第30話 仰げば尊し【中編】
扨、後に残されたのは、我々、生徒達である。件の最後の授業についても、随分と物議を醸した物である。先にも記した様に、此の件に関しては、同情する者、嫌悪する者、はたまた、興味本位の者と言った具合に、抑々、女神先生への感慨も、区々であり、多種多様である。決して、私達、生徒達とて一枚岩では無いのだ。然し、女神先生が、私達にとって、まさしく、ヒュパティアであった事。そして、学校側の遣り方には、如何しても納得が行か無い事。生徒達は、ただ此の2点だけで結束して行ったのである。其れも、クラスを超え、学年を超えての話なのである。彼らは自身の属する集団に於いて糾合して同士を募って行ったのである。結局の処、我々、生徒達は二つの方策を画策するに至ったのである。其の一つは、学校側と女神先生の処分の撤回を交渉する事にあった。此れについては、二年生の現生徒会長である安井恭介の力による処が大きい。剣道部の主将であり、品行方正、かつ、学業優秀な彼が居たからこそ、学校側も我々の声を傾聴せざるを得なかったのであろう。更に、瑰麗なる美貌の持ち主である学校一の美女、ミスコンダントツ一位の副会長である森藤順子。更にはサッカー部の三枚目主将、常に飄々とした白坂守。応援団長岩上大吾。此れらは全て二年生である。そして、一年からは、稲森ひろみ、如月凛子。此の六名で、伏魔殿、元い、校長室に赴き、女神先生の処分の撤回を求めて折衝を行なったのである。抑々、学校側が此の折衝に応じたのも、早々に此の問題の沈静化を図りたいという思惑が働いたからに違いないであろう。然し、此の折衝は、我々からすれば、完全に失敗に終わったと言って良いだろう。当初、学校側は女神先生の退職の事実は無いと、頑なに否定していた。此の事実を糊塗するような、姑息な言い逃れは生徒達に通用しなかった。結局、渋々退職の事実は認めたものの、あくまでも其れは、本人からの強い希望による退職であるとの説明であった。学校側としては、懸命に本人の慰留に努めたのであるが、本人の意志は固く、翻意させる事は出来なかったとの事である。セレモニーなどが行なわれなかった事については、学期途中の此の時期の事であり、生徒の動揺を最小限に抑える為の、止むを得ない措置であった事を説明した。ひろみが今日の授業での最後の状況を論い、何か制限的な発言、所謂、羈束・掣肘等があったのではないかと質問したが、其れについても、学校側は、特段、其の様な行為は無かったと説明した。何れにせよ、今回の女神先生の退職については、本人による意志が頗る固く、翻心出来なかった事が残念でなら無いと、頻りに強調していたとの事である。結局、折衝は此れにて終了となり、戻って来たひろみは、呆れた様に両手を広げ、肩を竦め乍ら斯う告げた。
「全く、処置無しね。てんで話にならない。本当に、将に伏魔殿ね。『百鬼夜行』なんて生ぬるい。こんな事なら、学校祭の時、『魑魅魍魎』とでも、書いて擱けば良かったわ」
確かに、校長室の入口には、未だ、学校祭の際の書初め大会の、件の『百鬼夜行』と『七転八倒』が貼ってあるのである(第7話参照)。すかさず、高志が突っ込んだ。
「魑魅魍魎には、抑々、漢数字が入っていねえじゃねーか」
確かに、言われて見れば、高志が言った様なルールであった筈だ。
「煩いわね」
扨、高志とひろみの掛け合いは兎も角として、其の話を聞いた私は、瞬間的に斯う直感した。
(俺達の負けだな)
其れはそうであろう。話を聞くに、直情径行で猪突猛進する子供達を、狡黠で海千山千の大人達が、ひらりひらりと其の舌鋒を躱し乍ら、良い様に遇っている様に映る。今後の方策としては、署名活動などで地道に活動を続けて行く事等が考えられるが、此れには、まず、女神ちゃんが其の活動の中心にいる必要がある。然し、女神ちゃんに其処迄の意志があるか如何かは、現在の処、全くの不明である。いずれにしても、一度、結論が出た大人の事情を、子供達の都合で覆すのは略、不可能である様に思われた。其処で我々は、次善の策として、もう一つの道を模索する事となったのだ。其の頃には、生徒会役員の2名は生徒会室へ、白坂は部活へ、岩上は下校。そして、ひろみと凛子は私、祐子、高志、ヤスベエ、明彦、いずな、敬介、葵、みうみうの待つ1年4組の教室に戻って来たのである。
