朝、いずなからメールを受けた祐子が、急遽(きゅうきょ)、出場する事になった、との事だった。

「えっ。大丈夫(だいじょうぶ)なの? 祐ちゃん」

 話を聞いた正太郎は、当然(とうぜん)、驚いた。祐子はニコニコし(なが)ら、

「うん。まあ、やるだけ、やってみるよ。いずなちゃんが折角(せっかく)の出場枠が勿体(もったい)無いって」

「そうか、頑張(がんば)ってね」

「うん」

 放課後、講堂のステージ上に、10人の参加者が現れた。ステージ上に10台のノートパソコンが(しつら)えており、参加者が各自下一(けた)から、打ち込んでいくというものだった。開始5分前。突如(とつじょ)、森藤が祐子に話しかけて来た。流石(さすが)ミス清高だけあって、すらりとした美人であり、祐子からすれば、(うらや)ましい(かぎ)りの美貌(びぼう)でもある。同性としてみても、美しいとさえ思った。

「あら、今日は清水中の天才少女、小泉(いずな)さんはいないの?」

「はい。体調不良で」

「そう、折角(せっかく)の天才少女との対決、楽しみだったのにな。まあ、いいわ。ねえ、山本さんだったかしら。ちょっとした勝負をしない? ()の方が盛り上がるでしょ」

「勝負って何のですか?」

 祐子には何の事か、皆目(かいもく)分らない。

「そうね。()の勝負で負けた方が高野君を(あきら)める。…なんてのは如何(どう)?」

 突然(とつぜん)の、瑰麗(かいれい)なる美少女、生徒会副会長様からの挑戦状であった。


「なっ、…そんな。お断りします」

 祐子は、多少(たしょう)、ムッとし(なが)らも、憮然(ぶぜん)として答えた。円周率を()える事と、正太郎との間に一体(いったい)何の関係が有ると()うのだ。

「へー。自信ないんだ」

「だって、正ちゃんは、博打(バクチ)(コマ)じゃありませんから」

「じゃあ、だったら、私が勝ったら、高野君に告ちゃおうかな?」

 ()の美しい人は、自棄(やけ)に祐子に(から)んでくる。一体(いったい)如何(どう)()心算(つもり)なのであろうか。正太郎は、特段、美男子(イケメン)()(わけ)では無い。(むし)ろ、十人並(じゅうにんな)みの面相(ルックス)なのである。全校きっての美少女が、態々(わざわざ)食指(しょくし)を伸ばす対象とも思われない。祐子は毅然(きぜん)として答えた。

「そんな、…冗談(じょうだん)なら()めてください」

「あら、本気よ。だって、他の女の子に告られた位でグラつくなら、どの道、先行き希望(のぞみ)なんて無いんじゃないの?」

 祐子は、()瑰麗(かいれい)なる副会長の、(あま)りに傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な態度に、内心、憤然(ふんぜん)とし(なが)らも応じた。

「…分かりました。でも、()の代り、私が勝ったら、あきらめてもらいますよ。()れで、()いですね」

()いわよ。()れで。じゃあ、勝負ね」

 祐子は、混乱の中、改めて思う。森藤先輩は、一体(いったい)如何(どう)()心算(つもり)なのだろう? 当然の話であるが、祐子にしてみれば、心中は決して(おだ)やかでは無かった。()うして、男性にモーションを掛け、食指(しょくし)を伸ばし、()の男性を意の(まま)操縦(そうじゅう)出来(でき)ると()確乎(かっこ)たる自信は、矢張(やは)り、()瑰麗(かいれい)なる美貌(びぼう)とスタイルから来るのであろう。腹立たしくもあり、(うらや)ましくもある。いずれにしても、祐子には持ち得ぬ物ではあった。(しか)此処(ここ)で、不本意(なが)らも、正太郎が賭代(かけしろ)とされてしまったのである。此処(ここ)は絶対に引けない(ところ)である。(さて)()くして、不穏(ふおん)な空気の中、絶対に負けられない戦いは始まっていったのである。最初は100(けた)まで、PCに打ち込む、と()うものだった。(しか)し、脱落者はいなかった。次に500(けた)、3名が脱落した。さらに、1000(けた)、4名が脱落した。残りは祐子と森藤と3年男子だった。次に1500(けた)、祐子と森藤だけが残った。2000(けた)、二人とも残っている。膠着状態(こうちゃくじょうたい)が続いた。如何(いか)んせん、()(まま)ではきりが無い。其処(そこ)で、急遽(きゅうきょ)主催者(しゅさいしゃ)が協議の上、方法を変えた。今から()(けた)数の数字を入力するというものだった。まず、3000(けた)、3022(けた)、5000(けた)、967(けた)、29584(けた)。会場がざわついた。が、此処(ここ)で、勝負がついた。森藤は4問目を間違え、5問目は答えられなかった。新チャンピオンの誕生である。場内は歓声に包まれた。みんな、一斉(いっせい)に祐子を()(たた)えた。高志は興奮して、正太郎に語りかけた。


