第31話 仰げば尊し【後編】
2限終了の予鈴が鳴るや否や、生徒達は続々と屋上へ馳せ参じつつあった。此れは偏に、ヤスベエのオーガナイズ能力と、生徒達の女神先生に対する思慕の深さの賜であろう。生徒達は、宛ら、蜜に群がる蟻の如く、屋上を目指して集まって来る。途中で、異変を察知した一部の教師達も、屋上を目指す。如何やら、漸く、事態の源泉は屋上にありと看破した模様である。屋上では生徒会長である安井恭介、或いは、瑰麗なる美貌の持ち主である、副会長の藤森順子らが生徒達に的確な指示を与えている。頓て、10時43分、愈々、人数は100人を越えた。生徒達は未だ、続々と集結しつつあり、其の数、瞬く間に200人を超える。一方、流石に職員室の教師たちも、校内の異様な状況に気付き始め、階段踊り場付近と屋上入口付近で揉み合いが発生し始めた。感情に支配された群集程危険なものは無い。彼等は感情の赴く儘に浮遊する。かなり、危機的な状況である。此の儘では、怪我人すら、でかねない。
「何をしている! お前達、速やかに教室に戻れ!」
「おい、ふざけんな! 未だ、休み時間じゃねーか。くだらねー事言ってんじゃねえ。学校側の横暴だろ」
「俺達は女神ちゃんを送ってあげたいだけだ! ちゃんとな!」
「そうだ! 手前らの都合で勝手に放逐してんじゃねえ! いい加減、人の道を弁えろ!」
事態を収めようとする教師陣と、興奮しきった生徒達の間で、凄まじい怒号が飛び交っている。宛ら、50年前の学生運動を髣髴とさせる様な状況である。激しい揉み合いの中で、動もすれば、暴動にすら発展しかねない、此の騒乱の中で、生徒会長である安井恭介や副会長である藤森順子らが、懸命に事態を穏便に収めようと間に割って入る。10時45分、生徒たちの数は、愈々増え、300人に達しようとした、其の時、誰かが叫んだ。
「来たぞ!」
生徒達は一斉に其方を見た。西方から、件の新幹線が疾走して来たのである。『うおー』と言う地鳴りの様な歓声と伴に、新幹線に向かって、生徒達は一斉に手を振り始めた。其れは、宛ら、映画の中の一場面の様な、実に感動的で、驚くべき光景であった。皆は、抑々、女神ちゃんが、どの車両に乗っているかも知らない。然し、一同、一様に迫り来る新幹線に向かって、懸命に手を振っているのである。
「さようなら。女神先生」
「女神先生。ありがとう」
「女神ちゃーん。いつでも、また、赴任して来いよー」
「今度は一緒に銀座のソフトクリーム屋に行きましょうねえ」
「先生。負けないでえ。頑張ってね。私、応援してます」
女性徒が涙乍らに叫ぶ。中には、
「筆下ろしの時には、宜しくお願いします」
こんな飛んでも無い事を叫んでいる輩も居た。そして、更に、驚くべき事に、何と事態の収拾の為に駆けつけた筈の教師達までもが、懸命に手を振っているのである。彼らは全身で惜別の念を表現し、再会を祈念し、此の僅か二週間足らずの戦友に対し、最大限の敬意を表し、腕も捥げよとばかりに手を振っているのである。最早、生徒も教師も無い。彼らは、なりは大きくとも、其処にいるのは大きな子供達に過ぎなかったのである。
だが、其れは僅か数秒の出来事であった。当然の事として、直に新幹線は疾走を続け、走り去って行ってしまった。後には、少しざわついた群集が残るのみである。然し、いつしか、彼らの一角より歌声が起こった。そして、其れは瞬く間に、全体へと、波及して行ったのである。其れは、恰も、静謐な湖水に広がる波紋と、少し似ていた。歌声は、冒頭に掲げた、『仰げば尊し』である。男子生徒も、女子生徒も、そして、教師も、声を嗄らして歌った。ある者は名残を惜しんで。そしてある者は、大粒の涙を浮かべ乍ら懸命に歌う。其の優しくも、情緒溢れる旋律は、いつしか、大合唱となり、其の嚠喨たる歌声は、師走の雲一つ無い青空に、谺していったのである。大きな子供達による、女神先生に捧げる、細やかな惜別の大合唱であった。
やや、時間が前後する。静岡駅の上り新幹線ホームに佇んだ薬缶と女神は、ぼんやりと、安倍川方向、即ち、西方を見つめていた。薬缶には、先程高志が言った謎の様な伝言の企図が、確りと伝わっていた。
(彼奴ら、授業をサボりやがって…。帰ったら説教だ)
と、同時に、少々、羨ましくも思う。其の行動力がである。彼奴らは自分が出来なかった事をやろうとしているのである。其れが若さと言う物なのだろうか。多少の嫉妬と伴に、そんな事を考え乍ら、薬缶は自分が乗るべき列車の到着を待っていたのである。自分が出来なかった事? そう、昔であれば、彼奴らの様に何の躊躇も無く行動出来た筈なのだ。
(また、随分と詰まらない大人になったもんだな)
