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第29話 仰げば尊し【前編】

 〽(あお)げば(とうと)し ()が師の恩

 教えの庭にも はや幾年(いくとせ)

 思えばいと()し ()年月(としつき)

 今こそ(わか)れめ いざさらば


 有名な唱歌(しょうか)、『(あお)げば(とうと)し』の一節(いっせつ)である。近年(きんねん)では卒業式などでも(ほとん)ど歌われる事は無くなったと聞く。歌詞(かし)素朴(そぼく)な七五調(()の場合は八六調であるが)の韻律(いんりつ)を踏んでおり、昭和の時代(むかし)()っては卒業式の定番であったと言う。抑々(そもそも)、歌われ無くなった理由として、歌詞(かし)文語調(ぶんごちょう)である事、内容が教師礼賛(きょうしらいさん)である事などなどが()げられる。まあ、文語調(ぶんごちょう)と言う部分は()(かく)としても、教師礼賛(きょうしらいさん)であるから相応(ふさわ)しくないと言うのは、如何(いかが)な物であろうか。(いささ)か、極論(きょくろん)()ぎるのではあるまいか? 卒業式に()いて、教師への謝意(しゃい)(あらわ)すのは、生徒として、至極(しごく)(まっと)うな(ことわり)ではあると思うのだが。


 (さて)、山から、白い(こご)える様な瑟々(しつしつ)とした神渡(かみわた)しが吹きおろし、山茶花(さざんか)の花が見頃(みごろ)を迎える12月の中旬(なかごろ)、私は辛酸(しんさん)()(なが)らも、(なん)とか()稿(こう)を書いている。季節も秋から冬へと(ゆる)やかに(うつ)ろい、徐々(そろそろ)、年末年始の(あわ)ただしさを(おぼ)える中に、外套(コート)襟巻(マフラー)。そして、炬燵(こたつ)(なつ)かしくなる時期でもある。とは言え、常春(とこはる)の地、清水の事である。(もみじ)赤々(あかあか)とした葉を(いま)だ残し、銀杏(いちょう)の葉も、(ようや)くに黄櫨染(こうろぜん)(よそお)いを(あらた)めたばかりではある。


 申し遅れたが、今回、()稿(こう)(しる)しているのは、(わたくし)、高野正太郎である。()れには、いろんな事情(しがらみ)、偶然の(たまもの)でもある(わけ)なのだが、(いく)つかの()むに()まれぬ、深い事情(じじょう)が存在した。一つは作者の体調不良の(ため)である。(ただ)し、(あらかじ)め言っておくと、現在の作者は(すこぶ)る元気な物である。と言うのも、以前(いぜん)に、作者が休載(きゅうさい)した(おり)には、作者の危篤(きとく)説やら死亡説が、(まこと)しやかに(ささや)かれ、作者は大変(たいへん)往生(おうじょう)したとの事である。(しか)も、仄聞(そくぶん)した(ところ)()れば、気の早いものは、香典(こうでん)を包んで持ち込んだ者も居たとの事で、作者自身、大変(たいへん)迷惑(めいわく)を掛けたと反省しているとの次第(しだい)である。作者の現況(げんきょう)について言及(げんきゅう)すれば、現実(リアル)時間軸(じかんじく)()いて、今年の、(すなわ)ち、2022年の7月に作者は例の流行病(コロナ)猖獗(しょうけつ)を受け、()罹患(りかん)見舞(みま)われた。作者の(げん)()れば、熱も最高で37度3分と、(まった)く、大した事が無かった事は、(まこと)重畳(ちょうじょう)至極(しごく)と言った次第(しだい)であったのだが、()(あと)がいけなかった。()る意味、()疾患(しっかん)の最大の特徴(とくちょう)とも言える、後遺症(こういしょう)(なや)まされる事になるのである。


 作者の後遺症(こういしょう)は、(すさ)まじい(まで)倦怠感(けんたいかん)との事である。常日頃(つねひごろ)から、大変(たいへん)大袈裟(おおげさ)な作者の物言(ものい)いに()れば、(いま)(かつ)て経験した事が無い様な、破天荒(はてんこう)未曾有(みぞう)(つら)さであるとの事である。毎日と言う(わけ)では無いそうなのだが、2、3日に一度、倦怠感(けんたいかん)が春の(さざなみ)(ごと)く押し寄せて来るとの事である。(さら)には、奥様との間の倦怠期(けんたいき)(まで)()の病気の後遺症(こういしょう)では無いか、との妄言(もうげん)が飛び出す始末(しまつ)である。相変(あいか)わらず、頭の悪い事()上無(うえな)い。まあ、作者側の事情(じじょう)はそんな次第(しだい)なのであるが、実は、私としても、()れから(しる)すちょっとした事件について、薬缶(やかん)からの執筆依頼(しっぴついらい)があった事も相俟(あいま)って、(ふで)を取った次第(しだい)なのであるが、ただ、私にとっても、なにしろ、()(よう)な文章の執筆依頼(しっぴついらい)を受けるのは、(ほぞ)()切って初めての事であり、多少(たしょう)の混乱はある。勝手(かって)(ろく)に分らぬ次第(しだい)であり、何分(なにぶん)にも書き慣れぬ上に、(ろく)すっぽ、推敲(すいこう)やら刪修(さんしゅう)やら、斧鉞(ふえつ)やら、斧鑿(ふさく)を加える事が出来(でき)なかった事故(ことゆえ)に、色々(いろいろ)(いた)らぬ点も散見(さんけん)される事とは思うが、()の点は何卒(なにとぞ)、ご容赦(ようしゃ)(ほど)(いただ)きたい次第(しだい)である。


 (さて)()れは、()()にミニャラがやって来た翌週の事だから(第27話、第28話参照)、時系列的(じけいれつてき)には少々(しょうしょう)(さかのぼ)る形となる。(たし)か11月の最後の週の事であったと記憶している。事の発端(ほったん)は2限の数学の授業中(じゅぎょうちゅう)の事である。数学下位組(バカ組)担当の薬缶(やかん)が、黒板に三角関数(さんかくかんすう)の加法定理の公式を板書(ばんしょ)していた時の事であった。板書中(ばんしょちゅう)のチョークを握って高々(たかだか)(かか)げた薬缶(やかん)の右手が、()(まま)姿勢(しせい)で固まった。薬缶(やかん)自身は苦悶(くもん)の表情の中に、玉の油汗(あぶらあせ)を浮かべ、宙空(ちゅうくう)(かか)げた、チョークの先がプルプルと小刻(こきざ)みに(ふる)えている。

