第29話 仰げば尊し【前編】
〽仰げば尊し 我が師の恩
教えの庭にも はや幾年
思えばいと疾し 此の年月
今こそ別れめ いざさらば
有名な唱歌、『仰げば尊し』の一節である。近年では卒業式などでも殆ど歌われる事は無くなったと聞く。歌詞も素朴な七五調(此の場合は八六調であるが)の韻律を踏んでおり、昭和の時代に在っては卒業式の定番であったと言う。抑々、歌われ無くなった理由として、歌詞が文語調である事、内容が教師礼賛である事などなどが挙げられる。まあ、文語調と言う部分は兎も角としても、教師礼賛であるから相応しくないと言うのは、如何な物であろうか。聊か、極論に過ぎるのではあるまいか? 卒業式に於いて、教師への謝意を表すのは、生徒として、至極、全うな理ではあると思うのだが。
扨、山から、白い凍える様な瑟々とした神渡しが吹きおろし、山茶花の花が見頃を迎える12月の中旬、私は辛酸を嘗め乍らも、何とか此の稿を書いている。季節も秋から冬へと緩やかに移ろい、徐々、年末年始の慌ただしさを覚える中に、外套に襟巻。そして、炬燵が懐かしくなる時期でもある。とは言え、常春の地、清水の事である。椛は赤々とした葉を未だ残し、銀杏の葉も、漸くに黄櫨染に装いを改めたばかりではある。
申し遅れたが、今回、此の稿を記しているのは、私、高野正太郎である。此れには、いろんな事情、偶然の賜でもある訳なのだが、幾つかの止むに止まれぬ、深い事情が存在した。一つは作者の体調不良の為である。正し、予め言っておくと、現在の作者は頗る元気な物である。と言うのも、以前に、作者が休載した折には、作者の危篤説やら死亡説が、実しやかに囁かれ、作者は大変往生したとの事である。然も、仄聞した処に因れば、気の早いものは、香典を包んで持ち込んだ者も居たとの事で、作者自身、大変、迷惑を掛けたと反省しているとの次第である。作者の現況について言及すれば、現実の時間軸に於いて、今年の、即ち、2022年の7月に作者は例の流行病の猖獗を受け、其の罹患に見舞われた。作者の言に因れば、熱も最高で37度3分と、全く、大した事が無かった事は、誠に重畳至極と言った次第であったのだが、其の後がいけなかった。或る意味、此の疾患の最大の特徴とも言える、後遺症に悩まされる事になるのである。
作者の後遺症は、凄まじい迄の倦怠感との事である。常日頃から、大変、大袈裟な作者の物言いに因れば、未だ嘗て経験した事が無い様な、破天荒で未曾有の辛さであるとの事である。毎日と言う訳では無いそうなのだが、2、3日に一度、倦怠感が春の漣の如く押し寄せて来るとの事である。更には、奥様との間の倦怠期迄、此の病気の後遺症では無いか、との妄言が飛び出す始末である。相変わらず、頭の悪い事此の上無い。まあ、作者側の事情はそんな次第なのであるが、実は、私としても、此れから記すちょっとした事件について、薬缶からの執筆依頼があった事も相俟って、筆を取った次第なのであるが、ただ、私にとっても、なにしろ、此の様な文章の執筆依頼を受けるのは、臍の緒切って初めての事であり、多少の混乱はある。勝手も碌に分らぬ次第であり、何分にも書き慣れぬ上に、碌すっぽ、推敲やら刪修やら、斧鉞やら、斧鑿を加える事が出来なかった事故に、色々、至らぬ点も散見される事とは思うが、其の点は何卒、ご容赦の程を頂きたい次第である。
扨、此れは、我が家にミニャラがやって来た翌週の事だから(第27話、第28話参照)、時系列的には少々遡る形となる。確か11月の最後の週の事であったと記憶している。事の発端は2限の数学の授業中の事である。数学下位組担当の薬缶が、黒板に三角関数の加法定理の公式を板書していた時の事であった。板書中のチョークを握って高々と掲げた薬缶の右手が、其の儘の姿勢で固まった。薬缶自身は苦悶の表情の中に、玉の油汗を浮かべ、宙空に掲げた、チョークの先がプルプルと小刻みに震えている。
「?」
一瞬、何が起きたのかすら分らずに、ポカンと固まる生徒達。矢庭に、
「うぎゃあー」
と言う、薬缶の口から、獣の断末魔の如き絶叫が、教室中に響き渡った。
「!」
其の儘、薬缶はどうと、横倒しになると、
「アイタタタ…、痛い、痛い」