そう、思わざるを得ない。頓て、薬缶と女神ちゃんはひかり500号に乗り込んだ。幸いにして、海側の座席は確保することは出来た。御園は窓側、薬缶は通路側である。薬缶の見るところ、此処数日の喧騒が彼女をそうさせたのであろうか、御園先生は少し疲れている様に見受けられた。二人は黙して座席に着くと、気まずそうに、何処と言う宛ても無く、虚ろな視線を彷徨わせている。ひかり500号は、10時41分、定刻通りに、静岡駅を発車した。新幹線特有のロングレールのせいか、静謐性が保たれた快適な車内である。列車は、音も無く、ぐんぐんと加速する。東静岡駅、草薙駅脇を通過する頃には、愈々、加速が完了し、漸く、巡航速度に到達した様であった。頓て、七ツ新屋、小糸前の連続トラス橋に差し掛かった頃、ふと、薬缶が思い出した様に、ぼんやりと呟いた。
「もうすぐ、学校だな」
「…はい」
そして、渋川の巴川橋梁。私と祐子の家の前でもある。新幹線は、忽ち、其処を駆け抜けると、頓て、清高付近、八坂の橋梁に到達した。
そして、次の瞬間。其れは、其処にあった。
静岡県立清水高校校舎の屋上の鉄柵に、流麗な楷書体の字体で、模造紙一枚一枚に、墨で黒々と、丁寧に描かれた大きな文字列。生徒たちの思いは、此の僅か20文字の言葉に、全て集約されていたのである。
『女神先生ありがとう。いつまでもお元気で。』
そして、屋上には、ざっと300人程の生徒達が懸命に手を振り乍ら、必死に何かを叫んでいる。声こそ聞こえないが、其の状況は手に取る様にハッキリと視認出来た。ハンカチを振っている者も居る。鮮やかな檸檬色の大きなタオルを振っている者もいる。よくよく見れば、中には、教師も混じっている。いや、其れだけでは無い。2階、3階の廊下の窓からも、新幹線に向かって手を振っている。更には、グランドにいる一団の体操着姿の生徒達も此方に向かって手を振っているのである。思わず、『うっ』と、呻いた女神先生であったが、然し、何とか、辛うじて、涙だけは堪えた。
(みんな。ありがとう。本当に、ありがとう)
懸命に手を振る生徒達、そして、教職員達。今、女神先生の眼下には爽やかなる感動が展開されている。だが、其れとても、コンマ何秒かの世界、刹那の出来事である。次の瞬間には、女神先生の視界は、広闊な秋葉の森に遮られ、感動はすぐに、見えなくなってしまった。
「あの、馬鹿どもめ。帰ったら…説教だ」
薬缶が呆れた様に呟く。
「いえ、そんな」
そう、悪態を吐いた薬缶であった。然し、其の顔は不思議と満ち足りていた。
一方、私達は、『仰げば尊し』を歌い終わり、暫くはざわついていた。然し、一人の男が、つかつかと靴音を響かせ乍ら、一団の前に現れた。応援団長の岩上大吾である。彼は、深々と一礼すると、良く通る大きな声で、
「御園ぉー 女神のをー
前途をー 祝しぃー
校歌ぁ 斉唱ぅー
いっち番だけぇー いち、に、さん」
「すらぁ」
そして、全員による校歌の大合唱が始まった。実に、見事な校歌斉唱である。燃える様な真紅の紅葉の葉と、色鮮やかな櫨染色の銀杏の葉が舞い散る学園を包み込む歌声。其の歌声は嚠喨として響き渡り、ある者は惜別の想いを込め、また、ある者は感謝の念を込め、そして、ある者は女神ちゃんの前途を祝し、そして、ある者は清高の栄誉を讃え、居合わせた全員が、今、万感の思いを込め、声も高らかに歌っているのである。頓て、一番を歌い終わった処で、岩上の良く通る声で、エールが送られた。
フレー。フレー。女神。すらー。
「フレ、フレ、女神。フレ、フレ、女神。」
頓て、割れんばかりの拍手。其の拍手は、いつまでも果てしなく続くものとも思われた。然し、冷静に考えれば、此れとても、只の感傷に過ぎない。何故なら、送られるべき女神ちゃんは、既に其処にはいないのだ。恐らくは、遥か、北方、30キロは彼方に走り去ってしまっているのである。此れらの行為は、所詮、生徒達の感傷の産物であり、畢竟、単なる自己満足に過ぎないのだ。だが、此れを唯の自己満足の儘に終わらせぬ人物が居た。ヤスベエである。彼女は、此の一連の行為、即ち、屋上に生徒たちが集まり始めてから、此処に至る迄の様子の一部始終を動画に撮影しており、其れを女神ちゃんのメアド目掛けて送りつけていたのである。いや、其ればかりでは無かった。彼女は、祐子やひろみ、いずな、凛子、或いは、その他生徒が撮影した画像や動画を取りまとめて、女神ちゃんへ送りつけたのであった。感謝とエールの言葉を添えて。