「?」

 一瞬(いっしゅん)、何が起きたのかすら分らずに、ポカンと固まる生徒達。矢庭(やにわ)に、

「うぎゃあー」

 と言う、薬缶(やかん)の口から、(けだもの)断末魔(だんまつま)(ごと)絶叫(ぜっきょう)が、教室中に(ひび)き渡った。


「!」


 ()(まま)薬缶(やかん)はどうと、横倒しになると、

「アイタタタ…、痛い、痛い」

 と、(ゆか)をのたうち、悲鳴(ひめい)を上げている。(たちま)ち、教室内は騒然(そうぜん)となった。立ち(すく)む生徒たち、悲鳴(ひめい)()げる女性徒たち、(あわ)てて薬缶(やかん)()()る者、のみならず、パニックで泣き出す女性徒。職員室へ走る者、保健室へ走る者、火災(かさい)報知機(ほうちき)非常(ひじょう)ベルを押す者、取り()えず119番へ通報(つうほう)する者、(さら)に、どさくさに(まぎ)れて前店にエスケープする者と、教室内は(じつ)混沌(こんとん)とした状況(じょうきょう)(おちい)り、(たちま)ちの内に、阿鼻叫喚(あびきょうかん)様相(ようそう)(てい)したのであった。()の内に、他組で教鞭(きょうべん)を取っていた他の教師や、保健医の先生が自動体外式除細動装置(AED)(かか)()けつけ、(さら)に、悪い事に、下位組(バカ組)には、清高(きよこう)随一(ずいいち)騒動(そうどう)フリーク、正義の野次馬(やじうま)自認(じにん)するヤスベエがいるのだから始末(しまつ)に悪い。当然(とうぜん)(ただ)で済む(はず)が無い。彼女は(さわ)ぎと同時(どうじ)に、彼女が組んでいるラインに一斉配信したと言うから(たま)らない。(さわ)ぎは発生と(ほぼ)同時(どうじ)に、全校の知る(ところ)となったのだ。挙句(あげく)()てに、教師が不在となり、頸木(くびき)(はず)れた他組(よそ)の生徒や、ラインを見た他学年の生徒達(まで)もが、物見遊山(ものみうさん)()けつけると言う大騒動(だいそうどう)相成(あいな)ったのである。(しか)も、騒動(そうどう)の早い段階で、火災(かさい)報知機(ほうちき)非常(ひじょう)ベルが鳴らされた(ため)(ほか)教室(クラス)の一部の生徒は、(あわ)ててグランドに避難(ひなん)すると言う一幕(ひとまく)もあった様である。結局(けっきょく)薬缶(やかん)は、騒動(そうどう)当初(とうしょ)下位組(バカ組)の何者かによって、通報(つうほう)され呼び出された、救急車に乗せられ、近隣(きんりん)の厚生病院に運ばれたのであった。


 当然(とうぜん)、昼休みや放課後は()の話題で持ちきりであった。

「あの(さわ)ぎは、下位組(オメーら)だったのか? 悲鳴(ひめい)は聞こえるわ、絶叫(ぜっきょう)が聞こえるわの大騒動(だいそうどう)だったかんなあ。挙句(あげく)()てに、非常(ひじょう)ベルが鳴り出したりしてたしなあ」

 高志が(あき)(なが)らも、目を丸くする。

「ふーん、現場にいるとわからんもんだなあ。そんな大騒(おおさわ)ぎになっていたのか?」

 私の呑気(のんき)発言(はつげん)に、高志は(すぐ)(こた)える。

「当たり前だ。悲鳴(ひめい)の直後に非常(ひじょう)ベルだったからなあ。上位組(エラ組)担当のすみれちゃんも()(さお)になってすっとんでったぞ」

 高志は当時のすみれ先生の(あわ)てぶりを回想(かいそう)(なが)ら答える。私も当時を回想(かいそう)(なが)ら答えた。

「何しろ突然(とつぜん)の事だったからな。(オレ)なんか、(わけ)が分からずに、状況(じょうきょう)を理解するので精一杯(せいいっぱい)だった」

大体(だいたい)()の後の非常(ひじょう)ベルは何なんだよ。(ロク)(あた)りが、イタズラで鳴らしたのか?」

「いや、()れは如何(どう)やら、ヤスベエの仕業(しわざ)らしい」

流石(さすが)、康代ちゃんだね。彼女、マスコミ志望だし、機転が()くから。でも、()の後、救急車も来たよね」

 祐子がフォローを入れる。

「ああ、来た来た。あれは一体(いったい)、誰が呼んだんだ?」

 明彦も回想(かいそう)する。

()れも、如何(どう)やら、ヤスベエらしい…」

「また、彼奴(アイツ)か。あの野郎(やろう)、基本、行動がテロリストだからなあ。何しろ、大騒(おおさわ)ぎする事に、能力(ステータス)全振(ぜんぶ)りしてやがるから…。抑々(そもそも)野郎(やろう)からラインも来たぜ。『薬缶(やかん)が教室内で断末魔(だんまつま)(さけ)びを()げて人事不省(じんじふせい)(おちい)った。刮目(かつもく)して次号を待て』とか、書いてあったぞ。(まった)く…、昭和の時代の雑誌の(あお)り文句かよ? マスコミでもやっちゃあイカン事ばかりだろ。良く咄嗟(とっさ)其処(そこ)(まで)馬鹿騒(バカさわ)ぎが出来(でき)るもんだな」

(まった)くだ」

 明彦も同意する。祐子が心配そうに、

()れで、羅漢(らかん)先生の容態(ようだい)如何(どう)なの?」

「ああ、()れなら、ヤスベエが、見舞いに(かこつ)けて、情報収集に行っている。()()け、何か情報が来るだろ」

「本当にあの馬鹿(バカ)と来たら…、人の災難を何だと思ってやがるんだ。(まった)く、無駄(むだ)に行動力だけは有りやがるからなあ」

 高志が(あき)れる。

「ムッキー。()れなら、今先刻(さっき)、ヤスベエから、ラインが来たよ。薬缶(やかん)は、(ただ)のぎっくり腰だって。でも、今週一杯(いっぱい)は入院みたい」

「!」

 高志が(あき)(なが)ら、(つぶや)く。

「ぎっくり腰だあ。…(まった)く、あの禿(ハゲ)は、そんなんであの(さわ)ぎをおこしたのか?」

「ムッキー。無茶(むちゃ)、言わないの。ぎっくり腰って、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)痛いんだよ」

