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第30話 仰げば尊し【中編】

 (さて)(あと)に残されたのは、我々(われわれ)、生徒達である。(くだん)の最後の授業についても、随分(ずいぶん)物議(ぶつぎ)(かも)した物である。先にも(しる)した様に、()(けん)に関しては、同情する者、嫌悪(けんお)する者、はたまた、興味本位(きょうみほんい)の者と言った具合(ぐあい)に、抑々(そもそも)女神(ヒュパティア)先生への感慨(かんがい)も、区々(まちまち)であり、多種多様(たしゅたよう)である。(けっ)して、私達、生徒達とて一枚岩では無いのだ。(しか)し、女神(ヒュパティア)先生が、私達にとって、まさしく、ヒュパティアであった事。そして、学校側の()(かた)には、如何(どう)しても納得(なっとく)が行か無い事。生徒達は、ただ()の2点だけで結束(けっそく)して行ったのである。()れも、クラスを()え、学年を()えての話なのである。彼らは自身の属する集団(コミュニティ)()いて糾合(きゅうごう)して同士(仲間)を募って行ったのである。結局(けっきょく)(ところ)我々(われわれ)、生徒達は二つの方策(ほうさく)画策(かくさく)するに(いた)ったのである。()の一つは、学校側と女神(ヒュパティア)先生の処分(しょぶん)撤回(てっかい)を交渉する事にあった。()れについては、二年生の現生徒会長である安井恭介の力による(ところ)が大きい。剣道部の主将であり、品行方正(ひんこうほうせい)、かつ、学業優秀な彼が居たからこそ、学校側も我々(われわれ)の声を傾聴(けいちょう)せざるを得なかったのであろう。(さら)に、瑰麗(かいれい)なる美貌(びぼう)の持ち主である学校一の美女、ミスコンダントツ一位の副会長である森藤順子。(さら)にはサッカー部の三枚目主将(キャプテン)、常に飄々(ひょうひょう)とした白坂守。応援団長岩上大吾。()れらは(すべ)て二年生である。そして、一年からは、稲森ひろみ、如月(きさらぎ)凛子。()の六名で、伏魔殿(ふくまでん)(もと)い、校長室に(おもむ)き、女神(ヒュパティア)先生の処分の撤回(てっかい)を求めて折衝(せっしょう)を行なったのである。抑々(そもそも)、学校側が()折衝(せっしょう)に応じたのも、早々(そうそう)()の問題の沈静化(ちんせいか)(はか)りたいという思惑(おもわく)(はたら)いたからに違いないであろう。(しか)し、()折衝(せっしょう)は、我々(われわれ)からすれば、完全に失敗に終わったと言って()いだろう。当初(とうしょ)、学校側は女神(めぐみ)先生の退職(たいしょく)の事実は無いと、(かたく)なに否定していた。()の事実を糊塗(こと)するような、姑息(こそく)な言い逃れは生徒達に通用しなかった。結局(けっきょく)渋々(しぶしぶ)退職(たいしょく)の事実は認めたものの、あくまでも()れは、本人からの強い希望による退職(たいしょく)であるとの説明であった。学校側としては、懸命(けんめい)に本人の慰留(いりゅう)(つと)めたのであるが、本人の意志は固く、翻意(ほんい)させる事は出来(でき)なかったとの事である。セレモニーなどが行なわれなかった事については、学期途中(とちゅう)()の時期の事であり、生徒の動揺(どうよう)を最小限に(おさ)える(ため)の、()むを()ない措置(そち)であった事を説明した。ひろみが今日の授業での最後の状況を(あげつら)い、何か制限的な発言、所謂(いわゆる)羈束(きそく)掣肘(せいちゅう)(など)があったのではないかと質問したが、()れについても、学校側は、特段(とくだん)()の様な行為(こうい)は無かったと説明した。(いず)れにせよ、今回の女神(めぐみ)先生の退職(たいしょく)については、本人による意志が(すこぶ)る固く、翻心(ほんしん)出来(でき)なかった事が残念でなら無いと、(しき)りに強調していたとの事である。結局(けっきょく)折衝(せっしょう)()れにて終了となり、戻って来たひろみは、(あき)れた様に両手を広げ、肩を(すく)(なが)()う告げた。

(まった)く、処置(しょち)無しね。てんで話にならない。本当に、(まさ)伏魔殿(ふくまでん)ね。『百鬼夜行(ひゃっきやこう)』なんて生ぬるい。こんな事なら、学校祭の時、『魑魅魍魎(ちみもうりょう)』とでも、書いて()けば良かったわ」

 (たし)かに、校長室の入口には、()だ、学校祭の際の書初め大会の、(くだん)の『百鬼夜行(ひゃっきやこう)』と『七転八倒(しちてんばっとう)』が()ってあるのである(第7話参照)。すかさず、高志が突っ込んだ。

魑魅魍魎(ちみもうりょう)には、抑々(そもそも)、漢数字が入っていねえじゃねーか」

 (たし)かに、言われて見れば、高志が言った様なルールであった(はず)だ。

(うるさ)いわね」

 (さて)、高志とひろみの掛け合い(まんざい)()(かく)として、()の話を聞いた私は、瞬間的(しゅんかんてき)()う直感した。


俺達(おれたち)の負けだな)


 ()れはそうであろう。話を聞くに、直情径行(ちょくじょうけいこう)猪突猛進(ちょとつもうしん)する子供達を、狡黠(こうかつ)海千山千(うみせんやません)大人(おとな)達が、ひらりひらりと()舌鋒(ぜっぽう)(かわ)(なが)ら、()い様に(あしら)っている様に(うつ)る。今後の方策(ほうさく)としては、署名活動などで地道に活動を続けて行く事等が考えられるが、()れには、まず、女神(めぐみ)ちゃんが()の活動の中心にいる必要がある。(しか)し、女神(めぐみ)ちゃんに其処迄(そこまで)の意志があるか如何(どう)かは、現在の(ところ)(まった)くの不明である。いずれにしても、一度、結論が出た大人(おとな)の事情を、子供達の都合(つごう)(くつがえ)すのは(ほぼ)不可能(ふかのう)である様に思われた。其処(そこ)我々(われわれ)は、次善(じぜん)の策として、もう一つの道を模索(もさく)する事となったのだ。()の頃には、生徒会役員の2名は生徒会室へ、白坂は部活へ、岩上は下校。そして、ひろみと凛子は私、祐子、高志、ヤスベエ、明彦、いずな、敬介、葵、みうみうの待つ1年4組の教室に戻って来たのである。