其の頃、女神ちゃんと薬缶は、丁度、三島を通過した頃であり、車両は其の儘、新丹那隧道に突進して行った。此の隧道は8キロ弱と随分長い隧道である。或る意味、此の長い隧道に、女神は救われたと言って良い。今でこそ、鉄道隧道の日本のランキングでも50番前後の筈であるが、一時は日本で有数に長い鉄道隧道であった時代もあった筈である。元来、東海道本線は東京から来た場合、箱根に端を発する火山帯を越える事が出来なかった。従って、大正、昭和初期頃までは、国府津駅より酒匂川沿いに箱根火山帯の外輪山を迂回する御殿場線ルートを通っていた。此の御殿場線ルート、文字通り、迂回路である事は勿論であるのだが、ルート自体が起伏に富んでいた為、動力に関しての負荷も大きく、熱海、三島間をショートカットするルートの建設は当時から渇望されていたのであった。因って、当時から、熱海までの鉄道は、勿論、存在はしていたものの、所謂、典型的な盲腸線であり、伊豆半島への玄関口としての位置づけであった。尤も、熱海は其の温暖な気候と、火山地帯特有の豊富な温泉が湧いた為、首都圏からの避寒地。所謂、奥座敷として地位を保ち続けていた。芥川の初期作品の一つである『トロッコ』も、此の地区の軽便鉄道敷設工事の描写が下敷きとなっている。
扨、当初、女神は、煢々とした様子で、ぼんやりと函南付近、丹那盆地の隧道がちの陰鬱な風景を見ていた。然し、ヤスベエから送られた動画を一目見るなり、
「うっ」
と、低く呻き声を漏らした。彼女は、抑々、薬缶の助っ人として、二週間、臨時講師として勤め上げただけに過ぎない。決して、何年も清高で教鞭を取っていた訳では無いのだ。然し、女神は、『仰げば尊し』の件、そして、校歌斉唱の件を見た際には、愈々、嗚咽を堪える事は、出来無くなっていた。暗い隧道内の車窓である。明るい車内の光量により、車窓は、恰も、鏡の如き状況にあり、女神の涙に濡れた美しい相貌を映し出した。彼女は暗い車窓をぼんやりと見つめている様には見える。然し、彼女は、虚ろな表情で、恰も、正気を失った人の様に、煢然とした佇まいで、宛ら、壊れた自鳴琴の如く、携帯の画面に併せて、切れ切れに校歌を口遊み、時折、大きく噦り上げ乍ら、激しく肩を震わせていたのだ。そう、彼女は、人目も憚らずに、号泣していたのである。薬缶は手に携えていた鼠色の外套を、欷泣する女神の肩に、後ろからそっと掛けた。
(あの馬鹿どもめ、教師を泣かせおって。本当に、仕方の無い奴らだ。帰ったら、…説教だ)
然し、此れは、明らかに薬缶の本音では無いのだろう。何故なら、薬缶自身の双眸にも、うっすらと涙が浮かんでいたからである。
御園女神は大学院を卒業した後に、高校数学教師を其の職に選んだ。然し、其れは同時に荊の道でもあった。其の際に、常に、頸木となり、足枷となったのは件の動画であった。此処では、敢て其の動画の真贋には触れ無い。若し、あれが、例え、女神ちゃん自身であったとしても、女神ちゃんが法律違反を犯した訳では決して無い。言わば、若気の至りに過ぎぬエピソードであっただけであろう。だが、其れは、女神ちゃんの教員生活に暗く陰鬱な影を落としたのは間違いの無い事であった。何時であっても、又、何処であっても、あの動画が付いてまわる。今の様な、ネット全盛の時代に在っては、猶更の事である。其れは、或る程度、致し方無い事なのかもしれない。然し、其れは、若気の至りとして片付けるには、余りにも大きすぎる代償であった。結局、最後には、教職を辞し、予備校の講師等をしていたのだが、其れとても、状況としては、然程、変らなかった。最終的には、薬缶が臨時講師を依頼した頃には、彼女は其の卓越した能力を持ち乍らも、全くの、無職であったのである。今の彼女にとって、清高に於いて、何らかの業績を為したと言う気持ちは微塵も無い。以前からの知人であった薬缶の苦境を慮って、依頼を受託しただけに過ぎないのだ。然し、此の生徒達は如何だ。此の優しい子供達は? 彼らはこんな自分ですらも慕い、尊敬すべき恩師として送り出そうとしてくれているのである。申し訳無かった。只管、生徒達に申し訳無かった。
一方、其の優しい生徒達である。彼らは、エールを終え、拍手も止み、手持ち無沙汰に立ち竦んでいた。いや、少々、虚脱した感すらあった。授業に戻るにせよ、此の儘、残って引き続き気勢を挙げるにせよ、何かをすべきであったのであろうが、何も動く事が出来無い。そんな感じであった。恰も、何か言い様の無い魔法にでも掛けられた様な状態であった。だが、突然、動きがあった。群衆の前にすみれ先生がゆっくりと歩み出る。彼女は、生徒達にニッコリと微笑み掛けると、皆に呼び掛けた。
「さあ、皆。教室に戻りましょう」
此の一言により、突如として、魔法が解けた。凍った時間が再び動き出したのだ。すみれちゃんの一言に、生徒達は吃驚するほど素直に従ったのである。頓て、騒動も静まり、3限の授業が開始された。時刻にして11時20分過ぎ。30分遅れての授業開始であった。