「だけど、明日からの授業(じゅぎょう)一体(いったい)如何(どう)すんだろ。自習かなあ。実はあたし、三角関数(さんかくかんすう)は良く分らないんだけど…」

 ひろみがボソリと言った。6,7,8組の数学に関しては薬缶(やかん)上位組(エラ組)を担当しているのである。(したが)って、ひろみや凛子も()影響(えいきょう)をもろに受ける事となる。ひろみの発言は(もっと)もな事で、()れに関しては、(まった)くの同意見であった。私も当初(とうしょ)から()れを懸念(けねん)していたのであった。


 (しか)し、(さいわ)い、私達の懸念(けねん)杞憂(きゆう)に終わった。と言うのも、薬缶(やかん)病床(びょうしょう)から、八方、指示を飛ばし、()る人物に臨時(りんじ)講師(こうし)急遽(きゅうきょ)依頼したのであった。翌日の数学の時間に、(くだん)の数学講師(こうし)が着任したのであるが、一同、彼女を見て驚いて、思わず、固唾(かたず)()んだ。()れは、彼女が途轍(とてつ)も無い美人講師(こうし)だったのである。


 御園(みその)女神(めぐみ)


 ()の、美人講師(こうし)はそう名乗(なの)った。女神(めがみ)と書いてめぐみと読むとの事である。かなり、(めずら)しい名前である。年の頃、二十代後半から三十代前半。やや、釣り目(なが)らパッチリした(ひとみ)希臘(ギリシャ)彫刻(ちょうこく)の様な端正(たんせい)な顔立ち、蠱惑的(こわくてき)なアルカイックスマイル、大きな胸元(むなもと)絶妙(ぜつみょう)なプロポーション。かなり目立った特徴(とくちょう)を引っさげての登場なのである。()の様な思春期集団の中にあっては、下位組(バカ組)生徒たち(バカども)が、色めき立つのも無理(むり)も無い。校内には、(にわ)かに、女神(めぐみ)ちゃんフィーバーが巻き起こったのであった。数学教師陣には、(すで)に、すみれちゃんと言う童顔(どうがん)美人教師がいたのであるが、(たちま)ち、校内を二分する様な状況(じょうきょう)に発展した。派手(はで)な顔立ちの女神(めぐみ)ちゃん。清楚(せいそ)なロリ巨乳(きょにゅう)のすみれちゃんと、特徴(とくちょう)は違えど、校内の男子生徒の関心を二分するに(いた)ったのである。御園(みその)女神(めぐみ)については、(さら)に、いろんな風聞(ふうぶん)が出回り、出身大学が東京大学理Ⅰとの(うわさ)があった。理学部数学科専攻との話である。まあ、()れも風聞(ふうぶん)()ぎぬのではあるが、()れを裏付けるだけの物はあった。人柄は優しく面倒(めんどう)見が良くて、(しか)も、当たり前と言えばそうなのであるが、途轍(とてつ)も無く頭の回転が速く、諧謔(ユーモア)(あふ)れ、気韻(きいん)に満ちた言動、機知(ウイット)()んだ応答。のみならず、古典、歴史にも造詣(ぞうけい)が深く、そして、勿論(もちろん)、専門たる数学に()いても、()論理(ロジック)は、生徒の(すべ)てを(うな)らせる物を持っており、(たちま)ち、生徒達の人気を(はく)する事となった。


 (さら)特筆(とくひつ)すべきは、()の教え方である。(まあ、教師としては、此処(ここ)の部分が一番重要なのであろうが)女神(めぐみ)ちゃんは()の部分が、突出(とっしゅつ)して上手(じょうず)なのである。当然(とうぜん)の話ではあるが、元来(がんらい)下位組(バカ組)には数学が得意な生徒が(まぎ)()む事は、まず無い。(ほとん)どの生徒が、数学が6以下、所謂(いわゆる)(おおむ)駄目(だめ)3(第10話を参照)以下の生徒で構成されている。特に、赤点、補習組は(ほぼ)100%下位組(バカ組)から輩出(はいしゅつ)される。(よう)するに、極論(きょくろん)すれば、数学が苦手(にがて)の生徒の集団なのである。(たと)えば、数学が苦手(にがて)の者に、まあ、数学以外の教科であってもそうなのであるが、何処(どこ)が分らないのかを(たず)ねたとしよう。()れは、()る意味、()の世で(もっと)(おろ)かで、くだらない質問の一つであり、当然(とうぜん)の事(なが)ら、()うなる。

(すべ)てが分らない』

何処(どこ)彼処(かしこ)も分らない』

『何が何だか分らない』

()(かく)、分らない』

 と言った答えが返って来るに決っている。まあ、()れも、(むべ)なるかな。であり、抑々(そもそも)何処(どこ)が分らないか説明出来(でき)る。(すなわ)ち、分らない箇所(かしょ)指摘(してき)出来得(できう)ると言う事は、前提条件(ぜんていじょうけん)として、其処(そこ)以外の部分は分っていると言う事でもあり、(すなわ)ち、取りも直さず、()程度(ていど)理解していると言う事に他ならないのだ。(たと)えば、私の友人に杉本一平と言う者がいる。()の様な事例で親友を持ち出すのは、少々(しょうしょう)、胸が痛むものであるが、彼の(げん)()れば、