と、床をのたうち、悲鳴を上げている。忽ち、教室内は騒然となった。立ち竦む生徒たち、悲鳴を挙げる女性徒たち、慌てて薬缶に駆け寄る者、のみならず、パニックで泣き出す女性徒。職員室へ走る者、保健室へ走る者、火災報知機の非常ベルを押す者、取り敢えず119番へ通報する者、更に、どさくさに紛れて前店にエスケープする者と、教室内は実に混沌とした状況に陥り、忽ちの内に、阿鼻叫喚の様相を呈したのであった。其の内に、他組で教鞭を取っていた他の教師や、保健医の先生が自動体外式除細動装置を抱え駆けつけ、更に、悪い事に、下位組には、清高随一の騒動フリーク、正義の野次馬を自認するヤスベエがいるのだから始末に悪い。当然、只で済む筈が無い。彼女は騒ぎと同時に、彼女が組んでいるラインに一斉配信したと言うから堪らない。騒ぎは発生と略同時に、全校の知る処となったのだ。挙句の果てに、教師が不在となり、頸木の外れた他組の生徒や、ラインを見た他学年の生徒達迄もが、物見遊山に駆けつけると言う大騒動に相成ったのである。然も、騒動の早い段階で、火災報知機の非常ベルが鳴らされた為、他の教室の一部の生徒は、慌ててグランドに避難すると言う一幕もあった様である。結局、薬缶は、騒動の当初に下位組の何者かによって、通報され呼び出された、救急車に乗せられ、近隣の厚生病院に運ばれたのであった。
当然、昼休みや放課後は其の話題で持ちきりであった。
「あの騒ぎは、下位組だったのか? 悲鳴は聞こえるわ、絶叫が聞こえるわの大騒動だったかんなあ。挙句の果てに、非常ベルが鳴り出したりしてたしなあ」
高志が呆れ乍らも、目を丸くする。
「ふーん、現場にいるとわからんもんだなあ。そんな大騒ぎになっていたのか?」
私の呑気な発言に、高志は直に応える。
「当たり前だ。悲鳴の直後に非常ベルだったからなあ。上位組担当のすみれちゃんも真っ青になってすっとんでったぞ」
高志は当時のすみれ先生の慌てぶりを回想し乍ら答える。私も当時を回想し乍ら答えた。
「何しろ突然の事だったからな。俺なんか、訳が分からずに、状況を理解するので精一杯だった」
「大体、其の後の非常ベルは何なんだよ。六辺りが、イタズラで鳴らしたのか?」
「いや、其れは如何やら、ヤスベエの仕業らしい」
「流石、康代ちゃんだね。彼女、マスコミ志望だし、機転が利くから。でも、其の後、救急車も来たよね」
祐子がフォローを入れる。
「ああ、来た来た。あれは一体、誰が呼んだんだ?」
明彦も回想する。
「其れも、如何やら、ヤスベエらしい…」
「また、彼奴か。あの野郎、基本、行動がテロリストだからなあ。何しろ、大騒ぎする事に、能力全振りしてやがるから…。抑々、野郎からラインも来たぜ。『薬缶が教室内で断末魔の叫びを挙げて人事不省に陥った。刮目して次号を待て』とか、書いてあったぞ。全く…、昭和の時代の雑誌の煽り文句かよ? マスコミでもやっちゃあイカン事ばかりだろ。良く咄嗟に其処迄、馬鹿騒ぎが出来るもんだな」
「全くだ」
明彦も同意する。祐子が心配そうに、
「其れで、羅漢先生の容態は如何なの?」
「ああ、其れなら、ヤスベエが、見舞いに託けて、情報収集に行っている。追っ付け、何か情報が来るだろ」
「本当にあの馬鹿と来たら…、人の災難を何だと思ってやがるんだ。全く、無駄に行動力だけは有りやがるからなあ」
高志が呆れる。
「ムッキー。其れなら、今先刻、ヤスベエから、ラインが来たよ。薬缶は、唯のぎっくり腰だって。でも、今週一杯は入院みたい」
「!」
高志が呆れ乍ら、呟く。
「ぎっくり腰だあ。…全く、あの禿は、そんなんであの騒ぎをおこしたのか?」
「ムッキー。無茶、言わないの。ぎっくり腰って、滅茶苦茶痛いんだよ」
「だけど、明日からの授業、一体、如何すんだろ。自習かなあ。実はあたし、三角関数は良く分らないんだけど…」
ひろみがボソリと言った。6,7,8組の数学に関しては薬缶が上位組を担当しているのである。従って、ひろみや凛子も其の影響をもろに受ける事となる。ひろみの発言は尤もな事で、其れに関しては、全くの同意見であった。私も当初から其れを懸念していたのであった。