「祐子ちゃん、やったな。おめでとう」

「ああ」

「…?」

 高志は、(すこぶ)る感情の(とぼ)しい正太郎を(いぶか)しんだ。当然(とうぜん)もっと喜ぶべき(はず)なのに…。だが、()の時、正太郎は別の感情に支配されていた。()れは、恐怖(きょうふ)に近い感情だった。畏怖(いふ)()っても()い。正太郎は思った。(おそ)らく、祐子は、少なくとも、30000(けた)くらいまでは確実に覚えていたに違いない。()れだけでも、正太郎が一生掛かっても到達し()ない境地である。だが、()れだけではない。祐子の頭脳は自分の望む(けた)を即座に再生できるRAMの様な頭脳になっているとしか思えなかった。そうでなければ、説明がつかない。いや、説明のつけ様が無い。現に森藤先輩は、()うした問題には(あらが)えなかったではないか。証左(しょうさ)はある。学校祭のクイズ大会の時に感じた些細(ささい)な違和感。あの時、『祐子ちゃんは、素数(そすう)である事が何故(なぜ)分かるんだ』。間違いなく、そう思った自分が居た(はず)なのだ。


 そうだ。確かにそうだ。素数(そすう)に見分ける方法など無い。ある(はず)が無い。()れは、数学の歴史が証明している。現在に()いても、素数(そすう)を判別する方法として、一番有効な方法は、サンダラムの(ふるい)とも()えるかもしれないが、()れはエラトステネスの(ふるい)の発展系でもある。エラトステネスの(ふるい)(すべ)ての自然数について(ふるい)をかけ、素数(そすう)如何(どう)かを(よな)げて行く(わけ)ではあるが、サンダラムの(ふるい)は、()れを奇数に()いてのみ(おこな)って()くものである。()の方法であれば、単純に考えても、エラトステネスの(ふるい)よりは、(よな)げる((ふるい)にかける)標本の数が半分になっており、明らかに効率が()い。(さら)に対象奇数の下一(けた)が5の数字を除外する、などの工夫(くふう)はある。()れらは、一見、難しい事を()っている様ではあるが、()()いは、(すこぶ)る単純であり、偶数、5の倍数と()った視認性の高い合成数(ごうせいすう)(あらかじ)排除(はいじょ)しておき、(ふるい)に掛けているだけに過ぎず、現代であっては、勿論(もちろん)(おそ)らく、古代希臘(こだいギリシャ)であってもそうなのであろうが、子供でも容易に理解出来(でき)理屈(りくつ)なのである。(しか)し、篩法(ふるいほう)根源的部分(こんげんてきぶぶん)(かんが)みれば、最終的に(ふるい)に掛けると()う動作は如何(どう)しても残ってしまう。エラトステネスは紀元前200年頃の希臘(ギリシャ)の科学者であり、地球の大きさを論理的かつ、実験的に初めて計測した人物として良く知られている。つまり、素数(そすう)の効率的判別法は、()の時代から現在に(いた)るまで、数学者達の大きな命題(テーマ)となり(なが)らも、即座に計算で導く方法は皆無(かいむ)であり、()(ゆえ)()の考え方は、現在のRSA暗号技術にも応用されている位なのである。(すなわ)ち、素数(そすう)合成数(ごうせいすう)如何(どう)かを判別する、最も手早く確実な方法は、()の数字が素数(そすう)如何(どう)かを知っていると()う事に他ならない。そう考えた時に、(すべ)ては(つな)がった。屹度(きっと)、祐子は学校祭のあの時、祐子自身の脳内のデータベースと照らし、素数(そすう)(いな)かを瞬時に峻別(しゅんべつ)していただけなのだ。つまり、()れは知識の問題なのである。あの時、祐子は、一見、無作為(むさくい)に現れた、6(けた)臚列(ろれつ)された数字に()いて、()の数字が素数(そすう)であるか、合成数(ごうせいすう)であるかを、()()()()()()()()()()()()()()(すなわ)ち、覚えていたと()う事に他ならない。だが、(しか)し、()自体(じたい)()たして、人間に可能な行為なのか? 人間業(にんげんわざ)超越(ちょうえつ)した行為(こうい)ではないのか? 呆然(ぼうぜん)とする正太郎を他所(よそ)に、高志は正太郎に()った。