同日13時。羽田空港の送迎ゲートでの事である。其の頃には、女神も大分落ち着いており、いつもどおりの明るい先生に戻っていた様であった。そして、薬缶と女神はがっしりと握手を交わすと、薬缶は。含羞み乍らも、女神に対して斯う告げた。
「本当に有難う。何か、申し訳無かった。こんな事に巻き込んでしまって…」
薬缶にして見れば、自分の依頼でこんな事になってしまったとの後悔がある。此の発言は頗る自然な思いの発露であろう。其れに対し、ヒュパティアは吃驚する程の、子供の様な屈託の無い笑顔を見せ乍ら、斯う言った。
「飛んでもありません。羅漢先生。私の方こそ有難う御座いました。先生のお陰で、私の細やかな夢が叶いました」
「細やかな夢だって?」
「はい。いつの日にか母校で教鞭を取る。其れが、私の細やかな夢でしたから…」
「…そうか」
「本当はこんな事を先生にお願いするのは、慙愧の念に堪えないのですが、あの子達に私から、ありがとう。…そう、お伝えください。最後に、如何かあの子達の事を、呉々も宜しくお願いします」
「…分った」
再び、薬缶と女神はがっちりと握手を交わした。彼は女神を搭乗ゲートの奥に消えるまで見つめていた。頓て、女神を乗せたボーイング737―800のスタイリッシュな機影が北の空の彼方に消え行くのを、最後まで見送っていたが、口中で、一言、呟いた。
「深山嫁菜の君なれば…か」
此の時の薬缶の心情は、良く判らない。此の感慨深気な一言は、唯単に、順徳天皇の故事を思い出し、彼女に重ねただけのものなのか、深山嫁菜の花言葉からの連想なのかは、定かでない。
(そうだった。研究会に行かなきゃな)
彼は、東京行きの口実とした本来の目的を、卒爾として思い出すと、足早に、其処を立ち去ったのであった。
停学一日。
其れが、我々に下された最終的な処分であった。処分対象の日は翌日の14日、金曜日。処分対象は教職員も含め、凡そ、400人にも及んだ。恐らくは、此の処分に至るまでには、相当な紆余曲折があったのであろう。然し、最終的には校長先生が裁断した。本来であれば、生徒達の其の責任に於いても軽重があり、主導した者、煽動した者、其れに乗っかっただけの者と、明らかに其の罪咎にも軽重があって然るべきなのではあるが、下された処分は、件の時刻に授業を受けていなかった者は、斉しく停学一日となったのである。恐らく、此の結果は、此の社会を構成する厳然とした規則と、人間として当然持つべき情との、板挟みに呻吟する学校側の苦渋の選択でもあったのであろう。然し、此の決断に対して、生徒たちは、吃驚する程、素直に従った。誰も此の処分に異を唱える者はいなかったのである。此れも、子供たちが行なった行為自体が、例え、如何なる理由を以ってしても、正当化出来ない行為である事を知り抜いていたからであろう。本来、停学ともなれば、男子は丸刈り、女子は散切りが様式美なのであるが、其れすらも免除されたのである。尤も、此れについては、4百人にも上る生徒たちが一斉に丸刈り・散切りともなれば、世間に対する聞こえも悪かろうと言う、大人の事情、所謂、思惑が働いただけなのかもしれない。従って、今一つの停学名物である、反省文は確り課せられたのである。
私は件の金曜日、丸一日掛けて、此の稿を書き上げた。抑々、停学などと言う物を喰らって、家庭で褒められる様な事はまず無い。現に、私は両親より、此の件については、大いに叱責を受けたし、併せて、此れに託けて、普段からの生活態度やら、学業面に於ける不首尾を散々に絞られた次第である。恐らく、他の面々も似た様な一日を送ったものと察せられる。翌土曜日、床屋に行って、丸坊主にでもして来ようかと思案していたところへ、高志がひょっこりと訪ねて来た。抑々、停学、謹慎と言う物は、自宅に、蟄居禁足、逼塞閉門すべき事柄である。決して、ちょろちょろと、出歩いて良い様な物ではない。然るに此の自由人は、自ら、佚遊するだに飽き足らず、同じく停学中の同級生の家に、飄々と遊びに来るのである。斯うした、高志の随縁放曠で自由気儘な振る舞いは、彼の、何処と無く人として憎めない欠陥でもあり、見方によっては実に狡黠な持ち味の一つでも有る。尤も、彼の理屈に因れば、停学期間は一日。従って、昨日で其の期間も終わり、今日は晴れて停学明けと言う事だそうな。全く以って、其の自由奔放で能天気な発想が頗る羨ましい限りではある。恐らくは、彼の長い人生に於いて、たった一日の停学なぞ、凡そ塵埃の類に過ぎぬと言う、彼独自の哲学の様な物があるのだろう。彼は私の家に遊びに来つつも、早速、此の部屋の狭さを託つと、祐子の家に行こうと、甚だ、図々しい事を口にする。私が渋い顔で、警告する。