然し、幸い、私達の懸念は杞憂に終わった。と言うのも、薬缶が病床から、八方、指示を飛ばし、或る人物に臨時の講師を急遽依頼したのであった。翌日の数学の時間に、件の数学講師が着任したのであるが、一同、彼女を見て驚いて、思わず、固唾を呑んだ。其れは、彼女が途轍も無い美人講師だったのである。
御園女神。
其の、美人講師はそう名乗った。女神と書いてめぐみと読むとの事である。かなり、珍しい名前である。年の頃、二十代後半から三十代前半。やや、釣り目乍らパッチリした瞳、希臘彫刻の様な端正な顔立ち、蠱惑的なアルカイックスマイル、大きな胸元、絶妙なプロポーション。かなり目立った特徴を引っさげての登場なのである。此の様な思春期集団の中にあっては、下位組の生徒たちが、色めき立つのも無理も無い。校内には、俄かに、女神ちゃんフィーバーが巻き起こったのであった。数学教師陣には、既に、すみれちゃんと言う童顔美人教師がいたのであるが、忽ち、校内を二分する様な状況に発展した。派手な顔立ちの女神ちゃん。清楚なロリ巨乳のすみれちゃんと、特徴は違えど、校内の男子生徒の関心を二分するに至ったのである。御園女神については、更に、いろんな風聞が出回り、出身大学が東京大学理Ⅰとの噂があった。理学部数学科専攻との話である。まあ、此れも風聞に過ぎぬのではあるが、其れを裏付けるだけの物はあった。人柄は優しく面倒見が良くて、然も、当たり前と言えばそうなのであるが、途轍も無く頭の回転が速く、諧謔に溢れ、気韻に満ちた言動、機知に富んだ応答。のみならず、古典、歴史にも造詣が深く、そして、勿論、専門たる数学に於いても、其の論理は、生徒の全てを唸らせる物を持っており、忽ち、生徒達の人気を博する事となった。
更に特筆すべきは、其の教え方である。(まあ、教師としては、此処の部分が一番重要なのであろうが)女神ちゃんは此の部分が、突出して上手なのである。当然の話ではあるが、元来、下位組には数学が得意な生徒が紛れ込む事は、まず無い。殆どの生徒が、数学が6以下、所謂、概ね駄目3(第10話を参照)以下の生徒で構成されている。特に、赤点、補習組は略100%下位組から輩出される。要するに、極論すれば、数学が苦手の生徒の集団なのである。例えば、数学が苦手の者に、まあ、数学以外の教科であってもそうなのであるが、何処が分らないのかを尋ねたとしよう。此れは、或る意味、此の世で最も愚かで、くだらない質問の一つであり、当然の事乍ら、斯うなる。
『全てが分らない』
『何処も彼処も分らない』
『何が何だか分らない』
『兎に角、分らない』
と言った答えが返って来るに決っている。まあ、其れも、宜なるかな。であり、抑々、何処が分らないか説明出来る。即ち、分らない箇所を指摘出来得ると言う事は、前提条件として、其処以外の部分は分っていると言う事でもあり、即ち、取りも直さず、或る程度理解していると言う事に他ならないのだ。例えば、私の友人に杉本一平と言う者がいる。此の様な事例で親友を持ち出すのは、少々、胸が痛むものであるが、彼の言に因れば、
『女神ちゃんは分りやすい』
との事であった。寡黙な彼の口から、何処が如何だと言う具体的な話は無かったが、其れでも、其れは或る程度、真実であろう。恐らくは、一平が直面している問題をピンポイントで道を示す事が出来得るからだと思われる。彼女は、多分、一平の能力(勿論、数学の、である)を瞬時に見極め、彼の次元まで降りて行く事が出来るからと言う事を端的に評しての発言であろう。一平は、清水高校に入学して以来、数学に関しては、まあ他の教科でも似た様な状況なのだが、中間、期末、学力、小テスト全てに於いて、一貫して連続で0点を取っており、其の連続記録を何処迄更新する事が出来るか、周囲の関心の的となっていた次第なのである。然るに、女神ちゃんが赴任してくるや、3日後の小テストでは、何と、いきなり、12点を叩き出し、周囲を唖然とさせたのである。単元は三角関数であり、決して簡単な単元と言う訳では無い。平均点は例に因って五十点満点中11.8。因みに私は22点であった。三角関数は、或る意味、微分・積分と並び、数学が嫌いになる為の様な単元である。此れも明確に理由がある事で、其れ迄の学習の蓄積で応用出来る部分が極端に少なく、然も、新たに覚えるべき事が多く、更には、決定的に、『何の為に』が欠落しているのである。