扨、今一つの道とは、せめて、女神先生とのお別れの場を設けたいとの物であった。此れなら、学校側との折衝とは異なり、大分、穏健にして、波風の立たぬものでもある。抑々、お別れの場を個人的に設えるだけなのであれば、学校の許可すら不要であろう。然し、女神ちゃんが担当していたクラスは全部で6クラス。関係者は、全員合わせれば、200人以上に及ぶのである。到底、学校側の協力無しでは不可能な事案であった。更には、女神ちゃんは本日付で離職している訳であって、明日からは清水高校とは何の関係も無い一市民である。そんな人間を学校に招き入れ、公式では無いにせよ学校の施設を使って催し事など行なう事は、事実上、不可能であろう。加えて言えば、女神ちゃんの所在である。今日までは此処に通っていた訳であるから、清水周辺に居るのは間違いが無いのであろうが、住所、連絡先を知っている者は、生徒達の中には誰も居ない。或いは、薬缶にでも聞けば、連絡先は分るのであろうが、今日の学校側の対応を鑑みれば、其れも望み薄であろう。
「あーあ、せめて教員専用サイトが覗ければなあ」
ヤスベエが愚痴る。
「何だ。そりゃ?」
高志の返しに、
「知らないの。清高のホームページに併設されている、教員専用のページよ。其処になら、多少の情報はありそうじゃない? 例えば、女神先生の連絡先とかさ」
「だったら、閲覧すれば良いじゃねーか」
「バカね。先刻も言ったでしょ。勿論、教師専用。教師以外は立入禁止よ。当然、キッチリ、IDとパスワードでガッチガチに管理されているわよ」
「成程な。だけど、オメーならハッキングツール辺りをもってそうじゃねーか。例えば、ほれ、丁度、其処の教壇の上にある、指導用のPCにキーロガーか何かを仕込んでだな…」
「ヤーよ。其の手のツールは確かに持っているけど、そんな事して、見つかったら、ただじゃ済まないわよ。犯罪だからね。多分、間違い無く退学だよ」
「も、持ってるのか? 全くの冗談の心算だったんだが…」
「そ、そりゃあ持っているわよ。パスワード解析ソフトとかもね。抑々、其の辺りのツールは正太に貰ったんだから…」
一同の耳目が私に集中する。視線が、少々、痛い。
「オメーも持っているのか? んなもん何に使うんだ」
「いや、まあ、其の、PCやプログラム作成が趣味見てーなモンだからな。ほれ、『病膏肓に入る』ってえ奴だ」
私は咄嗟に口篭る。
「趣味だあ? んなモン。一介の高校生が持つ様なモンじゃあねーだろ。アノニマスにでも、入る心算か? まあ、だったら丁度良いや。早速、其のパソコンにロガーを仕掛けようぜ」
「何、言ってんだ、バカ。流石に其れは、やべえだろ。先刻、ヤスベエが言ったとおり、普通に逮捕案件だぞ」
「ちぇっ、折角、名案だと思ったのによ」
「無茶言うな。大体、IDもパスも両方分らないんじゃ…」
私は、そう言い乍らも、或る種、予感の様な物があった。
「あら、IDなら判るわよ。確か、教職員の認識番号だったから…」
ヤスベエが口を挟む。私は徐に口を開いた。
「なあ、ヤスベエ。お前、薬缶の認識番号。知ってたりするか?」
「そりゃあ、まあ…」
ヤスベエは言葉を濁す。
「なあ、其れって数字5桁だろ。」
「まあね」
「なあ、若しかして、其れって、1,2,5,7,8、じゃねーか?」
「あんた、何故、其れを知っているの?」
「…そうか」
私は納得した。実は私には、此奴らにも言っていない、秘密があった。其れは聴覚に関する物であった。多分、私は普通の人には聞き取れない様な、些細な音でも聞き取る事が出来る様なのである。此れは、私が物心が付く前からの事であると思われ、恐らく、私の家族ですら、此の事には気が付いていないと思う。そして、先程、多分としたのは、私が漠然とそう思っているだけに過ぎないからなのである。即ち、此の件を然るべき医療機関や研究機関で調べてもらった事は無いのである。例えば、小学校に上がったばかりに実施される、件の健康診断。其の際に、聴力検査も、当然、あった。大きなヘッドフォンを付け、電子音が聞こえたらボタンを押すと言う、例のアレである。ボタンを押さなければ音が段々と大きくなって来ると言う奴である。私は、其の際に、検査官が押すボタンの些細な音が、微かではあるものの、聞こえてしまうのである。従って、話は簡単である。検査官がボタンを押した瞬間に私がボタンを押し、検査官が放せば、私も放せば良い訳なのである。勿論、肝心の電子音も、当然の事乍ら聞こえる。検査官がボタンを押すや否や、大音響の耳障りな電子音が、頭の中に鳴り響くのである。然も、ボタンを押さなければ、次第に音が大きくなって行くのだから堪らない。私は、其の責め苦が嫌で、此の検査の時は、検査官がボタンを押す音で反応するのを常としていた。