 (さて)、今一つの道とは、せめて、女神(ヒュパティア)先生とのお別れの場を(もう)けたいとの物であった。()れなら、学校側との折衝(せっしょう)とは(こと)なり、大分(だいぶ)穏健(おんけん)にして、波風(なみかぜ)の立たぬものでもある。抑々(そもそも)、お別れの場を個人的に(しつら)えるだけなのであれば、学校の許可すら不要であろう。(しか)し、女神(めぐみ)ちゃんが担当していたクラスは全部で6クラス。関係者は、全員合わせれば、200人以上に(およ)ぶのである。到底(とうてい)、学校側の協力無しでは不可能(ふかのう)事案(じあん)であった。(さら)には、女神(めぐみ)ちゃんは本日付で離職(りしょく)している(わけ)であって、明日からは清水高校とは何の関係も無い一市民である。そんな人間を学校に招き入れ、公式では無いにせよ学校の施設を使って(もよお)し事など行なう事は、事実上、不可能(ふかのう)であろう。加えて言えば、女神(めぐみ)ちゃんの所在である。今日までは此処(ここ)に通っていた(わけ)であるから、清水周辺に居るのは間違いが無いのであろうが、住所、連絡先を知っている者は、生徒達の中には誰も居ない。(ある)いは、薬缶(やかん)にでも聞けば、連絡先は分るのであろうが、今日の学校側の対応を(かんが)みれば、()れも(のぞ)(うす)であろう。


「あーあ、せめて教員専用サイトが(のぞ)ければなあ」

 ヤスベエが愚痴(ぐち)る。

「何だ。そりゃ?」

 高志の返しに、

「知らないの。清高(きよこう)のホームページに併設(へいせつ)されている、教員専用のページよ。其処(そこ)になら、多少(たしょう)の情報はありそうじゃない? (たと)えば、女神(めぐみ)先生の連絡先とかさ」

「だったら、閲覧(えつらん)すれば()いじゃねーか」

「バカね。先刻(さっき)も言ったでしょ。勿論(もちろん)、教師専用。教師以外は立入禁止(オフ・リミット)よ。当然(とうぜん)、キッチリ、IDとパスワードでガッチガチに管理されているわよ」

成程(なるほど)な。だけど、オメーならハッキングツール(あた)りをもってそうじゃねーか。(たと)えば、ほれ、丁度(ちょうど)其処(そこ)教壇(きょうだん)の上にある、指導用のPCにキーロガーか何かを仕込(しこ)んでだな…」

「ヤーよ。()の手のツールは(たし)かに持っているけど、そんな事して、見つかったら、ただじゃ済まないわよ。犯罪だからね。多分(たぶん)、間違い無く退学だよ」

「も、持ってるのか? (まった)くの冗談(じょうだん)心算(つもり)だったんだが…」

「そ、そりゃあ持っているわよ。パスワード解析ソフトとかもね。抑々(そもそも)()(あた)りのツールは正太に(もら)ったんだから…」

 一同の耳目(じもく)が私に集中する。視線が、少々(しょうしょう)、痛い。

「オメーも持っているのか? んなもん何に使うんだ」

「いや、まあ、()の、PCやプログラム作成が趣味見てーなモンだからな。ほれ、『病膏肓(やまいこうこう)()る』ってえ(やつ)だ」

 私は咄嗟(とっさ)口篭(くちごも)る。

「趣味だあ? んなモン。一介(いっかい)の高校生が持つ様なモンじゃあねーだろ。アノニマスにでも、入る心算(つもり)か? まあ、だったら丁度(ちょうど)()いや。早速(さっそく)()のパソコンにロガーを仕掛けようぜ」

「何、言ってんだ、バカ。流石(さすが)()れは、やべえだろ。先刻(さっき)、ヤスベエが言ったとおり、普通に逮捕案件(たいほあんけん)だぞ」

「ちぇっ、折角(せっかく)、名案だと思ったのによ」

無茶(むちゃ)言うな。大体(だいたい)、IDもパスも両方分らないんじゃ…」

 私は、そう言い(なが)らも、()(しゅ)、予感の様な物があった。

「あら、IDなら(わか)るわよ。(たし)か、教職員の認識番号(にんしきばんごう)だったから…」

 ヤスベエが口を(はさ)む。私は(おもむろ)に口を開いた。

「なあ、ヤスベエ。お前、薬缶(やかん)認識番号(にんしきばんごう)。知ってたりするか?」

「そりゃあ、まあ…」

 ヤスベエは言葉を(にご)す。

「なあ、()れって数字5(けた)だろ。」

「まあね」

「なあ、()しかして、()れって、1,2,5,7,8、じゃねーか?」

「あんた、何故(なぜ)()れを知っているの?」

「…そうか」


 私は納得(なっとく)した。実は私には、此奴(こいつ)らにも言っていない、秘密があった。()れは聴覚に関する物であった。多分(たぶん)、私は普通の人には聞き取れない様な、些細(ささい)な音でも聞き取る事が出来(でき)る様なのである。()れは、私が物心(ものごころ)が付く前からの事であると思われ、(おそ)らく、私の家族ですら、()の事には気が付いていないと思う。そして、先程(さきほど)多分(たぶん)としたのは、私が漠然(ばくぜん)とそう思っているだけに過ぎないからなのである。(すなわ)ち、()(けん)(しか)るべき医療機関や研究機関で調べてもらった事は無いのである。(たと)えば、小学校に上がったばかりに実施(じっし)される、(くだん)の健康診断。()(さい)に、聴力検査(ちょうりょくけんさ)も、当然(とうぜん)、あった。大きなヘッドフォンを付け、電子音が聞こえたらボタンを押すと言う、例のアレである。ボタンを押さなければ音が段々(だんだん)と大きくなって来ると言う(やつ)である。私は、()(さい)に、検査官(けんさかん)が押すボタンの些細(ささい)な音が、(かす)かではあるものの、聞こえてしまうのである。(したが)って、話は簡単(かんたん)である。検査官(けんさかん)がボタンを押した瞬間(しゅんかん)に私がボタンを押し、検査官(けんさかん)が放せば、私も放せば()(わけ)なのである。勿論(もちろん)肝心(かんじん)の電子音も、当然(とうぜん)の事(なが)ら聞こえる。検査官(けんさかん)がボタンを押すや(いな)や、大音響(だいおんきょう)耳障(みみざわ)りな電子音(ブザー)が、頭の中に()(ひび)くのである。(しか)も、ボタンを押さなければ、次第(しだい)に音が大きくなって行くのだから(たま)らない。私は、()()()が嫌で、()検査(けんさ)の時は、検査官(けんさかん)がボタンを押す音で反応するのを(つね)としていた。