「おい、祐子ちゃんが優勝したんだぞ。もっと、喜べよ」

「…まるで、…化物だ」

 正太郎は青ざめた面持(おもも)ちで、表現すべからざる言葉で嘆息(たんそく)した。

「何、何だって」

 やや、間を空けて、正太郎が(さけ)んだ。

「すごいよ。確かにすごいけど…。だけど、あれは、人じゃない。人智(じんち)(およ)ぶ力じゃない」

 高志は心配になってきた。正太郎の様子(ようす)が、明らかにおかしい。

「おい、()いすぎだろ。祐子ちゃん、多分(たぶん)、お前の(ため)にがんばったんだぞ」

「分かっている。そんな事、分かっているよ。分かっているけど…。(おれ)(おれ)…、もう、帰るよ」

「ちょっと、待て。祐子ちゃんを待ってやれよ。声を掛けてやれよ」

「…いや。(おれ)の言葉なんていらないだろ」

「おい、待てよ。お前、如何(どう)かしているんじゃないか? 何かおかしいぞ」

 倉皇(そうこう)としている(ところ)に、ひろみと敬介と凛子と祐子がやって来た。ひろみが興奮し(なが)()った。

「見てた。正太。祐子、すごかったよね」

「ああ。…ごめんな。(おれ)、帰る」

「えっ」

「待って、正ちゃん。帰るなら、一緒(いっしょ)に帰ろうよ」

「…いや、一人になりたいんだ」

「ちょっと、待って正ちゃん。一緒(いっしょ)に。ね」

 二人の後姿を呆然(ぼうぜん)と見送り(なが)ら、高志はポツリと()った。

「あいつら、帰してよかったのか…」

「…。何で?」

「いや、正太の(ヤツ)大分(だいぶ)様子(ようす)がおかしかった。変な事にならなきゃいいが…」


 高志の不吉な予感は、不幸にも的中した。正太郎と祐子は家とは逆方向のさつき通りの方に向かって、自転車を引いていた。二人とも無言の(まま)だった。正太郎はまた考えていた。祐子は(おれ)なんかに(かま)けていてもいいのか。()の才能豊かな少女は、()豊穣(ほうじょう)な才能を()って、もっと高みに向かうべきでは無いのか。(おそ)らく、祐子はまだまだ、引き出しを一杯持っているに違いない。だが、(おれ)には何も無い。自分がとても矮小(わいしょう)卑屈(ひくつ)な人間に思えた。行き着く結論(けつろん)は一つだけだった。口にしたくは無い結論(けつろん)だった。


(おそ)らく、(おれ)と祐子は釣合(つりあ)わない』


 ()結論(けつろん)は、まるで、(くもり)ガラスに爪を立てた様に、終始(しゅうし)、正太郎の神経を苛立(いらだ)たせた。(いや)、もっと、恐ろしい事がある。祐子が先程(さきほど)の正太郎の結論(けつろん)に到達したら如何(どう)であろう? 祐子の愛情が冷めたら如何(どう)であろう? (おれ)で祐子を果たして拘繋(こうけい)出来(でき)ると()うのか? (いな)(おそ)らく、(おれ)は捨てられる。多分(たぶん)襤褸屑(ぼろくず)の様に。気が狂いそうな妄想(もうそう)であった。正太郎の妄想(もうそう)の中に、千春との苦く悲しい思い出が去来(きょらい)した。

「ねえ、正ちゃん。何か…変だよ」

 祐子はそう()(なが)らも、理由は分かっていた。祐子は先程(さきほど)から、正太郎の(ひとみ)の奥にある、恐怖感(きょうふかん)敏感(びんかん)()ぎ取っていた。恐怖感(きょうふかん)。いや、もっと、()う異質な物を()眼差(まなざ)し、そう、祐子は正太郎にとって、異邦人(いほうじん)である事をハッキリと自覚(じかく)したのだ。目の前にいる(はず)の正太郎の存在が、突然(とつぜん)、何万パーセクも彼方(かなた)に行ってしまった様だった。二人の間には、何時(いつ)しか、越える事が出来(でき)ぬ様な大河(たいが)が明らかに存在していた。


 祐子はいずなと同様、卓越(たくえつ)した能力を持っていた。人並(ひとな)(はず)れた記憶力。と()うよりも、忘れる事が出来(でき)ない能力、とでも()うべきであろう。祐子は、通常の本なら一読しただけで丸暗記出来(でき)た。円周率も正太郎の想像を超えて、50000(けた)位までは、完璧(かんぺき)に覚えていた。一般的には『サヴァン』と呼ばれるべき人間である。だが、祐子はいずなとは(こと)なり、()れを巧妙(こうみょう)(かく)していた。()の才気を恥じていた。()の英気を嫌悪(けんお)していた。特に、正太郎の前では徹底的に(かく)していた。だから、学校祭の時も、本当は()能力(チカラ)を使いたくなかった。本能的にまずいと感じていたのだ。(しか)し、あの時、正太郎の悔しそうな顔を見て、つい、禁忌(タブー)を破った。だが、異端(いたん)異端(いたん)()ぎ分ける。いずなは祐子の能力(チカラ)を感じとっていた。花見の時も、学校祭の時も、麻雀(マージャン)の時も。麻雀(マージャン)の時にいずなが発したメッセージ。

『私と同じ能力。祐子ちゃんもあるよね?』。祐子は(あえ)て答えなかったが、メッセージは確実に受け取っていただろう。いずなには、確信があった。だからこそ、今回の大会もいずなは祐子に代役を頼んだのだが、祐子が()の能力を嫌悪(けんお)していた事に(まで)は気がつかなかった。いや、気が付けなかった。()の感覚の差はいずなの不覚(ふかく)であろう。