矢張り、人間、モチベーションが行動原理の中で大きな要素を占めており、此の様に、何の為にが欠落していては、其のモチベーションを維持する事自体、極めて困難なのである。私自身、三角関数と言う単元の難解ぶりには呻吟しており、闇雲に、『いちひくタンタンタンタタン』とか、『イチマイタンタンタンプラタン』、などと言われて見ても、何が何だか分らないと言うのが実情である。例えば、数学では卓犖とした成績を誇り、翹楚でもある、祐子が言うには、『加法定理をマスターすれば何とかなるよ』との事であったが、然し、此れとても三角関数の何たるかを理解しているからならではの発言であり、抑々、『何が何だか分らない』私にとっては、加法定理も糞も無い。私にして見れば、如何しても、三角関数は敷居が高い単元なのである。文系である作者などは、『俺は来年、還暦だが、未だに、あれは何に使うのか皆目分らん』と、ほざく程である。まあ、あんな奴の言う事を云々した処で、所詮、栓無き事なのではあるが、文系にとって、其れ程迄に三角関数は鬼門なのである。そんな単元にあって、一平が0点で無い、のみならず平均点を超えたと言うのは、あり得べからざる冬の椿事であり、とんでもない事態の出来に、私や高志、敬介を始めとした、周囲は大いに驚き、将に、『クララが立った!』状態であった訳なのである。そんな事態を尻目に、寡黙な一平が語るには、
「祐子ちゃんと良く似ている」
との事であった。訥弁な一平の事である。恐らくは、教え方が祐子の其れと近い物があったと言いたかったのだろう。女神ちゃんの教え方の秀逸さを如実に物語る逸話であろう。だが此れは、かと言って、其れ迄の担当であった薬缶の教え方を批判するものでは、決して無い。薬缶自身は、生徒からは、教え方に定評がある、頗る有能な教師である。恐らくは、相性の様な物であろう。
扨、そんな女神ちゃんであるが、最初の一週間は大過無く、終了した。其の内、薬缶も無事退院の運びとなり、間髪入れず期末テストも始まり、一先ずは臨時講師としての役目を無事終了したと言った処であろう。当初は、薬缶が退院するまでの間の臨時講師との事であったが、其の卓越した能力と人望も相俟って、生徒たちからは、絶大な人気を博するに至ったのだ。そして、何時しか、世界史の素養のある、諧謔好きな生徒により、後期ローマ帝国の美貌の数学者、アレキサンドリアのヒュパティアに准え、ヒュパティアと渾名される様になった。そして、学校側からも契約期間の延長の打診も噂されていた。そんな矢先の事である。
丁度、期末テスト期間の頃から、実に奇妙な噂が実しやかに囁かれ出したのだ。
「おい、正太。聞いたか? 女神先生の例の噂」
高志が胡乱な表情で問い掛ける。
「ああ、俺も半信半疑だったが…」
「特進科でも其の噂で持ちきりだったぜ。出所は、例に因って、ヤスベエ辺りじゃねーのか」
「いや、流石に其奴は違うと思うぜ。確かに、彼奴は面白ければ良いと言う奴だが、彼奴も女神先生の事は崇拝していた。いくらなんでも、其処まで義理人情を欠いた奴じゃあねえ」
「然しなあ、実際そんな事があんのかなあ」
敬介も首を傾げる。
「実は、夕べ、其の動画を探し出してみたんだが…」
「おい、見たのか! 俺にもURLを教えやがれ! おまえ、一人だけずるいだろ」
高志が色めき立つ。そして、明彦も追随する。
「おい、俺にも教えろよ。俺も、是非、見てみたい、いや、確認したいんだよ」
件の噂を巡って、実に喧々囂々の騒ぎなのである。
其の噂とは一体どの様な物なのであろうか? 其れは何と女神ちゃんがAVに出演しているとの内容なのである。其れも、かなり過激な無修正ビデオと言う事である。此れについては、当初、噂が囁かれ始めた頃には、随分と荒唐無稽な話だと思われたものである。現実に有名大学を卒業した優秀な美人教師が、其の様な物に出演しているものとは思われないし、抑々、何のメリットも無い。従って、恐らくは、他人の空似であろうと言うのが、大方の見解であった。然し、閲覧した人間の言に因れば、画像を見る限りでは、矢張り、極めて良く似ていると言うのである。実際、私も密かに閲覧をした。其の印象で物申せば、矢張り本人としか思えないのである。然し、若し、本人であるとすれば、恐らくは、今より10年近く以前の画像なのであろう。だが、動画の女性に10年の時間を加算すれば、丁度、今の女神ちゃんの相貌に合致するのである。結局、其れを確認するべく、高志、明彦、敬介の3人は、祐子、ひろみ、凛子、いずな達に内緒で、学校帰りに私の家に寄る事と相成ったのである。