 今回の、薬缶(やかん)認識番号(にんしきばんごう)(くだり)にしても、実情は()うなのである。いつも、薬缶(やかん)は授業開始の(さい)に、教壇(きょうだん)の上にあるPCを立ち上げるのであるが、私は、()(さい)のタッチの音を聞いていたのである。(しか)も、()のタッチ音は(たた)くキーによって微妙(びみょう)に音が違うのである。教壇(きょうだん)のPCはテンキー部分の螺子(ネジ)か何かが(ゆる)んでいるのであろう。(たた)(たび)に、割と大きな音がする。(()れは(おそ)らく、私にとってなのであろうが)(しか)も、特に()(さい)に、薬缶(やかん)は、(おそ)らく、ID、パス、(とも)に、テンキーしか使っていないのである。IDは5文字、パスは11文字、(ただ)し、正直に言えば、パスの2文字目が良く(わか)らないのである。でも、逆に言えば、()れ以外の文字はある程度(ていど)認識(にんしき)出来(でき)ていたのである。


 (さて)、私は、()の情報を、此奴(こいつ)らに話すべきか如何(どう)か悩んだ。()れはそうであろう。()れを話すと言う事は、取りも直さず、私の異常聴力(いじょうちょうりょく)抵触(ていしょく)せねばならない(わけ)でもある。私は随分(ずいぶん)逡巡(しゅんじゅん)した。(しか)し、女神(ヒュパティア)先生の事を思うと、矢張(やは)()(まま)()いと言う気は(まった)く無い。(たと)え、少々(しょうしょう)非合法な事であっても、やらねばなるまい。そう、思ったのである。其処(そこ)で、私は(みんな)に以下の事を打ち明けた。

 ① 薬缶(やかん)のIDは5文字、パスは11文字であると思われる事。

 ② (すべ)てがテンキーのみで入力している事。

 ③ 私は音の違いで、(たた)いたキーが()程度(ていど)、推測出来(でき)る事。

 以上を、出来(でき)るだけ、私の超感覚に触れる事無く、説明したのであった。当然(とうぜん)、全員、半信半疑(はんしんはんぎ)の表情を浮かべている。胡乱(うろん)な表情を浮かべた高志が、まず、口火(くちび)を切った。

「本当なのか? ()の話。(にわ)かには、信じられないが…。大体(だいたい)、お前の席は、教室のかなり後方だよなあ。本当にそんな(かす)かな音の違いが(わか)るって言うのか?」

「ああ、(ただ)し、全部が(わか)っている(ワケ)じゃあない。2文字目は(いま)だに(わか)らん」

(たし)かに、(にわ)かには、信じ(がた)い話ではあるが…」

 明彦も(まゆ)(ひそ)め、同調する。

「って事は、他の文字は(わか)るって言うの」

 凛子も(いぶか)る。

「ああ、多分(たぶん)

「そう言えば、正ちゃん。小さい頃から、耳が(すご)く良かったモンね。いつも、雲雀(ひばり)居場所(いばしょ)を一番早くみつけてたもの」

 無邪気(むじゃき)(てい)で感心するのは祐子である。(たし)かに、幼い頃から、(わり)と行動を共にしていた祐子なら、気が付いていても、不思議(ふしぎ)では無いかもしれない。以前にも作者が描写(びょうしゃ)していたが、うちの周りにはかなり広闊(こうかつ)な空地がある。()の大部分は草叢(くさむら)であり、割と多くの野鳥が、獲物である昆虫を求めて集まってくる。多くは(すずめ)雲雀(ひばり)と言った燕雀(えんじゃく)(たぐい)であったのだが、時折(ときおり)(わし)(たか)と言った大型の鷙鳥(しちょう)(たぐい)も、()燕雀(えんじゃく)の様な翅鳥(しちょう)(ねら)って飛来(ひらい)する事があった。春になると、よく遊びに来ていた祐子や近所の子供達と、雲雀(ひばり)を見つける遊びをしたのであるが、私は、子供達の中で突出(とっしゅつ)して、雲雀(ひばり)を見つけるのが、上手(じょうず)だったのである。元来(がんらい)雲雀(ひばり)臆病(おくびょう)な鳥で、容易(ようい)に姿を現さない。声は聞こえど、姿は見えぬ。そういった物である。(たし)か、漱石の草枕の冒頭(ぼうとう)であったと思うが、そうした、雲雀(ひばり)描写(びょうしゃ)が、如何(いか)にも漱石らしい美しい文体で、(えが)かれていた(はず)だ。確か、主人公は雲雀(ひばり)の鳴き声で雲雀(ひばり)行方(ゆくえ)を探すのだが、私は、雲雀(ひばり)の鳴き声だけではなく、小さな羽根(はね)の風きり音や、羽ばたきの音、虫を(つい)ばむ音などを拾って、場所を特定するのである。先刻(さっき)の祐子の発言は、私の()の事を(ひょう)しての発言であろう。(たし)かに今にして思えば、(なつ)かしい想い出であるが、あの当時から、何故(なぜ)(みんな)雲雀(ひばり)を見つけられないだろうと(いぶか)った事は、何度かあった。今にして見れば、私には当たり前に聞こえていた()れらの些細(ささい)な音が、聞こえて無かった(わけ)であり、当然(とうぜん)と言えば当然(とうぜん)なのであるが、()の当時は謎でしかなかった。そして、今にして思えば、あの当時から、私の左手は(しっか)りと祐子の右手を握っていた事を思い出し、(なつ)かしくも、少々(しょうしょう)、照れくさくもあった。