今回の、薬缶の認識番号の件にしても、実情は斯うなのである。いつも、薬缶は授業開始の際に、教壇の上にあるPCを立ち上げるのであるが、私は、其の際のタッチの音を聞いていたのである。然も、其のタッチ音は叩くキーによって微妙に音が違うのである。教壇のPCはテンキー部分の螺子か何かが緩んでいるのであろう。叩く度に、割と大きな音がする。(其れは恐らく、私にとってなのであろうが)然も、特に其の際に、薬缶は、恐らく、ID、パス、伴に、テンキーしか使っていないのである。IDは5文字、パスは11文字、但し、正直に言えば、パスの2文字目が良く判らないのである。でも、逆に言えば、其れ以外の文字はある程度認識出来ていたのである。
扨、私は、此の情報を、此奴らに話すべきか如何か悩んだ。其れはそうであろう。此れを話すと言う事は、取りも直さず、私の異常聴力に抵触せねばならない訳でもある。私は随分と逡巡した。然し、女神先生の事を思うと、矢張り此の儘で良いと言う気は全く無い。例え、少々非合法な事であっても、やらねばなるまい。そう、思ったのである。其処で、私は皆に以下の事を打ち明けた。
① 薬缶のIDは5文字、パスは11文字であると思われる事。
② 全てがテンキーのみで入力している事。
③ 私は音の違いで、叩いたキーが或る程度、推測出来る事。
以上を、出来るだけ、私の超感覚に触れる事無く、説明したのであった。当然、全員、半信半疑の表情を浮かべている。胡乱な表情を浮かべた高志が、まず、口火を切った。
「本当なのか? 其の話。俄かには、信じられないが…。大体、お前の席は、教室のかなり後方だよなあ。本当にそんな微かな音の違いが判るって言うのか?」
「ああ、但し、全部が判っている訳じゃあない。2文字目は未だに判らん」
「確かに、俄かには、信じ難い話ではあるが…」
明彦も眉を顰め、同調する。
「って事は、他の文字は判るって言うの」
凛子も訝る。
「ああ、多分」
「そう言えば、正ちゃん。小さい頃から、耳が凄く良かったモンね。いつも、雲雀の居場所を一番早くみつけてたもの」
無邪気な態で感心するのは祐子である。確かに、幼い頃から、割と行動を共にしていた祐子なら、気が付いていても、不思議では無いかもしれない。以前にも作者が描写していたが、うちの周りにはかなり広闊な空地がある。其の大部分は草叢であり、割と多くの野鳥が、獲物である昆虫を求めて集まってくる。多くは雀や雲雀と言った燕雀の類であったのだが、時折、鷲や鷹と言った大型の鷙鳥の類も、其の燕雀の様な翅鳥を狙って飛来する事があった。春になると、よく遊びに来ていた祐子や近所の子供達と、雲雀を見つける遊びをしたのであるが、私は、子供達の中で突出して、雲雀を見つけるのが、上手だったのである。元来、雲雀は臆病な鳥で、容易に姿を現さない。声は聞こえど、姿は見えぬ。そういった物である。確か、漱石の草枕の冒頭であったと思うが、そうした、雲雀の描写が、如何にも漱石らしい美しい文体で、描かれていた筈だ。確か、主人公は雲雀の鳴き声で雲雀の行方を探すのだが、私は、雲雀の鳴き声だけではなく、小さな羽根の風きり音や、羽ばたきの音、虫を啄ばむ音などを拾って、場所を特定するのである。先刻の祐子の発言は、私の其の事を評しての発言であろう。確かに今にして思えば、懐かしい想い出であるが、あの当時から、何故、皆は雲雀を見つけられないだろうと訝った事は、何度かあった。今にして見れば、私には当たり前に聞こえていた其れらの些細な音が、聞こえて無かった訳であり、当然と言えば当然なのであるが、其の当時は謎でしかなかった。そして、今にして思えば、あの当時から、私の左手は確りと祐子の右手を握っていた事を思い出し、懐かしくも、少々、照れくさくもあった。
扨、閑話休題。此の情報によって、高志が前のめりになったのも無理は無いものと思われる。
「だったら、話は簡単じゃねーか。つまり、一文字を除いて、特定出来ている訳なんだろ」