「…。祐ちゃん。(おれ)と付き合っていて、楽しい?」

 前を歩いている正太郎が突然(とつぜん)()()った。表情は(うかが)えない。いつもの祐子なら、迷わず、『うん』と、答えたのだろう。(しか)し、()の時は違った。

如何(どう)して…。そんな事聞くの?」

(おれ)、…祐ちゃんと付き合っていく自信が、なくなった…。(おれ)なんて…。必要無いだろ」

 ()れは、慄然(ギョッ)とする様な一言であった。(いや)戦慄(せんりつ)すべき一言であった。咫尺千里(しせきせんり)(たと)えもある。お互いの心が通わなければ、些細(ささい)な言葉であっても、()れは意外な程、鋭利(えいり)な刃物と成り()るものである。『白玉の傷は磨けば直るが、言葉の傷は取り返しがつかない』。そう()って嘆息(たんそく)した、(まさ)に、荀息(じゅんそく)故事(こじ)()(まま)である。何があっても、決して発してはならない言葉であった。

「何で、そんな事…()うの」

 祐子はもう(すで)に泣いていた。『九仞(きゅうじん)(こう)一簣(いっき)()く』の(たと)えもある。今迄(いままで)慎重(しんちょう)慎重(しんちょう)を重ねて、隠し通していた自身(おのれ)の秘密を、白日(はくじつ)(もと)(さら)してしまった。二人はいつしか巴川河畔(ともえがわかはん)の、とあるファッションホテルの前にいた。正太郎は投げやりに()った。

「寄ってくか?」

 祐子は(おび)えた様な顔つきで、(かぶり)を左右に振った。

「…い、(いや)

 祐子の返事は聞くまでも無かった。今度は、祐子の(ひとみ)がハッキリと否定(ひてい)していた。嫌悪感(けんおかん)恐怖(きょうふ)が入り()じった(ひとみ)の色だった。()れは、正太郎も敏感(びんかん)に感じ取った。

「…そうだよな」

「ごめんね。今日は…勘弁(かんべん)して。ねえ、正ちゃん。()れよりも、カラオケにでも行こうよ」

「いや。もう。ひとりにさせて欲しい。さよなら」

 正太郎は(にべ)も無くそう()うと、自転車をこぎ出し、振り返る事無く、行ってしまった。(おそ)らくは、両手に顔を(うず)めて泣いているであろう祐子を、()(まま)にして。


 随分(ずいぶん)(むご)い話である。筆者は()状況(じょうきょう)見聞(けんもん)するに、カッサンドラーの故事(エピソード)を思い出さずにはいられなかった。現今(げんこん)では、『カサンドラ症候群(シンドローム)』と()う言葉の方が有名であるが、()の元ネタとなった逸話(エピソード)である。カッサンドラーは希臘(ギリシャ)神話に登場するイーリオスの王女であり、悲劇の予言者として知られている。カッサンドラーはアポロンの寵愛(ちょうあい)を受け、彼の恋人となる代償(だいしょう)として、未来を予言する能力を(さず)かった。(しか)し、()の能力は、彼女を幸せにする事は決して無かった。カッサンドラーは予言の能力を(さず)かった瞬間に、アポロンの愛が()め、自分が捨て去られる未来が見えてしまったのである。()って、カッサンドラーはアポロンの寵愛(ちょうあい)(こば)み、激怒したアポロンにより、『カッサンドラーの予言を誰も信じぬよう』、(のろ)いをかけられてしまう。()れにより、トロイア戦争の行く末、トロイの木馬などを予言するにもかかわらず、人々からは信じてもらえず、陵辱(りょうじょく)の末、非業(ひごう)の死を()げるのである。()逸話(エピソード)(いく)つかの寓意(ぐうい)示唆(しさ)に富んでいる。