以前から、散々、作者が描写して来た様に、私の家は実に手狭である。況してや、私の部屋は三畳間である。4人も入れば、立錐の余地も無いと言うのが本当の処である。本来であれば、居間である六畳間で閲覧すれば良い訳であるが、内容が内容だけに、其れも叶わない。此れには高志も閉口して、図々しくも、不満を口にする。
「それにしても、然し、本当に狭いな。事情を話して、祐子ちゃんの家にでも行った方が良いんじゃ…」
「アホか? 抑々、閲覧する内容を考えろよ。祐子の家で、そんなもんを見れる訳が無いだろ」
「そんならさ。駅前のネカフェなら…、彼処なら、ティッシュも有りそうだし…」
明彦がしょーもない妥協案を示す。
「今更、しょうがねえだろ」
敬介が宥める。結局、私の部屋での閲覧と相成った訳ではあるが、内容が内容であるが為に、ボリュームも極端に抑えるしかない。
全編でも10分足らずの動画である。元々のタイトルさえ分らず、肝心な出演女優名も不明である。動画を2回通して見た。誰一人として、口を開く者はいない。やや、不鮮明な事を考えれば、昔の無修正作品の流出物であろう。内容もかなり過激な物で、大変、尾籠な表現で、誠に忸怩たる思いなのだが、非常に巨乳の、20歳位の美人の女優と男優の目合が全編中の殆どを占めている。従って、男女の結合部分もはっきりと確認出来、女優の局部もどアップなのである。女優の嬌声もかなりのものであり、無修正ビデオとしては、かなり秀逸な部類なのであろう。但し、件の女優については、女神ちゃんに確かに似てはいるものの、其れ以上の、確証を掴めた者はいなかった。私は思わず高志に問い掛けた。
「なあ、如何思う?」
高志は困った様な顔で、
「如何っつわれてもなあ…」
高志は首を傾げてちょっと考え込む様な仕草で、斯う言った。
「三発は抜けるだろ」
「あのなあ…。誰が、んな事聞いた!」
「確かに、異様に良く似てはいるが…」
明彦も呟く様に言う。
「此の際、本人か如何かは兎も角としてもだな。…五発はいけるだろ」
「だから、其処じゃあ無いだろ! もっと、真面目に見ろ」
私は憤然として叫ぶ。然し、こんな物を真面目に見たからとて、思春期の男子の行き着く先は、大概、決っている。此の間に敬介は勝手にヘッドホンをパソコンに繋ぎ、真っ赤な顔をし乍らも、3回目の閲覧を始めていた。件のURLを自身の携帯に控えた高志は、徐に、斯う言いだした。
「なあ、正太。こんな事言い出すのは、忸怩たる思いと言うか、慙愧の念に堪えないと言うか、汗顔の至りと言うか、誠に申し訳無いんだが、わりいが、トイレ貸してくんないか? なーに、心配すんな。1分で終わらせる」
「おいコラ、ちょっと待て。人んち便所で何しようってんだよ?」
「待て待て、それなら俺を先にやらせろ。30秒で抜く自信がある」
明彦が抜け駆けしようとする。
「うわーふざけんな」
揉み合う私と高志と明彦。そして、バランスを崩した私は敬介の肩に掴まったのも束の間、4人はどうとばかりに倒れ込んだ。其処で例に因って様式美である。其の弾みで、敬介が使用していたヘッドホンの端子が、パソコンのジャックから外れ、忽ち、大音量の嬌声が周囲に響いたから、堪らない。
『ああーん、あん、あん。いっちゃう。いっちゃうよぉ』
「うわあ、此の馬鹿野郎! 何やってんだ」
私が慌てるのも無理は無い。其の音量、我が家だけでは無い。恐らくは、隣の世帯にも聞こえたに相違無い。当然、おふくろの怒声が響いた。
「ちょっと、正太郎。一体、何をやってんの!」
「やべえ!」
鶴唳風声の例えも有る。其の一言で、全員、慌てて自分の持ち物を手当たり次第に掴むと、蜘蛛の子を散らす様に、匇卒と逃走し始めたのだ。斯く言う私も、此の儘ではおふくろの小言の直撃を受ける羽目になる訳であり、併せて逃走するしかなかった。