「何、言ってんだ。其の一文字が荊の道なんだよ。其れに、モノはパスだ。どーせ、5、6回辺り間違った処で閉塞だ」
「確か、6回よ…」
ヤスベエが請合う。然し、其処で何と、薬缶が教室に入って来た。彼は不自然なメンバーで蝟集した我々を胡散臭そうに一瞥すると、斯う言った。
「何だ、お前ら…」
「いや、先生、実は此奴等に英語の宿題を聞かれたんで、今、教えている処なんです」
高志が咄嗟に嘯く。此の手の誤魔化しをさせたら、高志の右に出る者は、まず、居ない。息を吐く様に簡単に言ってのけるのである。然し、薬缶はジロリと、如何にも胡散臭そうに流眄するや、高志を嘲笑った。
「いや、抑々、お前が、山本や如月に英語を教える絵面を、想像出来んのだが…」
思わず、顔を赤らめる高志。然し、薬缶は意に介せず、斯う言った。
「お前ら、校長先生の処に直談判に行ったのだろう。御園を思っての事だとは思うが、此処ら辺迄にしておくんだな。此れ以上、騒ぎが大きくなる事を御園も望まんだろうし、何よりも、大人の都合だ。そう簡単に、結論がひっくり返ったりはせん」
薬缶はそう言うと、教壇に置かれたPCのスイッチを入れた。其れにしても、如何にも大人らしい、達観した事を言う。すると、ヤスベエは腹の探りあいを放棄し、単刀直入に尋ねた。
「ねえ、先生。女神先生は此の儘、退職ですか?」
「ああ」
薬缶は寂しそうに頷く。
「其れで、女神先生の住所と連絡先を教えて欲しいんです」
「住所と連絡先だあ? 聞いて如何する?」
ヤスベエは食い下がる。
「せめて、お礼を言いたいんです」
「止めておけ。御園は、其処迄望んではいないだろうし、大体、住所自体、明日には何の意味も無いものになる…」
其処で、高志が。
「ああ、そう言えば…」
「なんだ」
「ああ、いや。すみれちゃんが羅漢先生にメールを送らなきゃ何とかって…」
此の辺りが、高志の機転の利く処なのであろう。彼は此の状況下で咄嗟に、此処で薬缶にPCのログインを誘発させるべく、虚偽のすみれちゃんのメール話を持ち出したのである。恐らく、彼的には、後から其の件で薬缶から詰問されても、何とでも誤魔化す自信はあったのであろう。蝟集した皆も、即座に高志の意図を理解し、私が聞き易い様に、思わず、口を噤んだ。教室内は、一転、水を打った様に静まった。然し、此れが逆に、かえって目立ってしまった。薬缶は顔を上げると、
「何だ。急に静かになったな?」
皆も、慌てて、とってつけた様に、小声で会話を始めた。高志も私の傍らで、蚊の泣く様な小声で、心配そうに斯う言った。
(おい、大丈夫か?)
其れに対し、私は手許のノートに、
『大丈夫だ。問題無い』
と筆記した。高志の奴は、にやつき乍ら、
(何か、イーノックみてえだな)
私は続けて筆記した。
『喧しい!』
其処で待望のと言うべきか、薬缶がカチカチとIDを打ち始めた。
(1,2,…5,7,8)
そして、すかさず、私は、手許のノートへ其の数字を書き留めて行く。だが、豈図らんや、此処で意外な邪魔が入った。突然、薬缶の携帯が鳴ったのだ。薬缶はすぐに応答する。
「はい、羅漢です。…はい。…はい。分りました。すぐに、戻ります」
電話は、すみれちゃんからであった。薬缶は作業の手を止めると、PCの電源を切り乍ら、斯う言った。
「其れじゃあ、俺はもう行くから、お前らも、なるたけ早く、解散しろよ」
そう、言い残すと、薬缶は匇卒と部屋を出て行った。
「クッソー、あの禿め。一体、何しに来やがったんだよ。あと、少しだったのに…」
薬缶が去った後に、高志が非常に悔しがる。ヤスベエがすかさず言った。
「ねえ、如何だったのよ?」
「ああ、IDだけだがな。IDは如何やら間違い無さそうだ」
「でも、肝心なパスが不明じゃあねえ…」
「なあ、正太。其のお前が聞き取ったと言う、パスは如何なんだ。取り敢えず、わかっている部分だけでも…。或いは、前後から推測出来るかもしれないし…」
私は、小さな溜息を一つ吐くと、喋り始めた。
「分った。先ず、最初は2だな」
ヤスベエがすかさず書き留めて行く。
「そして、次の文字は不明。まあ、テンキーだから、スラッシュかアスタかプラスかマイナスかイコールかポチだと思うんだが…。そして其の後は、単調な数字の繰り返しなんだ。ナナ、イチ、ハチ、ニ、ハチ、イチ、ハチ、ニ、ハチ…」
と、私が此処迄言った時である。祐子が、ハッと息を呑むと同時に、ボソリと呟いた。表情はやや虚ろである。