 (さて)閑話休題(かんわきゅうだい)()の情報によって、高志が前のめりになったのも無理(むり)は無いものと思われる。

「だったら、話は簡単(かんたん)じゃねーか。つまり、一文字を除いて、特定出来(でき)ている(わけ)なんだろ」

「何、言ってんだ。()の一文字が(いばら)の道なんだよ。()れに、モノはパスだ。どーせ、5、6回(あた)間違(まちが)った(ところ)閉塞(へいそく)だ」

(たし)か、6回よ…」

 ヤスベエが請合(うけあ)う。(しか)し、其処(そこ)で何と、薬缶(やかん)が教室に入って来た。彼は不自然(ふしぜん)なメンバーで蝟集(いしゅう)した我々(われわれ)胡散(うさん)(くさ)そうに一瞥(いちべつ)すると、()う言った。

「何だ、お前ら…」

「いや、先生、実は此奴等(こいつら)に英語の宿題を聞かれたんで、今、教えている(ところ)なんです」

 高志が咄嗟(とっさ)(うそぶ)く。()の手の誤魔化(ごまか)しをさせたら、高志の右に出る者は、まず、居ない。息を()く様に簡単(かんたん)に言ってのけるのである。(しか)し、薬缶(やかん)はジロリと、如何(いか)にも胡散(うさん)(くさ)そうに流眄(りゅうべん)するや、高志を嘲笑(あざわら)った。

「いや、抑々(そもそも)、お前が、山本や如月(きさらぎ)に英語を教える絵面(えづら)を、想像出来(でき)んのだが…」

 思わず、顔を赤らめる高志。(しか)し、薬缶(やかん)()(かい)せず、()う言った。

「お前ら、校長先生の処に直談判(じかだんぱん)に行ったのだろう。御園(みその)を思っての事だとは思うが、此処(ここ)辺迄(へんまで)にしておくんだな。()れ以上、騒ぎが大きくなる事を御園(みその)も望まんだろうし、何よりも、大人(おとな)都合(つごう)だ。そう簡単(かんたん)に、結論(けつろん)がひっくり返ったりはせん」

 薬缶(やかん)はそう言うと、教壇(きょうだん)に置かれたPCのスイッチを入れた。()れにしても、如何(いか)にも大人(おとな)らしい、達観(たっかん)した事を言う。すると、ヤスベエは腹の探りあいを放棄(ほうき)し、単刀直入(たんとうちょくにゅう)(たず)ねた。

「ねえ、先生。女神(めぐみ)先生は()(まま)退職(たいしょく)ですか?」

「ああ」

 薬缶(やかん)(さみ)しそうに(うなず)く。

()れで、女神(めぐみ)先生の住所と連絡先を教えて欲しいんです」

「住所と連絡先だあ? 聞いて如何(どう)する?」

 ヤスベエは食い下がる。

「せめて、お礼を言いたいんです」

()めておけ。御園(みその)は、其処(そこ)(まで)望んではいないだろうし、大体(だいたい)、住所自体、明日には何の意味も無いものになる…」

 其処(そこ)で、高志が。

「ああ、そう言えば…」

「なんだ」

「ああ、いや。すみれちゃんが羅漢(らかん)先生にメールを送らなきゃ何とかって…」


 ()(あた)りが、高志の機転(きてん)()(ところ)なのであろう。彼は()状況下(じょうきょうか)咄嗟(とっさ)に、此処(ここ)薬缶(やかん)にPCのログインを誘発(ゆうはつ)させるべく、虚偽(きょぎ)のすみれちゃんのメール話を持ち出したのである。(おそ)らく、彼的には、(あと)から()(けん)薬缶(やかん)から詰問(きつもん)されても、何とでも誤魔化(ごまか)す自信はあったのであろう。蝟集(いしゅう)した(みんな)も、即座(そくざ)に高志の意図(いと)を理解し、私が聞き(やす)い様に、思わず、口を(つぐ)んだ。教室内は、一転(いってん)、水を打った様に静まった。(しか)し、()れが逆に、かえって目立ってしまった。薬缶(やかん)は顔を上げると、

「何だ。急に静かになったな?」

 (みんな)も、(あわ)てて、とってつけた様に、小声で会話を始めた。高志も私の(かたわ)らで、蚊の泣く様な小声で、心配そうに()う言った。

(おい、大丈夫(だいじょうぶ)か?)

 ()れに対し、私は手許(てもと)のノートに、

大丈夫(だいじょうぶ)だ。問題無い』

 と筆記した。高志の(やつ)は、にやつき(なが)ら、

(何か、イーノックみてえだな)

 私は続けて筆記した。

(やかま)しい!』

 其処(そこ)待望(たいぼう)のと言うべきか、薬缶(やかん)がカチカチとIDを打ち始めた。


(1,2,…5,7,8)


 そして、すかさず、私は、手許(てもと)のノートへ()の数字を書き留めて行く。だが、豈図(あにはか)らんや、此処(ここ)で意外な邪魔(じゃま)が入った。突然(とつぜん)薬缶(やかん)携帯(スマホ)が鳴ったのだ。薬缶(やかん)はすぐに応答する。

「はい、羅漢(らかん)です。…はい。…はい。分りました。すぐに、戻ります」

 電話は、すみれちゃんからであった。薬缶(やかん)は作業の手を止めると、PCの電源を切り(なが)ら、()う言った。

()れじゃあ、(オレ)はもう行くから、お前らも、なるたけ早く、解散しろよ」

 そう、言い残すと、薬缶(やかん)匇卒(そそくさ)と部屋を出て行った。


「クッソー、あの禿(はげ)め。一体(いったい)、何しに来やがったんだよ。あと、少しだったのに…」

 薬缶(やかん)が去った後に、高志が非常に悔しがる。ヤスベエがすかさず言った。

「ねえ、如何(どう)だったのよ?」

「ああ、IDだけだがな。IDは如何(どう)やら間違い無さそうだ」

「でも、肝心(かんじん)なパスが不明じゃあねえ…」

「なあ、正太。()のお前が聞き取ったと言う、パスは如何(どう)なんだ。()()えず、わかっている部分だけでも…。(ある)いは、前後から推測出来(でき)るかもしれないし…」