女神(めぐみ)ちゃんは分りやすい』

 との事であった。寡黙(かもく)な彼の口から、何処(どこ)如何(どう)だと言う具体的(ぐたいてき)な話は無かったが、()れでも、()れは()程度(ていど)真実(しんじつ)であろう。(おそ)らくは、一平が直面している問題をピンポイントで道を示す事が出来得(できう)るからだと思われる。彼女は、多分(たぶん)、一平の能力(勿論(もちろん)、数学の、である)を瞬時(しゅんじ)見極(みきわ)め、彼の次元(レベル)まで降りて行く事が出来(でき)るからと言う事を端的(たんてき)(ひょう)しての発言であろう。一平は、清水高校に入学して以来、数学に関しては、まあ他の教科でも()た様な状況(じょうきょう)なのだが、中間、期末、学力、小テスト(すべ)てに()いて、一貫(いっかん)して連続で0点を取っており、()の連続記録を何処(どこ)(まで)更新(こうしん)する事が出来(でき)るか、周囲の関心の(まと)となっていた次第(しだい)なのである。(しか)るに、女神(めぐみ)ちゃんが赴任(ふにん)してくるや、3日後の小テストでは、何と、いきなり、12点を叩き出し、周囲を唖然(あぜん)とさせたのである。単元(たんげん)三角関数(さんかくかんすう)であり、決して簡単な単元(たんげん)と言う(わけ)では無い。平均点は例に()って五十点満点中11.8。(ちな)みに私は22点であった。三角関数(さんかくかんすう)は、()る意味、微分(びぶん)積分(せきぶん)(なら)び、数学が嫌いになる(ため)の様な単元(たんげん)である。()れも明確に理由がある事で、()(まで)の学習の蓄積(ちくせき)で応用出来(でき)る部分が極端(きょくたん)に少なく、(しか)も、新たに覚えるべき事が多く、(さら)には、決定的に、『何の(ため)に』が欠落しているのである。矢張(やは)り、人間、モチベーションが行動原理の中で大きな要素(ファクター)()めており、()の様に、何の(ため)にが欠落(けつらく)していては、()のモチベーションを維持(いじ)する事自体、(きわ)めて困難(こんなん)なのである。私自身、三角関数(さんかくかんすう)と言う単元(たんげん)難解(なんかい)ぶりには呻吟(しんぎん)しており、闇雲(やみくも)に、『いちひくタンタンタンタタン』とか、『イチマイタンタンタンプラタン』、などと言われて見ても、何が何だか分らないと言うのが実情(じつじょう)である。(たと)えば、数学では卓犖(たくらく)とした成績を誇り、翹楚(ぎょうそ)でもある、祐子が言うには、『加法定理をマスターすれば何とかなるよ』との事であったが、(しか)し、()れとても三角関数(さんかくかんすう)の何たるかを理解しているからならではの発言であり、抑々(そもそも)、『何が何だか分らない』私にとっては、加法定理も(クソ)も無い。私にして見れば、如何(どう)しても、三角関数(さんかくかんすう)敷居(しきい)が高い単元(たんげん)なのである。文系である作者などは、『(オレ)は来年、還暦(60さい)だが、(いま)だに、あれは何に使うのか皆目(かいもく)分らん』と、ほざく(ほど)である。まあ、あんな(ヤツ)の言う事を云々(うんぬん)した(ところ)で、所詮(しょせん)(せん)無き事なのではあるが、文系にとって、()(ほど)(まで)三角関数(さんかくかんすう)鬼門(きもん)なのである。そんな単元(たんげん)にあって、一平が0点で無い、のみならず平均点を超えたと言うのは、あり()べからざる冬の椿事(ちんじ)であり、とんでもない事態(じたい)出来(しゅったい)に、私や高志、敬介を始めとした、周囲は大いに驚き、(まさ)に、『クララが立った!』状態であった(わけ)なのである。そんな事態(じたい)尻目(しりめ)に、寡黙(かもく)な一平が語るには、

「祐子ちゃんと良く似ている」

 との事であった。訥弁(とつべん)な一平の事である。(おそ)らくは、教え方が祐子の()れと近い物があったと言いたかったのだろう。女神(めぐみ)ちゃんの教え方の秀逸(しゅういつ)さを如実(にょじつ)に物語る逸話(いつわ)であろう。だが()れは、かと言って、()(まで)の担当であった薬缶(やかん)の教え方を批判するものでは、決して無い。薬缶(やかん)自身は、生徒からは、教え方に定評がある、(すこぶ)る有能な教師である。(おそ)らくは、相性(あいしょう)の様な物であろう。


 (さて)、そんな女神(めぐみ)ちゃんであるが、最初の一週間は大過(たいか)無く、終了した。()の内、薬缶(やかん)も無事退院の運びとなり、間髪(かんぱつ)入れず期末テストも始まり、一先(ひとま)ずは臨時(りんじ)講師(こうし)としての役目を無事終了したと言った(ところ)であろう。当初(とうしょ)は、薬缶(やかん)が退院するまでの間の臨時(りんじ)講師(こうし)との事であったが、()卓越(たくえつ)した能力と人望も相俟(あいま)って、生徒たちからは、絶大(ぜつだい)な人気を(はく)するに至ったのだ。そして、何時(いつ)しか、世界史の素養(そよう)のある、諧謔(ユーモア)好きな生徒により、後期ローマ帝国の美貌(びぼう)の数学者、アレキサンドリアのヒュパティアに(なぞら)え、ヒュパティアと渾名(あだな)される様になった。そして、学校側からも契約期間の延長の打診(だしん)(うわさ)されていた。そんな矢先(やさき)の事である。


 丁度(ちょうど)、期末テスト期間の頃から、実に奇妙な(うわさ)(まこと)しやかに(ささや)かれ出したのだ。

「おい、正太。聞いたか? 女神(ヒュパティア)先生の例の(うわさ)

 高志が胡乱(うろん)な表情で問い掛ける。

「ああ、(オレ)も半信半疑だったが…」

「特進科でも()(うわさ)で持ちきりだったぜ。出所(でどころ)は、例に()って、ヤスベエ(あた)りじゃねーのか」

「いや、流石(さすが)其奴(そいつ)は違うと思うぜ。確かに、彼奴(アイツ)面白(おもしろ)ければ()いと言う(やつ)だが、彼奴(あいつ)女神(ヒュパティア)先生の事は崇拝(すうはい)していた。いくらなんでも、其処(そこ)まで義理人情を欠いた(ヤツ)じゃあねえ」