扨、家を飛び出した我々であるが、当初は赤燈台を目指した。然し、師走の此の時期の此の陽気である。恐らく、居た処で30分と持つまい。結局、全員、踵を返して、喫茶店に落ち着いたのである。そして、其処で私達は途方に暮れていた。此の後、家に帰った処で待っているのは、おふくろのお小言なのである。尤も、途方に暮れていたのは、私だけであって、他の3人は頗る呑気なもので、たった今、見たばかりの衝撃的な動画の話題で持ちきりだった。
「おい、如何すんだよ。家に帰れなくなっちまったじゃねーか」
「まあまあ、仕方ねーな。世の中そんな事もあるさ。まあ、其方は時間が解決してくれるだろ。其れは其れとしてだな。いやあ、実に良い動画を教えてくれた。此れで、今夜のおかずは決ったな」
他人事の高志が能天気に宥める。実に、傍迷惑な話である。
「おい、ふざけんな。他人事だと思って、適当な御託を並べやがって…」
然し、明彦も追随する。
「確かに、センセーショナルで良い動画だったよな。先生だけにな…」
「くっだらねえなあ」
敬介が呆れる。私が明彦の言葉尻を捕らえ、斯う言った。
「と言う事は、明彦。オメーもあれが女神ちゃんだと思うのか?」
「まあ、あんだけ似てりゃあなあ…。本人と断定しても、一向に、差し支え無いだろ」
「高志は?」
「そうだな。他人の空似を勘案してみても、まあ、本人だろうな」
暫し、沈黙が続く中、敬介が赤い顔をし乍らも、EVAの某指令の様に顔の前で手を組み乍ら、徐に斯う言った。
「其れについては妙案があるんだ。おまえら気がついたか如何かは知らんが、あの女優さんの彼処の左1センチ位の処に、小豆大の黒子があったんだ」
「ああ、確かにあったな」
高志も、透かさず同意する。
「其処でだ。女神ちゃんの彼処に同じ黒子があるかどうか確認すれば、万事解決じゃねーの? なかなか、名案だろ?」
私は、呆れた様にじろりと流眄し乍ら、斯う反駁する。
「成程。確かに名案だな。で、誰が、如何やって、其れを女神ちゃんに、見せてくれと頼むんだ?」
「あっ」
高志がニヤニヤし乍ら嘲笑う。
「全く、真面目に考えろ。取り敢えず、敬介。おまえはイソップ寓話を全部、読み返した方が良いな」
「わー、ふざけんな。また、馬鹿にしやがって」
4人でワイワイしている処へ、ひろみ、いずな、凛子、祐子が入店して来た。
「あら、あんたたち。今日は部活が終わったら、早々に匇卒と姿を消したけど、こんな処で何やってんの? 如何せ、又、何か悪巧みをしてたんでしょ?」
ひろみがにやつき乍ら声を掛ける。高志が憤然と食って掛かる。
「何を言いやがる。俺達は家を追い出された可哀想な正太の相談にのったり、女神ちゃんの事でだな…」
「おいちょっと待て。ふざけんな。家を追い出された、抑々の事の発端を考えてみろよ! 全くもう」
「そう言うおまえらは、如何したんだよ?」
ひろみたちは、少々、顔を赤らめ乍らも、もじもじと言い返す。明白に何か様子がおかしい。
「私達は祐子の家でちょっと勉強会を…」
「女子だけで、勉強会だぁ? 期末試験も終わったのにか? 何か怪しいなあ」
思いっきり、胡散臭そうな表情を浮かべるのは高志である。然し、ひろみは全く意に介せずに、斯う言った。
「ところで、あんた先刻、女神先生の事、言っていたけど、ひょっとして、例の噂の件? って事は、件の動画を見たの?」
「ああ、まあ、其れはだな…。其の、見たというか、何て言うか…」
忽ち、ひろみは顔に朱を走らせると、
「なんてえ動画を見てんのよ! 私というものがあり乍ら、不潔。此の浮気者!」
「おい、こら、ちょっと待て。おかしいだろ。抑々、其れを指摘すると言う事は、てめーらもアレを見たって事だよな? 自分の事は棚に上げておいて何を言いやがる」
「な、何、言うのよ。わ、私達のは、真実の探求よ。祐子の部屋で最高級の英国紅茶を飲み乍ら、動画を真面目に考察していただけで…」
ひろみが必死になって、懸命に美辞麗句で修飾して、説明しようとする。
「ふざけんな。何、言ってやがる。あんなん見ておいて、真面目もクソもねーだろう。如何言い繕っても、やっている事は、俺達と同じだろうが」
其処で祐子が、真っ赤な顔で、もじもじし乍らも、私に尋ねる。
「其れで、正ちゃんは如何思ったの?」
