第32話 カッサンドラーの憂鬱【前編】
十二月の中頃、小春日和のある日の事である。停学明けの正太郎と高志が前店でラーメンを啜り乍ら、和んでいた。流石に大分、冷え込んで来ている。ふと、高志が思い出した様に、徐に切り出した。
「そう謂えば、先刻、聞いたんだが、数学研究会の例のあの行事。祐子ちゃんだか、いずなが出るんだって?」
「ああ。其れは、祐ちゃんじゃないよ。いずなが出るってさ」
「ふーん、そうか…。祐子ちゃんでも、行けそうな感じがするんだが…」
「いくらなんでも、流石に祐ちゃんでも無理だろ。数学クイズとかなら、兎も角さ…」
二人が話していた行事とは、数学系サークル数学研が主催するコンテストである『円周率何処まで謂えるかコンテスト』である。清水高校内の有象無象な怪しげな倶楽部の一つである数学研究会が開催するオープン競技で、円周率を何桁まで謂えるかを競う、と謂うものだった。斯うした行事は、中間・期末テスト明けの放課後等、所謂、閑散期、将に門前雀羅を張る様な此の時期を狙って行なわれ、定期試験も終了し、心に余裕があり、無聊を託つ生徒達の、割と人気の行事となっていた。去年の優勝者は936桁で1年のミス清高である森藤順子という、合唱部の部員が優勝者だったとの事である。まあ、よくよく聞いてみれば、何の事は無い、先日の騒擾事件で活躍した、瑰麗なる美少女、生徒会副会長様である。行事は、明日の水曜日の放課後、講堂で開催される筈だったが、正太郎は然したる興味も無く、自然と其の話題は逸れて行った。然し、先程の会話に於ける、正太郎と高志の、祐子の能力に対する些細な認識の齟齬が、そして、其の行事自体が新たなる騒動の幕開けになろうとは、二人とも知る由も無かったのである。
そして、其の翌日である当日、ちょっとした出来事があった。いずなが風邪を拗らせ学校を休んでしまったのだ。当日、朝、いずなからメールを受けた祐子が、急遽、出場する事になった、との事だった。
「えっ。大丈夫なの? 祐ちゃん」
話を聞いた正太郎は、当然、驚いた。祐子はニコニコし乍ら、
「うん。まあ、やるだけ、やってみるよ。いずなちゃんが折角の出場枠が勿体無いって」
「そうか、頑張ってね」
「うん」
放課後、講堂のステージ上に、10人の参加者が現れた。ステージ上に10台のノートパソコンが設えており、参加者が各自下一桁から、打ち込んでいくというものだった。開始5分前。突如、森藤が祐子に話しかけて来た。流石ミス清高だけあって、すらりとした美人であり、祐子からすれば、羨ましい限りの美貌でもある。同性としてみても、美しいとさえ思った。
「あら、今日は清水中の天才少女、小泉さんはいないの?」
「はい。体調不良で」
「そう、折角の天才少女との対決、楽しみだったのにな。まあ、いいわ。ねえ、山本さんだったかしら。ちょっとした勝負をしない? 其の方が盛り上がるでしょ」
「勝負って何のですか?」
祐子には何の事か、皆目分らない。
「そうね。此の勝負で負けた方が高野君を諦める。…なんてのは如何?」
突然の、瑰麗なる美少女、生徒会副会長様からの挑戦状であった。
「なっ、…そんな。お断りします」
祐子は、多少、ムッとし乍らも、憮然として答えた。円周率を謂える事と、正太郎との間に一体何の関係が有ると謂うのだ。
「へー。自信ないんだ」
「だって、正ちゃんは、博打の駒じゃありませんから」
「じゃあ、だったら、私が勝ったら、高野君に告ちゃおうかな?」
此の美しい人は、自棄に祐子に絡んでくる。一体、如何謂う心算なのであろうか。正太郎は、特段、美男子と謂う訳では無い。寧ろ、十人並みの面相なのである。全校きっての美少女が、態々、食指を伸ばす対象とも思われない。祐子は毅然として答えた。
「そんな、…冗談なら止めてください」
「あら、本気よ。だって、他の女の子に告られた位でグラつくなら、どの道、先行き希望なんて無いんじゃないの?」