(しか)しなあ、実際そんな事があんのかなあ」

 敬介も首を(かし)げる。

「実は、夕べ、()の動画を探し出してみたんだが…」

「おい、見たのか! (オレ)にもURLを教えやがれ! おまえ、一人だけずるいだろ」

 高志が色めき立つ。そして、明彦も追随(ついずい)する。

「おい、(オレ)にも教えろよ。(オレ)も、是非(ぜひ)、見てみたい、いや、確認したいんだよ」

 (くだん)(うわさ)(めぐ)って、(じつ)喧々囂々(けんけんごうごう)の騒ぎなのである。


 ()(うわさ)とは一体(いったい)どの様な物なのであろうか? ()れは何と女神(めぐみ)ちゃんがAV(アダルト・ビデオ)に出演しているとの内容なのである。()れも、かなり過激(かげき)無修正(うら)ビデオと言う事である。()れについては、当初(とうしょ)(うわさ)(ささや)かれ始めた頃には、随分(ずいぶん)荒唐無稽(こうとうむけい)な話だと思われたものである。現実(げんじつ)に有名大学を卒業した優秀な美人教師が、()の様な物に出演しているものとは思われないし、抑々(そもそも)、何のメリットも無い。(したが)って、(おそ)らくは、他人の空似(そらに)であろうと言うのが、大方(おおかた)見解(けんかい)であった。(しか)し、閲覧(えつらん)した人間の(げん)()れば、画像を見る限りでは、矢張(やは)り、極めて良く似ていると言うのである。実際(じっさい)、私も(ひそ)かに閲覧(えつらん)をした。()の印象で物申せば、矢張(やは)り本人としか思えないのである。(しか)し、()し、本人であるとすれば、(おそ)らくは、今より10年近く以前(むかし)の画像なのであろう。だが、動画の女性に10年の時間(とき)を加算すれば、丁度(ちょうど)、今の女神(めぐみ)ちゃんの相貌(そうぼう)合致(がっち)するのである。結局(けっきょく)()れを確認するべく、高志、明彦、敬介の3人は、祐子、ひろみ、凛子、いずな達に内緒(ないしょ)で、学校帰りに私の家に寄る事と相成(あいな)ったのである。


 以前(いぜん)から、散々(さんざん)、作者が描写(びょうしゃ)して来た様に、私の家は(じつ)手狭(てぜま)である。()してや、私の部屋は三畳間である。4人も入れば、立錐(りっすい)余地(よち)も無いと言うのが本当の(ところ)である。本来(ほんらい)であれば、居間である六畳間で閲覧(えつらん)すれば()(わけ)であるが、内容が内容だけに、()れも(かな)わない。()れには高志も閉口(へいこう)して、図々(ずうずう)しくも、不満を口にする。

「それにしても、(しか)し、本当に(せま)いな。事情(じじょう)を話して、祐子ちゃんの家にでも行った方が()いんじゃ…」

「アホか? 抑々(そもそも)閲覧(えつらん)する内容を考えろよ。祐子の家で、そんなもんを見れる(わけ)が無いだろ」

「そんならさ。駅前のネカフェなら…、彼処(あそこ)なら、ティッシュも有りそうだし…」

 明彦がしょーもない妥協案(だきょうあん)を示す。

今更(いまさら)、しょうがねえだろ」

 敬介が(なだ)める。結局(けっきょく)、私の部屋での閲覧(えつらん)相成(あいな)った(わけ)ではあるが、内容が内容であるが(ため)に、ボリュームも極端(きょくたん)(おさ)えるしかない。


 全編でも10分足らずの動画である。元々のタイトルさえ分らず、肝心(かんじん)な出演女優名も不明である。動画を2回通して見た。誰一人として、口を開く者はいない。やや、不鮮明な事を考えれば、昔の無修正作品(うらもの)の流出物であろう。内容もかなり過激(かげき)な物で、大変(たいへん)尾籠(びろう)な表現で、誠に忸怩(じくじ)たる思いなのだが、非常(ひじょう)巨乳(きょにゅう)の、20歳位の美人の女優と男優の目合(まぐあい)が全編中の(ほとん)どを占めている。(したが)って、男女の結合部分もはっきりと確認出来(でき)、女優の局部(アソコ)もどアップなのである。女優の嬌声(きょうせい)もかなりのものであり、無修正ビデオ(うらモノ)としては、かなり秀逸(しゅういつ)な部類なのであろう。(ただ)し、(くだん)の女優については、女神(めぐみ)ちゃんに確かに()てはいるものの、()れ以上の、確証(かくしょう)(つか)めた者はいなかった。私は思わず高志に問い掛けた。

「なあ、如何(どう)思う?」

 高志は困った様な顔で、

如何(どう)っつわれてもなあ…」

 高志は首を(かし)げてちょっと考え()む様な仕草(しぐさ)で、()う言った。

「三発は抜けるだろ」

「あのなあ…。誰が、んな事聞いた!」

「確かに、異様に良く似てはいるが…」

 明彦も(つぶや)く様に言う。

()の際、本人か如何(どう)かは()(かく)としてもだな。…五発はいけるだろ」

「だから、其処(そこ)じゃあ無いだろ! もっと、真面目(まじめ)に見ろ」

 私は憤然(ふんぜん)として(さけ)ぶ。(しか)し、こんな物を真面目(まじめ)に見たからとて、思春期の男子の行き着く先は、大概(たいがい)、決っている。()(かん)に敬介は勝手(かって)にヘッドホンをパソコンに繋ぎ、真っ赤な顔をし(なが)らも、3回目の閲覧(えつらん)を始めていた。(くだん)のURLを自身の携帯(スマホ)に控えた高志は、(おもむろ)に、()う言いだした。

「なあ、正太。こんな事言い出すのは、忸怩(じくじ)たる思いと言うか、慙愧(ざんき)(ねん)()えないと言うか、汗顔(かんがん)(いた)りと言うか、誠に申し(わけ)無いんだが、わりいが、トイレ貸してくんないか? なーに、心配すんな。1分で終わらせる」

「おいコラ、ちょっと待て。人んち便所で何しようってんだよ?」

「待て待て、それなら(オレ)を先にやらせろ。30秒で抜く自信がある」

 明彦が抜け()けしようとする。

「うわーふざけんな」

 ()み合う私と高志と明彦。そして、バランスを崩した私は敬介の肩に(つか)まったのも束の間、4人はどうとばかりに倒れ込んだ。其処(そこ)で例に()って様式美(おやくそく)である。()(はず)みで、敬介が使用していたヘッドホンの端子(たんし)が、パソコンのジャックから(はず)れ、(たちま)ち、大音量の嬌声(きょうせい)が周囲に(ひび)いたから、(たま)らない。


『ああーん、あん、あん。いっちゃう。いっちゃうよぉ』


「うわあ、()馬鹿(バカ)野郎(やろう)! 何やってんだ」

 私が(あわ)てるのも無理(むり)は無い。()の音量、()が家だけでは無い。(おそ)らくは、隣の世帯(いえ)にも聞こえたに相違無(そういな)い。当然(とうぜん)、おふくろの怒声(どせい)(ひび)いた。