 私は、小さな溜息(ためいき)を一つ()くと、(しゃべ)り始めた。

「分った。()ず、最初は2だな」

 ヤスベエがすかさず書き留めて行く。

「そして、次の文字は不明。まあ、テンキーだから、スラッシュかアスタかプラスかマイナスかイコールかポチだと思うんだが…。そして()の後は、単調な数字の繰り返しなんだ。ナナ、イチ、ハチ、ニ、ハチ、イチ、ハチ、ニ、ハチ…」

 と、私が此処(ここ)迄言った時である。祐子が、ハッと息を()むと同時に、ボソリと(つぶや)いた。表情はやや(うつ)ろである。

(フナ)一鉢(ヒトハチ)弐鉢(フタハチ)一鉢(ヒトハチ)弐鉢(フタハチ)至極(しごく)()しい…」

「何、何だって?」

 私には何の事か判らない。思わず聞き返した。(ふたた)び、祐子が繰り返す。

(フナ)一鉢(ヒトハチ)弐鉢(フタハチ)一鉢(ヒトハチ)弐鉢(フタハチ)至極(しごく)()しい。数学定数のひとつで、割と、数学教師には、馴染(なじ)みのある語呂合(ごろあわ)せだよ」

 横から明彦が感嘆(かんたん)する。

成程(なるほど)な。ネイピア数かあ…」

「ネイピア数?」

 ひろみが首を(かし)げる。敬介も、(しき)りに(いぶか)る。

「ちょっと待ってよ。ネイピア数って何だよ? (オレ)全然(ぜんぜん)、知らねーぞ」

()れは、多分(たぶん)、ネイピアの(かず)の事なんだよ」

 みうみうが如何(いか)にも分った風に解説する。

「説明になってねーぞ。だから、ネイピアって何だよ」

「アレじゃないかなあ。FE(ファイヤーエンブレム)で主人公が使っている武器」

「そりゃ、レイピアだろ」

 いずなが見かねて、苦笑(くしょう)をかみ殺し(なが)ら、説明をする。

「ムッキー、違うよ。ひろみっち、ケースケ、みうみう。ネイピア数はね、自然対数(しぜんたいすう)(てい)で、通常、eで表される。先刻(さっき)、ゆうちんが言ったのは、()の覚え方の語呂合(ごろあわ)せなんだよ」

「そうなんだ」

「だとすると、二文字目はピリオドである可能性(かのうせい)が高いわね。()のパスがネイピア数とやらだとしたらだけどね…」

 ひろみも身を乗り出す。

「うん、厳密(げんみつ)には、()だ分らないけど、ネイピア数を踏襲(とうしゅう)しているとしたら、()可能性(かのうせい)は高いよ」

 祐子は慎重(しんちょう)である。其処(そこ)(まで)来た時に、凛子が、若干(じゃっかん)不安気(ふあんげ)に提案した。

「ねえ、場所を変えない? 流石(さすが)此処(ここ)だと不味(まず)いでしょ」

「ああ、そうだな」

 明彦も同意する。

「だけど、何処(どこ)にしよう?」

 葵が問い掛けると、祐子が、

「それなら、ウチにしようよ。今日はパパも居ないし、遅く(まで)でも大丈夫(だいじょうぶ)だよ」

 (おそ)らく、祐子の父親は、また、佐土原(さどわら)の研究所に出張しているのであろう。結局(けっきょく)、祐子の家と言う事になり、其処(そこ)に居るメンバーは祐子の家に移動する事となった。(もっと)も、私は一度家により、ノートPCを取りに家に戻ったのであるが。と、言うのも、()れから行なう事は、不正アクセス。(すなわ)ち、明らかな、不法(ふほう)行為(こうい)である。祐子のハイスペックPCを使用して、後日、()(けん)が表面化した場合、()責任(せめ)は祐子に行ってしまうだろう。流石(さすが)に、祐子に違法(いほう)行為(こうい)片棒(かたぼう)(かつ)がせる(わけ)にはいかない。(さて)、18時過ぎに祐子の家に先程(さきほど)のメンバーが続々(ぞくぞく)と集結した。(すなわ)ち、私、祐子、高志、ひろみ、明彦、凛子、敬介、いずな、そして、ヤスベエ、みうみう、葵である。其処(そこ)で、(くだん)不法(ふほう)行為(こうい)である。早速(さっそく)、私はノートパソコンに、取得したIDとパスを入れようとした(さい)に、ギリギリの(ところ)でヤスベエが、

「あたしがやるわ」

 と、(うば)う様に入力した。


「ビンゴだ!」

「へっ、数学教師はヒネリが無いぜ」

 高志が冷笑(せせらわら)う。中には、詳細(しょうさい)な情報が詰まっており、生徒の成績と言った様な、本件とは無関係な、如何(いか)にもやばそうな情報もある。本来(ほんらい)であればコピペをすれば()い訳なのであるが、流石(さすが)に、無関係な情報までサルベージしても仕方(しかた)が無い。物色(ぶっしょく)する情報についても、()の中身を精査(せいさ)甄別(けんべつ)する必要がある事は、言うまでも無い。いくら、不法(ふほう)行為(こうい)であっても、()(あた)りは(わきま)えているつもりだ。(さて)、まず、教職員の連絡先名簿である。まず、薬缶(やかん)携帯(スマホ)番号、家電(いえでん)、メアド、そして、住所を蒐集(しゅうしゅう)。住所は清水区永楽町xx―xとなっている。番地から見るに、六助の家の(すこぶ)る近所である。薬缶(やかん)(やつ)、意外と()の近所に住んでいるらしい。続いて、女神(めぐみ)ちゃんである。此方(こっち)携帯(スマホ)番号、メアド、住所を蒐集(しゅうしゅう)家電(いえでん)は無いらしい。()れらはヤスベエが迅速(じんそく)にメモって行った。続いて、薬缶(やかん)の予定表を見て行った。此処(ここ)で私は先程(さきほど)薬缶(やかん)との会話を思い出した。