祐子は、此の瑰麗なる副会長の、余りに傍若無人な態度に、内心、憤然とし乍らも応じた。
「…分かりました。でも、其の代り、私が勝ったら、あきらめてもらいますよ。其れで、良いですね」
「良いわよ。其れで。じゃあ、勝負ね」
祐子は、混乱の中、改めて思う。森藤先輩は、一体、如何謂う心算なのだろう? 当然の話であるが、祐子にしてみれば、心中は決して穏やかでは無かった。斯うして、男性にモーションを掛け、食指を伸ばし、其の男性を意の儘に操縦出来ると謂う確乎たる自信は、矢張り、其の瑰麗なる美貌とスタイルから来るのであろう。腹立たしくもあり、羨ましくもある。いずれにしても、祐子には持ち得ぬ物ではあった。然し此処で、不本意乍らも、正太郎が賭代とされてしまったのである。此処は絶対に引けない処である。扨、斯くして、不穏な空気の中、絶対に負けられない戦いは始まっていったのである。最初は100桁まで、PCに打ち込む、と謂うものだった。然し、脱落者はいなかった。次に500桁、3名が脱落した。さらに、1000桁、4名が脱落した。残りは祐子と森藤と3年男子だった。次に1500桁、祐子と森藤だけが残った。2000桁、二人とも残っている。膠着状態が続いた。如何んせん、此の儘ではきりが無い。其処で、急遽、主催者が協議の上、方法を変えた。今から謂う桁数の数字を入力するというものだった。まず、3000桁、3022桁、5000桁、967桁、29584桁。会場がざわついた。が、此処で、勝負がついた。森藤は4問目を間違え、5問目は答えられなかった。新チャンピオンの誕生である。場内は歓声に包まれた。みんな、一斉に祐子を褒め称えた。高志は興奮して、正太郎に語りかけた。
「祐子ちゃん、やったな。おめでとう」
「ああ」
「…?」
高志は、頗る感情の乏しい正太郎を訝しんだ。当然もっと喜ぶべき筈なのに…。だが、其の時、正太郎は別の感情に支配されていた。其れは、恐怖に近い感情だった。畏怖と謂っても良い。正太郎は思った。恐らく、祐子は、少なくとも、30000桁くらいまでは確実に覚えていたに違いない。其れだけでも、正太郎が一生掛かっても到達し得ない境地である。だが、其れだけではない。祐子の頭脳は自分の望む桁を即座に再生できるRAMの様な頭脳になっているとしか思えなかった。そうでなければ、説明がつかない。いや、説明のつけ様が無い。現に森藤先輩は、斯うした問題には抗えなかったではないか。証左はある。学校祭のクイズ大会の時に感じた些細な違和感。あの時、『祐子ちゃんは、素数である事が何故分かるんだ』。間違いなく、そう思った自分が居た筈なのだ。
そうだ。確かにそうだ。素数に見分ける方法など無い。ある筈が無い。其れは、数学の歴史が証明している。現在に於いても、素数を判別する方法として、一番有効な方法は、サンダラムの篩とも謂えるかもしれないが、此れはエラトステネスの篩の発展系でもある。エラトステネスの篩は全ての自然数について篩をかけ、素数か如何かを淘げて行く訳ではあるが、サンダラムの篩は、其れを奇数に於いてのみ行って行くものである。此の方法であれば、単純に考えても、エラトステネスの篩よりは、淘げる(篩にかける)標本の数が半分になっており、明らかに効率が良い。更に対象奇数の下一桁が5の数字を除外する、などの工夫はある。此れらは、一見、難しい事を謂っている様ではあるが、其の謂いは、頗る単純であり、偶数、5の倍数と謂った視認性の高い合成数を予め排除しておき、篩に掛けているだけに過ぎず、現代であっては、勿論。恐らく、古代希臘であってもそうなのであろうが、子供でも容易に理解出来る理屈なのである。然し、篩法の根源的部分を鑑みれば、最終的に篩に掛けると謂う動作は如何しても残ってしまう。エラトステネスは紀元前200年頃の希臘の科学者であり、地球の大きさを論理的かつ、実験的に初めて計測した人物として良く知られている。