「鮒、一鉢、弐鉢、一鉢、弐鉢。至極惜しい…」
「何、何だって?」
私には何の事か判らない。思わず聞き返した。再び、祐子が繰り返す。
「鮒、一鉢、弐鉢、一鉢、弐鉢。至極惜しい。数学定数のひとつで、割と、数学教師には、馴染みのある語呂合せだよ」
横から明彦が感嘆する。
「成程な。ネイピア数かあ…」
「ネイピア数?」
ひろみが首を傾げる。敬介も、頻りに訝る。
「ちょっと待ってよ。ネイピア数って何だよ? 俺、全然、知らねーぞ」
「其れは、多分、ネイピアの数の事なんだよ」
みうみうが如何にも分った風に解説する。
「説明になってねーぞ。だから、ネイピアって何だよ」
「アレじゃないかなあ。FEで主人公が使っている武器」
「そりゃ、レイピアだろ」
いずなが見かねて、苦笑をかみ殺し乍ら、説明をする。
「ムッキー、違うよ。ひろみっち、ケースケ、みうみう。ネイピア数はね、自然対数の底で、通常、eで表される。先刻、ゆうちんが言ったのは、其の覚え方の語呂合せなんだよ」
「そうなんだ」
「だとすると、二文字目はピリオドである可能性が高いわね。其のパスがネイピア数とやらだとしたらだけどね…」
ひろみも身を乗り出す。
「うん、厳密には、未だ分らないけど、ネイピア数を踏襲しているとしたら、其の可能性は高いよ」
祐子は慎重である。其処迄来た時に、凛子が、若干、不安気に提案した。
「ねえ、場所を変えない? 流石に此処だと不味いでしょ」
「ああ、そうだな」
明彦も同意する。
「だけど、何処にしよう?」
葵が問い掛けると、祐子が、
「それなら、ウチにしようよ。今日はパパも居ないし、遅く迄でも大丈夫だよ」
恐らく、祐子の父親は、また、佐土原の研究所に出張しているのであろう。結局、祐子の家と言う事になり、其処に居るメンバーは祐子の家に移動する事となった。尤も、私は一度家により、ノートPCを取りに家に戻ったのであるが。と、言うのも、此れから行なう事は、不正アクセス。即ち、明らかな、不法行為である。祐子のハイスペックPCを使用して、後日、此の件が表面化した場合、其の責任は祐子に行ってしまうだろう。流石に、祐子に違法行為の片棒を担がせる訳にはいかない。扨、18時過ぎに祐子の家に先程のメンバーが続々と集結した。即ち、私、祐子、高志、ひろみ、明彦、凛子、敬介、いずな、そして、ヤスベエ、みうみう、葵である。其処で、件の不法行為である。早速、私はノートパソコンに、取得したIDとパスを入れようとした際に、ギリギリの処でヤスベエが、
「あたしがやるわ」
と、奪う様に入力した。
「ビンゴだ!」
「へっ、数学教師はヒネリが無いぜ」
高志が冷笑う。中には、詳細な情報が詰まっており、生徒の成績と言った様な、本件とは無関係な、如何にもやばそうな情報もある。本来であればコピペをすれば良い訳なのであるが、流石に、無関係な情報までサルベージしても仕方が無い。物色する情報についても、其の中身を精査、甄別する必要がある事は、言うまでも無い。いくら、不法行為であっても、其の辺りは弁えているつもりだ。扨、まず、教職員の連絡先名簿である。まず、薬缶の携帯番号、家電、メアド、そして、住所を蒐集。住所は清水区永楽町xx―xとなっている。番地から見るに、六助の家の頗る近所である。薬缶の奴、意外と此の近所に住んでいるらしい。続いて、女神ちゃんである。此方も携帯番号、メアド、住所を蒐集。家電は無いらしい。此れらはヤスベエが迅速にメモって行った。続いて、薬缶の予定表を見て行った。此処で私は先程の薬缶との会話を思い出した。
「そう言えばさあ。先刻、薬缶の奴、妙な事を口走っていたよなあ」
「…妙な事?」
「ああ」
私は頷くと、
「ほれ、先刻、教室で、『住所は明日には意味の無いものになる』とかって…。あれって引っ越すって事じゃあ無いのか?」
「あっ」
一同が息を呑む。そして、次の瞬間、将に鍵となる情報を見つけたのだ。以前にも記した様に、抑々、明日、薬缶は東京へ出張の予定であった筈なのであるが、明日、即ち、12月13日木曜日の予定には衝撃的な内容が書かれていたのだ。以下、其の項目を抜粋しよう。
12月13日
一度学校に出勤。資料を準備。清水駅9時25分発。
静岡駅新幹線改札口。御園と合流。10時20分待ち合わせ。
ひかり500号。静岡発10時41分。