「ちょっと、正太郎。一体(いったい)、何をやってんの!」

「やべえ!」

 鶴唳風声(かくれいふうせい)(たと)えも有る。()の一言で、全員、(あわ)てて自分の持ち物を手当たり次第(しだい)(つか)むと、蜘蛛(くも)の子を散らす様に、匇卒(そそくさ)逃走(とうそう)し始めたのだ。()く言う私も、()(まま)ではおふくろの小言(こごと)の直撃を受ける羽目(はめ)になる(わけ)であり、(あわ)せて逃走(とうそう)するしかなかった。


 (さて)、家を飛び出した我々(われわれ)であるが、当初(とうしょ)は赤燈台を目指した。(しか)し、師走(しわす)()の時期の()の陽気である。(おそ)らく、居た(ところ)で30分と持つまい。結局(けっきょく)、全員、(きびす)を返して、喫茶店(キャトル)に落ち着いたのである。そして、其処(そこ)で私達は途方(とほう)()れていた。()(のち)、家に帰った(ところ)で待っているのは、おふくろのお小言(こごと)なのである。(もっと)も、途方(とほう)()れていたのは、私だけであって、他の3人は(すこぶ)呑気(のんき)なもので、たった今、見たばかりの衝撃的な動画の話題で持ちきりだった。

「おい、如何(どう)すんだよ。家に帰れなくなっちまったじゃねーか」

「まあまあ、仕方ねーな。世の中そんな事もあるさ。まあ、其方(そっち)は時間が解決してくれるだろ。()れは()れとしてだな。いやあ、(じつ)()い動画を教えてくれた。()れで、今夜のおかずは決ったな」

 他人事(たにんごと)の高志が能天気(のうてんき)(なだ)める。実に、傍迷惑(はためいわく)な話である。

「おい、ふざけんな。他人事(ひとごと)だと思って、適当な御託(ごたく)を並べやがって…」

 (しか)し、明彦も追随(ついずい)する。

「確かに、センセーショナルで()い動画だったよな。先生だけにな…」

「くっだらねえなあ」

 敬介が(あき)れる。私が明彦の言葉尻を捕らえ、()う言った。

「と言う事は、明彦。オメーもあれが女神(めぐみ)ちゃんだと思うのか?」

「まあ、あんだけ()てりゃあなあ…。本人と断定しても、一向(いっこう)に、()(つか)え無いだろ」

「高志は?」

「そうだな。他人(たにん)空似(そらに)勘案(かんあん)してみても、まあ、本人だろうな」

 (しば)し、沈黙が続く中、敬介が赤い顔をし(なが)らも、EVAの某指令の様に顔の前で手を組み(なが)ら、(おもむろ)()う言った。

()れについては妙案があるんだ。おまえら気がついたか如何(どう)かは知らんが、あの女優さんの彼処(あそこ)の左1センチ位の処に、小豆大(あずきだい)黒子(ほくろ)があったんだ」

「ああ、確かにあったな」

 高志も、()かさず同意する。

其処(そこ)でだ。女神(めぐみ)ちゃんの彼処(あそこ)に同じ黒子(ほくろ)があるかどうか確認すれば、万事(ばんじ)解決じゃねーの? なかなか、名案(めいあん)だろ?」

 私は、(あき)れた様にじろりと流眄(りゅうべん)(なが)ら、()反駁(はんばく)する。

成程(なるほど)。確かに名案(めいあん)だな。で、誰が、如何(どう)やって、()れを女神(めぐみ)ちゃんに、見せてくれと頼むんだ?」

「あっ」

 高志がニヤニヤし(なが)嘲笑(あざわら)う。

(まった)く、真面目(まじめ)に考えろ。取り()えず、敬介。おまえはイソップ寓話(ぐうわ)を全部、読み返した方が()いな」

「わー、ふざけんな。また、馬鹿(バカ)にしやがって」


 4人でワイワイしている(ところ)へ、ひろみ、いずな、凛子、祐子が入店して来た。

「あら、あんたたち。今日は部活が終わったら、早々(そうそう)匇卒(そそくさ)と姿を消したけど、こんな(ところ)で何やってんの? 如何(どう)せ、又、何か悪巧(わるだく)みをしてたんでしょ?」

 ひろみがにやつき(なが)ら声を掛ける。高志が憤然(ふんぜん)と食って掛かる。

「何を言いやがる。俺達(オレたち)は家を追い出された可哀想(かわいそう)な正太の相談にのったり、女神(めぐみ)ちゃんの事でだな…」

「おいちょっと待て。ふざけんな。家を追い出された、抑々(そもそも)の事の発端(ほったん)を考えてみろよ! (まった)くもう」

「そう言うおまえらは、如何(どう)したんだよ?」

 ひろみたちは、少々(しょうしょう)、顔を赤らめ(なが)らも、もじもじと言い返す。明白(あからさま)に何か様子(ようす)がおかしい。

「私達は祐子の家でちょっと勉強会を…」

「女子だけで、勉強会だぁ? 期末試験も終わったのにか? 何か(あや)しいなあ」

 思いっきり、胡散(うさん)(くさ)そうな表情を浮かべるのは高志である。(しか)し、ひろみは(まった)く意に(かい)せずに、()う言った。

「ところで、あんた先刻(さっき)女神(ヒュパティア)先生の事、言っていたけど、ひょっとして、例の(うわさ)(けん)? って事は、(くだん)の動画を見たの?」

「ああ、まあ、()れはだな…。()の、見たというか、何て言うか…」

 (たちま)ち、ひろみは顔に(しゅ)を走らせると、

「なんてえ動画を見てんのよ! 私というものがあり(なが)ら、不潔(ふけつ)()浮気者(うわきもの)!」

「おい、こら、ちょっと待て。おかしいだろ。抑々(そもそも)()れを指摘(してき)すると言う事は、てめーらもアレを見たって事だよな? 自分の事は(たな)に上げておいて何を言いやがる」

「な、何、言うのよ。わ、私達のは、真実の探求よ。祐子の部屋で最高級の英国紅茶(ロイヤルティー)を飲み(なが)ら、動画を真面目(まじめ)考察(こうさつ)していただけで…」

 ひろみが必死になって、懸命(けんめい)美辞麗句(びじれいく)修飾(しゅうしょく)して、説明しようとする。

「ふざけんな。何、言ってやがる。あんなん見ておいて、真面目(まじめ)もクソもねーだろう。如何(どう)言い(つくろ)っても、やっている事は、俺達(オレたち)と同じだろうが」