「おいおい、祐子の母ちゃん、あれでいて、意外とおっかねえんだぞ。祐子が俺達の巻き添えで停学になった事位、当然、看破しているだろうから、行った処で歓迎されるこたあねえぞ」
「まあまあ、小さい事は気にしない。其れ、ワカチコワカチコ」
私は、思わず、感心する。
「相変わらず、能天気だなあ」
確かに、此の狭い家の三畳間である。高志に言われるまでも無く、其の狭さには、私自身も辟易としていた為に、高志の能天気な愚策に乗った訳でもある。
私が懸念したとおり、案の定、祐子の母親からは余り良い顔をされなかったが、其れでも家には上げてくれた。祐子の母親も、勿論、娘が或る程度、我々に引っ張られたとの認識は持っていたのであろう。一方で、娘が確りとした自らの判断で、確乎たる信念を以って行動したとの確信をも、持っていた。彼女の母は、所謂、親バカではない。故に、娘の目は信じていたのだ。だから、娘が選んだ仲間達を信じていたし、何よりも、私という人間を信頼してくれていたのだと思う。祐子は小学生の頃の様にかなり短めなショートカットになっていた。頭の後ろは子供の様に、バリカンで刈上げられており、其の美しかった雲鬢は、見る影も無くなっていた。思うに、少々、痛々しい気もするが、祐子なりのけじめなのであろう。然し、見ようによっては、意外に可愛らしかったりもする。尤も、祐子の方も頗る呑気なもので、自分で後頭部に手を当てて、ちくちくする手触りを楽しんでたりする。『正ちゃんも触ってみる?』とか言って、私にも手触りを楽しませてくれた。確かに、触ってみると、じょりじょりした手触りが、存外、気持ちが良い。祐子も触られると、『うひゃあ』とか、言って喜んでおり、挙句には、高志から、『やめんか! バカップル共』と、諌められた。然し斯うして見ると、我々、男子二名とは対照的で、我々はだらしない長髪の儘である。若干、忸怩たる思いも無い訳でもないが、まあ、人それぞれと言った処であろうか。3人は件の騒動については、言葉少なであった。色々と思う所は有ったものと推察されるが、誰しもが方法論として、多少の問題があった事は、自覚していた。そんな矢先に、高志が反省文の事を話題にし、彼が書いて来たと言う反省文を自ら率先して披露した。
『申し訳有りません。斯かる騒擾事件を反省し今後は勉学に励みます』
「此れだけ?」
高志の反省文を見た私は、思わず、目を疑った。祐子も、多少、呆れている。
「おい、此れは最後の結びの一文だろ? 本文は別にあんだろ?」
「バカヤロ。此れだけに決ってんだろ。ほれ、昔から言うだろ。法は三章で足る。反省は一行で足るって。抑々、心から反省をすれば、言葉などと言う物は要らんのだよ。君達」
「お前なあ…。扨は、今迄の人生に於いて、反省なんかした事なんかねーだろ」
「ば、ば、馬鹿野郎。失敬な事、言うんじゃねえ」
「でも、此れじゃあ、多分、羅漢先生に怒られちゃうよ」
祐子も、其の辺りを頻りに心配する。矢張り、世の中は、或る程度、形式主義なのである。其の形式から逸脱した物については、須く、世間の目は厳しいものだ。然し、此の自由人はそんな事には、一向にお構い無しに、斯う言う。
「大丈夫、大丈夫だって。其れよりも、おめーらは如何なんだよ」
其処で祐子が書いたものを見た。祐子が書いたものは、原稿用紙5枚と丁度良い文量である。如何にも反省を示す修辞的語句が適度に散りばめられており、読み手を納得させる様な出来である。一方、私が書いた本稿を見るや、高志は忽ち、目を剥いた。
「お前なあ。何をやらしても、普通じゃねえなあ。扨は、てめーも本当は、反省なんかしてねーだろ。普通、反省文で此の文量書くか? 原稿用紙で百枚以上あるじゃねーか。良く此の二日間で書けたもんだな。或る意味、才能だな」
「毀誉褒貶が甚だしいな。あのなあ。褒めるか、貶なすか、何方かにしてくんねーか? 大体、良く、自分の事は棚に上げて、失礼な事言うなあ。実に心の篭った、見事な反省文じゃねーか」
「何処がだよ」
「凄いね。正ちゃん。まるで、小説だね」
祐子は手放しで褒めちぎる。だが、一方でニコニコし乍ら、斯うも言う。
「正ちゃんの小説を読めるのは、反省文だけ。正ちゃんに励ましのお便りを出そう!」
「ひどいよ、祐ちゃん迄、茶化して」
「ごめん、ごめん。だけど、本当にうまいよ。上手に、良く書けていると思うよ」
然し、此処で、階下では思いも掛けない人物の訪問があった。そして、祐子の母親が、慌てて、我々を呼ぶ声が聞こえた。行って見ると、玄関には、ライトグリーンのポロシャツにベージュのセーター姿の、こざっぱりとした身なりの小柄な禿頭の人物が立っている。清高数学教師陣に於ける禿頭王、羅漢仙吉、其の人。所謂、薬缶である。此の来訪に、一番、度肝を抜かれたのは、祐子のお袋さんであろう。彼女は、まずは、此度の娘の不始末を丁重にお詫びすると伴に、本日、蝟集した我々を直ちに解散させますと、声高に言い募っていた。其れに対して、薬缶は落ち着いた低い声で斯う言った。