「如何って言われても…、其れは…、其の、かなり、興奮したけど…」
思わず口篭る私に対して、祐子は顔を赤らめ乍ら言う。
「正ちゃんのエッチ…。其処じゃあなくて! えーとね、其の女神先生か如何かと言う処なんだけど…」
「ああ、其方の方か。まあ、限りなく本人に近いグレーって処じゃあないかな」
其処で凛子が考え深げに呟く。
「でも、若し、本人だとしたら、流石に、あの内容でしょ。学校側にばれたら拙いんじゃあ…」
確かに、凛子の指摘は的を得ている。内容が内容だけに、学校側も放置はしておくまい。
「ところで、あたし、妙な事に気がついたんだけど、あの女優さんのちょっと言えない処の横に、小豆大の黒子があったんだ…」
ひろみが顔を最大限に赤らめ乍ら言う。
「ちょっと言えない処? ああ、なあんだ。アレの事か。ま…。ぐはあっ」
ひろみの肘打ちが、高志の鳩尾にめり込んでいる。
「って事は、あんたもアレに気がついたって訳?」
「当たり前だろ。此方人等は目を皿の様にし乍ら、鵜の目鷹の目で見てたんだ。抑々、気がつかない訳が、無いだろ」
ひろみは矢庭に高志の胸倉を掴む。
「何てえもんを、目を皿の様にして、じっくり見てんのよ! 此の浮気者!」
「まあまあ、其れを言い出すとだな、中々、話が前に進まないから…」
私が、間に割って入る。
「何を言いやがる。だから、やっている事は俺達と同じだろ」
「違うわよ。私達はもっと、斯う…、何と言うか、もっと恥じらいをもって、羞恥の念と伴に見てた、いや、観察してたのよ」
「ふざけんな。抑々、其れを大同小異と言うんだよ。大体、アレに真っ先に気がついたのは敬介だぞ」
「お、俺?」
「ムッキー。ケースケ、不潔!」
「い、いや、ち、違うんだ。いずなちゃん。俺、あんなの見るの、生まれて初めてだから、つい、集中して見てしまって…」
「ムッキー。ケースケの…エッチ」
凛子は、凛子で、横に居る明彦をじろりと流眄する。今日は冬らしい紺碧色のカチューシャをしている。
「で、キミは如何なのよ?」
「お、俺か? 俺は敬介のバカとは違うぜ。あの手の動画は見慣れているからな。抑々、あんな動画でオタオタするかよ。虚心坦懐。明鏡止水の心持でだな、頗る冷静に観察を…」
「見慣れているですって! バカじゃないの。大体、そんな、馬鹿、自慢して如何するの。其処は嘘でもびっくりしました位、言いなさいよ。軽蔑するわよ。大体、あの手の動画を明鏡止水の心境で見て、如何しようって言うのよ」
「ひい。ごめんなさい。凛子さん。実は嘘です。本当はかなり興奮して見てました。あの、今度、凛子さんにもまた、是非、見せてもらえたらなと、思っていたんです」
「どさくさに紛れて、何、飛んでも無い事を口走ってんの? 此のエロ眼鏡!」
凛子は顔を真っ赤にし乍ら、明彦の後ろから、裸締めで、締め上げている。
全く以って、愚かなる思春期集団である。一同、まるで収拾がつかない。私は、混乱が少し静まるのを待って、ひろみに水を向けた。
「ところで、ひろみ。先刻、何か言い掛けてたじゃあないか? 黒子が如何とか…」
「ああ、そうそう、其れなんだけど…」
ひろみは其処で言葉を切ると、
「女神ちゃんに同じ黒子があるか如何かを確認すれば、万事、解決するんじゃ無いかと…」
男子一同はまたかと言わんばかりの表情を浮かべた。発想が敬介と全く一緒である。ひろみの思考回路も敬介の物と同じ材質で出来ているものらしい。高志はにやつき乍ら斯う言った。
「で、誰が其れを女神ちゃんに言うんだ? お前が聞くのか?」
「何、言ってんのよ。聞ける訳ないじゃない!」
高志は、にやつき乍ら、笠に掛かって言う。
「ふふふ。なんなら俺が女神ちゃんに聞いてやろうか? まあ、おまえと敬介は、常識の勉強が必要だな。推薦図書はイソップ寓話の『ねずみの相談』だ。夜、寝る前、漢字ドリルが終わった後にな。必ず、読んで置けよ。あと、感想文も忘れるなよ…ふげぇ」
「だ、ま、ら、っ、し、ゃ、い」
ひろみの怒り。渾身の正拳突きが高志の顔面にめり込んでいる。
「あーあ、いつも余計な一言が、多いんだよなあ」
私が呆れるのも無理は無かろう。ひろみは高志に向かって詰る。
「大体、あれが女神ちゃんだったとしたら、あんたは如何したい訳? 抑々、今後、接し方にも困惑するでしょうに」