つまり、素数の効率的判別法は、其の時代から現在に至るまで、数学者達の大きな命題となり乍らも、即座に計算で導く方法は皆無であり、其れ故に此の考え方は、現在のRSA暗号技術にも応用されている位なのである。即ち、素数か合成数か如何かを判別する、最も手早く確実な方法は、其の数字が素数か如何かを知っていると謂う事に他ならない。そう考えた時に、全ては繋がった。屹度、祐子は学校祭のあの時、祐子自身の脳内のデータベースと照らし、素数か否かを瞬時に峻別していただけなのだ。つまり、此れは知識の問題なのである。あの時、祐子は、一見、無作為に現れた、6桁の臚列された数字に於いて、其の数字が素数であるか、合成数であるかを、知っていたに過ぎなかったのだ。即ち、覚えていたと謂う事に他ならない。だが、然し、其れ自体、果たして、人間に可能な行為なのか? 人間業を超越した行為ではないのか? 呆然とする正太郎を他所に、高志は正太郎に謂った。
「おい、祐子ちゃんが優勝したんだぞ。もっと、喜べよ」
「…まるで、…化物だ」
正太郎は青ざめた面持ちで、表現すべからざる言葉で嘆息した。
「何、何だって」
やや、間を空けて、正太郎が叫んだ。
「すごいよ。確かにすごいけど…。だけど、あれは、人じゃない。人智が及ぶ力じゃない」
高志は心配になってきた。正太郎の様子が、明らかにおかしい。
「おい、謂いすぎだろ。祐子ちゃん、多分、お前の為にがんばったんだぞ」
「分かっている。そんな事、分かっているよ。分かっているけど…。俺、俺…、もう、帰るよ」
「ちょっと、待て。祐子ちゃんを待ってやれよ。声を掛けてやれよ」
「…いや。俺の言葉なんていらないだろ」
「おい、待てよ。お前、如何かしているんじゃないか? 何かおかしいぞ」
倉皇としている処に、ひろみと敬介と凛子と祐子がやって来た。ひろみが興奮し乍ら謂った。
「見てた。正太。祐子、すごかったよね」
「ああ。…ごめんな。俺、帰る」
「えっ」
「待って、正ちゃん。帰るなら、一緒に帰ろうよ」
「…いや、一人になりたいんだ」
「ちょっと、待って正ちゃん。一緒に。ね」
二人の後姿を呆然と見送り乍ら、高志はポツリと謂った。
「あいつら、帰してよかったのか…」
「…。何で?」
「いや、正太の奴、大分、様子がおかしかった。変な事にならなきゃいいが…」
高志の不吉な予感は、不幸にも的中した。正太郎と祐子は家とは逆方向のさつき通りの方に向かって、自転車を引いていた。二人とも無言の儘だった。正太郎はまた考えていた。祐子は俺なんかに感けていてもいいのか。此の才能豊かな少女は、其の豊穣な才能を以って、もっと高みに向かうべきでは無いのか。恐らく、祐子はまだまだ、引き出しを一杯持っているに違いない。だが、俺には何も無い。自分がとても矮小で卑屈な人間に思えた。行き着く結論は一つだけだった。口にしたくは無い結論だった。
『恐らく、俺と祐子は釣合わない』
其の結論は、まるで、曇ガラスに爪を立てた様に、終始、正太郎の神経を苛立たせた。否、もっと、恐ろしい事がある。祐子が先程の正太郎の結論に到達したら如何であろう? 祐子の愛情が冷めたら如何であろう? 俺で祐子を果たして拘繋出来ると謂うのか? 否。恐らく、俺は捨てられる。多分、襤褸屑の様に。気が狂いそうな妄想であった。正太郎の妄想の中に、千春との苦く悲しい思い出が去来した。
「ねえ、正ちゃん。何か…変だよ」
祐子はそう謂い乍らも、理由は分かっていた。祐子は先程から、正太郎の瞳の奥にある、恐怖感を敏感に嗅ぎ取っていた。恐怖感。いや、もっと、斯う異質な物を視る眼差し、そう、祐子は正太郎にとって、異邦人である事をハッキリと自覚したのだ。目の前にいる筈の正太郎の存在が、突然、何万パーセクも彼方に行ってしまった様だった。二人の間には、何時しか、越える事が出来ぬ様な大河が明らかに存在していた。