羽田空港で御園を見送り。其の後、研究会へ。
「ねえ、正ちゃん。此れって…」
「ああ、間違い無い。薬缶の奴、出張に託けて、女神ちゃんを見送りに行く心算だったんだ!」
俄然、事態が動き出した。私たちが為すべき事は決った。此の先、我々が、女神先生と会う機会は、恐らくは無いであろう。然し、唯一点、明日の12月13日のひかり500号に乗車する事だけは、疑念の余地が無いのである。我々の計画は徐々に形を為して行った。そして、其の頃には、部活を終えた六助、一平、そして、彼らの主将である白坂も合流した。明日の準備の為に、此の近所で土地勘のある、六助、一平、そして、葵、みうみうが買出しに出かけた。彼らの目的は、大量の模造紙とマジックである。模造紙は予備も含めて最低でも20枚以上は必要であろう。マジックも太での物が、最低でも10本位は必要であろう。一方、残った私達は、明日に向けて、綿密な打ち合わせを始めた。
「静岡発10時41分と言う事は、学校の前の通過は10分後位かなあ」
敬介が呟く。其れを高志が否定する。
「アホか。そんな訳があるか。精々、4、5分後って処だろ」
確かに、此れは高志の言うとおりであろう。東京―静岡は略180キロである。ひかり500号は丁度1時間で東京に到着する。其の間、熱海、新横浜、品川と3つの駅に停車する訳ではあるが、単純計算で平均時速180キロとなる。此れを分速に直すと、丁度、分速3キロになる勘定である。一方、静岡―清水間は約11キロであり、此の分速であれば、4分弱と言った処であろう。然し、静岡を出発してから、どれ位で巡航速度となるか分らぬものの、清水到達まで、大体、4~5分と言う当りは、然程、見当違いではないものと思われる。本来であれば、加速度や巡航速度が判れば微分・積分を使ってより精緻な時間が判るのであろうが、此れでも、然して誤差が無い物と踏んだ。そして、件の新幹線は、奇しくも、清高の真横を通過するのである。
「って事は、10時46分くらいだな。丁度、2限と3限の間の休み時間か」
確かに、高志の言うとおりであろう。2限終了が10時40分。3限開始が10時50分なのである。
「休み時間ってのは、有難いな。授業中に、生徒がそんな大量にエスケープしたら、大騒ぎになりかねねえ」
其の時、買出し組から連絡が入った。模造紙20枚は入手出来たが、マジックが足りないとの事であった。其処で、六助が機転を利かせた。一平の家で、毛筆を使って書いたら如何だと言うのだ。即座に其の案は採用され、二の丸町にある一平の自宅、即ち、杉本書道教室へと向かった。確かに、いくら広い祐子の家とは言え、模造紙を何枚も広げての作業は流石に無理があろう。其処で、急遽、応援の為、白坂と土地勘のあるヤスベエが杉本書道教室へと向かう事となったのだ。一平の家には、俗に言う、たてがみ。化け筆と呼ばれる巨大な毛筆がある。此の業物を使って、一平が書く事になった。また、其の間に、ヤスベエは主だった者への連絡を怠らなかった。本来は、下級生達を啓迪すべき立場にある生徒会長安井恭介、副会長森藤順子、応援団長岩上大吾らである。彼らは、我こそはと、思わんものを糾合し、更なる仲間を募った。斯くして、明日へ向けて、着々と其の手筈は整って行ったのである。
扨、明くる日。愈々、決行の日でもある。其の日は朝から雲一つ無い快晴であった。風も穏やかで、深紅に色づいた紅葉や、櫨染色に染め上がった銀杏の葉が、そよそよと揺れている程度である。風が穏やかなのは有難い。準備に手間取らずに済む。一方、メンバーは意気漲ると言った状態である。特に、ヤスベエは、少々、軽躁状態でもあった。私は、ヤスベエの其の状態が少し気になっていたのであった。私はヤスベエに声を掛けた。
「如何した。ヤスベエ」
「如何もしないわよ。あんたこそ大丈夫なの?」
「ああ」
ヤスベエは少し間を擱くと、
「しっかりしなさいな。何か有っても、不正アクセスをしたのは、あたしだから、あんたや祐子に類が及ぶ事はないわ」
私は思わず、慄然とした。矢張り、此奴は其処迄見越して、昨日、ログインパスワードを入力していたのだ。だが、私は肩を竦めると斯う言った。
「矢張りそうか。だが、残念だったな、ヤスベエ。抑々、あのノートパソコンは指紋認証機能がついている。だから、俺が起動しなければ、抑々、PCとして機能しない。そんなの、PCが調べられたら判る事だ。即ち、俺は如何有っても、あの場に居る必要があるんだ。つまり、不正アクセスをしたのは、俺以外有り得ないんだ」