「そんな事はねーさ。そんなんで、見る眼が変ったら、此方の沽券に拘らあ。まずは挨拶だな」
「挨拶?」
「ああ。いつも、うちの息子がお世話になっていますと、懇切、丁寧な挨拶をだな…。でもって、筆下ろしの節は、是非、よしなにと、うぎゃあっ」
「下品! 全く、此の男は如何してすぐに、斯ういう事、言うのかしら。大体、私と言うものがあり乍ら、何、戯言をほざいてんの?」
ひろみの膝蹴りが、高志の股間に炸裂する。敬介が呆れる。明彦も横でにやついている。
「本当に、しょーもねえ事言うなあ…」
「確かに、股間に拘ったな」
結局、此の日はすったもんだの挙句、大した結論が出ない儘に終わった。
然し、『好事門を出でず、悪事千里を行く』の、例えもある。翌日の火曜日には、件の噂は、最早手の付けられない様な状況になっていた。生徒達は寄ると触ると、其の噂で持ちきりであり、噂に疎い葵の様な生徒まで、ヤスベエに聞きに来た位である。其の様な状況の中で、女神ちゃんの態度は誠に立派であり、全く普段と変わるところ無く教鞭を取り続けたのであった。心無い中傷や、下卑た野次には、涼やかな笑顔で受け流し、淡々と授業を進める女神先生。其の態度、立派と言うには余りにも痛々しく、其れを通り越して、寧ろ、悲愴と表現すべき状況にあった。勿論。生徒達の反応も様々である。単純に興味本位の者、嫌悪感を露にする者、私達の様に同情的な者。抑々、本人か如何かも不明である事を主張する者。実に多種多様な反応に分れたのである。然し、真摯に、そして、健気に授業を進める女神先生には、一様に心を打たれたのであった。頓て、生徒達の間には、次第に或る種の合意形成が為されて行ったのである。其れは、たとえ、女神先生がどんな人生を送っていようと、また、何があったとしても、生徒達にとって、最高の数学教師であると言う一点において合意して行ったのである。
然し、袂別の日は意外と早くにやって来た。あくる水曜日。数学の授業中の事である。此の日の女神先生も実に気丈に振舞っていた。だが、授業も終盤、終わりの直前に、女神先生は、生徒達一人一人の顔をじっくりと見回して行ったのだ。一、二分、無言の時間が暫く続いた。其れは、女神先生自身、万感の思いを込めて、将に、生徒達との思い出を、其の魂魄に刻みつけようとしていたのかもしれない。そして、遠慮がちに浮かべた一掬の笑顔と伴に、深々と一礼をしたのだ。多分、大多数の生徒達は其処で直感した。此れは、女神先生なりの、言葉にならない、さよならの言葉なのだと。同様の事は、ひろみたちのクラスでも、また、2年や受験直前の3年のクラスでも起こったと言う。実際の処、事実は良く分からない。恐らくは、事態を重く見た、学校側の差配であろう。本来であれば、二学期の終わりに差し掛かった此の中途半端な時期に、突然の退任など有り得ない。せめて二学期一杯は勤めるのが自然であろうし、何よりも、明日、木曜日は件の薬缶が数学教師の全国研究会の出席の為、東京へ出張の予定なのだ。清高の数学教師の人員からしても、明日は自習にならざるを得ず、誠に不合理である。私は此の様な一連の流れの中で、止むに止まれぬ、大人の事情を垣間見た気がした。
抑々、事の発端である例の動画についても、其の真偽の程は不明なのである。唯、大人の世界には往々にしてある事なのだが、此の様に突然、姿を消す様な処分が行なわれる事が発生した場合、其の噂は真実である事が多い。いや、其れも違うのかもしれない。大人の世界の事情が、唯単に、噂に平仄を合わせただけなのかもしれない。女神先生の奇妙な無言の挨拶についても然りである。恐らくは、学校側から『余計な事は言うな』と、強く因果を含められた結果なのであろう。いずれに、此の水曜日を境に、女神先生は、ヒュパティアの悲劇的な逸話宛らに、生徒達に一言の挨拶も無く、忽然と清高を去って行ったのである。
女神ちゃんは行ってしまった。だが、私達には此れで良かったと言う思いは全く無い。何よりも、私たちの中にある子供が頻りにそう叫ぶんだ。常春の地、清水の紅葉と銀杏が色づく頃、大人の事情と子供の意地が真っ向から激突する、次号、『第30話 仰げば尊し【中編】』。お楽しみに。