祐子はいずなと同様、卓越した能力を持っていた。人並み外れた記憶力。と謂うよりも、忘れる事が出来ない能力、とでも謂うべきであろう。祐子は、通常の本なら一読しただけで丸暗記出来た。円周率も正太郎の想像を超えて、50000桁位までは、完璧に覚えていた。一般的には『サヴァン』と呼ばれるべき人間である。だが、祐子はいずなとは異なり、此れを巧妙に隠していた。其の才気を恥じていた。其の英気を嫌悪していた。特に、正太郎の前では徹底的に隠していた。だから、学校祭の時も、本当は此の能力を使いたくなかった。本能的にまずいと感じていたのだ。然し、あの時、正太郎の悔しそうな顔を見て、つい、禁忌を破った。だが、異端は異端を嗅ぎ分ける。いずなは祐子の能力を感じとっていた。花見の時も、学校祭の時も、麻雀の時も。麻雀の時にいずなが発したメッセージ。
『私と同じ能力。祐子ちゃんもあるよね?』。祐子は敢て答えなかったが、メッセージは確実に受け取っていただろう。いずなには、確信があった。だからこそ、今回の大会もいずなは祐子に代役を頼んだのだが、祐子が此の能力を嫌悪していた事に迄は気がつかなかった。いや、気が付けなかった。此の感覚の差はいずなの不覚であろう。
「…。祐ちゃん。俺と付き合っていて、楽しい?」
前を歩いている正太郎が突然、斯う謂った。表情は伺えない。いつもの祐子なら、迷わず、『うん』と、答えたのだろう。然し、此の時は違った。
「如何して…。そんな事聞くの?」
「俺、…祐ちゃんと付き合っていく自信が、なくなった…。俺なんて…。必要無いだろ」
其れは、慄然とする様な一言であった。否、戦慄すべき一言であった。咫尺千里の例えもある。お互いの心が通わなければ、些細な言葉であっても、其れは意外な程、鋭利な刃物と成り得るものである。『白玉の傷は磨けば直るが、言葉の傷は取り返しがつかない』。そう謂って嘆息した、将に、荀息の故事、其の儘である。何があっても、決して発してはならない言葉であった。
「何で、そんな事…謂うの」
祐子はもう既に泣いていた。『九仞の功を一簣に虧く』の例えもある。今迄、慎重に慎重を重ねて、隠し通していた自身の秘密を、白日の下に晒してしまった。二人はいつしか巴川河畔の、とあるファッションホテルの前にいた。正太郎は投げやりに謂った。
「寄ってくか?」
祐子は怯えた様な顔つきで、頭を左右に振った。
「…い、嫌」
祐子の返事は聞くまでも無かった。今度は、祐子の瞳がハッキリと否定していた。嫌悪感と恐怖が入り混じった瞳の色だった。其れは、正太郎も敏感に感じ取った。
「…そうだよな」
「ごめんね。今日は…勘弁して。ねえ、正ちゃん。其れよりも、カラオケにでも行こうよ」
「いや。もう。ひとりにさせて欲しい。さよなら」
正太郎は膠も無くそう謂うと、自転車をこぎ出し、振り返る事無く、行ってしまった。恐らくは、両手に顔を埋めて泣いているであろう祐子を、其の儘にして。
随分と惨い話である。筆者は此の状況を見聞するに、カッサンドラーの故事を思い出さずにはいられなかった。現今では、『カサンドラ症候群』と謂う言葉の方が有名であるが、其の元ネタとなった逸話である。カッサンドラーは希臘神話に登場するイーリオスの王女であり、悲劇の予言者として知られている。カッサンドラーはアポロンの寵愛を受け、彼の恋人となる代償として、未来を予言する能力を授かった。然し、此の能力は、彼女を幸せにする事は決して無かった。カッサンドラーは予言の能力を授かった瞬間に、アポロンの愛が醒め、自分が捨て去られる未来が見えてしまったのである。因って、カッサンドラーはアポロンの寵愛を拒み、激怒したアポロンにより、『カッサンドラーの予言を誰も信じぬよう』、呪いをかけられてしまう。此れにより、トロイア戦争の行く末、トロイの木馬などを予言するにもかかわらず、人々からは信じてもらえず、陵辱の末、非業の死を遂げるのである。此の逸話は幾つかの寓意と示唆に富んでいる。