「いえ、お母さん。此奴らの処分は昨日で終了しております。だから、今日は、当然、自由の身の上です」
と、如何にも存外な事を言う。そして、其の上で、斯うも言った。
「其れに、私も、此奴らに話があります。若し、宜しければ、家に上げてもらえますか?」
当然、祐子の母親に否も応も無かった。斯くして、薬缶もまた、山本家の客人となった訳である。
4人が祐子の部屋に参集する形となった。祐子の母親が4人分のお茶菓子と紅茶を出し、頻りに祐子の部屋に侵入しようと試みる、祐子の愛犬ペスを諌め階下に引っ込んだ。実に気まずい会見でも有る。少々、手持ち無沙汰な薬缶がまず斯う切り出した。
「如何だった。停学は?」
「いや、如何っつわれましても…」
高志が気まずそうに応える。薬缶が開口一番、実に意外な事を口にする。
「お前らにも迷惑を掛けたな」
我々は思わず、顔を見合わせた。迷惑を掛けたのは薬缶ではない。私達なのである。
「いえ先生、そんな事。悪いのは私達です」
祐子が、我々を代表してお詫びを言う形となった。然し、薬缶はそんな祐子を押し留め、構わず続けた。
「いや、今回、お前らを停学に追い込んでしまった。此れは、偏に、俺の不徳の致す所だ。本当に申し訳無かった」
薬缶はそう言うと、心底、申し訳の無さそうな顔をする。そして、其の薬缶が続ける。
「人間、誰しもが過ち、失敗をする事はある。そして、其れが、法に抵触する様な行為となる事も、残念乍らある。例えば、殺人、傷害、違法薬物の使用。斯う言った犯罪は、普通の人間ならまずしないと思うだろう。だが、其の垣根は思っている以上に低く、存外にあっさりと、超えてしまう事だってあるんだ。例えば、若さや、其の場の雰囲気や、勢いやノリの力でな」
薬缶は其処で一息つくと、紅茶で口を湿した。
「勿論、犯罪であれば、罪を償わなければならない。どんな罪咎であっても、贖えない罪は無い。俺はそう信じている。本人が真摯に過去を反省し、罪に向き合う。況や、真面目に取り組む場合に於いてをやだ。そんな人間は、須く、救済されるべきなんだ。俺はそう思っているんだ」
其処で薬缶は、少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「だが、其れは、思う程、平坦な道程では無いんだ。決して、口にするほど簡単な事ではないんだ。どんなに、真面目に取り組もうと、どんなに、一生懸命であろうとも、そして、どんなにやり直したいと希った処で、其奴の行為は、一生、其奴に附いて回る。其れで、御園も未だに呻吟している…」
薬缶の目にはうっすらと涙が光っていた。
「だから、頼む。お前らは、決して、道を違えるなよ。此れは、俺からの切なる願いだ」
薬缶の長弁舌の間、我々は俯いて下を向いている事しか出来なかった。そして、薬缶も此の似気も無い瞬間から、早く、閑話休題をしたかったのだろう。突然、話題を変えた。
「ところで、お前らは、もう反省文を書いたのか?」
三人はそれぞれ、薬缶に反省文を手渡した。薬缶はそれぞれの反省文を一読すると、私をじろりと一瞥する。忽ち、私の頭上に雷が落ちて来た。
「此のバカもん。誰が小説執筆を依頼した? 原稿用紙で百二十枚もあるじゃねーか! 俺は、ただ、今回の件の反省文を書いて来いと言っただけだ」
続いて、ニヤついている高志の頭上にも落雷する。
「てめーもだ。高志。お前のは30文字しかねーだろ。短歌よりも短いじゃねーか。一体、何を考えているんだ。お前は」
「うひゃっ」
高志が亀の様に首を竦める。
「だが、山本のは、良く書けている。良いか、山本以外は書き直しだ。高野は原稿用紙5枚以内。岡本は原稿用紙5枚以上」
「ええーっ」
「先生。勘弁してくださいよう。俺はアレを書くのに1時間も掛かったんですよ」
高志が情け無い悲鳴を上げる。
「阿呆か。あんな、小学生の絵日記レベルの文量で校長先生が納得なさる筈が無いだろうが。書き直せ」
薬缶は其処で、軽く溜息を一つ吐いた。そして、俄かに、私と高志の方に向き直ると、
「全く、お前らと来たら…。問題児ほど、可愛いとは良く言ったもんだ」
薬缶は絶句してしまった。然し、其の際に、私は、卒爾として、ある事に思い至ったのである。其の思いつきは、忽ちのうちに、私の口を衝いた。
「先生。ひょっとして、女神先生も問題児だったのですか?」
「御園…女神かあ」