 まず、人智(じんち)を越えた能力を手にしたと()う点に()いては、祐子は明らかにカッサンドラーである。祐子は、()の巨大な力に振り回され(なが)らも、正太郎を()る事で、何とか(おのれ)を保って来たのである。一方、不吉な未来を予見(よけん)した。と()う点に()いては、正太郎は明らかにカッサンドラーである。彼は、()の不吉な未来を受け入れる事が出来(でき)ずに、身悶(みもだ)えするが(ごと)呻吟(しんぎん)し、周囲からも()憂鬱(ゆううつ)を理解してもらえずに、破局への道を選択してしまった。(まさ)に、『カサンドラ症候群(シンドローム)』である。実際に、カッサンドラーの憂鬱(ゆううつ)如何許(いかばか)りの物かは、我々には知る(よし)が無い。()の場合、それぞれのカッサンドラーは、一つづつ、ミスを犯したものと思われる。まず、祐子であるが、彼女は此処(ここ)に到る(まで)、正太郎に真実を告げる勇気を持ち()なかった。()し、祐子が早い段階で正太郎に相談出来(でき)ていたら、また、展開は違ったものになっていたのかもしれない。一方、正太郎である。彼は不吉な未来に恐怖(きょうふ)し、(おのの)き、自滅への道を選んでしまった。だが、()れとても、立ち止まって考える勇気を持っていたのなら、(ある)いは、結論(けつろん)は変っていた(はず)である。抑々(そもそも)、人生などと()うものは、不吉な事ばかりである。()い事ばかりの人生なぞありはしない。筆者は予言などと()うものは、信じないし、また、出来(でき)る事でも無いのだが、()れでも、一つだけ確実に予言する事が出来(でき)る。()れは(おのれ)の死である。そうである。どんな人間であれ、いつかは、必ず、()の死を()って、終焉(しゅうえん)(むか)えるのである。()れは、万人(ひと)しく与えられた運命(さだめ)でもある。そんな運命(さだめ)(あらが)う事等、決して出来(でき)はしない。畢竟(ひっきょう)、人間は与えられた寿命(いのち)の中で、懸命(けんめい)に生きて行くしかないのである。『(たと)え、今日に()寿命(いのち)()きようとも、明日(あした)(ため)に、種を()く』。屹度(きっと)()の様な感覚が必要なのであろう。祐子の強大すぎる能力も、正太郎が垣間見(かいまみ)た不吉過ぎる未来も、本来(ほんらい)は、()の二人が(ぎょ)して行かねばならぬ物である。だが、()れらの厄災(やくさい)は16歳の少年少女には、(はなは)だ重すぎたのかもしれない。(さて)閑話休題(かんわきゅうだい)()(のち)、少年少女たち、そして、彼らを取り巻く友人達が、どの様な選択をして行ったかを、見るとしよう。


 翌日(あくるひ)、顔を真っ赤にしたいずなが、ずかずかと4組に入って来たのは、放課後の事だった。本来であれば、いずなは()の日も欠席となっていた(はず)だった。(しか)し、昨夜、祐子からの電話があり、無理を()して、午後から出席したのであった。()のいずなに、六助がからかうように声を掛けたが、いずなはまるで取り合わない。(やが)て、高志を見つけると、(すさ)まじい剣幕(けんまく)で、怒気(どき)(ふく)んで、()()い放った。

「ハロゲン族。正太は何処(どこ)行ったの? ()いなさいよ。ゆうちんは、昨日(きのう)電話口で、『正ちゃんに(きら)われた。振られちゃった』って、ずっと泣いているし、昨日(きのう)一体全体(いったいぜんたい)、何があったの」

 いずなが正太の事を呼び捨てにするのは、初めての事だった。高志は昨日の(けん)だと、即座に直感した。(しか)し、いずなの様子(ようす)も、()(また)尋常(じんじょう)では無い。

「おい、お前、風邪(かぜ)()いのか? 顔が真っ赤だぞ」

「そんな事、如何(どう)でも()いよ。()れより、()いなさいよ。一体(いったい)、何があったの?」

「正太なら今日は休みだ。祐子ちゃんは授業が終わると何処(どこ)か行っちまった。(おれ)昨日(きのう)(けん)は心配してはいたんだ。()れよりも、部室に行こう。其処(そこ)(すべ)てを話す」

 高志はそう()うと、部室に場所を移した。いずなの態度からして、(おそ)らくは、昨日(きのう)の一件で、祐子に泣きつかれたのであろう。いつも、飄々(ひょうひょう)としているいずなにしては、(まった)似気(にげ)も無い。いずなも(すこぶ)る冷静さを欠いている様に見受けられる。()(まま)、場所を変えなければ、どの様な騒動が出来(しゅったい)するか、(わか)ったものじゃない。そして、部室には祐子と正太郎以外のいつもの面々が全員(そろ)っていた。其処(そこ)で、高志は昨日(きのう)(くだり)()(つま)んで話すとともに、自分の所見(しょけん)を述べた。明彦が()れを受けて、まとめた。

「つまり、正太は、祐子ちゃんの(かく)していた能力を見て度肝(どぎも)を抜かれた。そして、()れを(かく)していた事が面白(おもしろ)くなかった。と、()()(わけ)だな」

 高志が付け加えた。

面白(おもしろ)くなかったか如何(どう)かは少し微妙(びみょう)だが、とても驚いていた。あと、(ひど)(おび)えていた。多分(たぶん)、自分が不釣合(ふつりあ)いだとでも思ったんだろうな。でも、()(けん)は、あんまり立ち入りたくねえなあ」

 ひろみが不満げに、口を(とが)らせる。

「何よ、らしくないわね。正太を説得してくれないの?」

(たと)え、正太が他の女の子と浮気した、って話でも状況(じょうきょう)は同じさ。何方(どちら)かが冷めていたら、こんなもん、抑々(そもそも)、成り立つ話じゃ無いんだぜ」