まず、人智を越えた能力を手にしたと謂う点に於いては、祐子は明らかにカッサンドラーである。祐子は、其の巨大な力に振り回され乍らも、正太郎を得る事で、何とか己を保って来たのである。一方、不吉な未来を予見した。と謂う点に於いては、正太郎は明らかにカッサンドラーである。彼は、其の不吉な未来を受け入れる事が出来ずに、身悶えするが如く呻吟し、周囲からも其の憂鬱を理解してもらえずに、破局への道を選択してしまった。将に、『カサンドラ症候群』である。実際に、カッサンドラーの憂鬱が如何許りの物かは、我々には知る由が無い。此の場合、それぞれのカッサンドラーは、一つづつ、ミスを犯したものと思われる。まず、祐子であるが、彼女は此処に到る迄、正太郎に真実を告げる勇気を持ち得なかった。若し、祐子が早い段階で正太郎に相談出来ていたら、また、展開は違ったものになっていたのかもしれない。一方、正太郎である。彼は不吉な未来に恐怖し、慄き、自滅への道を選んでしまった。だが、此れとても、立ち止まって考える勇気を持っていたのなら、或いは、結論は変っていた筈である。抑々、人生などと謂うものは、不吉な事ばかりである。良い事ばかりの人生なぞありはしない。筆者は予言などと謂うものは、信じないし、また、出来る事でも無いのだが、其れでも、一つだけ確実に予言する事が出来る。其れは己の死である。そうである。どんな人間であれ、いつかは、必ず、其の死を以って、終焉を迎えるのである。此れは、万人斉しく与えられた運命でもある。そんな運命に抗う事等、決して出来はしない。畢竟、人間は与えられた寿命の中で、懸命に生きて行くしかないのである。『例え、今日に此の寿命が尽きようとも、明日の為に、種を蒔く』。屹度、此の様な感覚が必要なのであろう。祐子の強大すぎる能力も、正太郎が垣間見た不吉過ぎる未来も、本来は、此の二人が御して行かねばならぬ物である。だが、此れらの厄災は16歳の少年少女には、甚だ重すぎたのかもしれない。扨、閑話休題。此の後、少年少女たち、そして、彼らを取り巻く友人達が、どの様な選択をして行ったかを、見るとしよう。
翌日、顔を真っ赤にしたいずなが、ずかずかと4組に入って来たのは、放課後の事だった。本来であれば、いずなは此の日も欠席となっていた筈だった。然し、昨夜、祐子からの電話があり、無理を推して、午後から出席したのであった。其のいずなに、六助がからかうように声を掛けたが、いずなはまるで取り合わない。頓て、高志を見つけると、凄まじい剣幕で、怒気を含んで、斯う謂い放った。
「ハロゲン族。正太は何処行ったの? 謂いなさいよ。ゆうちんは、昨日電話口で、『正ちゃんに嫌われた。振られちゃった』って、ずっと泣いているし、昨日、一体全体、何があったの」
いずなが正太の事を呼び捨てにするのは、初めての事だった。高志は昨日の件だと、即座に直感した。然し、いずなの様子も、此れ又、尋常では無い。
「おい、お前、風邪は良いのか? 顔が真っ赤だぞ」
「そんな事、如何でも良いよ。其れより、謂いなさいよ。一体、何があったの?」
「正太なら今日は休みだ。祐子ちゃんは授業が終わると何処か行っちまった。俺も昨日の件は心配してはいたんだ。其れよりも、部室に行こう。其処で全てを話す」
高志はそう謂うと、部室に場所を移した。いずなの態度からして、恐らくは、昨日の一件で、祐子に泣きつかれたのであろう。いつも、飄々としているいずなにしては、全く似気も無い。いずなも頗る冷静さを欠いている様に見受けられる。此の儘、場所を変えなければ、どの様な騒動が出来するか、判ったものじゃない。そして、部室には祐子と正太郎以外のいつもの面々が全員揃っていた。其処で、高志は昨日の件を掻い摘んで話すとともに、自分の所見を述べた。明彦が其れを受けて、まとめた。
「つまり、正太は、祐子ちゃんの隠していた能力を見て度肝を抜かれた。そして、其れを隠していた事が面白くなかった。と、斯う謂う訳だな」
高志が付け加えた。