薬缶は、そう一言呟くと、酷く遠い目をして、祐子の部屋の窓から、巴川の方を眺めた。コバルトブルーの空が、少し眩しい。鳶が上空で大きく旋回している。時折、水面に降りて来て、サッと魚を咥えて、すかさず飛翔する。此の様な汚い川にも、川魚が生息するものらしい。薬缶は遠い瞳をし乍ら、ぼんやりと其れらの光景を眺めていたが、其の実、彼は何も見ていなかったのだろう。彼は、いや、薬缶の記憶は、今、遥かなる昔日の日々を彷徨っているのだ。然し、頓て其れも、終焉を迎えた。彼は、目を閉じ、一、二分其の儘であった。が、頓て、目を開いた。そして、悲しげな眼差しを向けると、斯う言った。
「御園はな…、俺の…教え子だった…。彼奴は、俺の教え子の中でも、飛びっきり優秀な…、そして、問題児だったよ」
其の一言が全てだった。彼が、自らの教え子であり、数学に於いては、嶄然として卓越した才能を持ち乍らも、顛沛流浪の貶流の末、都会から遥か陬遠の此の地、清水に逼塞していた御園女神に声を掛けたのも、彼女の報われぬ境遇を何とかしてあげたい、其の思いが全てであったのだろう。当初、女神先生は、薬缶の依頼に対して、頑なに、固辞していたとの事である。其れ程までに、女神の心は折れてしまっていたのである。だが、薬缶は諦めなかった。勿論、彼自身の教え子の身を案じていた事もあるのであろうが、此の才媛を、此の儘、野に埋もれさすのは余りにも惜しいと考えたのであろう。着任した女神先生は期待した以上の働きを示した。彼女は、其の洽覧深識なる才能も然る事乍ら、以前に叙述した様に、其の特筆すべき教え方は、此の学校にも大いに馴染んだのである。薬缶もホッと一安心と言ったところであろうか。此の儘であれば、ゆくゆくは、正規採用と言った事も、決して、夢では無い。ところが、今回の騒動はそんな矢先の出来事であったのである。
頓て、薬缶はゆっくりと立ち上がると、
「それじゃあな。俺は、もう、行くよ。お前らも、明後日にはちゃんと登校して来いよ。ああ、其れとな。高野と岡本。お前らはちゃんとした、反省文を書いて来いよ」
「うへぇ」
高志は情け無い悲鳴を上げる。薬缶は思い出した様に語りだした。
「ああ、そうだ。あと、もうひとつ。今回の処分、停学一日は、本来は、公平な処分では無い。其の罪科、罪咎には、当然、軽重がある。本当はな、高野。お前と高山の罪が一番重いんだ。此れは不正アクセス、明らかな刑法違反だ。若し、此れが公になれば、校規に照らしても退学の恐れすらある」
薬缶は其処で言葉を切った。4人の間に、言葉にならない沈黙が流れた。然し、其処で薬缶は、にやりと不敵に笑うと、喜劇役者の様にユーモラスに肩を竦めた。
「だから、鮒一鉢は、俺がお前に教えた。つまりは、そう言う事だ。話を合わせて置けよ。あと、此れは高山にも伝えておけ。…扨と、此れで俺の言いたい事は全て言った。其れじゃあ、元気でな。月曜日には、ちゃんと、出て来いよ」
「…先生」
私は、そう呟くしか無かった。薬缶は何処か遠い目をし乍ら、一輪の深山嫁菜の花の様な、教え子の最後の可憐な笑顔を思い出していた。
「御園…女神先生はな。最後の最後まで、お前達にお礼を言っていたぜ。…俺からも礼を言うよ。本当に有難う。世話を掛けた」
薬缶は、そう言うと、祐子の家を辞して行ったのである。
だが、大人の世界では、此の儘では、済まされなかった。秘匿すべきパスを他人に、其れも、生徒に教えたと言う事は、其れは薬缶も、罪咎の一端を被ると言う事とも、同義である。私が薬缶の処分を聞いたのは、停学明けの月曜日の事だった。
減俸10%。一ヶ月。
此れが薬缶に対する学校側の処分であった。或いは、薬缶の言う詰まらない大人の最後の意地であったかも知れぬが、薬缶は此の処分を甘んじて受け入れた。私は此の処分を聞いた時には、流石に愕然とした。今回の騒動に於いて、薬缶に、全く非は無い。寧ろ、被害者なのである。薬缶は今回の騒動での役割は、女神先生を、清高に引っ張り込んだだけなのである。薬缶は処分を受ける様な事は、何一つしてはいないのだ。其れであるのに、減俸10%とは? 薬缶の生活に直撃する処分では無いか。生徒が騒擾事件を起こした。此れが、正しい事か如何かは、我々、生徒達の間でも大いに揺れている部分ではある。然し、薬缶に関してはまるで違う。彼は明らかな被害者であり、教え子の身を案じただけの、無力な教師なのである。其の薬缶が処分を甘受しようとしている。若し、此れが大人の道理、大人の正義と言うのなら、大人の正義など糞くらえだ! 其れは、其の道理自体が間違っているのだ。
私は、校長先生に、私の罪咎を洗いざらいぶちまけ、直談判をする心算であった。若し、此の自明の理が通らなければ、何の為の正義であろう。若し、薬缶の処分が撤回されなければ、俺が直々に、ひろみが言う様に百鬼夜行を魑魅魍魎に書き直してやる! だが、其れも、必死になった祐子と高志に止められた。