 其処(そこ)で祐子が、()()な顔で、もじもじし(なが)らも、私に(たず)ねる。

()れで、正ちゃんは如何(どう)思ったの?」

如何(どう)って言われても…、()れは…、()の、かなり、興奮したけど…」

 思わず口篭(くちごも)る私に対して、祐子は顔を赤らめ(なが)ら言う。

「正ちゃんのエッチ…。其処(そこ)じゃあなくて! えーとね、()女神(めぐみ)先生か如何(どう)かと言う(ところ)なんだけど…」

「ああ、其方(そっち)の方か。まあ、限りなく本人に近いグレーって(ところ)じゃあないかな」

 其処(そこ)で凛子が考え深げに(つぶや)く。

「でも、()し、本人だとしたら、流石(さすが)に、あの内容でしょ。学校側にばれたら(まず)いんじゃあ…」

 確かに、凛子の指摘(してき)(まと)()ている。内容が内容だけに、学校側も放置(ほうち)はしておくまい。

「ところで、あたし、(みょう)な事に気がついたんだけど、あの女優さんのちょっと言えない(ところ)の横に、小豆(あずき)大の黒子(ホクロ)があったんだ…」

 ひろみが顔を最大限に赤らめ(なが)ら言う。

「ちょっと言えない(ところ)? ああ、なあんだ。アレの事か。ま…。ぐはあっ」

 ひろみの肘打ちが、高志の鳩尾(みずおち)にめり込んでいる。

「って事は、あんたもアレに気がついたって(わけ)?」

「当たり前だろ。此方人等(こちとら)は目を(さら)の様にし(なが)ら、()の目(たか)の目で見てたんだ。抑々(そもそも)、気がつかない(わけ)が、無いだろ」

 ひろみは矢庭(やにわ)に高志の胸倉(むなぐら)(つか)む。

「何てえもんを、目を(さら)の様にして、じっくり見てんのよ! ()の浮気者!」

「まあまあ、()れを言い出すとだな、中々(なかなか)、話が前に進まないから…」

 私が、(あいだ)に割って入る。

「何を言いやがる。だから、やっている事は俺達(オレたち)と同じだろ」

「違うわよ。私達はもっと、()う…、何と言うか、もっと恥じらいをもって、羞恥(しゅうち)の念と(とも)に見てた、いや、観察してたのよ」

「ふざけんな。抑々(そもそも)()れを大同小異(だいどうしょうい)と言うんだよ。大体(だいたい)、アレに()(さき)に気がついたのは敬介だぞ」

「お、(オレ)?」

「ムッキー。ケースケ、不潔(ふけつ)!」

「い、いや、ち、違うんだ。いずなちゃん。(オレ)、あんなの見るの、生まれて初めてだから、つい、集中して見てしまって…」

「ムッキー。ケースケの…エッチ」

 凛子は、凛子で、横に居る明彦をじろりと流眄(りゅうべん)する。今日は冬らしい紺碧色(こんぺきいろ)のカチューシャをしている。

「で、キミは如何(どう)なのよ?」

「お、(オレ)か? (オレ)は敬介のバカとは違うぜ。あの手の動画は見慣れているからな。抑々(そもそも)、あんな動画でオタオタするかよ。虚心坦懐(きょしんたんかい)明鏡止水(めいきょうしすい)心持(こころもち)でだな、(すこぶ)る冷静に観察を…」

見慣(みなれ)れているですって! バカじゃないの。大体(だいたい)、そんな、馬鹿(ばか)自慢(じまん)して如何(どう)するの。其処(そこ)は嘘でもびっくりしました(くらい)、言いなさいよ。軽蔑(けいべつ)するわよ。大体(だいたい)、あの手の動画を明鏡止水(めいきょうしすい)心境(こころもち)で見て、如何(どう)しようって言うのよ」

「ひい。ごめんなさい。凛子さん。(じつ)(うそ)です。本当はかなり興奮して見てました。あの、今度、凛子さんにもまた、是非(ぜひ)、見せてもらえたらなと、思っていたんです」

「どさくさに(まぎ)れて、何、飛んでも無い事を口走(くちばし)ってんの? ()のエロ眼鏡(メガネ)!」

 凛子は顔を()()にし(なが)ら、明彦の後ろから、裸締め(スリーパー・ホールド)で、()め上げている。


 (まった)()って、(おろ)かなる思春期集団である。一同(いちどう)、まるで収拾(しゅうしゅう)がつかない。私は、混乱が少し静まるのを待って、ひろみに水を()けた。

「ところで、ひろみ。先刻(さっき)、何か言い掛けてたじゃあないか? 黒子(ホクロ)如何(どう)とか…」

「ああ、そうそう、()れなんだけど…」

 ひろみは其処(そこ)で言葉を切ると、

女神(めぐみ)ちゃんに同じ黒子(ホクロ)があるか如何(どう)かを確認すれば、万事(ばんじ)、解決するんじゃ無いかと…」

 男子一同はまたかと言わんばかりの表情を浮かべた。発想が敬介と(まった)一緒(いっしょ)である。ひろみの思考回路も敬介の物と同じ材質(セイム・マテリアル)出来(でき)ているものらしい。高志はにやつき(なが)()う言った。

「で、誰が()れを女神(めぐみ)ちゃんに言うんだ? お前が聞くのか?」

「何、言ってんのよ。聞ける(わけ)ないじゃない!」

 高志は、にやつき(なが)ら、(かさ)に掛かって言う。

「ふふふ。なんなら俺が女神(めぐみ)ちゃんに聞いてやろうか? まあ、おまえと敬介は、常識の勉強が必要だな。推薦図書はイソップ寓話(ぐうわ)の『ねずみの相談』だ。夜、寝る前、漢字ドリルが終わった後にな。必ず、読んで置けよ。あと、感想文も忘れるなよ…ふげぇ」

()()()()()()()

 ひろみの怒り。渾身(こんしん)正拳突(せいけんづ)きが高志の顔面にめり込んでいる。

「あーあ、いつも余計(よけい)な一言が、多いんだよなあ」

 私が(あき)れるのも無理(むり)は無かろう。ひろみは高志に向かって(なじ)る。

大体(だいたい)、あれが女神(めぐみ)ちゃんだったとしたら、あんたは如何(どう)したい(わけ)? 抑々(そもそも)、今後、接し方にも困惑(こんわく)するでしょうに」