「面白くなかったか如何かは少し微妙だが、とても驚いていた。あと、酷く怯えていた。多分、自分が不釣合いだとでも思ったんだろうな。でも、此の件は、あんまり立ち入りたくねえなあ」
ひろみが不満げに、口を尖らせる。
「何よ、らしくないわね。正太を説得してくれないの?」
「例え、正太が他の女の子と浮気した、って話でも状況は同じさ。何方かが冷めていたら、こんなもん、抑々、成り立つ話じゃ無いんだぜ」
「其れはそうなんだけど…。そうだ、思い出した、昨日祐子、優勝を争った副会長の森藤ってアバズレに、『負けた方が、正太から手を引く。』って勝負を持ちかけられて、強引に呑まされたらしいわよ」
「其れこそ、らしくねえ話だな。いつもの祐子ちゃんなら、こんな罠なんざ、簡単に躱すだろ」
「そんな事無いわよ。相手はミス清高よ。謂っちゃあ悪いけど、祐子だって容姿に自信があれば、簡単に躱すわよ。本当は、今回の大会。いずなには申し訳ないけど、祐子、適当な処で、お茶を濁す心算だったんだから」
「ごめん。いずな、其処迄、気が回らなくて…」
「て事は、ひろみ。お前、祐子ちゃんやいずなの能力、気がついていたのか?」
「そりゃあ、気がつくわよ。いずなは近隣の中学で噂になっていたし、祐子はいつも行くキャトルのメニューの値段表、全部覚えていたわよ。其れに、いつぞやの麻雀の時も、あの子、正太の自模と捨て牌、全部覚えていたわ。合宿の時の宿題も、本当は英語の教科書持って来てなかったもの。『家に置いて来ちゃった』とか謂ってたけど、本当に必要なかったんだな。って思ったよ。私、何の気なしに、『祐子もいずなみたいな事、出来るんだね。羨ましいな』って謂ったら。あの時、祐子、すごく悲しそうな顔をして、『こんなの、いらない。此の事が、正ちゃんに分かったら、私、嫌われちゃうよ。正ちゃん、普通の子が好きだから。私の夢は正ちゃんのお嫁さんに、なる事なんだ。だから、こんな能力必要ない。お願いだから、正ちゃんには内緒にして』って。だから、合宿中、私が使わない時、英語の教科書、貸してあげてたんだ。正太に不審がられるから、持ってなさいって」
「そうか」
「だから、今回の行事も、私、心配で直前に聞いたんだ。そうしたら、祐子。『いずなちゃんには悪いけど、適当なところで、リタイアするよ』って、謂っていた。其れを、あの森藤ってバカ女。選りに選って、祐子の泣き所である、正太に的を掛けて来るとは。多分、小賢しい揺さぶりだとは思うけど、お陰で、祐子が引くに引けなくなった。全く。今度、廊下であったら、顎をぶち砕いてやるわ」
憤懣やる方無いひろみは、頗る物騒な事を口にする。
「わあ。よせよせ」
頭をかき乍ら、高志が慌てて止めた。明彦が謂った。
「成程、概ね状況は分かったが、其れで、如何する? 説得は高志か?」
「まあ、あまり気は乗らないが、仕方無いな。実際、状況的には、正太が何処まで、落ち着いたかなんだがな。正太を赤灯台辺りに呼び出して、真意調査と説得だな。で、野郎が大分落ち着いていれば、お前らを呼び出す。で、お前らは祐子ちゃんを探し出す。と、斯う謂う感じかな。あと、説得役は俺だけか?」
敬介が徐に名乗りを挙げた。
「俺も行くよ。祐子ちゃんに近い、いずなちゃんと付き合っているんだ。俺にも謂ってあげられる事があると思う」
「成程、尤もな話だ。じゃあ、説得係は俺と敬介だな。で、成功したら、そうだな、ひろみ。成功報酬としておっぱい触らせ…むがっ」
「乙女に何てえ事、謂うの。全く、此の男は如何して、こんな時に、斯う謂う馬鹿、謂うんだろ」
ひろみが高志の頭を叩き乍ら謂った。
「バカヤロー。こんな時だから、謂うんだよ。笑いでも取らなきゃ、此方の神経迄、いかれちまわあ」
「…何時も、同じ様な事、謂っている癖に。良いわよ、説得が成功したら、何でも謂う事聞いてあげるわよ…」
明彦が思慮深く謂った。
「なら、高志。悪いが、俺と凛子は遠慮しておくよ。みんなで正太を責めてる様な構図になってもまずいだろ」
凛子も済まなそうに謂った。