「校長先生に直談判に行くだあ? 此の馬鹿野郎。頭を冷せ! 冷静になれ! 判っている。薬缶は悪くないって。当たり前だ。そんな事は百も承知だ。いや、それだけじゃない。校長先生も、学校側も、そんな事は承知の上だ。承知の上での処分なんだ。校長先生も薬缶も、俺達を庇っての、敢て此の処分なんだよ。其れに、減俸処分は薬缶だけじゃあねえ。校長先生自身もだ! 良いか? 此れ以上、事を荒立てるなよ。お前も、もう少し大人になれよ」
「いや、だからって、余りにも理不尽だろ」
「そうだ。判っている。とても、理不尽だ。だが、此れが大人の世界の道理なんだ。如何しても行くと言うなら、構わねえ。俺と祐子ちゃんを殴り倒して、力づくで行くんだな」
其の後ろで、祐子が涙乍らに両手を広げて立っていた。私は、渋々、断念した。私は釈然としない儘にも、高志と祐子の忠告に従った。彼らは私に殴られる事すら厭わず、必死に私を止めた。そんな、熱い彼らではあるが、恐らくは、彼らの方が私より、僅かばかり大人と言う事なのだろう。
色鮮やかであった、櫨染色の銀杏の葉も、真紅の紅葉の葉も、何時しか、全て散っていた。大空に向かって、屹然と伸びたる、葉を落とした銀杏の樹々は、冬の色を強調していた。
「でも、春になると、また、葉をつけるんだよ。其れも今年以上に青々とした葉をね」
私には、祐子が言っていた此の言葉が、特に印象に残っている。斯うして、誰一人として得をする事が無かった、清高史上最大の騒擾事件は、静かに幕を閉じて行ったのである。此の先、記すべき事も余り多くは無い。言わば、つけたりの様な物である。女神ちゃんの消息は杳として知れなかった。恐らく、薬缶にでも聞けば、或る程度の事は知れるのであろうが、あの頑固者の事である。此れ以上、口を割る事は無いだろう。あと、少々、尾籠な話にはなるが、高志と明彦についてである。彼らは、日ならずして、公約どおり、3回、若しくは5回抜いたと、私に連絡して来た。全く以って、思春期の男子と言う物は、実に御し難い。尤も、此れは、絶対的に祐子には内緒の秘事なのであるが、斯く言う私も、時折、いや、本当に極々、稀にの事なのではあるが。其の…、夜のおかずに利用させて貰っている。本当に此れだけは、呉々も、祐子には内緒にしてもらいたいものだ。此れがばれれば、流石に…、不謹慎の謗りは免れないだろうし、何よりも、祐子には軽蔑されるものと思われる。…全く以って、思春期の男子と言う物は、実に御し難いものである。まあ、今回の騒動も含めて、私たちは斯うした経験を重ねて、成長、否、大人になって行くのだろう。
今回の騒動の一部始終を記録した件の動画、そして、画像類であるが、此れらは、何と、清水高校のHPである清高通信に掲載された。其れも、『さよなら女神先生』と言う特設ページを設えての事である。其処には、生徒達や教職員からの、膨大な量に亘る感謝の言葉、そして、激励の言葉と伴に掲載されている。此れについては、少々、意外すぎる感もあるのである。何と言っても、約400名に上る膨大な数の処分者を出した、清高史上最大の騒擾事件の一部始終を記録した動画なのである。然し、学校側もHP掲載については、意外な程のと言うべきか、驚くべき程の人間味と弾力性を発揮し、今でも掲載された儘となっている。屹度、女神先生も、此の澄み切った青い空が続く何処か世界の片隅で、閲覧してくれているものと思う。私の此の、ひどく小説化された反省文も、今でも其のサイトで確認出来る筈である。尤も、内容的にかなりきわどい部分も含んでいた為、大幅な改変を余儀なくされた訳ではあるが。
当初、私は、此の稿の表題を『さよなら女神先生』とする心算であった。件の女神先生の命名者としては、当然、其の位の権利はあったであろうと、思ってはいる。然し、『仰げば尊し』と改題したのは、何も、HPのタイトルと被るからではない。感謝すべきは女神先生だけではない。薬缶を始めとした多くの師によって、我々は、護られ、導かれている事に、卒爾乍ら、気がついたからである。従って、女神先生、薬缶、すみれちゃん、そして、校長先生。私を取り巻く全ての師に、細やか乍らの、感謝と謝罪を込め、此の稿の表題を、敢て、『仰げば尊し』と命名したのである。
人間は大きすぎる力を目の当たりにした時に、恐怖の余りに己を見失い、身を滅ぼす時がある。例えば、未来を予知する能力があったとしたならば、あなたは己の死を正視出来るのであろうか? 正太郎と祐子を突然襲った破局の危機。次号、『第32話 カッサンドラーの憂鬱【前編】』。お楽しみに。