()れはそうなんだけど…。そうだ、思い出した、昨日(きのう)祐子、優勝を争った副会長の森藤ってアバズレに、『負けた方が、正太から手を引く。』って勝負を持ちかけられて、強引に()まされたらしいわよ」

()れこそ、らしくねえ話だな。いつもの祐子ちゃんなら、こんな(トラップ)なんざ、簡単に(かわ)すだろ」

「そんな事無いわよ。相手はミス清高よ。()っちゃあ悪いけど、祐子だって容姿(ようし)に自信があれば、簡単に(かわ)すわよ。本当は、今回の大会。いずなには(もう)(わけ)ないけど、祐子、適当(てきとう)(ところ)で、お茶を(にご)心算(つもり)だったんだから」

「ごめん。いずな、其処(そこ)(まで)、気が回らなくて…」

「て事は、ひろみ。お前、祐子ちゃんやいずなの能力、気がついていたのか?」

「そりゃあ、気がつくわよ。いずなは近隣の中学で(うわさ)になっていたし、祐子はいつも行くキャトルのメニューの値段表、全部覚えていたわよ。()れに、いつぞやの麻雀(マージャン)の時も、あの子、正太の自模(ツモ)と捨て牌、全部覚えていたわ。合宿の時の宿題も、本当は英語の教科書持って来てなかったもの。『家に置いて来ちゃった』とか()ってたけど、本当に必要なかったんだな。って思ったよ。私、何の気なしに、『祐子もいずなみたいな事、出来(でき)るんだね。(うらや)ましいな』って()ったら。あの時、祐子、すごく悲しそうな顔をして、『こんなの、いらない。()の事が、正ちゃんに分かったら、私、(きら)われちゃうよ。正ちゃん、普通の子が好きだから。私の夢は正ちゃんのお嫁さんに、なる事なんだ。だから、こんな能力必要ない。お願いだから、正ちゃんには内緒(ないしょ)にして』って。だから、合宿中、私が使わない時、英語の教科書、貸してあげてたんだ。正太に不審がられるから、持ってなさいって」

「そうか」

「だから、今回の行事(イベント)も、私、心配で直前に聞いたんだ。そうしたら、祐子。『いずなちゃんには悪いけど、適当(てきとう)なところで、リタイアするよ』って、()っていた。()れを、あの森藤ってバカ女。()りに()って、祐子の泣き所である、正太に的を掛けて来るとは。多分(たぶん)小賢(こざか)しい揺さぶりだとは思うけど、お(かげ)で、祐子が引くに引けなくなった。(まった)く。今度、廊下(ろうか)であったら、(あご)をぶち砕いてやるわ」

 憤懣(ふんまん)やる(かた)無いひろみは、(すこぶ)物騒(ぶっそう)な事を口にする。

「わあ。よせよせ」

 頭をかき(なが)ら、高志が(あわ)てて止めた。明彦が()った。

成程(なるほど)(おおむ)状況(じょうきょう)は分かったが、()れで、如何(どう)する? 説得(ネゴシエイション)は高志か?」

「まあ、あまり気は乗らないが、仕方無いな。実際、状況的(じょうきょうてき)には、正太が何処(どこ)まで、落ち着いたかなんだがな。正太を赤灯台(あた)りに呼び出して、真意調査と説得(ネゴシエイション)だな。で、野郎(ターゲット)が大分落ち着いていれば、お前らを呼び出す。で、お前らは祐子ちゃんを探し出す。と、()()う感じかな。あと、説得役(ネゴシエイター)(おれ)だけか?」

 敬介が(おもむろ)に名乗りを挙げた。

(おれ)も行くよ。祐子ちゃんに近い、いずなちゃんと付き合っているんだ。(おれ)にも()ってあげられる事があると思う」

成程(なるほど)(もっと)もな話だ。じゃあ、説得係は(おれ)と敬介だな。で、成功したら、そうだな、ひろみ。成功報酬としておっぱい触らせ…むがっ」

「乙女に何てえ事、()うの。(まった)く、()の男は如何(どう)して、こんな時に、()()馬鹿(バカ)()うんだろ」

 ひろみが高志の頭を叩き(なが)()った。

「バカヤロー。こんな時だから、()うんだよ。笑いでも取らなきゃ、此方(こっち)の神経(まで)、いかれちまわあ」

「…何時(いつ)も、同じ様な事、()っている(くせ)に。()いわよ、説得が成功したら、何でも()う事聞いてあげるわよ…」

 明彦が思慮深(しりょぶか)()った。

「なら、高志。悪いが、(おれ)と凛子は遠慮しておくよ。みんなで正太を責めてる様な構図(こうず)になってもまずいだろ」

 凛子も済まなそうに()った。

「でも、何かあったらメールしてね。手が足りなかったら、すぐ、飛んで行くから」


 相談が(まと)まると、全員、一旦解散した。そして、高志が正太郎を、赤灯台に呼び出した。埠頭(ふとう)では、虎落笛(もがりぶえ)甲高(かんだか)い音を立てて吹き抜けていく。如何(いか)にも、寒々とした光景である。予想に反して、正太郎はあっさりと、出て来た。高志は、ばつが悪そうに声を掛けた。