「でも、何かあったらメールしてね。手が足りなかったら、すぐ、飛んで行くから」
相談が纏まると、全員、一旦解散した。そして、高志が正太郎を、赤灯台に呼び出した。埠頭では、虎落笛が甲高い音を立てて吹き抜けていく。如何にも、寒々とした光景である。予想に反して、正太郎はあっさりと、出て来た。高志は、ばつが悪そうに声を掛けた。
「よう。悪いな」
「いや。俺も、お前らに合いたかった」
正太郎は突堤に座った高志と敬介を見上げた。
相変わらず虚ろな目をしていたが、昨日よりは幾分かマシだった。それに、随所に、憑き物が落ちた様な表情も見え隠れしていた。然し、其れが、吉兆なのか凶兆なのかは、高志にも判別がつかなかった。だが、正太郎が切り出した。
「祐子の事だろ」
「…ああ」
「祐子にでも、泣きつかれたか?」
高志はひどく穏やかに謂った。
「…祐子ちゃんが、そんな事すると思うのか?」
「…」
「ひろみに泣きつかれた。…其れで、あまり、気が進まないが、此処にいる」
「俺を…責めないのか?」
「責める? 何でだ。ひろみもいずなも、一つ思い違いをしている。例え、正太が浮気を重ねて、此の事態になったとしても、俺は責めないと思うぜ。まあ、軽蔑はするとは思うがな。大体、無理やり説得して、元の鞘に収めて、一体、何の意味があるんだ。決めるのは本人達なんだぜ」
「…そうだな」
「俺は、お前も祐子ちゃんも大切な友達だ。勿論、元通りになってくれるのが、一番だと思っている。だけど、何方かが冷めちまったんなら、其れ迄だ。其れを、無理やり説得する気はねえ。そんなの、唯の、独りよがりの傲慢だ」
「…そうだな」
「今日、祐子ちゃんは学校には来た。が、授業が終わると同時に何処かへ行っちまった。荷物は未だあったから、学校内で行方不明だ。其の後、いずなが真っ赤になって4組に怒鳴り込んで来やがった。部室で状況を説明すると、黙っちまった。心中、思うところはいろいろあると思うけど、所詮、いずなも祐子ちゃんと同じだ。敬介の事が気になったんだろうな。今、ひろみといずなが祐子ちゃんを探している。最後に、俺の意見を謂わせて欲しい。俺は、お前の様に一途に思われたい。正直、お前が羨ましかったよ。だが、お前の結論が如何あれ、尊重はするよ。唯、祐子ちゃんのあの一途さを思うと不憫な気がする。まあ、其れだけの事だがな。結局の処、5ヶ月前に此処で謂った事と内容は同じだ。結論はお前が決めてくれ。力に成れなくて済まんが…」
「祐子は、泣いていたか」
高志は殊更に穏やかに諭した。
「何故、そんな事を聞く。其れは聞く迄も無い事だろ」
「…そう。…だな」
其処で、敬介がおずおずと歩み出た。
「俺も良いかな。正太」
「ああ」
「俺も高志と同じだ。正太の結論が全てだと思う。だげど、参考になるか分からないけど、いずなちゃんの話をさせて欲しい。俺が合宿中、いずなちゃんに告った時、いずなちゃん、ちょっと妙な事、謂ったんだ」
「妙な事?」
「ああ。なんでも、『私は中学校時代、忌み嫌われていた。だから、人を好きになる資格はない』って、そう謂う趣旨の事を謂っていた。其の時は、ひどい話だと思って聞いていたよ。でも、後から考えてみると、ちょっと、変な謂い草だ。嫌われているから、人を好きになってはいけないなんて意味が通らない。本当は、いずなちゃんが謂いたかったのは斯うじゃないかとね。『私には特殊な能力がある。だから、友達からも忌み嫌われる。人を好きになる資格はない』じゃ、なかったんじゃあないかって。そう思えるんだ。多分、いずなちゃん、ぎりぎりのところで、やはり謂えずに、一番、謂いたかった主文を省いたんだと思う」
正太郎は素直に敬介に尋ねた。
「敬介。お前は、いずなの能力を見て、如何思った?」
「いや、正直、すごいなと思ったよ。でも、俺がいずなちゃんの能力に気がついたのは、告る前の事だよ。まだ、4月の話だ。尤も、確信したのは、学校祭のクイズ大会の時だけどな」