「そう言えばさあ。先刻(さっき)薬缶(やかん)(ヤツ)、妙な事を口走っていたよなあ」

「…妙な事?」

「ああ」

 私は(うなず)くと、

「ほれ、先刻(さっき)、教室で、『住所は明日には意味の無いものになる』とかって…。あれって引っ越すって事じゃあ無いのか?」

「あっ」

 一同が息を()む。そして、次の瞬間(しゅんかん)(まさ)に鍵となる情報を見つけたのだ。以前にも記した様に、抑々(そもそも)、明日、薬缶(やかん)は東京へ出張の予定であった(はず)なのであるが、明日、(すなわ)ち、12月13日木曜日の予定には衝撃的な内容が書かれていたのだ。以下、()の項目を抜粋(ばっすい)しよう。


 12月13日

 一度学校に出勤。資料を準備。清水駅9時25分発。

 静岡駅新幹線改札口。御園(みその)と合流。10時20分待ち合わせ。

 ひかり500号。静岡発10時41分。

 羽田空港で御園(みその)を見送り。()の後、研究会へ。


「ねえ、正ちゃん。()れって…」

「ああ、間違い無い。薬缶(やかん)(やつ)、出張に(かこつ)けて、女神(めぐみ)ちゃんを見送りに行く心算(つもり)だったんだ!」


 俄然(がぜん)、事態が動き出した。私たちが()すべき事は(きま)った。()の先、我々が、女神(ヒュパティア)先生と会う機会は、(おそ)らくは無いであろう。(しか)し、唯一点(ただいってん)、明日の12月13日のひかり500号に乗車する事だけは、疑念(ぎねん)余地(よち)が無いのである。我々の計画は徐々に形を()して行った。そして、()の頃には、部活を終えた六助、一平、そして、彼らの主将(キャプテン)である白坂も合流した。明日の準備の(ため)に、()の近所で土地勘のある、六助、一平、そして、(あおい)、みうみうが買出しに出かけた。彼らの目的は、大量の模造紙(もぞうし)とマジックである。模造紙(もぞうし)は予備も含めて最低でも20枚以上は必要であろう。マジックも太での物が、最低でも10本位は必要であろう。一方(いっぽう)、残った私達は、明日に向けて、綿密(めんみつ)な打ち合わせを始めた。

「静岡発10時41分と言う事は、学校の前の通過は10分後位かなあ」

 敬介が(つぶや)く。()れを高志が否定(ひてい)する。

「アホか。そんな(ワケ)があるか。精々(せいぜい)、4、5分後って(とこ)だろ」

 (たし)かに、()れは高志の言うとおりであろう。東京―静岡は(ほぼ)180キロである。ひかり500号は丁度(ちょうど)1時間で東京に到着する。()(かん)熱海(あたみ)、新横浜、品川と3つの駅に停車する(わけ)ではあるが、単純計算で平均時速180キロとなる。()れを分速に直すと、丁度(ちょうど)、分速3キロになる勘定(かんじょう)である。一方(いっぽう)、静岡―清水間は約11キロであり、()の分速であれば、4分弱と言った(ところ)であろう。(しか)し、静岡を出発してから、どれ位で巡航速度(じゅんこうそくど)となるか分らぬものの、清水到達まで、大体(だいたい)、4~5分と言う当りは、然程(さほど)、見当違いではないものと思われる。本来(ほんらい)であれば、加速度や巡航速度(じゅんこうそくど)(わか)れば微分(びぶん)積分(せきぶん)を使ってより精緻(せいち)な時間が(わか)るのであろうが、()れでも、()して誤差(ごさ)が無い物と踏んだ。そして、(くだん)の新幹線は、()しくも、清高(きよこう)の真横を通過するのである。

「って事は、10時46分くらいだな。丁度(ちょうど)、2限と3限の間の休み時間か」

 (たし)かに、高志の言うとおりであろう。2限終了が10時40分。3限開始が10時50分なのである。

「休み時間ってのは、有難(ありがた)いな。授業中に、生徒がそんな大量にエスケープしたら、大騒ぎになりかねねえ」

 ()の時、買出し組から連絡が入った。模造紙(もぞうし)20枚は入手出来(でき)たが、マジックが足りないとの事であった。其処(そこ)で、六助が機転(きてん)()かせた。一平の家で、毛筆(もうひつ)を使って書いたら如何(どう)だと言うのだ。即座(そくざ)()の案は採用され、二の丸町にある一平の自宅、(すなわ)ち、杉本書道教室へと向かった。(たし)かに、いくら広い祐子の家とは言え、模造紙(もぞうし)を何枚も広げての作業は流石(さすが)無理(むり)があろう。其処(そこ)で、急遽(きゅうきょ)、応援の(ため)、白坂と土地勘のあるヤスベエが杉本書道教室へと向かう事となったのだ。一平の家には、(ぞく)に言う、たてがみ。化け筆と呼ばれる巨大な毛筆(もうひつ)がある。()業物(わざもの)を使って、一平が書く事になった。また、()の間に、ヤスベエは(おも)だった者への連絡を(おこた)らなかった。本来は、下級生達を啓迪(けいてき)すべき立場にある生徒会長安井恭介、副会長森藤順子、応援団長岩上大吾らである。彼らは、(われ)こそはと、思わんものを糾合(きゅうごう)し、(さら)なる仲間を(つの)った。()くして、明日へ向けて、着々(ちゃくちゃく)()手筈(てはず)は整って行ったのである。


 (さて)、明くる日。愈々(いよいよ)、決行の日でもある。()の日は朝から雲一つ無い快晴であった。風も(おだ)やかで、深紅(しんく)に色づいた紅葉(もみじ)や、櫨染色(はじぞめいろ)()(あが)がった銀杏(いちょう)の葉が、そよそよと揺れている程度(ていど)である。風が(おだ)やかなのは有難(ありがた)い。準備に手間取らずに済む。一方(いっぽう)、メンバーは意気(みなぎ)ると言った状態である。特に、ヤスベエは、少々(しょうしょう)軽躁状態(けいそうじょうたい)でもあった。私は、ヤスベエの()の状態が少し気になっていたのであった。私はヤスベエに声を掛けた。

如何(どう)した。ヤスベエ」

如何(どう)もしないわよ。あんたこそ大丈夫(だいじょうぶ)なの?」

「ああ」

 ヤスベエは少し間を()くと、

「しっかりしなさいな。何か有っても、不正アクセスをしたのは、あたしだから、あんたや祐子に(るい)(およ)ぶ事はないわ」

 私は思わず、慄然(ギョッ)とした。矢張(やは)り、此奴(こいつ)其処(そこ)(まで)見越して、昨日(きのう)、ログインパスワードを入力していたのだ。だが、私は肩を(すく)めると()う言った。