「何、言ってんの? 折角、私がログインしたのに…。あんた、そんなに退学になりたいの?」
「其れは、此方の台詞だ。お前は、お袋さんの事を考えろ!」
そう言うと、ヤスベエの顔をまじまじと見つめた。私は、ふと、3年前を思い出さずにはいられなかった。
ヤスベエは、其の飄々とした行動とは裏腹に、意外と苦労人である。ヤスベエの父親は、今はもういない。斯う言う書き方をすると、誤解を生む可能性があるので、言い直すが、3年程前の冬に他界している。父親は、フリーの記者をしていた。其の日もいつもの様な普段どおりの一日が展開されるべき筈だった。然し、学校から帰宅したヤスベエと妹達を待ち受けていたのは、冷たくなった父親の亡骸であった。死因は心筋梗塞であった。其の日、非番であった父親は、炬燵で原稿の推敲を行なっていたものらしい。朝、母親が出勤し、ヤスベエが中学へ、妹達が小学校へ登校してまもなく、其れが訪れた様である。父親はまるで眠っているかの様な、穏やかな死に顔であったと言う。そして、今にも、起き出して、
『いやあ、眠りすぎちゃったな。お帰り、康代。悪いが、寝覚めのコーヒーを煎れてくれないか』
そう言って、また、原稿を書き始めそうであったと言う。
だが、父親が起き上がる事も、声を掛ける事も、二度と無かった。
随分と、寂しいお通夜ではあった。弔問客も疎らで、同級生として手伝いにあがった、私や祐子。あと、江尻中三羽烏である、六助、一平、そして、ヤスベエの隣家で土建屋の息子であり、ヤスベエの喧嘩友達である岩井修吾らは、寧ろ、手持ち無沙汰な位であった。ヤスベエは喪主である母親を甲斐甲斐しく補佐し、妹達を励まし、気丈に振舞っていた。頓て、弔問客も帰宅し、我々の様な手伝いの人間も帰り始め、残されたヤスベエの家族達だけとなった頃である。私と祐子はそろそろお暇をしようとヤスベエを探していたのである。丁度、其の時の事だった。
『お父さん。お父さん。嫌だよ。お願いだから、目を覚まして。お願いだよ。何でも言う事を聞くから、起きてよ。おとうさーん!』
ヤスベエの悲痛な泣き声が、虚しく響いた。居間には、父親の棺が安置されていたのだが、ヤスベエは父親の棺にすがり付き、わあわあと声を上げて、欷泣していたのだ。此の二日間、ヤスベエは何時だって気丈に振舞っていた。実に、しっかり者の娘である。私も、いつしか心の何処かで、其れが当り前であるかの様に錯覚をしていた。
だが…。
此処で涙に暮れ、声を上げて欷泣するセーラー服のツインテールの少女は、未だ、あどけなさが残る、去年までは頑是ない小学生であった十二歳の少女なのである。私の中に様々な思いが去来した。本来であれば、ヤスベエに、何か声を掛けるべきであったのであろう。然し、出来なかった。掛けるべき言葉が見つからなかったのである。世の中に、此れ程までに言葉が氾濫していると言うのに、適切な言葉が見つからないのである。私は思う。父を失い号泣している少女の、窮愁せる後姿に対して、如何なる言葉も無力である。私は、遣る瀬無い思いに、黙って力無く首を振ると、祐子と修吾を促して帰ろうとした。然し、祐子は従ったものの、修吾は従わなかった。彼は、涙を滲ませて、屹度した目つきで私を睥睨すると、此の巨漢の乱暴者は、
「俺は、残るよ。未だやることがあるからな。正太、祐子ちゃん。ご苦労さん。また、明日な」
そう言うと、静かにヤスベエの後ろに佇立したのであった。宛ら、彼女を護るかの様に。其れをじっと見ていた私は、無力な、其れで居て深い溜息を一つ吐いた。
(然もありなん)
此の乱暴者の隣人は、何時だって、ヤスベエを泣かす者に対しては、容赦をしなかった。其れは、幼稚園の頃からずっとである。此の乱暴者のサッカー小僧の正義の原点は、何時だって、其処にあったと言っていい。だが、此の場合、彼は正義を一体何に向けて発動するつもりなのであろうか? 私は、悲しげに首を振ると、
「行こう」
再び、祐子を促した。祐子は涙を拭うと、
「うん」
と、小さく頷いた。そして、私と祐子はヤスベエ宅を後にしたのである。あの時のヤスベエの小さくも、か弱い後ろ姿は、未だに脳裏に焼きついている。