「よう。悪いな」

「いや。(おれ)も、お前らに合いたかった」

 正太郎は突堤に座った高志と敬介を見上げた。

 相変わらず(うつ)ろな目をしていたが、昨日(きのう)よりは幾分(いくぶん)かマシだった。それに、随所(ずいしょ)に、()き物が落ちた様な表情も見え(かく)れしていた。(しか)し、()れが、吉兆(いいこと)なのか凶兆(わるいこと)なのかは、高志にも判別がつかなかった。だが、正太郎が切り出した。

「祐子の事だろ」

「…ああ」

「祐子にでも、泣きつかれたか?」

 高志はひどく(おだ)やかに()った。

「…祐子ちゃんが、そんな事すると思うのか?」

「…」

「ひろみに泣きつかれた。…()れで、あまり、気が進まないが、此処(ここ)にいる」

(おれ)を…責めないのか?」

「責める? 何でだ。ひろみもいずなも、一つ思い違いをしている。(たと)え、正太が浮気を重ねて、()の事態になったとしても、(おれ)は責めないと思うぜ。まあ、軽蔑(けいべつ)はするとは思うがな。大体(だいたい)無理(むり)やり説得して、元の(さや)に収めて、一体(いったい)、何の意味があるんだ。決めるのは本人達なんだぜ」

「…そうだな」

(おれ)は、お前も祐子ちゃんも大切な友達だ。勿論(もちろん)、元通りになってくれるのが、一番だと思っている。だけど、何方(どちら)かが冷めちまったんなら、()(まで)だ。()れを、無理(むり)やり説得する気はねえ。そんなの、(ただ)の、(ひと)りよがりの傲慢(ごうまん)だ」

「…そうだな」

「今日、祐子ちゃんは学校には来た。が、授業が終わると同時に何処(どこ)かへ行っちまった。荷物は()だあったから、学校内で行方不明だ。()の後、いずなが真っ赤になって4組に怒鳴り込んで来やがった。部室で状況(じょうきょう)を説明すると、黙っちまった。心中(しんちゅう)、思うところはいろいろあると思うけど、所詮(しょせん)、いずなも祐子ちゃんと同じだ。敬介の事が気になったんだろうな。今、ひろみといずなが祐子ちゃんを探している。最後に、(おれ)の意見を()わせて欲しい。(おれ)は、お前の様に一途(いちず)に思われたい。正直(しょうじき)、お前が(うらや)ましかったよ。だが、お前の結論(けつろん)如何(どう)あれ、尊重(そんちょう)はするよ。(ただ)、祐子ちゃんのあの一途(いちず)さを思うと不憫(ふびん)な気がする。まあ、()れだけの事だがな。結局(けっきょく)(ところ)、5ヶ月前に此処(ここ)()った事と内容は同じだ。結論(けつろん)はお前が決めてくれ。力に成れなくて済まんが…」

「祐子は、泣いていたか」

 高志は殊更(ことさら)(おだ)やかに(さと)した。

何故(なぜ)、そんな事を聞く。()れは聞く(まで)も無い事だろ」

「…そう。…だな」

 其処(そこ)で、敬介がおずおずと歩み出た。

(おれ)()いかな。正太」

「ああ」

(おれ)も高志と同じだ。正太の結論(けつろん)(すべ)てだと思う。だげど、参考になるか分からないけど、いずなちゃんの話をさせて欲しい。(おれ)が合宿中、いずなちゃんに告った時、いずなちゃん、ちょっと妙な事、()ったんだ」

「妙な事?」

「ああ。なんでも、『私は中学校時代、()(きら)われていた。だから、人を好きになる資格はない』って、そう()趣旨(しゅし)の事を()っていた。()の時は、ひどい話だと思って聞いていたよ。でも、後から考えてみると、ちょっと、変な()い草だ。(きら)われているから、人を好きになってはいけないなんて意味が通らない。本当は、いずなちゃんが()いたかったのは()うじゃないかとね。『私には特殊な能力がある。だから、友達からも()(きら)われる。人を好きになる資格はない』じゃ、なかったんじゃあないかって。そう思えるんだ。多分(たぶん)、いずなちゃん、ぎりぎりのところで、やはり()えずに、一番、()いたかった主文を(はぶ)いたんだと思う」

 正太郎は素直(すなお)に敬介に(たず)ねた。

「敬介。お前は、いずなの能力を見て、如何(どう)思った?」

「いや、正直(しょうじき)、すごいなと思ったよ。でも、(おれ)がいずなちゃんの能力に気がついたのは、告る前の事だよ。まだ、4月の話だ。(もっと)も、確信したのは、学校祭のクイズ大会の時だけどな」