矢張(やは)りそうか。だが、残念だったな、ヤスベエ。抑々(そもそも)、あのノートパソコンは指紋認証(しもんにんしょう)機能がついている。だから、(オレ)が起動しなければ、抑々(そもそも)、PCとして機能しない。そんなの、PCが調べられたら(わか)る事だ。(すなわ)ち、(オレ)如何(どう)有っても、あの場に居る必要があるんだ。つまり、不正アクセスをしたのは、(オレ)以外有り()ないんだ」

「何、言ってんの? 折角(せっかく)、私がログインしたのに…。あんた、そんなに退学になりたいの?」

()れは、此方(コッチ)台詞(せりふ)だ。お前は、お袋さんの事を考えろ!」

 そう言うと、ヤスベエの顔をまじまじと見つめた。私は、ふと、3年前を思い出さずにはいられなかった。


 ヤスベエは、()飄々(ひょうひょう)とした行動とは裏腹に、意外と苦労人である。ヤスベエの父親は、今はもういない。()う言う書き方をすると、誤解を生む可能性(かのうせい)があるので、言い直すが、3年程前の冬に他界している。父親は、フリーの記者(ライター)をしていた。()の日もいつもの様な普段(ふだん)どおりの一日が展開(てんかい)されるべき(はず)だった。(しか)し、学校から帰宅したヤスベエと妹達を待ち受けていたのは、冷たくなった父親の亡骸(なきがら)であった。死因は心筋梗塞(しんきんこうそく)であった。()の日、非番であった父親は、炬燵(こたつ)原稿(げんこう)推敲(すいこう)を行なっていたものらしい。朝、母親が出勤し、ヤスベエが中学へ、妹達が小学校へ登校してまもなく、()れが訪れた様である。父親はまるで眠っているかの様な、(おだ)やかな死に顔であったと言う。そして、今にも、起き出して、

『いやあ、眠りすぎちゃったな。お帰り、康代。悪いが、寝覚めのコーヒーを()れてくれないか』

 そう言って、また、原稿(げんこう)を書き始めそうであったと言う。


 だが、父親が起き上がる事も、声を掛ける事も、二度と無かった。


 随分(ずいぶん)と、(さみ)しいお通夜(つや)ではあった。弔問客(ちょうもんきゃく)(まば)らで、同級生として手伝いにあがった、私や祐子。あと、江尻中三羽烏(さんばがらす)である、六助、一平、そして、ヤスベエの隣家(りんか)で土建屋の息子であり、ヤスベエの喧嘩(ケンカ)友達である岩井修吾らは、(むし)ろ、手持ち無沙汰(ぶさた)な位であった。ヤスベエは喪主(もしゅ)である母親を甲斐甲斐(かいがい)しく補佐(ほさ)し、妹達を(はげ)まし、気丈(きじょう)振舞(ふるま)っていた。(やが)て、弔問客(ちょうもんきゃく)も帰宅し、我々(われわれ)の様な手伝いの人間も帰り始め、残されたヤスベエの家族達だけとなった頃である。私と祐子はそろそろお(いとま)をしようとヤスベエを探していたのである。丁度(ちょうど)()の時の事だった。


『お父さん。お父さん。嫌だよ。お願いだから、目を覚まして。お願いだよ。何でも言う事を聞くから、起きてよ。おとうさーん!』


 ヤスベエの悲痛な泣き声が、(むな)しく(ひび)いた。居間(いま)には、父親の(ひつぎ)安置(あんち)されていたのだが、ヤスベエは父親の(ひつぎ)にすがり付き、わあわあと声を上げて、欷泣(ききゅう)していたのだ。()の二日間、ヤスベエは何時(いつ)だって気丈(きじょう)振舞(ふるま)っていた。実に、しっかり者の娘である。私も、いつしか心の何処(どこ)かで、()れが当り前であるかの様に錯覚(さっかく)をしていた。


 だが…。


 此処(ここ)で涙に暮れ、声を上げて欷泣(ききゅう)するセーラー服のツインテールの少女は、()だ、あどけなさが残る、去年までは頑是(がんぜ)ない小学生であった十二歳の少女なのである。私の中に様々な思いが去来(きょらい)した。本来(ほんらい)であれば、ヤスベエに、何か声を掛けるべきであったのであろう。(しか)し、出来(でき)なかった。掛けるべき言葉が見つからなかったのである。世の中に、()(ほど)までに言葉が氾濫(はんらん)していると言うのに、適切な言葉が見つからないのである。私は思う。父を失い号泣(ごうきゅう)している少女の、窮愁(きゅうしゅう)せる後姿に対して、如何(いか)なる言葉も無力である。私は、()()()い思いに、(だま)って力無く首を振ると、祐子と修吾を(うなが)して帰ろうとした。(しか)し、祐子は従ったものの、修吾は従わなかった。彼は、涙を(にじ)ませて、屹度(きっと)した目つきで私を睥睨(へいげい)すると、()巨漢(きょかん)の乱暴者は、

(オレ)は、残るよ。()だやることがあるからな。正太、祐子ちゃん。ご苦労さん。また、明日な」

 そう言うと、静かにヤスベエの後ろに佇立(ちょりつ)したのであった。(さなが)ら、彼女を(まも)るかの様に。()れをじっと見ていた私は、無力な、()れで居て深い溜息(ためいき)を一つ()いた。

()もありなん)

 ()の乱暴者の隣人(りんじん)は、何時(いつ)だって、ヤスベエを泣かす者に対しては、容赦(ようしゃ)をしなかった。()れは、幼稚園の頃からずっとである。()の乱暴者のサッカー小僧の正義の原点は、何時(いつ)だって、其処(そこ)にあったと言っていい。だが、()の場合、彼は正義を一体(いったい)何に向けて発動するつもりなのであろうか? 私は、悲しげに首を振ると、

「行こう」

 再び、祐子を(うなが)した。祐子は涙を(ぬぐ)うと、

「うん」

 と、小さく(うなず)いた。そして、私と祐子はヤスベエ宅を後にしたのである。あの時のヤスベエの小さくも、か弱い後ろ姿は、(いま)だに脳裏(のうり)に焼きついている。