「そうなのか?」
「ああ。4月の頃に、何とか、いずなちゃんと話がしたくて、宿題に託けて、良く質問したんだ。其の時に、『此の構文は、48ページの7行目に出てくるよ』とか『此の方程式は26ページの14行目に出てくる。其処の欄外に、結構、詳しく載っているよ』って。其の時は、随分先まで予習しているなあって、思ったけど、良く考えたら、いずなちゃん、教科書も持ってなかったんだぜ。後から、清水中出身の奴に、『いずなは教科書を丸暗記している』って噂を聞いて、合点がいったよ。丸暗記していれば説明がつく」
「お前は、其れを聞いて、如何思った? 怖くは無かったのか」
「別に…。だって、いずなちゃんはいずなちゃんじゃねーか。其れに、いずなちゃん、結構、苦しんでいたぜ。かわいそうだった。見ていられなかった。彼奴、分かっているのに、俺に知られまいと、無理して分からない振りしてさ…。だから、告ったあと、すぐに謂ってやったんだ。『無理するなよ。俺はそう謂うすごい能力を含めて、いずなちゃんの事を好きになったんだ』ってな。そうしたら、いずなちゃん、大粒の涙をぼろぼろ零してな。嬉しかったんだろうな。だから、今回の数研の行事も大喜びでな、『フルスロットルで勝負してくるよ。ケースケも見ててね。十万桁でも覚えてみせる。でも、嫌いになっちゃ嫌だよ』ってな。いずなちゃん、学校祭のクイズ大会の直後、少し様子がおかしかったんだが、今にして思えば、俺に悟られたんじゃないかって、気にしていたのかなって思うんだ。多分、祐子ちゃんも、屹度、同じ様に、苦しんでいたんじゃないのかな」
「…敬介。お前はすごいよ。自分で、其の、不釣合いだって思った事は、無かったのかよ?」
「当然、あるさ。抑々、俺は此の学校に入った時に、誰と較べても、不釣合いだと思ったよ。でも、すごく失礼な事謂うけど、勉強に関しては、猛烈に勉強すれば、ひょっとしたら、お前や、高志には届くかもしれない。或いは、明彦や凛子にもな。でも、いずなちゃんには絶対に届かない。其れ程迄に、別次元の才能だと思うよ。其れに、最近では、いずなちゃんが不釣合いだって思わなければ、其れでいいのかな、って思う様になった」
其の時、後ろで微かに、人の気配がした。
「あっ」
いずなだった。いずなが目に涙を浮かべて、
腕組みをして、仁王立ちに立っている。其の横にひろみも腕組みをして、仁王立ちに立っている。いずなが、今にも泣き出しそうな顔で謂った。
「正ちん。此のおばかっち。いろいろ、謂いたい事はあるけど、ゆーちんに免じて謂わない。其れに、殆ど、ケースケ君が謂ってくれた。だけど、今の話、一つだけ、訂正するよ…。私とケースケ君とは、全然、釣合ってなんかいない。…圧倒的に私が足りてない。私はケースケ君にいろいろ、幸せを貰ったけど、私はケースケ君に何一つ返せてない。だけど、ケースケ君、『其れで良い』って、謂ってくれた。だから、釣合ってないけど、いずな、釣合っているって、思う様にしてるんだよ。ゆうちんだって同じだよ。正ちんみたいな優しい人が、そんな事も分からないの? 此の、おばかっち。どんな結論になっても、我慢するけど、最後はゆーちんと正ちんが、笑顔になってくれれば、って謂うのがいずなの願い…」
続いて、ひろみが謂った。
「高志との約束だから、私もどんな結論になっても、我慢はする。でも、此の寒空の下、こんな寂しい場所に、祐子を一人置いて帰ったら、正太。私は一生、あんたを許さないから…」
ひろみの後ろには、しょんぼりと地面を見つめた寂しげな祐子が、佇んでいた。夕闇迫る赤燈台に、剃刀の様に冷たく寂しい真冬の風が、遣る瀬無く亘って行ったのである。
咫尺千里の例え其の儘に、二人の意外な程の距離感に戸惑う正太郎と祐子。此の儘、為す術無く破局となってしまうのか? そして、ボストンティーパーティーの面々の行動は? 次号、『第33話 カッサンドラーの憂鬱【後編】』お楽しみに。