扨、閑話休題。二限目の途中、10時10分頃、高志が体調不良と称して保健室に行く。此れも予定の行動であり、続いて、私も同20分頃、トイレと称して退室する。其の儘、校舎の屋上に向かうと、其処には、既に二十人程の生徒たちが居た。知った顔では、一平、ヤスベエ、高志、明彦、ひろみ。そして、後は、上級生達であった。其の中の上級生の一人である白坂が、何時に無い真剣な面持ちで、左右を睥睨し乍ら斯う言った。
「…若し、迷っている奴、踏ん切りがつかない奴、気後れした奴、揺れている奴。いたら、遠慮はいらねえ。此処でスッパリと手を引いてくれ。…誰も何も言わねえし、言わさねえ。いいか? 今から、俺たちがやろうとしている事は、悪くすると、停学、いや、退学になる可能性だってある事なんだ。…やれる奴だけで、やれば良い」
三枚目乍らも、白坂には斯う言った将器がある。流石、ひろみの前の代の岡中生徒会長であり、現サッカー部の主将でもある。其れに対し、高志が伝法な口調で返す。
「其奴は野暮ってもんだぜ。白坂さん。此処で尻を捲る様な奴が、抑々、授業をサボってこんな処に集まったりゃしねーよ」
白坂は自嘲的に苦笑いを浮かべると、
「其れも、そうだな。そんじゃ、一丁、気合入れて行くぞ」
頓て、白坂を中心に円陣が出来上がった。白坂はぐるりと一瞥する。其処には、澄み渡った青空の許、決意に漲った顔が並んでいた。女神ちゃんに謝意を伝えたい。せめて女神ちゃんをちゃんと送ってあげたい。そう言った決意に漲る顔であった。同時に、私は思った。
(此奴らの為なら、停学、いや、例え、退学になっても後悔は無い)
頓て、中央に白坂が右手を出した。そして、全員が次々と手を重ねて行く。
「行くぞ!」
「おう!」
全員の凄まじい迄の気合が、澄み渡った師走の空に谺した。
そして、全員が四散した。私と高志とヤスベエはある役割の為、屋上の片隅に行った。他のメンバーは、昨日の一平の作品である模造紙を注意深く屋上のフェンスに貼り付けて行った。10時35分。後、5分で2限が終了する。此のタイミングでの作業となったのは、当たり前の話ではあるが、限々にやらねば、当然、見咎められてしまうからである。現に、2限が体育であったクラスなどは、授業終了の頃、屋上の異変に気がついたのである。高志は30分頃、薬缶の携帯に向けて架電をした。略、同時に、ヤスベエが女神ちゃんの携帯に架電を、そして、私が、それぞれのメアドを目掛けてメッセージを発信した。私の行為は、言わば保険である。若し、高志、ヤスベエが不発に終わった場合の為の隠し矢である。
ヤスベエは繋がらない。然し、高志が繋がった。
「もしもし。羅漢先生ですか?」
「…。なんだ、岡本か? 今、2限の授業中じゃないのか?」
「其処に女神先生は、いますよね?」
「…」
回答は無い。だが、高志は再び言葉を重ねた。
「其処にヒュパティア。…女神先生はいますよね?」
「ああ」
今度は回答があった。其処には随分と重苦しい軋る様な声を絞り出す薬缶がいた。彼も応えるべきか思案していた様である。
「いま、静岡駅ですよね?」
「ああ、ホームに上がるエスカレーターの途中だ」
「ひかり500号ですね?」
「ああ。一体、何だって言うんだ。もう切るぞ」
然し、此処で切られては堪らない。高志は真剣、かつ、懸命に叫んだ。
「待ってください。如何か切らないでください。其れより、女神ちゃんに伝えてください。必ず、海側の座席に座る事。そして、学校を瞬きせずに凝視している様にと」
「分った。必ず…伝える」
通話途中から、流石に、何時に無い高志の気魄の様な物を感じたのであろう。薬缶はそう応えると、通話を切った。ホームに上がると、横から女神先生が尋ねた。
「如何したんですの?」
「岡本高志からだ。お前さんにだ。何があっても、学校を見つめていろとさ」
「…」
一方、10時40分を過ぎた処で、即ち、2限が終了した直後から、続々と校舎屋上に人が集まり始めた。斯くして、清高史上最大の騒擾事件の幕が静かにあがって行ったのである。
色鮮やかな落葉が舞い散る中、生徒たちの総意が音を立てて動き出した。果たして、正太郎たちの気持ちは女神ちゃんに伝わるのか? 女神ちゃんを巡る清高史上最大の騒擾事件の行方は? そして、正太郎たちは如何なる処分がくだるのか。次号にて、いよいよ完結編。『第31話 仰げば尊し【後編】』お楽しみに。