 (さて)閑話休題(かんわきゅうだい)。二限目の途中(とちゅう)、10時10分頃、高志が体調不良と称して保健室に行く。()れも予定の行動であり、続いて、私も同20分頃、トイレと称して退室する。()(まま)、校舎の屋上(おくじょう)に向かうと、其処(そこ)には、(すで)に二十人程の生徒たちが居た。知った顔では、一平、ヤスベエ、高志、明彦、ひろみ。そして、後は、上級生達であった。()の中の上級生の一人である白坂が、何時(いつ)に無い真剣(しんけん)面持(おもも)ちで、左右を睥睨(へいげい)(なが)()う言った。

「…()し、迷っている(ヤツ)、踏ん切りがつかない(ヤツ)気後(きおく)れした(ヤツ)、揺れている(ヤツ)。いたら、遠慮(えんりょ)はいらねえ。此処(ここ)でスッパリと手を引いてくれ。…誰も何も言わねえし、言わさねえ。いいか? 今から、(オレ)たちがやろうとしている事は、悪くすると、停学、いや、退学になる可能性(かのうせい)だってある事なんだ。…やれる(ヤツ)だけで、やれば()い」

 三枚目(なが)らも、白坂には()う言った将器(しょうき)がある。流石(さすが)、ひろみの前の代の岡中生徒会長であり、現サッカー部の主将(キャプテン)でもある。()れに対し、高志が伝法(でんぽう)口調(くちょう)で返す。

其奴(そいつ)野暮(やぼ)ってもんだぜ。白坂さん。此処(ここ)(ケツ)(まく)る様な(ヤツ)が、抑々(そもそも)、授業をサボってこんな(ところ)に集まったりゃしねーよ」

 白坂は自嘲的(じちょうてき)苦笑(にがわら)いを浮かべると、

()れも、そうだな。そんじゃ、一丁(いっちょう)、気合入れて行くぞ」

 (やが)て、白坂を中心に円陣が出来(でき)上がった。白坂はぐるりと一瞥(いちべつ)する。其処(そこ)には、()(わた)った青空の(もと)、決意に(みなぎ)った顔が並んでいた。女神(めぐみ)ちゃんに謝意を伝えたい。せめて女神(めぐみ)ちゃんをちゃんと送ってあげたい。そう言った決意に(みなぎ)る顔であった。同時に、私は思った。

此奴(こいつ)らの(ため)なら、停学、いや、(たと)え、退学になっても後悔(くい)は無い)

 (やが)て、中央に白坂が右手を出した。そして、全員が次々と手を重ねて行く。

「行くぞ!」

「おう!」

 全員の(すさ)まじい(まで)の気合が、()(わた)った師走(しわす)の空に(こだま)した。


 そして、全員が四散した。私と高志とヤスベエはある役割の(ため)屋上(おくじょう)の片隅に行った。他のメンバーは、昨日(きのう)の一平の作品である模造紙(もぞうし)を注意深く屋上(おくじょう)のフェンスに貼り付けて行った。10時35分。(あと)、5分で2限が終了する。()のタイミングでの作業となったのは、当たり前の話ではあるが、限々(ぎりぎり)にやらねば、当然(とうぜん)見咎(みとが)められてしまうからである。現に、2限が体育であったクラスなどは、授業終了の頃、屋上(おくじょう)の異変に気がついたのである。高志は30分頃、薬缶(やかん)携帯(スマホ)に向けて架電(かでん)をした。(ほぼ)、同時に、ヤスベエが女神(めぐみ)ちゃんの携帯(スマホ)架電(かでん)を、そして、私が、それぞれのメアドを目掛けてメッセージを発信した。私の行為(こうい)は、言わば保険(インシュアランス)である。()し、高志、ヤスベエが不発に終わった場合の(ため)の隠し矢である。


 ヤスベエは(つな)がらない。(しか)し、高志が(つな)がった。

「もしもし。羅漢(らかん)先生ですか?」

「…。なんだ、岡本か? 今、2限の授業中じゃないのか?」

其処(そこ)女神(めぐみ)先生は、いますよね?」

「…」

 回答は無い。だが、高志は再び言葉を重ねた。

其処(そこ)にヒュパティア。…女神(めぐみ)先生はいますよね?」

「ああ」

 今度は回答があった。其処(そこ)には随分(ずいぶん)重苦(おもくる)しい(きし)る様な声を(しぼ)り出す薬缶(やかん)がいた。彼も(こた)えるべきか思案(しあん)していた様である。

「いま、静岡駅ですよね?」

「ああ、ホームに上がるエスカレーターの途中(とちゅう)だ」

「ひかり500号ですね?」

「ああ。一体(いったい)、何だって言うんだ。もう切るぞ」

 (しか)し、此処(ここ)で切られては(たま)らない。高志は真剣(しんけん)、かつ、懸命(けんめい)(さけ)んだ。

「待ってください。如何(どう)か切らないでください。()れより、女神(めぐみ)ちゃんに伝えてください。必ず、海側の座席に座る事。そして、学校を(まばた)きせずに凝視(ぎょうし)している様にと」

「分った。必ず…伝える」

 通話途中(とちゅう)から、流石(さすが)に、何時(いつ)に無い高志の気魄(きはく)の様な物を感じたのであろう。薬缶(やかん)はそう応えると、通話を切った。ホームに上がると、横から女神(めぐみ)先生が(たず)ねた。

如何(どう)したんですの?」

「岡本高志からだ。お前さんにだ。何があっても、学校を見つめていろとさ」

「…」


 一方(いっぽう)、10時40分を過ぎた処で、(すなわ)ち、2限が終了した直後から、続々(ぞくぞく)と校舎屋上(おくじょう)に人が集まり始めた。()くして、清高(きよこう)史上最大の騒擾事件(そうじょうじけん)の幕が静かにあがって行ったのである。

色鮮やかな落葉が舞い散る中、生徒たちの総意が音を立てて動き出した。果たして、正太郎たちの気持ちは女神ちゃんに伝わるのか? 女神ちゃんを巡る清高史上最大の騒擾事件の行方は? そして、正太郎たちは如何なる処分がくだるのか。次号にて、いよいよ完結編。『第31話 仰げば尊し【後編】』お楽しみに。

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