「そうなのか?」

「ああ。4月の頃に、何とか、いずなちゃんと話がしたくて、宿題に(かこつ)けて、良く質問したんだ。()の時に、『()の構文は、48ページの7行目に出てくるよ』とか『()の方程式は26ページの14行目に出てくる。其処(そこ)欄外(らんがい)に、結構(けっこう)(くわ)しく()っているよ』って。()の時は、随分(ずいぶん)先まで予習しているなあって、思ったけど、良く考えたら、いずなちゃん、教科書も持ってなかったんだぜ。後から、清水中出身の(ヤツ)に、『いずなは教科書を丸暗記している』って(うわさ)を聞いて、合点(がてん)がいったよ。丸暗記していれば説明がつく」

「お前は、()れを聞いて、如何(どう)思った? (こわ)くは無かったのか」

「別に…。だって、いずなちゃんはいずなちゃんじゃねーか。()れに、いずなちゃん、結構(けっこう)、苦しんでいたぜ。かわいそうだった。見ていられなかった。彼奴(あいつ)、分かっているのに、(おれ)に知られまいと、無理(むり)して分からない振りしてさ…。だから、告ったあと、すぐに()ってやったんだ。『無理(むり)するなよ。(おれ)はそう()うすごい能力を含めて、いずなちゃんの事を好きになったんだ』ってな。そうしたら、いずなちゃん、大粒の涙をぼろぼろ(こぼ)してな。(うれ)しかったんだろうな。だから、今回の数研の行事(イベント)も大喜びでな、『フルスロットルで勝負してくるよ。ケースケも見ててね。十万(けた)でも覚えてみせる。でも、(きら)いになっちゃ(いや)だよ』ってな。いずなちゃん、学校祭のクイズ大会の直後、少し様子(ようす)がおかしかったんだが、今にして思えば、(おれ)に悟られたんじゃないかって、気にしていたのかなって思うんだ。多分(たぶん)、祐子ちゃんも、屹度(きっと)、同じ様に、苦しんでいたんじゃないのかな」

「…敬介。お前はすごいよ。自分で、()の、不釣合(ふつりあ)いだって思った事は、無かったのかよ?」

当然(とうぜん)、あるさ。抑々(そもそも)(おれ)()の学校に入った時に、誰と(くら)べても、不釣合(ふつりあ)いだと思ったよ。でも、すごく失礼な事()うけど、勉強に関しては、猛烈に勉強すれば、ひょっとしたら、お前や、高志には届くかもしれない。(ある)いは、明彦や凛子にもな。でも、いずなちゃんには絶対に届かない。()程迄(ほどまで)に、別次元の才能だと思うよ。()れに、最近では、いずなちゃんが不釣合(ふつりあ)いだって思わなければ、()れでいいのかな、って思う様になった」


 ()の時、後ろで(かす)かに、人の気配(けはい)がした。

「あっ」

 いずなだった。いずなが目に涙を浮かべて、

 腕組みをして、仁王立ちに立っている。()の横にひろみも腕組みをして、仁王立ちに立っている。いずなが、今にも泣き出しそうな顔で()った。

「正ちん。()のおばかっち。いろいろ、()いたい事はあるけど、ゆーちんに免じて()わない。()れに、(ほとん)ど、ケースケ君が()ってくれた。だけど、今の話、一つだけ、訂正(ていせい)するよ…。私とケースケ君とは、全然(ぜんぜん)釣合(つりあ)ってなんかいない。…圧倒的に私が足りてない。私はケースケ君にいろいろ、幸せを(もら)ったけど、私はケースケ君に何一つ返せてない。だけど、ケースケ君、『()れで()い』って、()ってくれた。だから、釣合(つりあ)ってないけど、いずな、釣合(つりあ)っているって、思う様にしてるんだよ。ゆうちんだって同じだよ。正ちんみたいな優しい人が、そんな事も分からないの? ()の、おばかっち。どんな結論(けつろん)になっても、我慢(がまん)するけど、最後はゆーちんと正ちんが、笑顔になってくれれば、って()うのがいずなの願い…」

 続いて、ひろみが()った。

「高志との約束だから、私もどんな結論(けつろん)になっても、我慢(がまん)はする。でも、()の寒空の下、こんな(さみ)しい場所に、祐子を一人置いて帰ったら、正太。私は一生、あんたを許さないから…」


 ひろみの後ろには、しょんぼりと地面を見つめた(さみ)しげな祐子が、(たたず)んでいた。夕闇(ゆうやみ)迫る赤燈台に、剃刀(かみそり)の様に冷たく(さみ)しい真冬の風が、()瀬無(せな)(わた)って行ったのである。


咫尺千里の例え其の儘に、二人の意外な程の距離感に戸惑う正太郎と祐子。此の儘、為す術無く破局となってしまうのか? そして、ボストンティーパーティーの面々の行動は? 次号、『第33話 カッサンドラーの憂鬱【後編】』お楽しみに。

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