「そんな事はねーさ。そんなんで、見る眼が変ったら、此方(こっち)沽券(こけん)(かかわ)らあ。まずは挨拶(あいさつ)だな」

挨拶(あいさつ)?」

「ああ。いつも、うちの息子がお世話になっていますと、懇切(こんせつ)丁寧(ていねい)挨拶(あいさつ)をだな…。でもって、筆下ろしの節は、是非(ぜひ)、よしなにと、うぎゃあっ」

「下品! (まった)く、()の男は如何(どう)してすぐに、()ういう(バカ)、言うのかしら。大体(だいたい)、私と言うものがあり(なが)ら、何、戯言(たわごと)をほざいてんの?」

 ひろみの膝蹴(ひざげ)りが、高志の股間(こかん)炸裂(さくれつ)する。敬介が(あき)れる。明彦も横でにやついている。

「本当に、しょーもねえ事言うなあ…」

「確かに、股間(こかん)(かかわ)ったな」

 結局(けっきょく)()の日はすったもんだの挙句(あげく)、大した結論(けつろん)が出ない(まま)に終わった。


 (しか)し、『好事(こうじ)門を()でず、悪事千里(あくじせんり)を行く』の、(たと)えもある。翌日の火曜日には、(くだん)(うわさ)は、最早(もはや)手の付けられない様な状況(じょうきょう)になっていた。生徒達は寄ると触ると、()(うわさ)で持ちきりであり、(うわさ)(うと)(あおい)の様な生徒まで、ヤスベエに聞きに来た(くらい)である。()の様な状況(じょうきょう)の中で、女神(めぐみ)ちゃんの態度(たいど)は誠に立派(りっぱ)であり、(まった)普段(ふだん)と変わるところ無く教鞭(きょうべん)を取り続けたのであった。心無(こころな)中傷(ちゅうしょう)や、下卑(げひ)野次(やじ)には、(すず)やかな笑顔(えがお)で受け流し、淡々(たんたん)授業(じゅぎょう)を進める女神(めぐみ)先生。()態度(たいど)立派(りっぱ)と言うには(あま)りにも痛々(いたいた)しく、()れを通り越して、(むし)ろ、悲愴(ひそう)と表現すべき状況(じょうきょう)にあった。勿論(もちろん)。生徒達の反応も様々(さまざま)である。単純に興味本位(きょうみほんい)の者、嫌悪感を(あらわ)にする者、私達の様に同情的な者。抑々(そもそも)、本人か如何(どう)かも不明である事を主張する者。実に多種多様(たしゅたよう)な反応に分れたのである。(しか)し、真摯(しんし)に、そして、健気(けなげ)授業(じゅぎょう)を進める女神(めぐみ)先生には、一様(いちよう)に心を打たれたのであった。(やが)て、生徒達の間には、次第(しだい)()(しゅ)合意形成(ごういけいせい)()されて行ったのである。()れは、たとえ、女神(めぐみ)先生がどんな人生を送っていようと、また、何があったとしても、生徒達にとって、最高の数学教師であると言う一点において合意(ごうい)して行ったのである。


 (しか)し、袂別(べいべつ)の日は意外と早くにやって来た。あくる水曜日。数学の授業中(じゅぎょうちゅう)の事である。()の日の女神(めぐみ)先生も(じつ)気丈(きじょう)振舞(ふるま)っていた。だが、授業(じゅぎょう)も終盤、終わりの直前に、女神(めぐみ)先生は、生徒達一人一人の顔をじっくりと見回して行ったのだ。一、二分、無言の時間が(しばら)く続いた。()れは、女神(めぐみ)先生自身、万感(ばんかん)の思いを込めて、(まさ)に、生徒達との思い出を、()魂魄(こんぱく)(きざ)みつけようとしていたのかもしれない。そして、遠慮(えんりょ)がちに浮かべた一掬(いっきく)笑顔(えがお)(とも)に、深々(ふかぶか)一礼(いちれい)をしたのだ。多分(たぶん)、大多数の生徒達は其処(そこ)で直感した。()れは、女神(めぐみ)先生なりの、言葉にならない、さよならの言葉なのだと。同様の事は、ひろみたちのクラスでも、また、2年や受験直前の3年のクラスでも起こったと言う。実際の(ところ)、事実は良く分からない。(おそ)らくは、事態(じたい)を重く見た、学校側の差配(さはい)であろう。本来(ほんらい)であれば、二学期の終わりに()()かった()中途半端(ちゅうとはんぱ)時期(じき)に、突然(とつぜん)退任(たいにん)など()()ない。せめて二学期一杯(いっぱい)(つと)めるのが自然であろうし、何よりも、明日(あした)、木曜日は(くだん)薬缶(やかん)が数学教師の全国研究会の出席の(ため)、東京へ出張の予定なのだ。清高の数学教師の人員からしても、明日(あした)は自習にならざるを()ず、(まこと)不合理(ふごうり)である。私は()の様な一連の流れの中で、()むに()まれぬ、大人(おとな)事情(じじょう)垣間(かいま)見た気がした。


 抑々(そもそも)、事の発端(ほったん)である例の動画についても、()真偽(しんぎ)(ほど)は不明なのである。(ただ)、大人の世界には往々(おうおう)にしてある事なのだが、()(よう)突然(とつぜん)、姿を消す様な処分が行なわれる事が発生した場合、()(うわさ)は真実である事が多い。いや、()れも違うのかもしれない。大人の世界の事情(じじょう)が、唯単(ただたん)に、(うわさ)平仄(ひょうそく)を合わせただけなのかもしれない。女神(めぐみ)先生の奇妙な無言の挨拶(あいさつ)についても(しか)りである。(おそ)らくは、学校側から『余計(よけい)な事は言うな』と、強く因果(いんが)(ふく)められた結果なのであろう。いずれに、()の水曜日を(さかい)に、女神(めぐみ)先生は、ヒュパティアの悲劇的な逸話(エピソード)(さなが)らに、生徒達に一言の挨拶(あいさつ)も無く、忽然(こつぜん)と清高を去って行ったのである。

女神ちゃんは行ってしまった。だが、私達には此れで良かったと言う思いは全く無い。何よりも、私たちの中にある子供が頻りにそう叫ぶんだ。常春の地、清水の紅葉と銀杏が色づく頃、大人の事情と子供の意地が真っ向から激突する、次号、『第30話 仰げば尊し【中編】』。お楽しみに。

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